2.知性の効用

 私は、「知性」とは物事を論理的に考える能力と定義しています。もちろん、知恵も考える能
力ですし、知恵の働きの中には論理的な思考がないというわけではないので、知恵と知性の
違いは論理性の程度の差で、ここまでが知恵でここからが知性と明確に線が引けるわけでは
ありません。
 前記1.の「知恵」で述べたこととの関連で言えば、知恵は比較的に目先の利益や快適さを
求めて周囲の状況に機敏に対処する能力であるのに対して、知性は、もっと長期的な(時には
世代間にわたる)観点や広い(社会的な)視野から見た場合の利益や快適さを追求するため
の論理を構築する能力であると言うことができます。
 「知性」の詳細についてのご説明は「文化とは何か」第六章「知性と知恵」に譲り、ここでは知
性の効用について考えてみることとします。

 1) 上記のように、知恵が比較的に目先の利益や快適さを求めて周囲の状況に機敏に対
処する能力であるとすれば、私たちの生活は、大部分が知恵を原動力として営まれています。
 家庭生活では、暖かさや涼しさ、おいしい食べ物、居心地の良さといった、生存に不可欠な
基本的な快適さを確保するための本来的な生活の知恵が活躍します。その中には、習慣にな
っていて、ほとんど頭を使わないで対処できる行動も少なくありません。
 そこで、一見したところでは、家庭生活には知性などあまり必要ないように思えるかもしれま
せんが、家族とはいえ夫婦喧嘩や親子喧嘩などのトラブルが発生する可能性はありますか
ら、筋道を立てて考え、話し合い、解決する知的な能力すなわち知性があるかどうかは、家庭
内の快適さを維持する上で大切な要素です。そのような能力は、人生経験から学び取るたぐ
いの、知恵の延長のような、生活に密着した知性かもしれません。
 また、生涯を通じての生活設計は、家庭や社会の動向を、直感だけではなく論理的根拠に
基づいて長期的に予測する能力すなわち知性のあるなしで、随分違ってきます。この種の知
性は、学校生活を通じて身につけてきた基礎的な知識や思考能力に加えて、社会に出てから
も学ぶ姿勢を持ち続けることによって高められるのでしょう。
 日常生活でも、社会で日々発生している出来事などを、新聞やテレビで日頃から関心を持っ
て追ってゆける程度の知性があれば、悪徳リフォーム詐欺をはじめとする悪質商法や振り込
め詐欺などの犯罪行為からの被害を防ぐことができるはずです。また、社会との重要な接点で
ある選挙などでも、無知無関心な場合よりも、自分自身の利益や快適さにより一層つないで良
い結果を出すことのできる投票が期待できます。
 要するに、世の中の変化が早くなり仕組みが複雑になってくればくるほど、生きているだけで
自然に身についてくる生活の知恵だけでは世の中の動きに適切に追いついて行くのが難しくな
ります。そのため、そのような変化の動向を中・長期的な観点から洞察し、世の中の仕組みを
広い視野から見極める能力すなわち知性を多少なりとも備えていないと、日常生活の快適さも
十分に確保できない世の中で私たちは生活しているのです。 

 2) 仕事を中心とする社会生活になると、人間関係の処理に関わる知恵の必要性が飛躍
的に増大します。隣人、友人、同僚、上役、部下、顧客など、接する相手との関係に応じての
知恵の働かせ方(状況対処能力)次第で、社会生活の快適さが左右される傾向が強いことは
否定できません。そして、社会生活での快適さは、組織内での人間関係で強い立場に立てる
地位の高さと、お金すなわち安定した収入および将来の増収の可能性の高さにかかっている
と、一般的には考えられています。 
  そこで、上記1.の3)で見たように、社会に出てからは、どうすれば保身(現在の地位と収入
の維持)と昇進(より高い地位と収入の獲得)に有利になるかを考えるのが知恵の最も大事な
役割になり、仕事や人間関係の処理も、保身と昇進に役に立つか立たないかを価値判断の基
準にする知恵の働きによって方向付けられようになります。その結果、社会生活では、保身と
昇進の拠り所である組織(会社、公官庁、団体、政党など)の利益(組織防衛)が、しばしば自
分自身の保身と昇進を差しおいて、人生最大の関心事になることさえあるのです。組織さえ安
泰ならば、自分の地位と収入も守られるはずだから、一時的にはつらくても組織への忠誠を貫
