東海道五十三次を歩き続ける

この調子なら京都まで歩きとおせるかな?と思えて来ました



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目次

箱根湯本三枚橋→元箱根  元箱根→三島宿  三島宿→原宿  原宿→富士駅裏

富士駅裏→由比宿  由比宿→江尻宿  江尻宿→府中宿

 日本橋から箱根三枚橋までは、このページに戻ってご覧下さい。  府中宿から袋井宿まではこのページに進んでご覧下さい。

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第9日
2008年2月4日(月曜) 三島宿→原宿 参加者:男4名+女2名 天候:晴

 昨年12月に箱根湯本に着いたので、今回は引き続き箱根の登り道を踏破すべきところでしたが、1月21日は積雪のため延期したら翌週もまた降雪・・・という次第で、 激論?の結果、箱根越えは春まで延期と致しました。  もし私たちが20歳代でしたら、ためらわずに登ったことでしょうが、なんせ平均年齢六十?歳、最高齢はこの私の七十五歳、急坂や石段で滑って転んで骨折・・・は十分あり得ることです。 やめておきましょう。  そうかと言って、春になるまで歩かずにいては、折角の気力が萎えてしまいます。  気分的にイヤだというもっともな意見もありましたが、2月 ( と3月 ) は箱根を越えた先の三島以遠を歩いておき、雪がなくなったら戻って箱根越えを実施しようということになりました。

 というわけで、今日は三島から原までの12km。 今日から新しく参加することになった女性3名を加え、一行はだいぶ賑やかになる・・・はずでしたが、それは次回以降になります。 小田原からJR東日本で熱海まで。  そこでいったん乗り換えてJR東海で三島に向かいます。 便利な Suica も熱海以遠なので使えません。 国鉄民営化は今になってみると、本当に良い、正しい決断だったと思いますが、分社化によるこういう不便さは頂けませんね。

 JR三島駅から伊豆箱根鉄道にひと駅乗って三島広小路駅まで行けば、そこが旧東海道 ( 県道145号線 ) なのですが、旧宿場の本陣跡や問屋場跡を見たいので、1.5kmほど余計に歩くことにはなりますが、 三島大社 ( 浮世絵に鳥居が描かれている ) まで歩き、境内を抜けて145号線に出ました。 大社では今年1年の我々のウォーキングの無事安全を祈願しました。  初回を除くと、今までは、しばしば旧道に入りながらも国道1号線の上を歩くことも多かったのでしたが、今回は1号線にほぼ平行に歩いてはいるものの、一度それを横切っただけで、最後まで1号線上を歩かず、 県道から県道へと歩き続けました。

 今までの8回のウォーキングで私が理解できたことは、国道1号線と旧東海道とが別である部分というのは、旧東海道のうちの江戸時代の繁華街 ( 宿場の本陣付近など ) だった部分であり、 そこは狭い旧東海道の両側に宿屋や商店が江戸時代から既に立ち並んでいて、明治以降道幅を広げるのが困難だった地域 ( たとえば小田原市の浜町のあたり ) だということです。 そういう部分では、少し離れた人家のなかった部分に広い国道1号線を新設したのだと思います。  もう一つ、旧東海道が非常に勾配の急な坂道である部分 ( たとえば二宮町の押切坂 ) や、両側が崖や峡谷や海岸でこれ以上道幅を広げられない部分などでは、時には崖を切り崩したりトンネルを掘ったりしながら国道1号線を少し離れた所に新設しています。

 他方、旧東海道でも平坦で辺鄙だった部分では、道の両側があまり人家もない田畑や荒地なので、旧東海道をそのまま道幅を広げて国道1号線にできたのでしょう ( たとえば茅ヶ崎市の一里塚のあたり )。  これが旧東海道と現在の国道1号線とが重なっている部分であるようです。 以上は私のまったく個人的な解釈ですが・・・

 その上を歩かせていただいておきながら、こんな事を申しては済まないのですが、今日のコースはあまり面白くありません。 三島宿はそうではないのですが、沼津の宿と原の宿には、残された古い石仏や石碑や説明の立札など、 往時を偲ぶ物が街道沿いに殆どないからです ( 川崎宿もそうでした )。 やはり、その自治体の過去の歴史や遺産に対する関心の度合いの差のような気がします。 それでも三島宿を中心に幾つかを写真に収めました。  特に、左の写真の、三島と沼津の間に位置する清水町の玉井寺の一里塚は、江戸時代のものがほとんどそのまま残っている貴重なものでした

   

 そういうわけで、沼津から原にかけては、両側に住宅がどこまでも並ぶ単調な道をひたすら歩くだけでした。 本当は左側に目をやればあの美しい千本松原が見えるはずでしたが、近年の急速な宅地化で、それはほとんど見えなくなっています。  しかし右側には、今日は快晴なので、愛鷹山塊の背後に、前日の大雪でひときわ美しく化粧した 「 真白き富士 」 の姿が見える・・・はずでした。 が、何と言うことでしょう!  そこだけ、モクモクと湧いた厚い雲にさえぎられ、富士山は全く見えないのでした。 次回の原から先の行程の時は、必ず見るぞ!

