東海道五十三次を歩き続ける(5)

いよいよ最後の4分の1です。伊勢の桑名から歩きます。



尾張から伊勢に入りました。 涼しく歩きやすい季節です。



目次

桑名宿→四日市宿   四日市宿→近鉄内部駅
近鉄内部駅→石薬師宿→庄野宿→JR井田川駅   JR井田川駅→亀山宿→関宿   関宿→坂下宿

これ以前の区間について:
 日本橋から箱根三枚橋まではこのページに戻ってご覧下さい。  箱根三枚橋から府中宿まではこのページに戻ってご覧下さい。
府中宿から袋井宿まではこのページに戻ってご覧下さい。  袋井宿から二川宿まではこのページに戻ってご覧下さい。
二川宿から宮宿まではこのページに戻ってご覧下さい。  坂下宿から先はここをご覧ください。

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第31日
2009年10月26日(月曜) 桑名宿→四日市宿 単独行 天候:終日小雨

 いよいよ伊勢の国に入りました。 江戸時代の旅人たちは舟で尾張の宮宿 ( 現在の名古屋市の熱田神宮のそば ) から海上7里 ( 約28km ) を渡って桑名まで来たのでしたが、私は名古屋駅から電車で桑名にやってきました。 桑名まで来れば、約500kmの旧東海道をおよそ4分の3踏破したことになります。 ここまでくれば、もう意地みたいなもので、脚が痛かろうが、電車賃がさらに一層高くなろうが、問題ではありません。 とにかく、這ってでも京都にたどり着くという執念しかありません。

 

桑名の七里の渡し場の今昔。 昔はちょっと波が荒くても大変な舟旅だったろうと想像できます。

 桑名から京都までは約118kmですから、1泊2日で1回25kmほど歩けば、5回で十分の筈です。 今回を含め今年あと3回だけ11月と12月に歩くと、寒い1、2月はお休みしても、3月に2回歩けばよい勘定になります。 3月の末、桜の咲く頃、京の三条大橋に着くことを目標に、がんばります。

 台風20号の影響もあり、今日は予報通り朝から小雨ですが、ひるむ事なく出発。 小田原から新幹線ひかり号で名古屋まで来て、JR関西本線に乗り換え、桑名駅に着いたのが9:55でした。 桑名宿の出発点は 「 七里の渡し場跡 」 ( 上の浮世絵 ) で、駅から1.5kmです。

 駅から歩いて行く途中に海蔵寺と言うお寺があります。 実は今回、ルートの情報をインターネットで調べている過程で、 このお寺に祀られている江戸時代の薩摩藩士たちにまつわる悲惨で、そして腹立たしいある出来事を知りました。 詳しいことは ぜひ、この解説を見ていただく として、このような立派な心を持っていたのに、徳川幕府による 「 外様いじめ 」 政策の犠牲になり、遠く故郷を離れたこの地で筆舌に尽くしがたい屈辱と苦労の末に憤死していった80数人もの薩摩武士たちの無念を思い、ぜひお参りしようと考えたのでした ( それにしても、これを知ると、徳川幕府がすっかり嫌いになりますね )。

 

大正時代になってようやく昔の島津の殿様の子孫の公爵様が顕彰碑を建てたようです。 右の丸いものは義士たちが植えた松の巨木の輪切りです。

 なお、地元民たちを毎年の水害から救うために命を捨てることになった彼らは、近年になってようやく 「 薩摩義士 」 と称えられるようになり、岐阜県海津市の木曽三川公園脇に 昭和13年に建てられた治水神社 に祀られています。 ここには、治水工事の完成後に薩摩から 「 日向松 」 が移植され、現在では 「 千本松原 」 と呼ばるほどになっているそうです。

   私は海蔵寺に立ち寄りお参りした後、七里の渡し跡まで行き、今日はここから10:40に歩き始めました。 桑名市内の昔の旧街道は一部通れなくなっているところもあり、クネクネと曲がってもいるので、下調べをよくした後、注意深く歩きます。 四日市宿までは近鉄名古屋線とJR関西本線の間を縫うように約14kmの道 ( 一里塚3つ分と2kmほど ) が続きます。