くのが、結局のところ最も得になると知恵が判断するのでしょう。
 しかし、保身と昇進という目先の利益を最優先した知恵が出す判断が、常に快適さをもたら
すという保障はありません。   
 会社など企業組織の上役は、しばしば部下に不正ないし違法な行為を要求してまで、企業の
利益をあげようとします。知恵のある部下は、上役の望むところをいち早く察して、命じられなく
ても危ない仕事に手を染めてでも成績をあげ、上役の覚えをめでたくして昇進しようとします。
このような知恵(悪知恵)の使い方をしていると、一つ間違えれば企業は大きな損害をこうむ
り、当事者や関係者も人生が台無しになって快適さとはほど遠い結果を招く事例は、新聞やテ
レビを毎日のように賑わしています。
 公の利益のために働いているはずなのに、政界や業界と結託した上役の指示に従い、ある
いは自分の利益(昇進、賄賂や天下り先の確保など)のために、特定の政治家や業界の利益
を不正に計って摘発され、転落してゆく公務員も後を絶ちません。
 会社の社長や官庁の事務次官といった、組織の中で「昇り詰めた」といわれるような地位に
ある人たちでさえ、保身・転身(選挙への立候補、天下りなど)のためか更なる増収のためか
の動機は人それぞれでしょうが、その地位に伴う権力や権限を悪用・乱用して晩節を汚す人は
珍しくありません。
 政治家ともなると、地位と権力が他の職業の追随を許さないくらい大きいため、それを求め
ての権力闘争すなわち知恵の戦いには激烈なものがあります。そして、地位と権力に付きもの
の金銭的スキャンダルで明らかにされる金額もけた外れに大きくて、スキャンダルの影響は関
係者にとどまらず、しばしば国の政治そのものを揺り動かすほどです。
 以上のように、目先の地位やお金に対する欲望が悪知恵をあおり立て、どうすればどうなる
か冷静に考えれば予測できるはずの悲惨な結末に向けて突っ走ってしまう事例では、原因とし
て、一般的には倫理観や正義感の不足が指摘されます。倫理観や正義感とは、一言で言えば
正しいことを大切にする心ですが、正しいことと悪いことの判別を個々人の直感的な感覚や思
い込みに委せておいては共通の基準(すなわち文化)が成立せず、結果として倫理観や正義
感が社会全般に衰退してしまうと考えられます。
 歴史的には、ある社会に共通する倫理観や正義感は、何が正しく何が悪いと判定するかの
基準を強力な権力(宗教的権力や専制的政治権力など)で国民に押しつけることで成立してき
たと考えられます。しかし、民主主義思想が広まるにつれて、倫理観や正義感を権力が国民
に有無を言わせず押しつけることは困難になり、その結果、旧来の制度や文化の下で作られ
た共通の倫理観や正義感が衰弱してしまったのでしょう。保守主義者と呼ばれる人たちの中
には、現代の倫理観や正義感の衰弱をとらえて戦後民主主義の結果だと批判する向きも少な
くないようですが、実際には民主主義がなかなか成熟しないため(多分、戦前の専制主義思想
から脱皮できない彼ら保守主義者たちの言説も、民主主義の成熟を妨げる一因になっている
はずです)、民主主義を基盤とする倫理観や正義感の生育が遅れているだけで、戦後民主主
義が、倫理観や正義感を否定しているわけではありません。
 実際、上記のような不祥事を少しでも減らし、健全な社会を育て、維持し、発展させるために
は、国民のあいだに共通の倫理観や正義感はどうしても必要です。しかし、保守主義者たちが
懐かしむような旧来の制度や文化の下で作られた倫理観や正義感が、どんな時代にも適切と
いうわけではありません。専制的権力で押しつけられた倫理観や正義感は、「忠君愛国(天皇
すなわち政府に忠実に、国すなわち政府の命ずるままに)」や「滅私奉公(個人的な利益は求
めず、公すなわち政府のために尽くせ)」のように、しばしば支配階級の権力維持に都合の良
いように作られていますから、民主主義の下での倫理観や正義感は、政治権力による押しつ
けではなく、民主的合意によって作り上げなければ、時代の要請に合致したものにはなりませ
ん。そして、できるだけ多くの人の合意を民主的制度の下で達成する方法は、いかに難しくて
も、これらの人々が納得する「論理」による合意の形成以外にありません。そこが、警察など官