   

 今日は計14km近く、23,500歩を約4時間で歩き、JRの原駅から電車に乗って帰って来ました。

第10日
2008年2月18日(月曜) 原宿→富士駅裏 参加者:男4名+女4名 天候:快晴

 前回と同じく熱海でJRの電車を乗り継ぎ、原駅で下車。 今日は人数も多くにぎやかです。 駅から200mほど北に歩いて旧東海道に出て西に向かい、むかし原宿 (*1) の在ったあたりを歩き始めたのが10時5分前。  この道は、前回も今回も、両側に比較的最近建てられたと思われる住宅が一面に立ち並んで視界を遮り、右手の富士山も左手の千本松原もよく見えないという、我々の身勝手な立場からすれば非常に残念な状態です。  両側の住宅の列と足下の舗装道路とでできた 「 樋 」 の中を歩いているようです。 富士山の方は、それでも背が高いので、「 樋 」 の右側の縁越しにときどき、どうにか上半分が見えますが、昔は下の裾野まで全部見えて、さぞかし美しい景色だった事でしょう。  歩きながら見とれて小石に躓いた旅人も、きっと居たに違いありません。

 ところで 「 今日こそは! 」 と期待していた富士山ですが、今日は何と360度見渡しても一点の雲もない快晴! 愛鷹山塊も富士山も、心行くまで眺められました。 しかし上記の立ち並ぶ家々よりももっと残念なのは電線です。  日本人はなぜこうも無神経なのかと悲しくなるほど、電線はどこまで行っても街じゅう一面に醜悪に張り巡らされていて、電線や電柱のない富士山を眺め、写真を撮る事はまさに至難の業でした。

   



 この辺りは江戸時代は葦の茂る湿地帯だったようですが、生活苦にあえぐ農民たちを救おうと、鈴木助兵衛、増田平四郎、高橋勇吉など何人もの人たちが身命を賭し私財を投げ出して海に水を流す放水路を作って干拓し、 水害を防ぎながら新しい田を作りました。 彼らの功績をたたえる碑が、今も沿道に残っています。 東田子の浦駅付近の海沿いには 「 ○○新田 ( しんでん ) 」 という地名が7つほど連続して現れます。  また、街道沿いのところどころには古い神社や寺があり、境内には江戸時代の年号がはっきりと読み取れる庚申塚や石仏群が残っています。

   


 二つ目のJRの駅吉原を過ぎるあたりで、今まで海沿いにまっすぐ単調に伸びていた旧東海道は右に曲がって北上します。  田子の浦港を左手に見て新幹線と国道1号線の下をくぐったあたりが今回の旅で2回目の 「 左富士 」 の名所です。  もちろん、廣重は左富士の浮世絵を残しています ( 上右の絵参照 )。 この見事な遠近法の絵を見ながらふと想像したのですが、この辺りも昔は一面葦 ( よし ) の生えた湿地の原野だったので吉原という地名になったのではないでしょうか?  田子の浦港のそばにも田島新田という地名がありました。 それにしても昔の東海道は細くて、両側には湿地帯以外何もなかったのですね。 でも、この浮世絵のような美しい自然の中を、一度でもいいから歩いてみたい!  現在は 「 左富士 」 ではなく、「 左右工場 」 です。

 その先に進むと 「 富士川の合戦 」 の折、飛び立つ水鳥の群れの羽音に驚いて平家の兵士たちが逃げ出したという平家物語に記載のある場所に出ます ( たぶん作り話 )。  富士側の下流は昔はいくつにも分かれ、こんな東の方にも流れていたそうです。 この辺りが旧吉原宿の在った所のようです。

 岳南鉄道を横切り吉原の町の商店街に入ると、この辺りが、度重なる水害 ( 田子の浦の地形に因る高潮らしい ) を避けて北へ北へと移っていった吉原宿の最後の立地場所だったと言われています。  商店街もそれをセールスポイントにして宣伝しています。 この商店街の一角に、天和 ( てんな ) 2年 ( 1682 ) 創業の 「 鯛屋與三郎 」 という古〜い歴史を持つ旅館を見つけました。 なんと326年続いているのです!(*2)  その昔は清水次郎長の定宿でしたし、山岡鉄舟もしばしば泊まったそうです。 かつての本陣から譲り受けたという、参勤交代の大名が泊った頃の歴史的な資料が館内に飾られています。