 ゴアテテックスのズボンとジャンパーを着用し、小さな傘をさし、防水カバーをかけた地図をもう一方の手に持ち、首にかけたカメラで写真を撮る。 腕が3本欲しい状態です。 あいにくカメラの電池が切れたので交換していたら濡れた手が滑ってカメラが地面に落ち、レンズが1枚鏡胴からはずれて飛び出してしまいました。 屋根のある場所を見つけてこれを何とか応急修理し ( 工具もなしに自分でも大した腕前だと思います )、画像がチャンと写るのを確認するまでに30分程かかり、泣きたいような状況です。

 

左:この青銅鋳物製の立派な鳥居は伊勢神宮の一の鳥居です。 江戸方面からお伊勢参りに来た旅人たちも、ここ桑名を通って伊勢に向いました。
 桑名は昔から鋳物の町で鳥居は県指定の文化財です。 鋳造で描いた模様を見てください。 鳥居の脇にあるしるべ石は伝言板に使われたと説明にあります。
 右:駿河屋脇本陣跡で現在は料理旅館の「山月」の玄関にある石碑です。 この地では昔から 「 勢州桑名に過ぎたるものは銅 ( かね ) の鳥居に
二朱の女郎 」 と言われてきたそうです。 でも、こう言われると、二朱の女郎って一体なんだ ? と気になりますよね。 気になる方は下の * をご覧ください。


鋳物の町らしく、珍しい釣鐘屋さんがありました。 

 「 その手は食わなの焼きはまぐり 」 という有名なダジャレの言い回しは、子供の頃から講談本などでたびたび目にしましたが、その有名な焼きはまぐりはもうほとんどお目にかかることはできません。 海岸の開発の結果、はまぐりの漁獲量は激減しているようです。 それでも、保存食に適した時雨煮 ( しぐれに ) は今でも多くの店で売られていました。 どこから運ばれてきたはまぐりなのでしょうか。 でも、一つ買い求めた品の味は、決して今風に甘いことがなく、これこそ江戸時代からの伝統の深い味わいだという気がしました。 なお、四日市の町に入る所ではこれも江戸時代から有名な笹井屋のなが餅を買いましたが、これもなかなかの味でした。

 

左は富田の一里塚跡、右は江戸時代から続く笹井屋の本店 何度も申しますが日本は電線が目障りな国です。

 四日市の街に着いたのは午後3時過ぎ。 カメラ修理と昼食の時間を除けば14km弱を時速3.5kmで歩いたことになります。 カホルはいったん四日市に直行したあと、桑名に戻って市内を4kmほど徒歩で観光したようです。 今日は四日市市内のホテルに一泊します。 そうそう、ここまで来たからにははまぐりを食べずに帰るわけには行くまいと、インターネットで調べた桑名の丁子屋という店に行き、はまぐり尽くしの御膳を食べるつもりだったのですが、2人とも雨中の強行軍ですっかり疲れ果ててしまったので、ホテルの近くのレストランでお茶を濁す結果となりました。 でも、歩き終わって気が付いたら、カメラを壊してしまった精神的ショックで、脊柱管狭窄症の脚の痛さなど、どこかにすっ飛んでいました。

*:花魁 ( おいらん ) の部屋のことを見世 ( みせ ) と言い、見世のランクは置いている遊女の値段や評判で決まります。 江戸の吉原では最上級の見世を 「 大見世 」 といい、浮世絵に描かれるほどの高級な花魁がいました。 次が 「 中見世 」 と呼ばれるクラスで、規模も遊女の質も大見世より一段落ちます。 さらに、一分女郎 ( 料金が一分の遊女 ) だけがいる見世を 「 大町小見世 」、二朱女郎 ( 料金が二朱の遊女 ) が中心の見世を 「 小見世 」 と呼びました ( 「 二朱銀 」 二枚が銀一分に、八枚が金貨一両に相当します )。 従って一分以上払わねばならぬ遊女に対し、二朱女郎は 「 一段落ちる遊女 」 ということです ( もちろん、下には下がありさらにこの下が数段階ありました )。 さて、花のお江戸随一の遊郭吉原ではそうであっても、地方の宿場の桑名では同じ二朱でもずいぶんお金の値打ちが違います。 「 二朱は大金だ。 高い。 二朱もする女郎はあの鳥居同様、地方の宿場桑名には釣り合わぬほど高級だ 」 というのがこの文句の意味だと思います。


