第六章 知性と知恵
  
T 知性の誕生
 感性が物事の美醜を直感的に感じ取る能力であるとすれば、知性は物事を論理的に考える
能力であると言うことができる。従って、知性の文化の中核を成すのは、論理的な思考を体系
づけ、深めてゆく知的な活動である。人間は、二百万年ないし百五十万年前頃までには直立
歩行の体型ができあがり、自由になった両手で道具を使えるようになって以来、快適な生活を
求めて、知恵と呼ばれる能力を駆使した知的活動を展開してきた。しかし、知性という、論理的
な思考を体系づけ、深める能力に基ずく知的な活動を開始したのは、人間の歴史から見れば
ごく最近の精々三、四千年前くらいからではないかと思われる。なぜならば、古代ギリシャに記
録に残る最初の哲学者たちが現れたのは、今から約二千六百年前の紀元前六世紀頃であ
る。ほぼ同じ時代に中国には孔子が、そしてインドには釈迦が現れている。もちろん、こうした
哲学者や宗教家たちは突発的に現れたわけではなく、それ以前の、人間の精神生活の中で
神話と現実が渾然一体となっていた世界から、哲学に代表される論理的思考が精神生活に重
要な位置を占める世界に移行し始めるまでには、名前こそ残っていないが多数の人々による
知的活動の、何世紀にもわたる積み重ねがあったに違いない。 
 それでは、なぜ、三、四千年ないし二千六百年ほど前に、お互いに遠く離れた世界の各地
で、時を同じくしてこのような知的な移行が開始されたのであろうか。原人から現代の人間(ホ
モ・サピエンス)への進化が完成したのが、十万年ないし五万年前だとしたら、歴史に残る偉大
な哲学者や思想家あるいは宗教家たちは、なぜ、ある地域には一万年前に、別の地域には七
千年前に、そしてまた別の地域には五千年前にというようにバラバラに現れず、東洋でも西洋
でも、紀元前六百年前後を境にして輩出し始めたのであろうか。
 知性と呼ばれる、論理的な思考を体系づけ、深めてゆく能力の開発を可能にしたのは、文字
の発達であった。アメリカの英語学者ウォルター・J・オングの著書「声の文化と文字の文化」に
よれば、人間の歴史でこれまで知られている最も古い文字はメソポタミアの楔形文字で、今か
ら約五千五百年前の紀元前三千五百年頃までに形成されたと見られる。インドでは紀元前三
千ないし二千五百年前、エジプトで紀元前三千年前、ギリシァのミュケナイで紀元前千二百年
前、そして中国では紀元前千五百年前頃までに、それぞれ独自の文字を発展させている。同
書によれば、メソポタミアのシュメール人の文字は、少なくとも部分的には、都市生活における
毎日の経済交易を記録するために生まれたとされているが、世界各地で発達したその他の文
字も、当初は、商売や行政を始めとして、日々の生活と密接に関連しながら形成されて来たも
のと考えられる。 
 このようにして作り出された文字の用途は、経済活動や行政通達に限定されることなく、永い
年月を通じて生活のあらゆる分野の記録に拡がって行く。それに伴って言葉(単語)、特に抽
象的な言葉の数が飛躍的に増加して行ったものと思われる。なぜならば、オングが「声の文
化」と名付けた、文字を使わず音声だけで意思の疎通が行なわれていた状況では、使用され
る言葉の数も限定されざるを得なかったからである。すなわち、音声で発せられた言葉の特徴
は、発せられると同時に消えてしまうことである。それを聞いた相手の記憶に、かろうじて残る
だけである。足とか水とか走るとかいうような具体的なものや事柄を意味する言葉であれば、
誰でも実物と言葉を容易に結びつけて理解できるので、共通の言葉として使用できる。しかし、
例えば誰かが「悟性」というような抽象的な言葉を思いついたとしても、その内容を音声の言葉
だけで相手に理解させ、更に一般に普及させるのは、至難の技であろう。複雑な内容を、声の
届く範囲でいちいち説明できる相手の数、その中でそれを理解できる能力を持つ相手の数に
はただでさえ限度がある上、その相手が更に別な人々に、その言葉の意味を正確に次々と伝
達し、共通の言葉にすることができるかどうか、大いに疑問である。伝言ゲーム(数人が一列
に並び、一定のメッセージを先頭から順番に耳打ちして行くと、最後には、最初のメッセージと
は似ても似つかぬ内容になっているのを見て楽しむゲーム)でもお馴染みなように、口頭だけ
で複雑な内容を正確に伝達するのは、かなり困難であるからである。このような事情があるた
