第三章 生活の文化
  
T 快適さの追求
 人間の文化の基盤である「生活の文化」には、われわれのの日常生活の殆んどの思考様式
や行動様式が含まれている。いわゆる食文化をはじめとして、衣服、住居のような最も基本的
な物質的生活の手段は勿論、言語や宗教のように内面的、精神的生活を規定するものや、冠
婚葬祭のように生活に彩りを添えるもの、更には生産、販売、消費等の物的あるいは金銭的
な経済活動や経済制度、教育、通信、運輸、厚生、法務等の社会活動や社会制度、および国
民生活のあり方の枠組みを作り、方向づけをするものとしての政治活動や政治制度まで、わ
れわれの日常生活の全てが生活の文化の構成要素となっている。そして、この生活の文化
は、既に述べたように、日常生活をより快適にしたいという欲求を主たる動機として発展して来
たものであるが、動機はともかくとして、発展してきた結果を個々に取り上げて検討してみる
と、日常生活をより快適にしたと言えるかどうか疑問が生じるものも少なくない。
 極端な例をあげると、人類の歴史の中で、幼い子供(例えば、最初に生まれた子供)の命を
神に捧げる生けにえにした社会があった。しかし、如何に宗教心を満足させるためとは言え、
このような思考・行動様式が、少なくとも母親を始めとする肉親たちの日常生活、特に精神生
活を快適にしたとは考えられない。それであるからこそ、他の社会に広まることなく、人類の歴
史の途上に出現した種々の特異な事例と同じように、いつしか消えて行ってしまったのである。
これほど極端な事例でなくても、われわれの日常生活を規定している社会制度や習慣の中
に、われわれの日常生活や、あるいは社会全体を、快適どころか不快にしている事例はいくら
でも挙げることができる。
 そのような事例が出現する根本的原因は、端的に言ってしまえば、われわれ個々人が、真
の快適さが何かを洞察し、獲得するために必要な能力を、十分に開発していないことにある
(この問題については、第七章「アイデンティティ」で詳細に検討する)。この結果、個々人レベ
ルでその能力不足の程度に応じてもたらされる快適さの欠如は、自業自得と言えないこともな
い。しかし、社会的次元では、個々人が「自分だけの」快適さ(この「自分だけの」の部分をカッ
コに入れて強調したのは、本書において順次論証するように、真の快適さの獲得のためには
「社会性」が不可欠であり、「自分だけの」快適さを追求する限り、大部分の人々は目的を十分
達成できないことに、読者の注意をこの段階から引いておきたかったからである)を追求して
努力するだけではどうしても乗り越えられない苦痛が存在する。それは、次のような原因によ
るものである。
 第一に、人類の歴史上のいつごろかはわからないが、宗教的試練や、個人的な修業や苦行
の中に、特に心理的、精神的な快感ないし快適さを求める人々が現れて来たことである。もっ
とも、それらが反社会的な行為につながらず、個人の信仰や主義や信念にとどまっている限り
は、社会全体に及ぼす影響は限られたものであろう。
 ところが、これらの人々が権力を持っていたり、あるいは権力者に対する影響力を持ってい
たりすると、時に、特異な思考・行動様式が優勢になって、生けにえの例のように、宗教的ある
いは社会的思い込みのために、社会全体がとんでもない方向に突っ走ってしまうことがある。
この現象は、他の社会との接触が少なく孤立した社会に起きることが多いようであるので、あ
まりにも特異な思考・行動様式は、他の正常な社会との交流が深まれば、いつまでも継続する
ことは困難になってくる可能性が大きい。
 しかし、中には、女性の割礼のように、弱者が抵抗できないのをよいことに、しぶとく生き延び
ている思考・行動様式も少なくないので、民族の独自の伝統や文化といっても、永く伝えられて
来たという理由だけで、今後も保存して行くべきであるとは断定できないものもあることがわか
る。文化にも、良いものだけではなく、迷走したものや、人類や社会にとって有害なものもある
のである。
 第二は、ある制度や習慣が出来た当時は、その当時の人々の感覚に根差す社会的快適性
の観点からそれなりの存在理由があったものが、時がたち、社会全体が変わったのに、制度