第32日
2009年10月27日(火曜) 四日市宿→近鉄内部駅 単独行 天候:快晴

 台風一過、今朝は快晴です。 今日は四日市からさらに先へと進みます。 旧東海道にピッタリ寄り添って走っていた近鉄の内部 ( うつべ ) 線は四日市の先6kmほどの内部駅で終点となります。 ここから先は次の石薬師の宿場跡の先でJR関西本線の加佐登駅に出会うまで、10km近くの間、街道の傍に電車は走っていません ( 三重交通のバスの便はあります )。 ですから、今日は内部駅で歩くのをやめ、次回、一気に内部駅から石薬師宿、庄野宿を抜けて亀山宿までの約16kmの山道を歩き、次の日に関宿かその次の坂下 ( さかのした ) 宿あたりまで歩こうと考えています。

 

四日市 ( 三重川 )
この絵は四日市宿の近くを流れる三重川 ( 三滝川 ) のあたりの様子で、二人の様子や柳の枝から、この地方の風の強さが分かります。  昨日撮った現在の橋の写真を並べました。

 今日は四日市を8:45にカホルと2人で出発しました。 旧東海道は、四日市市内ではアーケードの商店街になっていました。 一昨年旧東海道を歩き始めて以来、こんなことは、多分初めてではないかと思います ( この写真は昨日午後3時過ぎ、四日市到着時に撮ったものです。 今朝はまだうす暗く閑散としていたので )。 歩き始めてほどなく、崇顕寺というお寺の前に丹羽文雄生誕の地という石碑がありました。 そう言えば彼はお寺の住職の息子だと昔何かで読みました。 そうか、こんな所で生まれたのか・・・

 

 実は、今日は近鉄線内部駅まで午前中2時間弱歩いただけで ( カホルはさらにそのうちの半分ほどを歩くだけです ) 電車で四日市に戻り、近鉄の特急で松坂を経由して鳥羽に出ました。 ここでレンタカーを借りてさらに南下して賢島で今晩は泊ることにします。 以前から、一度は伊勢神宮や志摩半島を訪ねてみたいと思っていたので、せっかく四日市まで来たのだから、この辺りに2泊ほどして、永年の宿願を果したいと考えたわけです。 一泊した2日目に僅か6kmくらいしか歩かないというのは初めてのことで、ちょっと贅沢というか怠惰な感じですが・・・まあ、このウォーキングは言わば後期高齢者の道楽ですから許していただきましょう。

 とは言え、今日のこのたった6kmほどの短い区間にも、なかなか面白い見どころもありました。 鈴木薬局は、どっしりした連子格子の旧家で、なんと嘉永5年 ( 1852 ) に建てられた建物が現存しているのだそうで、4代目の先祖が寛永3年 ( 1750 ) に長崎に赴き漢方を伝授される以前から約300年にわたり薬屋の営業を続け、今も立派に薬局を営んでいるのです。 かの有名な 「 萬金丹 」 はここでも作られていたそうです。 この辺りの街道筋には、どういうわけか、老舗の和菓子屋さんが何軒も次々に現れます。 ガラス戸越しに見ると美味しそうなのですが、朝早いのためかどこもまだ開業前で、買えなかったのが残念でした。

 

 日永神社の先の日永の一里塚を見た所でカホルは南日永駅から四日市に戻り、私ひとりでさらに歩を進めます。 この一里塚 ( ここは100番目の一里塚・・・ということは江戸から400km・・・と言う事は全行程の80%来たということです ) の先には日永の追分があり、ここは左に行くと伊勢参宮道、右に行くと東海道という分岐点です。 伊勢神宮の二の鳥居があります。