めに、声の文化で使用される言葉は、比較的に具体的で、誰にでも共通に認識できるような意
味を持つ言葉に限定される傾向があるのである。
 それに対して、「書くということは、ことばを空間にとどめることである。こうすることによって、
言語の潜在的な可能性がほとんど無限に拡大し、思考は組み立てなおされ、そうしたなかで、
ある少数の方言〔地域言語〕が文字言語〔文字をもった言語〕になる‥‥。文字言語とは、書く
ことと深く結びつくことによって、個々の方言〔地域方言や社会方言〕を貫く〔支配的な〕言語とし
て形成されたものを言う。文字言語は、書かれることを通じて、ただ話されるだけのどんな方言
も遠くおよばないほどの力を手にいれるのである。『標準英語』として知られる文字言語は、使
用可能な語彙として、すくなくとも百五十万にのぼる語を登録している。これらの語について
は、その現在の意味ばかりか、過去の何十万という意味も知られている。話されるだけの方言
には、ふつう、わずか二、三千語のたくわえしかなく、実際、その方言の話し手といえども、これ
らの語のどれ一つとして、その意味の実際の歴史を知らないだろう」(オング『声の文化と文字
の文化』、桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳)。  
 このようにして、最初は五、六千年前頃に、そしてその後次々に、世界の主要な文化発生地
あるいはその近辺で発明された文字は、永い時間をかけながら整理・統合・洗練され、その過
程でいくつかの文字言語を形成して行った。こうして形成された文字言語は、抽象的な言葉も
含めて飛躍的に増大した語彙によって、人間が論理的に考え、それを体系づけ、深めること
を、そして更に、それを記録し、他の人々や次の世代に伝達して洗練して行くことを可能にす
る。逆に言えば、文字言語なしには、哲学をはじめとする学問や、アニミズムを超えた宗教思
想の発展は不可能なのであり、これが、一万年前にも七千年前にも、あるいは五千年前にさ
え、歴史の評価に耐え得るような哲学者や宗教家が生まれなかった理由である。ちなみに考
古学者によれば、神と未だに直接語り合っていたモーゼが生きたのは、知性の文化が誕生し
つつあった、今から三千三百年ほど前の時代である。
 文字言語の形成は、約二百万年前から百万年前にかけての直立歩行の完成による、人類
の、サルの仲間から人間への質的転換に次いで、三、四千年前からの、精神的人間への再
度の質的転換をもたらした、または、もたらしつつある、あるいは、もたらし始めた、と言うこと
ができるかもしれない。この点についてオングは、次のように述べている。「『一次的な声の文
化』、つまり、書くことの知識をまったくもたない声の文化から、文字の文化への移行は、人間
の生活のなかで生じた非常に大きな変化です。それが、人類全体の歴史のなかで生じたもっ
とも重要な移行の一つであることはまちがいありません。書くことは、思考のかたちを変え、ま
た、ほんの六千年ほどまえに最初の書かれたものが出現して以来、社会の過程や構造にかぎ
りない影響をあたえてきました。もちろん、声の文化から文字の文化への移行が、人間の文化
のすべての変化を説明するわけではありません。しかし、この移行は、過去何世紀ものあいだ
の非常に多くの変化に関係し、また、そうした変化に影響をあたえてきました。しかも、書くこと
から印刷が生まれ、さらにそこから、現在の電子的なコミュニケーションが生まれてくるので
す。電子的なコミュニケーションは、ラジオやテレビによる『二次的な声の文化』を生みだすとと
もに、一種の新しい電子的な視覚中心の考えかた‥‥を生みだします。」(前掲書)。
 ただし、声の文化から文字の文化への移行に伴う、精神的人間への移行が終了したのかど
うかは、はなはだ疑問である。精神的人間とは、欲望の物質的ないし体感的充足の追求だけ
では満ち足りず、人生や社会の事柄やあり方を、より広い視点からより深く考え、その結果を
現実の人生や社会に少しでも反映させるための努力に、精神的充実感を覚える人間である。
そうであるとすれば、精神的人間への移行は、むしろ、まだ始まったばかりなのかもしれない。
なぜならば、自分自身を振り返ってみても、われわれの多くは、読み書きができるにもかかわ
らず、論理的思考という知性の本質を第二の天性として身につけるには至らず、オングが指摘