や習慣だけ残っているために不都合が生じている場合であり、たとえば封建制度に由来する
生活習慣などが考えられる。たとえ、多くの人々に不都合が生じていても、その社会で政治
的、経済的あるいは社会的な影響力を持っているグループが、その制度や習慣が存続してい
ることで利益を得ている場合には、それを変えるのは必ずしも簡単ではない。
 第三は、その社会で政治的、経済的あるいは社会的な影響力をもっているグループが、自ら
の利益を守るのに都合のよい制度を、その影響力を通じて作り上げている場合である。この
場合、利益を受けるグループが小さければ小さいほど、そしてその力が大きければ大きいほ
ど、残りの大多数の人々は、制度によって不当に拡大された不利益を押しつけられることにな
る。この社会的な強者と弱者とのあいだの利益の配分の問題こそ、人類がその永い歴史を通
じて取り組んで来ながら、未だ最終的な回答を得られないでいる問題なのである。

U 功利性の原理
 このように、生活の文化は国により、民族により、地域によりそれぞれ異なっており、中には
快適さを妨げる要素を少なからず含んでいるものもある。従って、生活の文化が、日常生活を
より快適にしたいという個々人の意欲を動機として発展してきたものである以上、その中に快
適さをもたらす要素が多いか少ないか、あるいは快適さを妨げる要素が多いか少ないかは、
それぞれの社会の生活の文化の質の高低を判定する有力な基準になり得ると言ってよいであ
ろう。
 とは言え、快適さというのは必ずしも自明な概念ではなく、かなり主観的な部分もあるので、
本書の最初から最後まで頻繁に使用されるこの概念について、もう少し説明しておきたい。
 本書で使用している「快適さ」という言葉は、哲学史ないし思想史をたどれば、いわゆる功利
主義哲学で使用されてきた「快楽」と重なる部分が多いが、本書での快適さの概念は、精神的
充実感が果たす役割をかなり重視しているので、むしろ実体面の比重が大きいような印象を
与える可能性がある快楽という言葉は、敢えて使用しないこととした。なお、本書の内容に功
利主義に共通する部分があるとしても、それは、私が、功利主義哲学を専門的に研究した結
果として、その系譜の上に導き出されたものではなく、先ず「快適さ」の発想があって、そこから
功利主義哲学への関心が芽生え、その中で自分の思考に必要な部分だけ垣間見たという程
度で、功利主義哲学の正統な学徒には程遠いことを告白しておかなければならない。 さて、
功利主義哲学の創始者であるイギリスの思想家ベンサム(1748−1832)は、「自然は人類
を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた」(ベンサム『道徳および立法の
諸原理序説』、山下重一訳)と述べ、人間の行為を根底で動機づけているのは、苦痛を避け、
快楽(または利益あるいは幸福)を求めようとする意欲であると主張した。そして、この考え方
を功利性(utility)の原理と名付け、「功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の
幸福を・・・・促進するようにみえるか、それともその幸福に対立するようにみえるかによって、
すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。」(前掲書)と定義した。すなわち、
幸福をもたらす行為は道徳的であり、それを阻んで苦痛を生むような行為は非道徳的であると
言う。更に、「社会とは、いわばその成員を構成すると考えられる個々の人々から形成される、
擬制的な団体である。それでは、社会の利益とはなんであろうか。それは社会を構成している
個々の成員の利益の総計にほかならない。」(前掲書)とし、社会の利益(幸福)を最大にする
ためには、社会を構成する個々人の利益(幸福)の総計を最大にしなければならないと説く。
 実際、一人の人間が感じ取ることのできる幸福感には限りがあり、例えば、既に巨万の富を
持っている人が更に富を積み増しても、幸福感はそれに比例して高まるわけではない(限界効
用逓減の法則)。他方、未だ十分な富を持っていない人々には、比較的少額の積み増しでも