 

左:伊勢神宮に参る旅人はここで東海道と別れます。 右:京大阪に向う旅人はここでお伊勢様に向って拝んだのでしょう。

 カホルと一緒にゆっくり歩いたの前半は ( おもちゃのような小さな ) 電車で7分 ( 途中の駅の数は2 ) の距離を1時間近くかかってしまったので、後半は電車で9分 ( 途中の駅の数は3 ) の距離を30分で駆けるようにして歩き、予定の10:35内部駅発の電車に汗だくでやっと間に合いました。 今日も幸い脚は痛くなりませんでした。

 

近鉄内部線の終点の駅で。 線路の幅は通常の1067mmよりさらに狭い ( 762mm ) おもちゃのような電車でした。

 余談になりますが、私たち夫婦が伊勢の国 ( 三重県 ) に来たのはこれで2回目です。 ここは地理的には近畿に入るのかも知れないけれど、文化的には東海地方の一つだと感じました。 紀伊半島の県の中では奈良は京都につながり、和歌山は大阪につながっているように思います。 所が、三重は背後は険しい山で他県と隔てられているのに、前方は平地や伊勢湾を介して名古屋と密接につながっているんですね。 もっとも、三重県も西北部の奥の方に入って行くと、言葉も文化も意識も近畿的になるみたいです。 これから歩いて行くと分かることでしょうが、関の宿場から鈴鹿峠にかけてが、まさに両者を分ける関所なのかという気がしています。

 クイズですが、三重県はいくつの府県と接しているでしょうか ? ( 回答はこのページの最後 ) これは京都府、福島県と並んで全国2位です。 驚くほど多いですね。 全部を挙げるのは結構難しいですよ。

 余談ついでにもう一つ。 東海道線 ( 在来線と新幹線 ) と高速道路 ( ここでは名神 ) は名古屋から西北に上がり、岐阜、大垣などを通って琵琶湖東岸の米原に出るのですが、東海道 ( 旧東海道と国道1号線 ) は、名古屋からいったん南西、更に西南西に下がり、四日市、亀山などを通って関で一転西北に向きを変えてから鈴鹿峠を越え、まっすぐに琵琶湖南端の草津に出ます。 東海道線と東海道はこの区間で互いに最も遠く離れてしまいます。

 次回のそのまた次くらいには、旧東海道3大難所の内の最後の一つであるこの鈴鹿峠が待ち受けています。 冬将軍が来ないうちに年内にここを越さないとなりません。 鈴鹿峠の標高はたった357mですが、滋賀県側は比較的なだらかなのに、こちらの三重県側は急な登り坂で、現在でも国道1号線の箱根に次ぐ難所と言われています。 明治の国鉄東海道線は ( 昭和の名神高速道路や東海道新幹線の建設も )、上述のようにここを避けてずっと北の岐阜、大垣、米原の方に迂回したのです。

 そうなってしまった歴史的・地理的・政治的な理由については、幾つもの説がありますが、長くなりますのでここには書きません。 一つだけ挙げますと、徒歩なら 「 京から鈴鹿越え+桑名熱田間は舟 」 というコースだと、熱田まで3日で着いたのに、美濃 ( 岐阜県 ) 周りだと5日もかかった上に、冬季は ( 今でもそうですが ) 関ヶ原付近の積雪の問題があったからだそうです。 つまり、鈴鹿越えの方が歩くにしても列車を通すにしても有利なのです。 しかし、明治時代は列車を海上や海底を通すことなど考えつかないし、鈴鹿峠の勾配もきつかったので北に迂回したのだという説があります。







クイズの解答: 答えは6つです。 愛知、岐阜、滋賀、京都、奈良、和歌山です。 ( 最も多いのは長野県の8です。 気が向いたら調べてみてください )