憲の実力行使に加えて、時に応じて暴力的な集団なども利用しながら国民の考え方を一つの
方向に統制していた、専制的抑圧支配による倫理観や価値観の形成と異なるところです。
 そのような、民主主義的倫理観や正義感を形成する論理を構築する能力こそ知性であり、
知性なしには健全な民主主義社会を作り上げることはできないでしょう。実際に、民主主義思
想は知性によって生み出され、知性によって広められてきました。もちろん、健全な民主主義
社会を作り上げるには、知性だけでは足りず感性や品性も必要なのですが、中心的な役割を
担わなければならないのは知性であり、そこにこそ知性の効用があるのです。

 3) もし、民主主義的な合意による倫理観や正義感すなわち民主主義的文化がどうしても
形成できず、個々人の欲望と悪知恵による「万人の万人に対する戦い」のような状況が生まれ
て社会生活の快適さが損なわれるようになると、民主主義は棚上げして権力で倫理観や正義
感を押しつけてでも社会の秩序を保とうとする動きが必ず出てきます。民主主義的な無秩序に
よる不安定な社会生活よりも、たとえそれが抑圧された生活の下での安定でも、専制主義的
な秩序による生活の安定の方がまだましだと考えたくなる気持ちが強まるのは、今現在の生
活環境の悪化を何とか防ぎたいという知恵が働く結果なのでしょう。
 しかし、確かに、民主主義的な文化の未形成による無秩序は、快適な生活を少なからず阻
害しますが、これに対して専制主義的な秩序は、少数の権力者とその追随者たちの利益と快
適さを確保するために、多くの人々から快適な生活をもっともっと奪い取るのです。実際に、知
恵に加えて知性が芽生えてからの人間の歴史を通じて、知性の大きな部分は、多くの人々を
過酷な専制主義的な制度や政治から解放するための思想や制度の探求に向けられてきまし
た。その結果生み出された思想の中で、今日最も広く受け入れられるようになってきたのが民
主主義なのですが、その歴史と思想の流れについては「文化とは何か」第三章「生活の文化
および第七章「知性の文化」をご参照下さい。
 とは言え、誰もが民主主義を唱えるわりに、民主主義はなかなか社会に定着しません。民主
主義が定着していない社会では、政治権力は、できる限り専制主義的に支配したいという欲望
に流される傾向が強くなります。専制主義的に支配することで、権力者としての地位や利益と
いった快適さを維持・存続することをより確実にできるのですから、この傾向は、民主主義が
成熟していない社会では避けることができない政治権力の本性と考えた方がよいでしょう。
 民主主義が未成熟な社会では、権力者とその追随者たちは、権力の維持・継続とそれに伴
う経済的利益の確保のために、あらゆる知恵をふるいます。その結果は、反対勢力の結集や
政権批判を封じるための弾圧や各種自由権の制限、権力者と結託して独占的収益の増大を
はかり政権を支える企業の権益保護のための諸措置制定、一般国民(権力から縁遠い人々)
が民主主義的意識に目覚めないような思想の操作・統制など、多少なりとも自主的に思考し行
動する意欲、能力を持っている人々にとっては、民主主義の未成熟に伴う無秩序から生じる上
2)のような諸問題による不都合よりも、はるかに耐え難い苦痛がもたらされます。そうなら
ないためには、支配される側すなわち一般国民が、支配する側が支配権を確立・永続させよう
とする悪知恵を打破しなければなりません。しかし、政治権力側の悪知恵に対して一般国民側
も知恵で対抗しようとしても、権力を持っている相手にはかなうものではありません。時に革命
など実力で政治権力を転覆させることもありますが、永続的に政治権力側の専制的支配の欲
望を抑え込むためには、政治権力側が専制的支配をあきらめるような力を、支配される側が
持つ以外にないでしょう。
 その力とは、民主政治の下では、政治権力側が専制的に支配しようとすれば選挙で権力の
座から引きずりおろすぞという、支配される側の「票」による意思表示にほかなりません。この
票の力を効果的に使う知恵さらには知性があるかどうかで、支配される側すなわち私たち一
般国民の生活ひいては人生の快適さがどこまで確保できるかの、基本的な枠組みが決まって
しまうのです。

 4) 私たちの生活や人生の快適さを基本的に左右する政治の分野での先人たちの知性