する一次的な声の文化の、生活の知恵主体の次のような人生とあまり差のない日々を、相変
わらず送っているように思えるからである。  
 すなわち、「一時的な声の文化における思考も含め、およそすべての思考は、ある程度分析
的である。すなわち思考は、その材料をさまざまな成分に分解する。しかしながら、さまざまな
事実や、真偽にかかわる言明を、抽象的に順序づけ、分類し、説明して分析することは〔すな
わち、それが研究するということなのだが〕、書いたり読んだりすることなしには不可能である。
一次的な声の文化のなかで生活する人びとは、つまり、どんなかたちであれ書くことにふれた
ことがない人びとは、多くのことを学び、おおいなる知恵を身につけ、それを実践している。しか
し、かれらは『研究』することはない。  
 このような人びとは、見習い修業によってものごとを学ぶ。たとえば、経験ある猟師のあとに
ついて猟を学ぶように。また、これも一種の見習い修業である徒弟奉公によって学ぶ。さらに
また、ことわざをおぼえ、それらをたがいに結びつけたり組みかえたりするしかたを身につける
ことによって、また、ことわざ以外のきまり文句的な言いかたを自分のものにすることによって
学び、一種の集団的な過去に参加することによって学ぶ。しかしかれらは、厳密な意味での研
究によって学ぶことはない。」(前掲書)。  
 文字を使用することによって、人間の知的活動は飛躍的な拡大、深化が可能になったので
あるが、他方、文字の文化の中で生きているからといって、論理的思考という知性の本質を、
自然に身につけるわけではない。読み書きの能力を身につけさえすれば、自然に知性が発達
するわけではないのである。この点、知性は、直立歩行するようになった人間が、手を使える
ようになったことによって、食欲や性欲といった本能的欲望や、それを軸にして更に社会生活
の中で多様化された物欲、金銭欲、出世欲、支配欲といった諸々の欲望を満たすために、自
然に身につけてきた(悪知恵もふくめた)生活の知恵とは異なっている。また、五感という肉体
的な感覚や、喜怒哀楽という生まれつき持っている感情の働きを通じて、生きているだけで自
然に、多少なりとも育まれてくる感性とも異なっている。人間であれば、社会集団の中で成長す
る過程で、程度の差こそあれ、誰にでも身についてくる生活の知恵やある種の感性と異なり、
知性は、読み書きの能力の上に、論理的思考能力を積極的に開発する努力をしないと身につ
かない特性を持っているのである。従って、心身に特別な障害がない限り、知恵も感性もない
人間というのは考えられないのであるが、読み書きもでき、活発に活動していながら知性のひ
とかけらもないという人間は、いくらでも存在しうるのである。この場合、知性がないと言って
も、知的活動がないということではない。広く、深く、かつ長期的視野に立った論理的思考がな
くても、知恵を駆使した知的活動は妨げられないからである。むしろ、われわれの日常の知的
活動の大部分は、知性よりも知恵の要素が圧倒的に大きい活動であると言っても言い過ぎで
はないであろう。
 自然に身についた知恵だけで楽しい人生を送ることができるのであれば、なにも知性などい
らないではないかという考え方があるかもしれない。しかし、ここ三、四千年の間に、人間に
は、知性の働きを借りないと、一時的にはともかく継続的な安心感や充実感を得られないよう
な精神構造の基本的な変化が、文字の文化によってもたらされてしまったのである。人生のい
ずれかの時点で、「この生き方で良いのであろうか」という疑問や迷いを一瞬たりとも抱いたこ
とのない人はいるであろうか。その回答を宗教のような外部の力に求める人も少なくないし、根
本的な解決にはならないのであるが、仕事や娯楽に没頭して、疑問や迷いなど、できるだけ忘
れてしまおうとする人も多い。その中で、自分自身で考えて何とか答えを探し求めようとする
人々に、考え方の筋道なりとも示してくれるのは、知恵ではなく知性なのである。
 このように、同じ知的活動といっても、知性と知恵の果たす役割は、本質的と言ってもよいほ
ど異なっている。そこで、知性の役割をより鮮明に描き出すためには、知的活動のもうひとつ
の構成要素である知恵の働きについて、観察を進めることが有益である。
 なお、知性の本質が筋道の通った論理的思考であるといっても、ある事柄に関する論理が
