3. 感性の効用

 私は、「感性」とは、人間の五感に入ってくる印象を受けとめる能力、もっと端的に言えば、美
しいものを美しいもの、心地よいものを心地よいもの、あるいは醜いものを醜いものとして認識
し、評価する能力と定義しています。 感性については、「文化とは何か」第五章「感性の文化」
を併せご参照下さい。 

 1) 対物的感性
 感性は、音楽や美術などのいわゆる芸術をはじめとし、文学や建築など知的な要素も強いも
のから日常生活で触れたり味わったりするものまでも含めて、五感で感じとれる実体の美醜を
評価する能力としての対物的感性と、人間性のような精神的存在の美醜や優劣を評価する能
力としての対人的感性に分類されます。いずれの評価も、評価する人の主観に左右される部
分が大きく、最終的には個々人がどう感じるかという問題に行き着くのですが、それでも、人類
の歴史を通じて培われてきたこの種の評価能力は、美醜や優劣について、人間に共通するあ
る程度客観的な評価ができる水準にまで到達してきているように思われます。
 対物的感性の効用は、改めて言うまでもなく、美しいものを美しいと感じ、心地よいものを心
地よいと感じることによって、私たちに感動や快感をもたらし、生活にうるおいを与えてくれるこ
とにあります。もちろん、この「感じる」能力は、感じた美しさや心地よさを、自分でも弾いたり、
歌ったり、踊ったり、描いたり、造ったり、演じたりして表現したいという欲求につながるのです
が、こうして開発される「表現する」能力も感性の重要な要素として、感じる能力と相まって生活
に一層のうるおいを与えてくれることになるのです。
 この感性が乏しいと、いくらお金があってブランド物にかこまれぜいたくな生活をしていても、
心地よい感動や快感がもたらしてくれる快適な生活を楽しむことは難しいのではないかと思わ
れます。もっとも、そのような楽しみ方があることにそもそも気がつかなければ、本人にとって
はどうということもないのかもしれませんが・・・。そうは言っても、やはり、感動や快感がうるお
いをもたらしてくれる快適な生活を楽しめる人生の方が、豊かな人生と言えるのではないでしょ
うか。

 2) 対人的感性
 上記1)のような五感で感じとれる実体ではなく、人間性のような精神的存在の美醜や優劣を
感じとる能力が対人的感性の根幹ですが、対人的感性の全ては、先ず他人に対して関心を持
つこと(それも一つの能力かもしれません)から始まると考えてもよいでしょう。他人に対して関
心を持てば、その人に対する評価や好悪の感情が当然生じてきます。好悪の感情は、顔や声
などの身体的要因からはじまって性格や癖などまで、関心を持った側の好み次第で様々なの
で、関心を持たれる側にとってみれば、どんな容姿や性格の人でも誰かに好かれる可能性は
あるという意味では、ひとつの救いでもあります。
 しかし、好き嫌いとは別に、他人から高い評価を受ける能力や性格となると、知的能力や芸
術的能力あるいは運動能力などある程度測定可能なものや、思いやりの心のように測定は難
しくても確かに感じとれるものまで、対象はかなり絞られると思われます。とは言え、好き嫌い
の感情ほどではなくても、見る人の主観や状況、あるいは見られる人の行動などによって、能
力や性格の評価も少なからず左右されるので、客観的に見ても高い評価を受けると思われる
能力や性格を列挙することには、いささか無理があるかもしれません。
 対人的感性の直接的な効用としては、いわば人を見る目を持つということで、人生の途上で
出会う数多くの人々の中から、生涯の伴侶をはじめ、快適な人間関係を築くことのできる友
人・知人を選ぶ上で大きな役割を果たすことがあげられます。
 さらに、他人から受ける印象をとらえる能力に加え、対人的感性としてそれ以上に大切な要
素に、他人に対する関心を発展させて、他人に向き合い働きかける心情があります。この種の
心情には愛する心や慈しむ心、あるいは嫌ったり妬んだりする負の心情などがありますが、人
間関係の快適さを決定づける最も重要な働きをするのは、思いやりの心でしょう。
 思いやりの心は、人間ひとりひとりの生命ないし人生そのものを慈しむ感情を基盤にしてお
り、人間の成長の過程で、このような思いやりの心を既に身につけている人々(幼いころは肉
親、成長するに伴って友人や人生の先輩など)との触れ合いや、自分自身の知的な思索を通
じて高められて行く傾向を持っています。
 先に触れた知恵や知性には、それを働かせる目的(出世、金儲け、権力、保身などなど)に
よっては、万人の万人に対する戦いを思わせる行動を誘ったり、社会や文化の安定や発展に
も好ましくない影響を与えかねない危険な要素(身勝手、支配欲など)が潜んでいます。従っ
て、知恵や知性を働かせるに当たっては、個々人にとっても社会にとっても好ましい方向付け
が必要であり、その方向が他人に対する配慮ないしは思いやりを基本原則にする場合にこそ
快適な人間関係が形成され、ひいては個々人の快適な生活や人生がもたらされると考えられ
ます。そこに、思いやりの心を育む対人的感性の効用が見いだされるのです。
 確かに、家族や友人・知人あるいは仕事で関係する人々との快適な人間関係を構築し、快
適な生活や人生を獲得するためには思いやりの心が不可欠ですが、かといって、思いやりさえ
あれば全てがうまく行くというわけではありません。
 これこそ相手に対する思いやりだと自分は思っても、相手が必ず喜ぶとは限らないことは、
多くの人が体験しているはずで、もしそれに気づいていないとしたら、それはそれで一種の対
人的感性の欠如(鈍感)でしょう。相手がありがた迷惑と思っているのに独りよがりの思いやり
を押しつけるのは、余計なお世話以外の何物でもありません。
 なぜ折角の思いやりが余計なお世話になってしまうのかといえば、それは、ひとつには、相手
の状況や望みを正確かつ客観的に見て取る洞察力と呼ばれる知恵ないし知性が欠けている
からであり、さらには、思いやりをどう表現ないし行動に移せば相手が最も満足する結果をも
たらすかを推察する想像力と呼ばれる知恵ないし知性が欠けているからです。
 すなわち、人の生活や人生に快適さをもたらすためには、知恵や知性には思いやりという方
向付けが、そして、思いやりには知恵や知性という考える能力による支えが必要なのです。
 