は、政治権力による専制的支配を防ぐ方法として、権力の集中と永続を避けることの大切さを
教えてくれています。権力の集中と永続は、いずれも権力者側の専横と腐敗を招くからです。
 権力の集中を避けるためには、権力を立法・司法・行政の三権に分け、それらを分立させ相
互に牽制させる方法が考え出され、多くの民主主義国で採用されています。
 右翼・左翼・中道を問わず権力の永続を避け、時々政権を交代させるためには、大統領など
権力者の任期を法律で定めて制限する方法がありますが、選挙で有権者の判断に委ねる方
法を採用している国も少なくありません。選挙で勝てばいつまででも権力の座に居続けられる
という、任期を有権者の判断に直接委ねる制度を採用している場合には、権力の永続は一般
国民の権利と快適な生活を脅かすに至る危険が大きいという政治学の基本的原理を、有権者
が理解し選挙での投票に生かす知性をどれだけ持っているかで、民主主義が骨抜きにされる
のを防げるかどうかが掛かっています
 
 民主主義制度の下で、有権者が選挙に際して、現在政権についている政党を継続して支持・
投票する場合の理由としては、次のようなものが考えられます。
 @) 権力者ないし政権の存続によって、実際に利益や権益を享受できる集団や階層(政
界、財界、官界などの内部のエリート集団や時に貴族階級、あるいは資産家や高額所得者な
ど現体制内の成功者ないし勝ち組など)に属している。
 A) 権力集団に属していない自分(一般国民です)とは利害が必ずしも一致しないが、政策
(安全保障政策や外交政策など)や理念(保守的考え方、自由主義的考え方など)には共感す
るので、政権党を支持する。
 B) 実際には、上記@)のような集団や階層に属してはいないが、現在の権力者や政権党
に投票することによって、なんとなく自分も権力集団の末端に連なっているような気になれる。
 C) 現在の権力者ないし政権党を支持すれば、見返りに願いを叶えてくれそうだ。 
 D) 現在の権力者ないし政権党に替わりうる人物や政党が無い。
 E) 格好や服装の趣味が良いし、テレビでもよく見かけるので親しみを感じる。
  
 上記@)は、知恵を働かせれば当然到達する結論で、一般的には、こうした集団や階層に属
している人々は、その既得権益を守る政策を推進する政党を支持するでしょう。もちろん、中
には自分の政治観や政治的信念に従って、別の政党を支持する人もいます。もし、自分が属
する特権的な地位や財産を持っている集団や階層の既得権益を守ることだけでなく、弱い立
場の人々にも配慮して支持政党を選択しているのだとすれば、民主主義の発展にとって貴重
な人々であると思われます(この人々は、政治の本質を洞察する知性に加えて、後にご説明す
る感性や品性を備えていることで、そのような政治的姿勢を選択するのだと私は考えていま
す)。
 A)は、政治についての最低限の基本的知識を持ち、各党の政策や理論をよく検討した結果
として、自分の利害よりも政治的信念を重視して支持政党を決めるということであれば、知性
に基づくそれなりに合理的な判断と考えてよいでしょう。しかし、政党の政策や理論が自分の
利害にどのような影響を及ぼすかを十分に計算しないまま、気分や感覚だけで政権党の政策
や理念を支持している場合には、むしろ以下B)、C)、D)に挙げるような心情に影響されて
いるように見えます(一見、それなりの政治的見識に基づいた判断のように見えて、実際に
は、知性はあまり働いていないように思われます)。
 B)は、投票によって強者と同一化することで、一般国民の自分も強者の仲間になれたよう
な気分を味わいたい願望(多分、浅知恵)によるものですが、実際には全くの錯覚で、何らか
の影響力や財力を持っていない限り、一票を投じたからというだけで権力集団が仲間として受
け入れてくれることはありません。
 C)は、個々の願いを投票用紙に書くわけでもないのに、そう思って投票するだけで候補者
に願いが伝わると考えるのは、あまりにも素朴な期待、というよりも幻想です。個々の願いを叶
えさせるには、その願いと同じ政策を掲げる政党を探し出して投票するほかありません。願う
だけでなく、(新聞や選挙公報などを読んで)適切な政党を探し出すための努力をしない限り、
願いはかないません。