第33日
2009年11月8日(日曜) 近鉄内部駅→JR井田川駅 単独行 天候:快晴

前回桑名から内部駅まで歩いた後、まだ2週間もたたないのに、またこの伊勢の国に来てしまいました。 内部駅から先は、内部駅 ( 5.7 ) 石薬師 (4.3 ) 庄野 ( 9.1 ) 亀山 ( 5.9 ) 関 ( 6.6 ) 坂下( 鈴鹿峠登り9.8 ) 土山 ( 11.0 ) 水口と続き、近江の国に入って行きます ( カッコ内は宿場間の文献記載の距離 km ) が、このうち、街道筋に宿泊施設があるのは亀山、関、水口のみですし、赤字の区間はそばに電車が通っていません。 バスの便すら稀な区間がほとんどです。

 ですから、よく練った計画をたてて臨まないと、私の体力が尽きたあたりで進むことも退くこともできず、身動きが取れなくなってしまう可能性があります。 確かに、鈴鹿峠周辺は現代でも指折りの難所です。 そこで、いろいろと思案の結果、次のようにしました ( 1、2日目の距離は詳細な地図上で実測したもの )。 この間、土山と関の町の観光担当の方に電話し、、コミュニティバスの時刻表、宿泊施設等、多くの資料を送ってもらい大変役に立ちました。 この場を借りてご親切な対応に感謝します。

1日目:内部駅 ( 14.1km ) 関西本線井田川駅→電車で亀山に行き一泊

2日目:朝電車で井田川駅に戻り、井田川駅 ( 6.1km ) 亀山 ( 6.2km ) 関→電車で亀山に戻り一泊

3日目:朝電車で関駅に行き、関 ( 6.6km ) 坂下。 タクシー ( 10分 ) で関に戻りいったん帰宅

4日目:自宅から関駅に行き坂下までタクシー。 鈴鹿峠を登って土山まで ( 9.8km )。 バスで水口まで進み一泊

5日目:朝バスで土山に戻り土山 ( 11.0km ) 水口。 近江鉄道で米原に出て帰宅

 健康で若い方が見たら 「 なんとまあ軟弱で贅沢な・・・ 」 と呆れることでしょうが、77歳で脊柱管狭窄症を抱えた私としては、まあ精いっぱいというところです。 このところ毎回1日に16kmから18kmも歩いてみましたが、やはり翌日以降の疲れがひどく、あまり無理をしない方がよいとカホルがたしなめるので、それに従うことにしたわけです。

 

左:石薬師 ( 石薬師寺 )、右:庄野 ( 白雨 ) 何度も申しますが、昔の旅人は本当に大変でしたね

 最初に、今回歩いた区間にあった7つの一里塚 ( 本物、復元物、単なる跡地を示す碑など ) の写真を掲げます。




上から順に采女 ( 101里 )、石薬師 ( 102里 )、中冨田 ( 103里 )、和田 ( 104里 )、野村 ( 105里 )、関 ( 106里 )、坂下一ノ瀬( 107 里 )

 という次第で今日は内部駅から井田川駅までの14.1kmです。 途中、石薬師と庄野の2つの宿場を通ります。 早朝6時過ぎに家を出て新幹線で名古屋、更に近鉄四日市から例の線路幅僅か762mmという内部線に乗り20分弱、内部駅から歩き始めたのが9:40でした。 前回、街道筋に美味しそうな和菓子屋さんが沢山あったのに開店前で買えなかったので、今回はインターネットで調べたら出てきた菊屋本店という店の 「 采女の杖衝 ( うねめのつえつき ) 」 という もなか を早々に買い求めました。 夕方ホテルで食べたら笹井屋のなが餅に負けない美味でした。

 

 旧街道が国道1号線の右側から左側に移り、少し歩くと杖衝坂 ( つえつきざか ) の急勾配の登りにさしかかります。 古事記の伝えによると、日本武尊が東征の帰途、疲れ果ててこの地を通った時、腰の剣を杖にして歩いたので杖衝坂というのだそうです。 その後芭蕉翁もここを通っとき 「 歩行 ( かち ) ならば 杖つき坂を 落馬かな 」 と詠みました。 坂の途中にその句碑があります。 「 杖をつき歩いて登ればよかったものを、なまじ馬に乗ったものだから落馬してしまった 」 という事らしく、この句は彼の俳句の中では季語がない事で有名なのだそうです。 