 吉原から富士にかけては製紙工場がこれでもかこれでもかというほど次々に現れ、以前よりずっと程度は軽くなりましたが、街のところどころに妙な悪臭が漂っているし、煙突からは白い煙がモクモクと上がっています。  これはたぶんただの蒸気であり、無害なのでしょうが、そうだとしても随分と熱を無駄に放散し続けているように思えてなりません。  この町で遅い昼食を食べた後も、旧東海道を外さないよう細心の注意を払って地図 ( 予めインターネット上の幾つかの報告を読み比べて確定したもの ) と睨めっこしつつ、何度も何度も右へ左へと曲がりながら、 私たちは遂にJR富士駅の北側400mほどの交差点に達し、ここで今日の行程を終えました。 私たちにしては結構長い距離の約16kmを27,000歩、4時間 ( ほかに昼食、休憩、見学等で1時間半 ) で歩きました。  考えてみると、今日も1号線はの上は一歩も歩きませんでした。 次回はこのJR富士駅から蒲原を抜けて由比まで歩きます。 サクラエビのかき揚げを今から楽しみにしています。

(*1): 静岡県は東西の幅が実に広いですね。 東海道五十三次と言いますが、両端の京都の三条大橋と江戸の日本橋を除いて53ということです。  そのうち、22 ( 41.5%! ) が静岡県に在るのです。  東から順に伊豆の国の三島、駿河の国の沼津、原、吉原、蒲原、由比、興津、江尻、府中、丸子、岡部、藤枝、島田、そして遠江の国の金谷、日坂、掛川、袋井、見付、浜松、舞坂、新居、白須賀です。  五十三次を歩ききるのは、やはり相当大変なことのように思えてきました。 これからは歩く場所まで往復するだけでも時間と電車賃が大変になってきます。

(*2): 宿泊料は素泊まり¥3,500〜、1泊2食付¥5,300〜。 もちろん現在の建物は築後50年程だそうです。

第11日
2008年4月21日(月曜) 箱根湯本三枚橋→元箱根 参加者:男3名+女4名 天候:快晴

 今回は箱根の上りです。昨年12月に箱根湯本の三枚橋まで着いたあと、今年1月に箱根の関所跡まで上ろうとしたら、直前に数回の大雪に見舞われてしまいました。 当然「 75歳2名をはじめ、ご老体が多いのに、雪や氷で滑りやすい真冬に天下の険箱根を越えるというのは、安全面でいかがなものか 」 という疑義が出ました。

 討議の結果、急きょ予定を変更して真冬でも温暖な三島から先を歩いておくことにし、2〜3月に2回かけて三島から富士までを歩いたところで、改めて雪のなくなった新緑の箱根八里の上り下りに挑戦となったわけです ( 実は3月はもう1回かけて更に先の 「 富士から由比まで 」 を歩くはずでしたが、月曜日ごとに雨という週が4回も続き、何回順延しても結局実現できなかったのでした )。

 小田急線で箱根湯本に行き、500mほど戻って三枚橋から出発したのが午前9時、この道は、地元でも 「 箱根旧街道 」 と昔から呼ばれている通り、まさに昔からの旧東海道です。 箱根湯本から塔ノ沢、宮ノ下などを経て上がってゆく、正月の大学箱根駅伝でお馴染みの現国道1号線とは大きく離れており、まったく違う道です。

 湯本温泉郷の裏側に入り、なだらかな、しかし車がやっとすれ違えるほどの細い舗装された県道732号線を上がって行くと、両側に並ぶ大小の温泉旅館の家並みがやがて途切れるあたりで、奥湯本と呼ばれる地域に入ります。

 この辺りから道幅は少し広くなり、右下には須雲川が見おろせ、左上には自動車専用道路 ( 箱根新道 ) が通っています。 さらに進むと、旧東海道は県道 ( バス道路 ) からときどき外れて、 狭くて急な石畳の坂道や階段に変わり、またバス道路に戻ったりもします。 日陰の部分にも、もう積雪は残っていません。 それどころか、辺りは芽吹き始めた木々の新緑で一杯なだけではなく、平地より高いので、4月下旬だというのに上に行くほどに山の斜面に自生している何種かの桜 ( もちろん染井吉野ではない ) が満開です。