 D)は、世論調査で常に一定の割合を占める回答ですが、変化を嫌うあまりの思い込みの場
合が多いように思われます。一旦政権交代があると、新しい権力者や政権党にあっさりと乗り
換えて、それらに替わりうる人物や政党は無いと、また思い込むことでしょう。今ある状態が一
番良いと考える保守的な心情は一概に非難はできませんが、想像力や比較考察する力のよう
な知性の働きが弱いことによる場合が少なくないので、そのような傾向があまり強いと、健全な
民主主義政治に必要な政権交代の実現を妨げる負の要因になりかねません。
 E)については、世論調査などによると、この支持・投票傾向が少なからぬ有権者に見られ
るようですが、テレビや街頭演説などで見た印象だけで感覚的に判断していると考えられま
す。テレビに出る頻度が多いと有名人としてもてはやされる風潮が強い時代に特有の現象な
のでしょう。テレビに出る頻度といえば、首相をはじめ閣僚や党の役職者など、政権党が有利
であることは言うまでもありません。いずれにしても、好感を持てるか持てないかで決める人気
投票の感覚が強く、思考停止の状態で、知性はほとんど働いていないと言ってよいでしょう。

 以上は、選挙での有権者の選択に、政権交代の大切さを認識する知性が必ずしも十分に働
かないケースですが、このような傾向が有権者の心情や判断に強ければ強いほど、政権交代
が起こりにくくなると言うことができます。その結果、権力に対する民主主義的なチェック機能
が働かなくなり、一般国民の快適な生活や人生が損なわれる可能性が増大するのです。
 選挙で好ましい選択が行われるためには、もちろん、有権者が国家レベル、国際レベルの
問題にまで見識を持ち、それを十分考慮に入れて投票することが、国家や社会ひいては自分
自身の快適な生活のためにも望ましいことは言うまでもありません。しかし、実際問題として、
それは誰にでもできることではないかもしれません。
 それならばせめて、どの候補者に、どの党に投票するのが、国家や社会はともかく自分自身
の利益や快適な生活を守るために最も効果的か、ということを考えるだけの関心と能力を持っ
て欲しいものです。
 それさえ期待できないのであれば、難しいことは何も考えなくても、とにかく、政権を時々替え
ることが自分自身の利益になるのだということを頭の片隅においておいて、たとえば10年以上
政権が続いたら、次の選挙では政権交代可能な野党に投票するという選択をする方が、上記
B)、C)、D)、E)のような心情で投票するよりも、権力に縁遠い人たちにとってはよほど好ま
しい結果をもたらすのではないかと思われます。ただし、もともと政治に関心のない人に、これ
だけでも頭の片隅においてもらうためにはどうすればよいのか、ひょっとしたら、それができた
ら民主主義が大発展するほどの至難のわざなのかもしれませんが。

 5) ここまで見てきたことから、個人あるいは家庭での日常生活、組織や職場での共同生
活、国の規模での社会生活と、活動の枠組みが広がるにつれて、目先の知恵だけではなく知
性の働きがないと快適さの確保は難しくなることは明らかだと思われます。時々、「知性」と聞く
だけで、「理屈なんか何の役にも立たない」と反発したり敵視したりする人も見かけますが、そ
れは、強者が自分の身勝手な要求を権力や金力や暴力で弱者に押しつける、弱肉強食の秩
序を選ぶことにほかなりません。権力も金力も腕力もない一般国民なのに「知性」を敵視する
のは、自分の首を自分で絞めるようなものなのですが、その人たちにどう言ったら「知性」の大
切さを理解してもらえるのか、私には未だわかりません(最も単純に言えば、頭を使わないと損
をし、うまく使えば得することが多くなることは世間の人を比較してみればよくわかるはずです
し、自分は頭が悪いからと思っても、頭もスポーツと同じで順を追って訓練するとそれなりに良
くなるものなので、時間はかかるし面倒かもしれないけれど、試しに、ああすればどうなる、こう
なればどうするとゲーム感覚で考えてみる訓練をしてみてはどうですか、ということなのでしょう
が、そうかもしれないからやってみようと受けとめて頂けるものかどうかわかりません)。
 しかし、この長文をここまで読み進んで下さった方々には、権力者の繁栄だけでなく、権力に