常にひとつしか成立しないというわけではない。異なる視点から始まる筋道をたどっていくつか
の論理が組み立てられる状況は、いくらでも考えられる。この場合の視点や論理に生じる優劣
の差は、それらを側面から支える感性の働きに負うところが大きい。高い感性の支えなしに高
い知性を構築することはできず、高い知性の支援なくして高い感性は育まれ得ない。本章で知
性の役割を明らかにしようとしているからといって、知性の万能性を主張しているわけではな
く、知性と感性の相互支援の必要性については、追って詳述するつもりである。  
  
U 知的活動としての知恵
 以上で明かにしたように、知的活動は常に深い論理的思考を伴っているわけではない。われ
われは、日常生活でもさまざまな知的活動を行なっているが、その活動の主な目的は生活を
快適にすることであって、論理的思考よりも、利害得失についての、経験的な状況判断に基ず
く、どちらかと言えば直感的な対処活動の性格が強い。従ってこの活動は、知性というよりも、
一般的に「知恵」ないし「才覚」と呼ばれている知的活動に属すると言うべきであろう。
 大学での学問はかなり高度の知的活動のように思えるが、学歴社会の大学では、多くの学
生は、論理的思考によって真理を追求する学問よりも、学歴を得るための、記憶中心の試験
勉強に偏りがちである。その結果、学歴を得て社会に出た途端に勉強とは縁を切るか、勉強
する場合でも読書の対象は、実際の仕事にすぐ役に立つ実用書に切り替えてしまう傾向が強
い。この結果、われわれの多くは、論理的に思考するという知的活動能力(すなわち知性)から
生まれる精神的充実感を経験する機会を十分に得ないまま、同じ知的活動能力でも、仕事な
り収益なりに役に立つ知的活動能力、すなわち「生活の知恵」ないし「才覚」にしか価値を見い
ださない人生を送ることになる。
 もちろん、生活の文化は、このような知恵の集積から成り立っており、個々人の生活の善し
悪しも、少なからずこの知恵の働き如何にかかっているとも言えるので、知恵の有る無しは、
その人の人生を左右するほどの重要性を持っている。しかし、日常生活における知恵とは、基
本的には、与えられた条件の中でどれだけ巧みに行動出来るかという、いわば状況対処能力
のことであるので、目の前の利害関係の処理が何よりも重視される傾向は否定しえない。すな
わち、目の前の実益の追求という知的活動(知恵の働き)に没頭すると、人生の、あるいは社
会の、長期的ないしは哲学的なあり方に思いを馳せる知的活動(知性の働き)は鈍らざるを得
ないのである。このような人生では、人生の最高の価値は、実利的な経済的収益とか社会的
地位の獲得と云うことになるのであろうし、そのための仕事こそ人生そのものであると思い込
む人も出てくることになる。そして、ついには何のための仕事かは問わず、仕事と名のつく活動
のためには命も惜しまないほど、価値観が倒錯してしまっているのではないかと思われる人々
を、われわれのまわりに見つけるのは、それ程むずかしいことではない。
 それにもかかわらず、このような価値観の持ち主が、特に第二次世界大戦後の復興期に大
多数を占めたことによって、あるいは、国民の大多数にこのような価値観を持たせたことによ
って、日本の経済的大発展がもたらされ、生活の文化の経済的・物質的な部分が格段に向上
したことは、否定しえない事実である。ただ、問題は、このようにして達成された現代日本の生
活の文化こそ、世界のどの国の生活の文化と比較しても最も快適なものであると、われわれ
が胸を張ることができるかどうか、あるいは、現在は未だ最高のものでないとしても、これまで
の経済的効率第一主義の価値観で突き進んで行けば、いずれは世界で最も快適な生活の文
化を築き上げることができると確信できるのかどうかという点である。
 生活の文化は、日常生活をより快適にしたいと云う欲求を主たる動機として発展してきたも
のであるが、先に、第三章のベンサム主義の項で触れたように、人類が発展して日常生活も
複雑になってくると、何が、どうするのがより快適かの判断も簡単ではなくなってくる。あるひと
つの事柄だけをとって最も快適な条件を求めても、それが別の幾つかの要素に影響を及ぼし
反作用を生じて、最初は最も快適であると思われた条件でさえも、実際には不快な状況以外
のなにものをももたらさなくなってしまう事態さえ発生しかねない例は、環境問題をはじめあとを