 今日は途中のお寺の拝観も出来るだけ省略しながら約2時間で畑宿に着きました。 畑宿は間宿 (*1) の一つです。 宿場を出たところに一里塚があり、 これは近年再建されたものではありますが、今まで見た中で一番立派で、かつ、往時の面影を一番忠実に示しているもののようです。

 寄木細工の製造で有名なこの畑宿までは、それでも8割ほどは広い県道を歩きましたが、ここを過ぎると逆に殆ど全部が狭い昔の石畳の道になります。 石畳のなかには本当に江戸時代から残っているものもあるし、近年造成された部分もあります。 皆は途中、杖になりそうな棒を拾って杖として使っていましたが、( どこかの国の大臣ではないが ) 「 友達の友達 」 が畑宿の寄木会館で仕事をしていて、彼が上手に棒の長さを切りそろえてくれ、それ以降は非常に使い良い杖となって役に立ちました。

 道端にある解説の立札によると、石畳のない江戸時代初期には雨の日などは膝まで泥濘に沈むような悪路だったそうです。 しかし、参勤交代 (*2) の大名行列さえ通るというのに、いくら何でも・・・ということで、 笹を伐ってきて敷いたのですが、それでも駄目で、結局幕府が全長を石畳の道に舗装したのだそうで、いわば当時の最新のインフラ整備だったわけです。

   

昼なお暗き天下の険の石畳路も、若葉の季節は時に明るく美しい。

 それでもまだまだ箱根は危険な道でした。 「 女転し坂 」 は 、馬に乗って越えようとした女性が、急坂で転んだ馬から振り落とされ、打ち所が悪く亡くなったためにつけられた名前だそうです。 念のため申し添えますが、転し坂はコロバシザカやコロガシザカではありません。 恐ろしいことにコロシザカと読むのです。 この坂だけは 関東大震災で崩れてしまい現在は通れませんので迂回します。 その先には巣雲川の渓流に渡された狭い板を歩くような部分もありました。 この旧東海道には他にも 「 座頭転ばし 」 とか 「 猿滑り坂 」 とか、いろいろな急坂や急階段があり、特にく苔むし露を含んだ丸味のある石畳はよほど気をつけて歩かないと、滑りやすくて大怪我の危険があります。 たった150年前にはこんなのが幹線道路だったのです!

 自動車が行き交う箱根新道の端を歩いたり、七曲りの自動車道の上に架けられた石畳敷きの橋を渡ったりしながら、ついに両側を有名な杉の並木に挟まれた道に達し、ほどなく元箱根に着いたのが午後3時。 約12km、標高差700m近くを5時間 ( 休憩時間を除くと4時間15分 ) で登り切りました。 誰一人転ばず、怪我もせず、弱音も吐きませんでした。 インターネットに出ている30〜40歳の人たちの記録を見ても、すべてこの程度の時間を要しています。 50代から70代までの男女メンバーも、元気に歩ききった自分の体力に自信を深めたようで、その点でも今回は大成功でした。 急坂を登っても全く苦しくなかった私も、冠動脈拡張処置の好成果を改めて自覚でき、嬉しい一日でした。 いよいよ次回はここから三島までの箱根くだりです。

(*1): 間宿 ( あいのしゅく ) とは、宿場間の距離が長い場合や、峠越えなどの難路を前にする場合に、宿場と宿場の間に自然発生的に成立した休憩用の宿場のことで、 公的には宿場と認められていないため、旅行者の休憩のみに用いられ、宿泊は禁止されていたと言います。 今まで通ったなかでは二宮、これから訪ねる所では富士側の西の岩淵などがこれです。

(*2): 参勤交代については、 ここを読むと非常に面白い し、物知りになれます。

第12日
2008年5月4日(日曜) 元箱根→三島宿 単独行 天候:曇のち晴

 毎月、第3か第4月曜日に歩くことを原則にしているのですが、メンバー全員の都合がいつも一致するとは限りません。 今月は私だけが第3月曜日に都合がつかず、結局、今回の元箱根から三島までの降りについては、私の東海道五十三次の旅としては初めての 単独行 となりました。 江戸時代だって心細い一人旅の旅人は沢山いたはずですし、負け惜しみではありませんが、これもまた一興でしょう。

 単独行ですので、自分の都合と天気予報を見比べながら直前に好天の日を選んで歩けるという利点もあります。 『 善は急げ 』 というわけで、5月連休中、天気予報を睨みつつ晴の日を狙って早朝飛び起き、まだ観光客たちが到着する前の小田原駅発7時45分のバスに乗り、元箱根で降りて歩き出したのは9時でした。 独り歩きのもう一つの利点は、同行者のペースを気にせずマイペースでグイグイと歩けることです。 私の場合、一人だと平地なら時速5.2kmで歩きますが、グループだと時速4km前後が従来の実績です。