大きな幸福感がもたらされる。従って、一定量の富が積み増しされる場合に、比較的少額でも
大きな幸福感を得られる人々に、広く分配されれば、個々の幸福感の総計すなわち社会全体
の幸福感は、ひとりの人に集中して積み増しされる場合よりも、はるかに大きくなるはずであ
る。
 ベンサムが生きていた当時のイギリスのように、一人の国王と少数の貴族・支配階級だけが
幸福を最大限に享受して、残りの大多数の幸福が無視ないし軽視されている専制的な社会で
は、社会全体の幸福の総量はたかがしれたものであろう。同じ人間である以上、一人一人が
感じ取れる幸福感の上限に大きな差がないとすれば、社会全体の幸福の総量が最大になる
のは、社会の最大多数の成員の幸福が、できる限り平等に保障される場合であるということに
なる。
 これが、ベンサムの功利性の原理ないし最大多数の最大幸福の原理の核心である。ベンサ
ムの理論構成については、学問としての完成度の観点から種々批判はあるとしても、今日に
至るイギリスの福祉政策の根底には、この功利主義思想の伝統が脈々と流れているのであ
る。

V 最大多数
 これまでに人類が考え出した制度の中で、最大多数の最大幸福の原理のうちの「最大多数」
を保障する観点から、比較的に最も有効なものは、民主主義体制であろう。民主主義体制をと
っていない国、あるいは民主主義を標榜していても国民の意識および制度において成熟度の
低い国のほうが、権力と富が一部の特権階級に集中し易く、その分、多数を占める一般市民
の、自由権や経済力に基ずく快適な生活が制約を受ける傾向が大きいからである。言い換え
れば、民主主義度が高い方が権力や富の過度の集中に歯止めがかかり易く、その分、多数
を占める一般市民が、自由権や経済力に基ずく快適な生活を享受し易いということになる。
 この点については、民主主義は西洋で生まれた西洋的な理念であり、他の地域においてま
で普遍的な価値を持つわけではない、との主張も時に聞かれる。しかし、そのような主張は、
実際には、一部の特権階級の権威主義的支配体制を擁護するためか、精々、人権の尊重よ
りも当面の経済開発を重視する統制主義的開発(開発独裁)体制を正当化するためのものに
過ぎず、客観的かつ長期的に見て、社会の構成員の「最大多数」の人権と快適な生活の確保
を目的とする民主主義の理念に対抗して、国際社会で多数の支持を得ることができるとは思
えない。
 民主主義との関連で留意すべきは、これに対抗する理念の有無の問題よりも、むしろ、民主
主義の実現のためには、複数政党制や選挙制度などの民主的制度の整備だけでは足りず、
社会の構成員のひとりひとりが、自分自身の快適さを獲得するためにはどうすればよいか、ど
のような社会であるべきかについての、個々人の考え方と判断力を確立しなければならないと
いう前提条件があることである。確かに、これは容易ならざる条件であるが、かと言って、欧米
人以外の人々が、個人の確立のようなことが出来るのは欧米人だけであり、従って欧米以外
の地域では民主主義は不適当であると言いつのるのは、逆からの人種偏見であり、自らをお
としめる思考方式である。
 人間を人間たらしめてきた原動力が、個々人の快適さの飽くなき追求であった以上、個々人
が満ち足りるためには、それぞれが、自分の求める快適さは何であって、どうすれば手に入れ
ることができるのかを、自分自身で考え判断するほかない。この判断を他人に委ねれば、委ね
られた人は、必ず、獅子の分け前を自分にもたらそうという誘惑に抵抗できなくなる。これは、
いかなる人種や民族といえども、人間である限り逃れられない本性である。従って、社会の
個々の構成員がその求める正当な快適さを手に入れるためには、個人の確立が必須条件で
あることは、全ての人種や民族に共通する原理なのであり、現時点で、たまたま国により社会
によって個人の確立の成熟度が低いからといって、その人々に個人の確立の可能性を否定す
るのは、人間性を否定することにつながる。
 このような理由で、個人の確立、および、そこから導き出される民主主義の原理は、人類全
体の理念としての普遍性を持っていると考えることができるであろう。

W 最大幸福 