縁の遠い一般国民も含めて、より多くの人々が快適な生活や人生を送れるような生活環境や
社会秩序あるいは文化を作る上で最も大きな役割を果たすのは、知性ないし論理を基盤にし
た政治である、という結論に同意して頂けるものと思います。それは、知性を欠いた権力欲だ
けの政治が、権力に縁のない人々の生活からどれほど快適さを奪い取ってきたかという、地
球上の全ての人間に共通する歴史を振り返ってみれば、自ずから明らかになる結論でもあり
ます(なお、私が、知性を欠いた権力欲だけで動かされる政治にこれほどまでに警戒心を持つ
のは、私自身が権力も金力も腕力もない年金生活者という、弱肉強食の横暴な政治に抵抗す
る術のない、最も弱い立場の一般国民の一人だからです。長期継続政権で驕り高ぶる政・財・
官がマスコミまで影響下においた強権政治の下で、思想や表現の自由などの特に内心の自由
に介入され、年金削減や増税、インフレ政策等で経済的生活基盤を崩壊させられたら、もはや
快適な社会の回復を待ち、快適な人生の立ち直りを図る時間的、体力的余裕は私には残され
ていないのですから)。
 とは言え、哲学や科学をはじめとして、政治学や経済学や社会学などの学問、そして民主主
義という思想を生み出してくれた知性の効用については、いくら強調してもし過ぎることはない
と思いますが、他方、知性をもってすれば何事も好ましい方向に解決できるというわけでもあり
ません。
 実際、民主主義以外の、例えば君主主義や専制主義あるいは資本主義や共産主義など、
およそ人間の歴史の中で何らかの影響力を振るった考え方には、それぞれ論理的な裏付け
があり、そうした考え方で利益を受ける人々はその論理を支えにして、それなりの快適さを追
求してきました。従って、いろいろな知性が生み出したいろいろな理論は、それぞれの利害関
係者にとっては好ましい方向に向けられた理論なのですが、誰にでも好ましいというわけでは
ないのです。
  民主主義思想は、数の上で圧倒的に多い一般国民(個々人としては権力に縁の薄い人々
のことです)が、個々人としては権力に縁がなくても、まとまると有権者として政治権力に対する
影響力を持つことによって、政治権力が一般国民の利益のために行使されることを要求し実
現させるための理論です。しかし問題は、他の多くの理論では、特定の人物(君主など)や集
団(貴族、金持ち、軍隊、労働者など)の利益が比較的に具体的に追求されているのに対し、
民主主義の主体が一般国民という利益集団として把握しにくい存在であることもあり、追求す
る利益も最大多数の最大幸福といったような曖昧なものにならざるを得ない点にあります。
 そのため、それを具体化するための理論にも、一般国民のためのものであるかのように装っ
て、実は、個別の利益集団のためのものが少なくないという状況が出てくるのです。
 しかし、どれが最大多数の快適さのための理論で、どれが少数者だけの快適さのための利
己的な理論なのか、見破るのは容易ではありません。理論には、国際政治も含む政治学だけ
でなく法学、経済学、社会学、心理学などをはじめとするあらゆる分野の知識が取り入れられ
ており、有権者個々人がそれらの理論を正確に把握し、論理的な根拠で裏付けられた自分の
判断を持つことは、まず不可能でしょう。
  そこで民主主義をより良く機能させるためには、専門的な知識は足りなくても、最低限、誰
の理論や主張がより正しそうかを判断する能力が必要とされるのです。事実、有権者が直接
政治に参加するのではなく、代表として議員を選び実際の政治を行わせる代表民主制は、有
権者が個々の問題に専門的な知識を持っていなくても、人を選ぶ能力ぐらいは持っているであ
ろうということを前提としています。
 それでは、有権者が自分たちの代表を選ぶに当たって、候補者の何に注目すればよいのか
というと、それは当然、候補者のよって立つ理論や有権者に提示する公約が、実際には最終
的に誰の利益を目指しているのかという点です。そして、専門的な知識を持っていない一般国
民としての有権者が、候補者の本当の意図を見抜く手がかりこそ、私は、知性に加えて感性と
品性だと考えているのです。

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感性の効用
感性の効用