 石畳というと東坂 ( 箱根湯本−箱根関所間 ) のものが良く知られていますが、西坂 ( 箱根関所−三島間 ) にもたくさんあります。 箱根関所跡の少し先から846mの最高地点箱根峠にかけての神奈川県側の上り坂にも、またその先の静岡県側の十数年前に整備復元された下りの坂にも、あちこちに石畳の旧道が残っています。 西坂には後者の 三島市により発掘改修された石畳 が多いのですが、時には江戸時代に敷設された石の上を踏みしめることも出来ます。

   

 西坂は全体としてはもちろん標高差820mほどの 「 だらだら下り 」 ですが、時には急な上りや下りもあります。 おおむね現在の国道1号線の自動車道路に沿い、離れたり近寄ったり横切ったりしながら、主に尾根伝いに歩きます。 道標も整備されているしインターネットで十分調べてきたので、道に迷う心配はありません。 でも、上記の発掘調査で姿を現した江戸時代の旧東海道が、明治以降民家の敷地に入ってしまった部分があったりで、現在ではそれらを迂回して歩かねばならない所もありました。 せっかくの江戸時代の石畳を剥がして、国道1号線を作るための材料に使ってしまった部分もあります。 明治維新後しばらくの間は、近代化のためには古いものは惜しげもなく捨てられ忘れ去られて行ったということなのでしょう。 あれから140年経ってこの国がすっかり豊かで便利にになったからこそ、今、多くの人たちが歴史的な町並みや古道を発掘し、再興し、保存し、またそれらを訪ねて懐かしむという余裕ができたのだと思います。

 前回歩いたコースの最後、有名な箱根の杉並木の所にあったのが日本橋から24里目の 葭原久保 ( よしわらくぼ:神奈川県足柄下郡箱根町元箱根 ) の一里塚ですが、その次の25里目の一里塚は、なぜか存在せず (*1)、 1里とちょっとだけ歩くと、26里目と書かれた山中新田 ( やまなかしんでん:静岡県田方郡函南町桑原 ) の一里塚が現れます。 そしてその後27里の 笹原一里塚 ( 静岡県三島市笹原新田 )、28里の 錦田一里塚 ( にしきだ:静岡県三島市三恵台 ) へと続きます。 と言うことで、去る2月4日に西に向かって歩き始めた三島大社の前に着いたところで今日は終了し、すぐそばにある有名なウナギ料理の店に到着したのが13時40分、途中の休憩と、山中城址の見学に費やした時間を差し引くと、今日は14.8kmの距離を、単独行の気やすさで約3時間半でグングンと歩いたことになります。 店の前では連休の最中ということもあって約50人が待っていて、食事にありつき、食べられたのは15時でした。 ああ、旨かった! でもこれだけ大きなうな丼では、せっかく速足でたくさん歩いたのに、体重を減らすことなどできませんでした。 その上、上り坂と違い、下り坂は普段使わない筋肉を使うらしく、翌日と翌々日は、腿の前側の筋肉、お尻の筋肉などが痛くてたまりませんでした


このうな丼は、食べて行くとご飯の下からまた更に蒲焼が現れます。

(*1): この25里目の一里塚の欠番については、いろいろな人が理由を考察しているようですが、現在のところ不明ということになっています。( 昔あった一里塚が現在見つからないというのではなく、江戸から24里の一里塚の1里先に、「 江戸から26里 」 と書かれた一里塚があるのです! )

第13日
2008年7月21日(月曜) 由比宿 *1 →江尻宿 男4名+女3名 天候:曇時々晴

   

 6月前半、シチリア島であまり沢山毎日歩き過ぎて膝を痛めたため、6月下旬の富士から由比宿までのウォーキングは残念ながら欠席。 この区間は来週あたりに単独行で埋め合わせをすることにして、今日は仲間と一緒に一つ先の区間、由比宿から江尻宿までを歩きます。

 いつものように16kmほど歩けば、草薙かもう少し先まで行けるのですが、猛暑の季節、途中に難所の薩た峠 ( さったとうげ *2 ) の登りもあることだし、若くもないのに無理をして熱中症はいけないだろうと、約12km先の江尻宿の入口、現在の静岡市清水区の清水 ( 江尻 ) 港付近まで歩いて、有名な寿司屋 「 末廣鮨 」 で旨い寿司を食い、冷たいビールを飲んで打ち上げにしようということになりました。