 「最大幸福」のほうは、必ずしも簡単ではない。人類が快適さを追求して文化を発展させてき
たと言っても、人類の歴史を通じて、快適さが常に右上がりに上昇してきたと言えるかどうかに
ついては疑問が残る。
 人類はこれまで、目に見える身の回りの快適さの追求には熱心であっても、真の快適さとは
何かを洞察し、それを獲得する能力を十分に開発してこなかったことは既に述べたところであ
る。その結果、個人レベルでの快適さの追求に際してしばしば計算や見通しを誤り、快適さを
手にいれるつもりの行為が、逆に苦痛の種をまいただけに過ぎなかった事例は、枚挙にいとま
がない。わかり易いように極端な例をあげれば、快適な生活に必要な物やお金を手にいれよう
として、強盗や殺人を犯した結果、刑罰を受けて自由も、時には生命までも失う人々は、今日
でもあとを絶たない。ベンサム流の考え方をすれば、これは、快楽の追求に当たって、他人
(被害者)の快楽が平等に考慮されておらず、従って、最大多数の幸福の総計を最大にしない
から、功利性の原理に反する利己主義的・非道徳的な行為であるということになるであろう。
 ベンサムは、個別の快楽を量的に計算して、それぞれのあいだに優劣をつけることが可能で
あると考えた。すなわち強さ、持続性、確実性、遠近性、多産性、純粋性および範囲の七つの
基準によって、快楽の大小が計算できると考えたのである。そして、全ての人々が、最も大き
い快楽を選択すれば、社会全体の快楽も最大になるはずである。本当に、それが可能である
とすれば、われわれは、真の快適さを見定める能力を、ついに開発できたことになる。
 実際には、ベンサムは、具体的な計算法を示さなかったし、その後、今日にいたるまで、人
類が、真の快適さを洞察し、獲得する能力を格段に発展させたと考えるべき根拠も見当たらな
い。それどころか、美食や喫煙による一時的な快楽と、それがもたらす永続的な苦痛(病気)
のような最も単純な損得関係でさえ、しばしば目先の快楽に幻惑されて計算ミスを犯している。
多くのベンサム批判が指摘しているように、あらゆる種類の快楽を数量化することは、そもそ
も不可能なのである。 それでは、われわれは、これまで同様これからも、目に見える範囲の
快適さを、かなりの部分直感に頼りながら追求し、計算ミスの思わぬ結果に悩まされながら生
きて行かなければならないのであろうか。世の中が複雑になればなるほど、計算ミスも多くな
り、快適さを追求しているつもりの個々人の行動の集積の結果も、快適さを増大させるよりも
妨げる要素の方が大きくなることもあり得よう。
それを少しでも防ぐように、ベンサムのようなあまりにも正確を期す数量化の試みは現実的で
はないとしても、もう少し行動の幅を持たせた、しかし明らかに反社会的な行動、あるいは社会
的な快適さを妨げるような方向への行動には一定の枠をはめるような、真の快適さに向けて
の追求指針ないし方向づけのようなものは、考えられないものであろうか。
 本書では、第二部「文化の向上」で、このような方向づけを文化と関連させて考察することと
しているので、ここでは問題提起にとどめる。その前に、この問題に迫るためには、文化につ
いての共通の認識を持っておくことが不可欠であるので、今しばらくは、快適さの概念を足が
かりにして、文化そのものについての理解を更に深めて行きたい。

X 快適さの再点検
 さて、個々人は、その快適さ追求の過程で、一方では快適さを獲得しつつも、他方でいろい
ろな判断のミスを犯し、その結果、個人レベルの様々な悲喜劇が生み続けられて来たわけで
あるが、社会の進歩と拡大につれて、個々人あるいは社会自身(政府等)による快適さ追求の
活動が、社会全体に及ぼす悪影響(社会的苦痛)が無視できないものになって来た。結果とし
て社会的に悪影響をもたらした、快適さ追求の全ての活動を判断ミスと決めつけるのは酷かも
しれないが、将来の活動における判断ミスを少しでも減らすための反省材料として、また、その
ための緊張感を維持するためにも、ある程度の結果責任は相互に問われるべきであろう。
 いずれにしても、ベンサムの功利性の原理は、基本的には経済の視点に立った理論であ
り、また社会の快楽は個人の快楽の総計と考えて敢えて両者を区別することはしていないが、