 その後采女の一里塚を見て石薬師の宿場に入ります。 ここは歌人で万葉集の研究者でもあった佐々木信綱の生誕地だそうで、街道沿いの家々にその和歌が書かれたパネルが貼られていました。 和歌に関心の薄い私はこれまで彼の名前くらいしか知りませんでしたが、生家跡の記念館を見学して、彼の学者としての立派な業績を理解できました。 また、「 卯の花の匂う垣根に ほととぎすはやも来鳴きて・・・ 」 という小学唱歌 「 夏は来ぬ 」 が彼の作詞だという事を知りました。

 

 宿場の名前にもなった石薬師寺というお寺があるので、拝見しましたが、ここは、私が最近訪れたお寺の中では最も美しいたたずまいのお寺の一つでした。 参勤交代で通りかかった大名たちは、旅の安全を祈り、この寺に必ず参ったそうです。

 

 加佐登 ( かさど ) 町に入る辺りに石薬師の一里塚跡があり、ここで四日市の宿場以来お別れしていた関西本線の線路も再び現れ、これから先は旧東海道に沿ってまた電車が走ることになります。 所が、ここが難所で、江戸時代の旧東海道は一部消えてしまい通行不能で迂回を要するのですが、インターネット上の権威のありそうな資料でも、或る迂回ルートを教える人が2人、違うル−トを唱える人が1人、一方では迷ってしまって右往左往した人が2人、という有様。 私は多数決で2人の教えるルートを歩くことに決めていました。 ところが、実際に歩いてみたら、現在は親切な道標が各所に設けられていて、迷う可能性はほとんどなくなっていました。

 旧東海道は国道1号線とも合流したりまた離れたりしながら、やがて次の庄野の宿場跡に入って行きます。 ここもまた、石薬師宿同様、小さな宿場だったようです。 全部で五十三ある旧東海道の宿場の内、最後に五十三番目に作られた宿場だそうです。 今も連子格子の古い家が残り、車も少なくひっそりとした町でした。 資料館には江戸時代の本物の高札が3枚掲示されていました。 私は今まで、複元されたものはあちこちで見ましたが、本物は初めてで、驚き感動しました。 板は風雨で摩滅し、墨の文字が盛り上がっています。 文体と字体はまさに江戸時代のものでした。


 女人堤防碑などを過ぎ、井田川駅で今日のウォーキングは終了です。 14.1kmと、ちょうど私には手ごろな距離だったことと、なんと言っても、この駅が旧東海道に接している事が選択の決め手でした。 とはいえ、「 関西本線 」 と、本線を名乗っているのに、1時間に1本しか電車が来ないのです。 予定の時間通りに歩けて14:01発の快速亀山行に余裕をもって乗れたのは幸いでした。 こんな何もない無人駅で1時間も待たされたら、汗だくの体は風邪をひいてしまったかも知れません。 亀山駅で降りて駅前のホテルにチェックインし、シャワーを浴び着替えてから、家を3時間後に出て到着したカホルと合流し、亀山城址や亀山の宿場跡を見て回りました。 ここで市内を3kmほど歩きまわったので、今日は総計17kmほど歩いたことになります。


第34日
2009年11月9日(月曜) JR井田川駅→亀山宿→関宿 単独行 天候:晴

 亀山もきれいな街ですが、関の宿場跡 はとても素晴らしいですね。 古い家並みが200軒ほども保存されています。 旧東海道で唯一、国の 「 重要伝統的建造物群保存地区 」 に選定されているのだそうです。

 今朝は早起きして7:52亀山駅発の電車に乗り、井田川駅に8時前に着きました。 ここからまた昨日の続きを歩いて亀山宿を抜け、関宿まで、計約14kmを歩きます。 井田川駅の辺りには以前は立派な松並木が残っていたのだそうですが、第二次大戦の末期に航空機燃料用に松根油を採るため、全て伐採され、一本しか残っていません。 和田の一里塚はなくなってしまったものが復元されていました。