 8時17分小田原駅発のJRに乗り込み、熱海で乗り換えて由比駅に到着したのが9時47分、早速歩き始めます。 昔は 「 親知らず子知らず 」 と言われた、急な崖が海岸まで迫っている難所だったそうですが、現在も海岸沿いの狭い平地にJR東海道線、国道1号線、東名高速道路の3本がひしめきあって並んでいます *2 ( 新幹線ははるか山側のトンネルの中を走っています )。 私達の歩く旧東海道は、この3本のさらに少し山側で、細く険しい道です。 思ったほど大変でもなかった坂道を何とか登りきって薩た峠の辺りになると、東名ももう地下にもぐり、あの薩たトンネルの中を通っています。 下の写真は左が薩た峠に登る道、右が下る道の一部です。

  

 薩た峠には3カ所ほどに分かれて幾つもの石碑があります。 ここに立ち後方を振り返ると、そこは広重が上左の由比の浮世絵を描いた場所で、晴れて空気が澄んでいれば、駿河湾の青い海の向こうに富士山がクッキリと見えるはずです。 今日は残念ながら湿気が多く霞んでいて、富士山はもちろん、富士山の手前に描かれている横長い愛鷹山塊すら見えませんでした。


 薩た峠を過ぎ,JR東海道線の岡トンネルのあたりになると、道はますます狭くなり、マピオンの8,000分の1の地図上でさえ、道は二本線→一本実線→破線となり、そしてついに消えてしまいます。 仕方ないのでガイドブックの記述を信じて、道と言えるかどうか分からない程度の草むらをたどろうとしたのでしたが、荒れていて到底無理。 結局、つい最近出来たらしい舗装道路を一部利用し、それでも何とか旧東海道を出来るだけたどりながら、ようやく興津川にかかる橋を渡って興津の町に入りました。 江戸時代はこの川には3月から10月は橋がなく、浅いので徒歩で渡り、冬は水量が増えるので蓮台を用いたと言われます。 下左の浮世絵は冬の時期の描写でしょうか。

   

 この町には家康が幼少時代に預けられ勉強したいう清見寺があるので見学しました ( 下の写真 )。 さらに歩を進めれば左の海側に興津埠頭、袖師埠頭、そして次郎長で有名な清水港 ( 昔は江尻港と言ったので、上の浮世絵にも江尻と書いてあります *3 ) が現れて、今日の行程はJR清水駅前の江尻東交差点でめでたく終了です。 約12kmを3時間半で歩きました。 曇り空と小まめな水分補給のおかげで一人も熱中症にかからずに済みました。 8月はこの江尻宿から12km歩いて徳川家康の本拠地府中の宿、更に4km歩ければ丸子の宿まで行けるでしょう。 昼食は清水駅前を通り抜け西側にある当初計画の店に入り、美味しい寿司を前にビールで乾杯!


*1: 由比は昔から油井、由井などとも書かれてきました。 上の北斎の浮世絵にも由井と書かれています。 現在は由比に統一されたようです。 下左の浮世絵は一見 「 奥津 」 と読めますが、よくよく見るとやはり興津でした。

*2: 「 た 」 の字は土へんに垂と書くのです。 この字を IME で手書きで探し出すことはできるのですが、このページに載せると最終的には?という文字に化けてしまい、残念ながら記述できませんでした。 江戸時代より前は、峠越えの道はなく、潮が引いたときに狭い波打ち際を駆け抜けるしかなかったそうです。 明暦元年 ( 1655 ) に朝鮮通信使のために崖を切り開いて道がつけられ ( 今日はこれを歩いています )、更にその後、幕末の安政東海地震 ( 1854 ) で海岸線が隆起してある程度の幅の低地が海岸線沿いに生じ、ここに現在の国道1号線や東海道線が通せるようになったというわけです。

*3: 徳川家康の駿府在住時代の江尻の港は、駿府のために巴川の河口を利用して出来た港でした。 この辺りが清水町と呼ばれたために、次第に清水港とも呼ばれるようになり 「 清水み〜なとの名物は〜 」 と歌われるほどにこの名の方が一般的になり、江尻港などと言っても、地元の人以外は今では殆ど誰も知らないのではないでしょうか。 現在は商業・貿易の港としては清水港、漁業・海釣り用の港としては江尻港と呼び分けているように、私には思えるのですが・・・ 東海道の宿場の方はもちろん、江尻宿と呼ばれて来ました。 清水の宿場などという名称はありません。