絶たない。目の前の快適さの飽くなき追求が、必ずしも恒久的な快適さをもたらすとは限らなく
なっている傾向は、科学・技術の発達に伴い、ますます強まるものと思われる。更に、快適さの
条件に、内面的な充実感や安心感まで含めると、経済的・物質的な豊かさの追求だけで真の
快適さを獲得することが困難であることは明白であろう。
  
V 知恵の働き       
 ある社会が住みやすいかどうか、住民が快適に生活できるかどうかを決定づける大きな要
因のひとつは、その社会の生活の文化のバックボーンを成している、国民あるいは住民の価
値観である。
 これまで述べて来たように、ある社会集団を構成する個々人は、その社会集団の生活の文
化が許容する枠内で、自分自身の最大の快適さを求めて活動する。もちろん、快適さはそれ
自体として存在しているわけではなく、快適さをもたらすと思われている具体的な何かを通じて
獲得される。その何かとは、一般的には先ず物(衣・食・住を始めとする商品)であり、物の購
入を可能にする「お金」であろうが、人によっては権力や地位であり、男女関係や上下関係を
含む良好な人間関係であったりもする。個々人は、これらを獲得するために知恵を働かせる。
 一党独裁国家では党員になることが、軍事国家では軍人になることが、そのための近道であ
るから、能力に恵まれた若者の多くがその道を志す。そこには、一党独裁や軍事政権が、社
会にとって望ましいあり方か否かについての、あるいはそうした体制の将来性についての深い
考察すなわち知性の働きが欠けているが、一般的にはこの選択が、与えられた環境のもとで
取り敢えずの快適さを獲得するための、人生の知恵なのである。
 他方、学歴社会では、より好ましい職業に就くためには高い学歴が有利であると信じられて
いるので、小学校いや幼稚園から大学まで、受験競争に全力を投入するよう指導される。受
験競争に勝ち抜くために必要なことは、出来るだけ多くの知識を吸収することである。暗記科
目ではないとされている数学ですら、試験問題を分類し、それぞれのグループに特有の解答
法のパターンを知識として記憶しておかないと、決められた時間内に解答するのは困難であ
る。しかし、このようにして蓄えた知識を受験以外の目的に活用しようという意識は余りない。
受験競争で問われるのは知識の量である以上、学校では、この知識を何のために使うのか疑
問を持つことなどに時間を浪費しないで、ひたすら知識をふやすために努力するよう指導され
る。これらは、受験競争を勝ち抜いてゆくための知恵である。
 学校生活を終えて社会に出ると、より高い収入や、より高い地位を得るためには、受験競争
での知恵などと比較にならないほど高度な知恵比べにさらされる。受験時代は、ひたすら自分
自身の知識量を増やすためだけに知恵を使えばよかったのであるが、社会での生存競争で
は、競争相手の出方を見ながら、臨機応変に対処して行かなければならない。受験時代に蓄
えた知識よりも、処世術と呼ばれる生活の知恵ないし才覚が威力を発揮する場面が、しばしば
出現する。
 これは学歴社会に限らず、あらゆる社会に当てはまる現象である。一党独裁国家でめでたく
入党できても、あるいは軍事国家で軍人になれても、その中で昇進し出世してゆくためには、
特に人間関係をめぐる生活の知恵を発揮して、厳しい競争に勝ち抜いて行かなければならな
い。如何に知識の量を誇る学校秀才といえども、この知恵がなければ出世競争に勝ち抜いて
行くことは困難である。逆に、知恵と運に恵まれれば、さしたる家柄も財産も学歴もなくても、太
閤(豊臣秀吉)や皇帝(ナポレオン)の地位にまで駆け登ることもできるのである。運の方は自
分の力ではどうしようもないとも言えるが、時と場合によっては、知恵と才覚で運を作り出すこ
とも、ある程度までは可能なのではないかとさえ思われる。個々人の人生は、その人の知恵の
働きによって、決定的に左右されるのである。
  
W 生活の知恵
 他方、知恵には、人生競争の側面だけではなく、日常生活を円滑にする側面もある。 既に
述べたように、知恵ないし才覚とは、目の前の利害・得失・強弱を見極めて、自分にとって最も
快適と思われる状況を求め、実利的に対処する能力である。人間は、この知恵によって、道具
を作り出し、技術を発展させ、時には助け合い譲り合い、時にはだまし合い争い合いながら、
生活の文化を作り上げてきた。
 もちろん、実際の生活の文化は、実利を求める知恵だけで構成されているわけではない。知