 3) 政治と対人的感性
 ところで、先に見てきたように、個々人の生活や人生の基盤である、経済や社会の制度や枠
組みを形成するという意味で、一般国民の生活や人生の快適さを最も左右する政治の分野で
は、権力の獲得と維持という方向を目指して知恵が総動員されます。もちろん、特に権力闘争
に影響しないような分野では、知性による論理に基づいて政策が策定されるのですが、政界、
官界、財界など権力や財力に近い集団の利害がからまる分野では、熾烈な争いが展開されま
す。
 政治家は国民の代表のはずですが、実際の政治活動では、まず自分の利益、次いで自分
が属する集団の利益を最重要視しますから、そこで割を食うのが権力に縁の遠い集団、すな
わち一般国民です。獅子の分け前を取るのは、常に、権力に近いか影響力を持っている集団
に属している人たちで、権力に遠い集団に属している人たちは、その限られた影響力に応じた
おこぼれに甘んじるほかないのです。
 とはいえ、政治家も人間なのですから、個人差はあるとはいえ、それなりに対人的感性を持
ち合わせているはずです。それが、一般国民の利益や快適さにあまり目を向けてくれないの
は、出世や蓄財あるいは次の選挙での当選といった目先の利益を追う知恵の働きが、思いや
りなどの対人的感性を押しのけてしまっているからに違いありません。もちろん、目先の利益
のために良質な対人的感性が押しのけられている例は、政治家だけではなく、多くの官僚や、
経営者や役員を頂点とする企業関係者、さらには特殊な企業形態としてのマスコミ関係者をは
じめとして、あらゆる社会的分野に多数見ることができます。これらの人々は、それぞれの行
動範囲や影響範囲の中で、一般国民にとっては必ずしも利益にならない活動をしているので
すが、その活動の影響が全国民に及ぶという意味では、政治家に勝る者はないでしょう。
 それでは、政治家に思いやりのような対人的感性を取り戻してもらう方法はあるのかという
と、あるのです。
 権力を求める活動は知恵を中心にして展開されるので、政治家に対し、特に悪知恵や浅知
恵を少し抑えて、思いやりの心を取り戻して欲しいと求めるのは一見無駄のようにも見えるの
ですが、実はそうでもないのです。
 政治家にとって最も大切なことは選挙で当選することなのですから、思いやりの心を持たな
いと当選できないと思えば、無理にでも思いやりの心を持とう、持っているように見せようと努
めるものなのです。思いやりの心を求める有権者の側からすれば、本心からの思いやりでなく
ても思いやり的な行動を重ねてくれればよいのですし、そうしている内に「習い、性となる」で、
少しは一般国民の快適な生活や人生にも関心を持ってくれるようになるかもしれません。全て
は、有権者としての一般国民が、自分たちが求める内容をどこまで正確に認識し、どこまで
(有権者の快適さへ要求を無視すれば、選挙で落選させるぞという)強い圧力をかけられるか
にかかっているのですが・・・。
 しかし、圧力をかければ、政治家あるいは候補者なら誰でも、思いやりの心をもって有権者
の要求のために努力してくれるというわけではありません。圧力に鈍感な政治家もいれば、う
わべだけ努力しているように見せかけて、内心では一般国民の快適な生活や人生になど関心
のない、もともと良質な対人的感性に乏しい(それでいて、自分の利益のためには悪知恵に長
けた)政治家も少なくありません。
 有権者は、それを見分けて投票しなければならないので、どこを見れば、まともか少なくとも
まともになる可能性を持っている政治家ないし候補者か、あるいはどうしようもない政治家ない
し候補者なのかを知ることが次の課題です。
 私は、政治家あるいは政治家の集団としての政党、および選挙での候補者がまともかそうで
ないか(一般国民への思いやりの心を持っているか、それとも根っからの利己主義者か)を見
分けるに当たって、品性の有無ないし高低が貴重な手がかりになるのではないかと考えていま
す。

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品性の効用
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