第14日
2008年7月31日(木曜) 富士駅裏→由比宿 単独行 天候:晴

 いつもの小田原駅8:17発の電車に乗り、JR富士駅に着いたのが9:33、北口に降りて商店街を北に500mほど行くと、2月18日にその日の行程を終えた交差点に着きます。 そこを左折するところから今日の単独行は始まりました ( 9:45 )。 6月23日は、シチリア島で痛めた右ひざがまだ治りきっていなかったので、皆と一緒に歩くことができなかったのです。 JR身延線を柚木 ( ゆのき ) 駅前で横切り、ガイドブックの教える通り、時には横道に入って旧道を歩いたりしながらさらに西に進むと、やがて富士川の鉄橋を渡ります ( 10:15 )。 この辺りから右後ろに見える富士山は、昔から絶景と言われて来ました。 でも、先週の薩た峠同様、上空には湿気が多くて、頭上は青空なのに遠方は薄いモヤに蔽われ、富士山は裾の方がボンヤリ見えるだけです。


 やはり、富士山をクッキリと眺めようとしたら、私どもが2月18日に吉原宿を歩いた時のような大気が乾燥した真冬でないといけないようです。 という事は、北斎は主に冬に東海道を歩き富士山を描いていたという事でしょうか? それとも夏に描きながら、かすんで見えない富士山は想像で書き加えたのでしょうか? 冬と言えば、北斎の浮世絵のうちでも最も有名な蒲原の雪景色は実は彼の想像によるもので、温暖な蒲原では今も昔もこんな大雪は降らないという説があります。


 富士川を渡りきったところでいったん少し北に向かいます。 富士川には江戸時代は橋がなく、水量の多い急流だったので徒歩 ( かち ) 渡しは出来ず、舟渡しでした。 その船着き場は今の鉄橋より北側 ( 上流側 ) にあったからです。 そこには当時の常夜灯やいくつかの碑、道標などが残っています。 それらに導かれるままに旧東海道の坂を上って今度は南に向かい、静かな岩淵の間宿に入ります。 樹齢400年以上の大きなえのきの木で有名な一里塚(10:45)を過ぎ、地図とガイドブックを交互ににらみ、迷わないよう気をつけながら旧道をたどり、東名高速の下 ( 11:05 ) や新幹線の下 ( 11:20 ) をくぐったりし、少しでも日陰を求めながら一路蒲原の宿場を目指します。

   

 やがて駿河湾に向かって坂道を下るとそこはもう蒲原です ( 11:45 )。 ここと次の由比の二つの町には昔の宿場の跡がいくつも保存されていますが、古い町並み全体が保存されているのではなく、現代的な町並みの中にところどころに古い家が残っているという程度、それも中に入れてもらえるのはそのまた一部なので、期待が大きすぎたせいか余り感動しませんでした。


 昼食は由比まで行って有名な桜エビのかき揚げを食べようと考えていましたが、蒲原の町でもうお昼になったので急きょ予定を変更してここで食べることにしました ( 12:00〜 )。 この町にも由比同様の桜エビ、シラス、うなぎなどの美味しい店が、数は多くないがあります。


 ビールをジョッキ2杯とと桜エビ定食 ( 写真はその一部 ) で腹いっぱいになったところで再び歩き出し、次の由比の宿場を目指します。 蒲原の駅 ( 由比駅も ) は旧宿場というか町の中心部とはずいぶん離れた所にあります。 明治26年に駅を設置する際、将来の鉄道の有用性に対する町の有力者の見通しが悪かった事も一因だろうと、地元育ちの友人は言っていました。 その後80年近く経って、1968年 ( 昭和43年 ) に、仕方なく町の中心部の近くに新蒲原駅を新設する羽目になっています。

 蒲原の宿場から由比の宿場までは6km程度しかありません。 由比の町に近づくにつれ、山、崖が右側から海岸にせまってきて、海岸沿いの平地は急に狭くなります。 その狭い場所に東名高速道路、国道1号線、JR東海道線、そして今日通った旧東海道などがひしめくように並走しています ( 前回の *2 をご参照 )。 由比の町も見どころはあまり多くなく、結局由比駅から上りのJRに乗って帰途についたのは15:15でした。 今日は独りの身軽さからか、猛暑の炎天下にもかかわらずトータル約16kmを、実質4時間で歩いたことになります。 ポカリスェット1リットル、水0.5リットル、1リットル、かき氷1杯を飲んだのに、6時間に1回しかトイレに行かなかったことからも、いかに汗を沢山かいたかご想像いただけるでしょう。