 現在ではシャープの液晶工場で有名ですが、亀山と言えば昔からローソクという事になっています ( ご存じの方はご存じだし、知らない人は知りません )。 でも、全国の生産量のほぼ半分のローソクが、この旧東海道沿いの 会社の工場 で生産されているのです。 余談ですが、結婚式で定番となっているキャンドルサービスを1970年代初めに生み出したのも、大阪に本社のあるこの会社なのだそうです。


亀山 ( 雪晴 ) 亀山の町は今でも起伏、斜面の多い町です。

 その後間もなく道は亀山の市内に、ということは宿場跡に入るのですが、例によって右に左に何度も曲がります。*1 家々には往時の家業の名が掲示されています。 右手には昨日ゆっくり見学した亀山城址があります。


 この先、旧東海道は黄色っぽい歩きやすい特殊な舗装になっており、迷う心配もなく快適でした。 市内を抜けると間もなく野村の一里塚があります。 この一里塚には通常の榎ではなく椋 ( むく ) の巨木が植えられており、大変立派な姿が遺されていました。 しかし写真を撮ろうとしたらそばの歩道に近所の人たちが何台も車を不法に駐車していて、それを避けて撮る良いアングルが見つからず、腹が立ちました。 史跡の付近は訪ねてくる全ての人たちのための大切な空間でもあると思います。

 長い退屈な道をしばらく歩いた後、巨大な名阪国道の高架の下をくぐると、右手には大きな工場地帯があり、シャープのほか、凸版印刷、住友金属鉱山、イトーキなどの大工場、また、それらを訪れる人たちのための多くの大きなビジネスホテルが建ち並んでいます。 そして間もなく道は次の関の宿場に入って行きます。 その名の通り、古くからこの町には鈴鹿の関、つまり関所がありました。*2


左:関宿 ( 本陣早立 )

 10時40分に関宿の中心部に着き ( 時速4km )、電車で来たカホルと合流し、軽食のあと静かな宿場跡を拝見して回りました。 「 関まちなみ資料館 」、大旅籠 「 玉屋 」 を始め、江戸時代末期に建てられた町屋建築が数百mも建ち並んでいる様は壮観です。 町じゅうが昔の宿場跡をしっかりと保存しようと努めていることが分かります。


 この種の展示館はどこの宿場でもたいてい月曜日が休みですが、今月は月曜も休まず開いていました。 それほど沢山の見学客が連日訪れるという事なのでしょう。 でも、午前中のせいか、それとも月曜日は展示が休みだと皆が思っているためか、今日は人出が少なく、静かな町並みが撮れて幸運でした。 気持ちの良いことに、ここでは街道筋から電柱、電線が一掃されて建物の背後に移されているので、なお一層、江戸時代の街並みらしさが感じられます。 写真を撮っていて空に電線が走っていないというのは、実に素晴らしい快感です。  しかし、時たま見かける観光客の不法駐車の車や轟音を立てて走る二輪車は不愉快でした。


 カホルと2人でこの素敵な町を丁寧に観た後、電車でまた亀山に戻り2泊目です。 今日は見学観光も含めれば約16km歩きました。

*1:城下町特有の曲尺手 ( かねんて ) という工夫で、敵の一気の侵入を防ぐ軍事上の工夫であると共に、参勤交代の大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていました。

*2:古代の日本で畿内周辺に設けられた関所の内、特に重視された三つ、すなわち鈴鹿の関所 ( 伊賀の国 ) のほか、愛発 ( あらち ) の関所 ( 越前の国 )、不破の関所 ( 関ヶ原=美濃の国 ) の3つを三関 ( さんげん、さんかん ) と言いましたが、9世紀初頭に相坂 ( おおさか ) の関所 ( 近江の国 ) が愛発の関所に代わりました。 これらより西側が関西です。