恵は意識的な知的活動であるが、われわれの日常生活の可成りの部分は、むしろ、あまり頭
を使わない習慣的な行為で占められている。
 朝起きてから出勤まで、特別に頭を使わないとできないことは殆んどない。遅刻の言い訳
に、初めて知恵を出すくらいであろう。午前中の仕事も、ルーティン・ワークである限り、いつも
の手順でさばいて行くだけである。 昼食はどこに行こうかと考えるのは、確かに頭の働きでは
あるが、知恵どころか、知的活動と呼ぶことさえいささか気恥ずかしい。
 道を歩いて、他の通行人にぶつからないようにしたり、赤信号で止まったりするのは、ようや
く歩き始めたばかりの幼児にとっては知恵の芽生えであろうが、成人の場合には、むしろ、習
慣的、反射的な行動であり、殆んど無意識的に対処している。
 昼食後、コーヒーを飲みながら新聞を読むのは一見かなり知的な活動に思えるが、読んで取
り入れた情報に反応して頭が積極的に活動しない限り、新聞を読み流すこと自体の知的活動
のエネルギー水準はそれほど高いものではない。もちろん、読むという行為それ自体に、知恵
の出る幕は殆んどない。テレビを見るのも、似たようなものである。
 さて、仕事のパートナーや商売相手との折衝や駆け引きが始まって、ようやく知恵の出番がく
る。相手を説得し、こちらの術中に引き入れ、出来るだけ自分に有利な決着に持ち込むため
に、頭をフル回転させる。相手に応じて、誠心誠意対応したり、都合の良い情報だけを見せて
錯覚を起こさせたり、脅したりすかしたり、知恵の見せ所である。人によっては、賄賂を使った
り、だましたり、暴力を行使することさえ辞さないかも知れない。それがどこまで許容されるの
か、手段を選ばず目的を達成する行為がどの程度まで評価されるのか等は、その人が属して
いる集団や社会の文化によって左右される。従って、ある集団や社会では有能と評価されて
も、別の集団や社会では不道徳とみなされるような事例は珍しくない。
 知恵は、外部との折衝のためだけではなく、その人の属している集団や組織の中での、人間
関係の維持のためにも必要である。上役の機嫌を損ねると、居心地は悪くなるし、昇進にも差
し支えるので、ご機嫌伺いに知恵をしぼる。文書作成の際の文体や言葉づかいを、上役の趣
味に合わせて変えるのは、かなり高度な知恵であり才覚である。夜、上役や同僚に酒や麻雀
に誘われて、その日、結婚記念日の夕食を妻が楽しみにしているのを知っていながら断れな
いのが、人間関係維持のための知恵なのか、単に優柔不断なだけなのかは分からない。それ
でも、午前様の帰宅に際して、ささやかなプレゼントを持って帰るのは、家庭の平和維持のた
めの生活の知恵であろう。
 科学技術も含め、最高の知的活動と考えられる学問のかなりの部分は「知識」の集積である
が、その知識を、日常生活の実利的な快適さを求めるために使う知的活動能力は「知恵」であ
り、その知識を基に、思考を論理的に発展させて行く知的活動能力が「知性」である。もちろ
ん、知識と知恵と知性は、お互いに重なり合っている部分があるが、学問をする場合に、知識
と知恵と知性のいずれに重点を置くかは、学問を通じて何を求めようとしているかによって異な
ってくるであろう。一般的に、われわれの日常生活では、知識の集積も、学問的情熱というより
も、入学や就職を有利にするための知恵に基ずく部分が大きいし、その知識を実利的に活用
する知恵の要素を多く含む学問の方を、知性を育てる学問よりも大事にする傾向が見られる。
 このように、われわれの日常生活は主として、もともとは快適さを求める知恵であったもの
が、繰り返しているうちに一種のマニュアルとなって習慣化し日常化した殆んど無意識的な活
動と、日々、目の前に出現してくる様々な状況の中で、より多くの実利的な快適さを求めて対
処する、いわば生きた知恵ないし才覚に基ずく活動から成っている。ただし、以上からも明ら
かなように、現代社会の生活の文化の中で観察される知恵は、既に、その社会が育んできた
知性や感性を反映するものである。その知性や感性のおかげで、実利を求める個々の知恵と
知恵との衝突が回避され調整されて、それなりの秩序と快適さを保った社会生活が維持され
ることになるのである。
 
  
第七章 知性の文化
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