 これで、1年2カ月間に14回かけて、距離的にも宿場の数から言っても、東海道53次のちょうど3分の1を歩いたことになりました。

第15日
2008年8月18日(月曜) 江尻宿→府中宿 男3名+女2名 天候:晴時々曇

 江尻から府中まで歩いたなんて言われても、たいていの人はどの辺りだかよく分からないでしょう。 清水から静岡までだと言えば 「 なぁんだ 」 という事になります。 最近市町村合併があったので、もう少し正確に言えば静岡市清水区から静岡市葵区までという事になります。 「 葵 」 ? そうです。 中は大御所様すなわち晩年の徳川家康の居城 「 駿城 」 のおひざ元の宿場でした。 「 武家諸法度 」 や 「 禁中並公家諸法度 」 などは駿府城で起草され、江戸に通達されて発布されたそうです。 家康存命の末期、つまり江戸幕府の初期は、駿府が実質的な政治の中心地だったわけですね。 下の浮世絵は、府中の宿場を京に向って出た所に在る安倍川の渡しを描いたものです。 毎回同じようなことを申しますが、今は安倍川に統一されていますが、広重の頃は安部川とも書いたようです。 絵の左上の赤い印影を見て下さい。

  

 今日もまたいつもの小田原駅8:17発の電車に乗りJR清水駅に着いたのが9:57。 早速前回の終了地点である清水駅前の江尻東交差点に出て歩き始めました。 今日の天気予報は3日前から前日にかけて 「 晴だ 」 「 いや雨だ 」 と猫の目のように何度も変りハラハラさせられましたが結局は晴時々曇。 お蔭で猛暑というほどではありません。

 今日の出発点の江尻宿も、終着点の府中宿も、軍事的な観点から宿場町の道路が一辺が300mくらいのクランク型に曲がっています。 敵軍が一気になだれ込んで来られないようにしてあるのです。 江尻の宿は、当初は今川家が治めていた商業の町でしたが、その後1569年に武田信玄が進出して江尻城を築き、さらにその後家康の手に入り1601年東海道の宿場ができたと、物の本には書いてあります。 幕末の頃には清水次郎長の本拠地だったことでも有名ですね。 今年また、久しぶりに次郎長の映画が製作公開されるそうで、地元は張り切っているようです。

   

 このクランクの終る江尻城跡に近いあたりには、製紙会社の名前にも使われている 「 巴川 」 が流れていて、江戸時代から今に至るまで稚児橋という橋がかかっています。 橋のたもとにある河童の像についての 「 いわれ 」 は、どなたの紀行文にも書いてあるので省略しますが、昔の江尻の宿場はこの辺りです。 当時から職人の町だった入江町を抜けて、なかなか美味な追分ようかんの店で一休みしたあとは東海道線や静岡鉄道の線路沿いにどんどん歩いて行きます。 やがて草薙駅。 日本武尊にまつわる草薙の剣の伝説などを思い出します。 ここには一里塚の跡もあります。


 さらに進むと、旧東海道は現在のJR東海道線の線路の下を右に左に計3回くぐります。 またJR東静岡駅の先の辺りでは、旧東海道は現在のJRの操車場の中を通っていたらしいのですが、勿論私たちはそこを通り抜けることは出来ず、残念ですが多少の迂回を余儀なくされます。 そんな事を繰り返しているうちに炎天下12km余りを歩いて、私たちは静岡駅前に到着です。 ここから府中の宿場が始まるのですが、その見物は次回にすることにして 「 とにかく暑い ! のどが渇いた。 何はともあれ生ビール ! 」 という事になり、駅にほど近いビルの地下にある居酒屋で静岡名物のおでん ( 駅の周辺だけでも約100店もおでんを食べさせる店がある ) を肴に大ジョッキのビールで乾杯したのは14時過ぎでした。

 涼しい季節ならあと4km歩いて次の鞠子 ( 丸子 ) の宿まで行けたのに ! とろろ汁は次回のお楽しみにとっておきましょう。 昨年の夏、戸塚宿辺りを歩いた時にも書きましたが、昔の人は本当に偉いと思います。 地球温暖化による猛暑はないとしても、舗装道路からの照り返しがないとしても、海から渡ってくる涼風を遮る無粋な新興住宅群もないとしても、氷水も冷たいスポーツドリンクもないのに真夏でも1日に40kmも歩いたのですから・・・そうそう、やっとの事で目的地の旅籠にたどりついても、冷えた生ビールは出てこないのです ! ああ気の毒 ! 現代に生まれて良かった !

 日本橋から箱根三枚橋までは、前のページに戻ってご覧下さい。  府中宿から袋井宿まではこのページに進んでご覧下さい。

この続きは毎回書き加えて行きます。

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