第35日
2009年11月10日(火曜) 関宿→坂下宿 単独行 天候:曇

 前々回も触れたように、関の宿場から坂下 ( 昔は阪之下と言った ) の宿場を抜け、鈴鹿峠の坂道を登って土山の宿場までの17.6kmを一気に歩くことは、私の体力にとっては無理なのですが、中間点のふもとの坂下宿跡には宿泊できる宿がありません。 頭を悩ませた挙句、結局選んだのは、とにかく鈴鹿の登りは坂下から土山までの9.8kmに限定するという案で、そうとなれば坂下で一旦歩くのをやめて関の町にに戻るしかありません。 坂下は江戸時代はなかなか栄えた宿場でしたが、今は本当に小さな集落で、関との間にはバスが朝夕数本通うだけです。 これが利用できない場合はタクシーを呼ぶほかに関に戻る手段すらありません。

 朝8:09にJRの関駅に到着、500mほど北を走っている旧東海道に出て歩き始めたのは8:20でした。 ここから坂下宿までは緩い登り道ですが、今日の目的地の鈴鹿馬子唄会館までは僅か6kmあまりです。 前半は大型トラックの交通量の激しい往復各1車線しかない国道1号線 ( そう言えば箱根もそうです ) と重なりますが、後半は別れて、静かな旧道をゆっくりと歩くことができます。 途中には文字通りの過疎の小さな集落がありました。

 

左:坂下宿 ( 筆捨嶺 )  昔、狩野元信があまりの美しさに絵もかけないといって、筆を捨てたからだとか、いや翌日続きを
描こうとしたら雲に隠れてしまったので、描くのをやめたからだとか、諸説ある 「 筆捨山 」 は、現在は岩根山という名です。

 鈴鹿馬子唄・・・「 坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山 雨がふる 」 という歌詞で始まります。 ふもとの坂下宿は晴天、途中の鈴鹿峠は曇り、峠を越えた土山宿は雨という内容なので、きっと天候の変りやすい地方なのだろうと考え、お天気の急変も心配でしたが、幸い雨は降りませんでした。 それにしてもこの辺りは何もないですね・・・実はそこがまた良いのですが。 「 途中のコンビニで弁当を買って・・・なんて考えていたら飯を食い損なう 」 と誰かが書いていましたが、全くその通りです。 そういう意味でもまた、現代では難所の一つです。

 

 予定通り1時間20分で 鈴鹿馬子唄会館 に到着。 ここまで歩いておけば、次回の鈴鹿峠越えは楽でしょう。 馬子唄会館と、その隣にある 「 鈴鹿峠自然の家 」 を参観しました。 自然の家は昔 「 坂下尋常高等小学校 」 だった所で、木造の校舎は私が小学生だった頃の典型的な小学校の建築です。 だれ一人いない広い校庭にたたずむと、何とも言えない郷愁のようなものが胸に迫ってきました。

 

 この建物は現在耐震対策工事中でした。 小中学生などの宿泊研修施設として活用されていて、夏季などは申し込みが殺到するとのことです。 関からタクシーに乗って上がって来たカホルが 「 この校庭には桜の木がない 」 と言っていましたが、確かに立派な もみじ と いちょう はありましたが、どこの校庭にもある桜の木は見当たりませんでした。 その後、2人で坂下宿跡の入口まで徒歩で往復しました。 これで次回は坂下宿跡を起点に歩くことになります。

 という事で、今日はこのあとタクシーを呼んで関に戻り、いったん家に帰りました。 年内に雪が降らないうちにここに戻って来て、鈴鹿峠越えに挑めるのか、それとも来年の春に雪が消えた頃、やってくることになるのか・・・そうそう、私たちが午後早く亀山市を去る頃、雨が降り出しましたが、その後すぐに大雨になったようです。 お天気の面でも、快晴−晴−くもりでしたし、脊柱管狭窄症の方も、3日とも、歩いている途中ちょっと痛いなと思ったりもしましたがそのうちに自然に治ってしまいましたし、今回の3日間の旧東海道歩きは実に幸運でした。

坂下宿以降はここをご覧ください。

 この続きは毎回書き加えて行きます。

ご感想、ご意見、ご質問などがあれば まで。