本書では、これまで功利性の原理を借りながら見てきた個人の快適さに加えて、ここからは、
それとのズレが目立ち始めた社会的快適さの問題に、特に「文化」の視点から接近を試みるこ
ととする。
 改めて指摘するまでもなく、一般的に、科学・技術の進歩や衣・食・住をはじめとする物質面
での豊かさの向上が、日常生活の快適さや便利さをもたらすことは否定しえないところである
が、ある種の快適さには、半面としての不快適さをもたらす必然性があることも無視できない。
身近な例をとれば、クーラーが室内に快適な冷気を送り出すためには、室外に熱気を吹き出
さなければならないが、今日では、そのようにして吹き出された熱気の総量は、都市部の気温
を更に上昇させ、室外での不快感をますます増大させかねない程度にまで達している。地球的
規模でも、石油の利用は多様な分野で生活を豊かにしてくれたが、同時に、排気ガス等の副
産物は、環境破壊の大きな原因となっている。
 このように科学・技術の進歩や物質的繁栄が、その半面として、人間と社会さらには地球全
体に大きな不利益をもたらし始めていることが実感されるようになったために、科学・技術の進
歩や物質的繁栄を快適さを計る唯一の指標とすることが、二十一世紀を目前に控えて疑問視
され始めたのである。
 実際、つい最近まで、科学・技術の発展度と経済的繁栄度によって国や社会の優劣が測ら
れ、開発途上国にとって、これらを向上させて先進国に追いつくことが、進歩への唯一の道筋
であるとみなされて来た。
 ところが、文化人類学者によって、地球上の多くのいわゆる未開社会の研究が進むにつれ
て、これらの社会が決して原始社会の化石ではなく、それぞれが与えられた環境条件のもと
で、極限まで発達した社会であることが明らかにされて来た。すなわち、最も未開とみなされて
いた社会でさえ、その地域の気候条件や入手し得る物資に適応して、それなりに快適に生活
できる技術や知恵が産み出されて来たのみならず、特に精神面では、他人に対する思いや
り、やさしさ、自然に対する高い感受性など、先進社会ではむしろ退化し始めているのではな
いかと思われるような人間性が、豊かに育まれ保持されていることが認識されたのである。
 ましてや、個々の村落ではなく、国家のレベルで社会を観察した場合、冷房も暖房もない、あ
るいは自動車も高層ビルもない最貧社会といえども、永い歴史を通じてその気候風土に十分
に順応して作り上げられた生活様式や、独自の伝統芸能および美術・工芸品、あるいは固有
の宗教観や思考様式に基ずく社会秩序等は、そこで現に生きている人々にとっては最も暮ら
しやすく、最も心が休まる文化の形態なのかもしれない。
 そうであるとすれば、先進国の文化の方が、開発途上国の文化より優れており、従って人種
的にも、最も進歩した文化を作り上げた白人種が最も優れ、次に黄色人種が来て、そのあと
に何々人種が順位づけられるといった、恐らく近代以降の西欧で生まれた文化観、人種観は
おかしいのではないかという疑問が出て来ても不思議ではない。
 実際、経済的繁栄、技術的進歩の度合いだけで先進度を判定する場合でも、人類の歴史を
通じて見れば白人種が常に優越していたわけではない。黒人種、黄色人種あるいは褐色人種
等が、その時々の歴史的偶然や環境条件に助けられ、あるいはこれらを活用して、地球上の
各地で交互に、あるいは突出した、あるいは並行した繁栄を享受して来たのであり、近代以降
だけの繁栄度で人種の優劣を判定するのは、無知に基ずく独断と偏見以外のなにものでもな
いであろう。
 このように考えてくると、経済的要因だけではなく人間生活のあらゆる要素を包含する文化、
すなわちある社会の思考様式や生活様式に優劣をつけるのはますます無意味であり、地球上
の全ての文化はそれぞれ固有の価値を持っていて、等しく尊重されるべきであるという考え方
に到達する。これが「文化相対主義」または「多元文化主義」と呼ばれる文化観であり、自国文
化の絶対的優越性を信じて他国の文化を排斥する文化観に対坑する、有力な論理的根拠と
なっている。
 

第四章 文化相対主義
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