東海道五十三次を歩き続ける(3)

全行程の半分を歩き終わりました。 後半はいよいよ仲間なしの単独行となります。



焦る必要もないけれど、体が言う事を聞くうちに終わらせてしまわないと・・・
いよいよ遠江から三河に入って行きます。



目次

袋井宿→天竜川左岸 天竜川右岸→JR高塚駅 JR高塚駅→新居宿 新居宿→二川宿

 日本橋から箱根三枚橋まではこのページに戻ってご覧下さい。  箱根三枚橋から府中宿まではこのページに戻ってご覧下さい。
府中宿から袋井宿まではこのページに戻ってご覧下さい。 二川宿以降はここをご覧ください。

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第20日
2009年5月11日(月曜) 袋井宿→天竜川左岸 単独行 天候:うす曇

 本当は先週の7日に歩くつもりでしたが、前日の夜になって天気予報が急に悪化したので急きょ中止し延期しました。 単独行は仲間と歩いていた時に比べると退屈ですが、直前の変更が柔軟にできるのは利点の一つです。

 今日は袋井宿から見附宿を通り、天竜川の左岸 ( 東岸 ) までを歩きます。 見附宿とは、サッカーでも有名な現在の磐田市のことです。 むかし京から江戸に下るとき、ここで初めて富士山が見えたので見附台と名づけられたと古文書にあるそうです。 江戸時代に各宿場の両端に置かれた 「 見附 」 とは由来も意味も違います。 天竜川の岸で今日の行程を終る計画にしたのは、袋井宿からここまでで約14km ( 袋井駅からだと14.7km ) で、私の脚力にとってちょうどよい距離だというだけの理由です。

 天竜川には現在、天竜川橋と新天竜川橋の2本の鉄橋がかかっています。 以前は、共に歩道がないくせに自動車の交通量が非常に多く、歩いて渡るのはとても怖かったということですが、新しい方の鉄橋が最近拡幅改造され歩道も出来たので安心して歩いて渡れます。 なお、江戸時代の天竜川の池田の渡しはこれらの橋よりも約1kmほど上流にあったようです。 当時は大天竜、小天竜という二本の流れがあり、共に舟で渡りました ( 池田の渡し歴史風景館 を参照 )。  私の想像に過ぎませんが、わざわざ上流まで歩いて池田の辺りで渡ったのは、この辺りが中州もあってトータルの川幅が狭く、流れもやや緩やかだったためかと思われます。


この見附宿の浮世絵には、手前の見附側の池田村から対岸の浜松側の中野町村まで、中洲を 挟んで小天竜と大天竜の二つを渡る様子が描かれています。

 というようなわけですが、私は現在の天竜川鉄橋付近の天竜川の左岸のバス停で浜松行きの遠州鉄道の定期バスをつかまえて鉄橋を渡り、浜松駅まで行くことにしました。 昔の旅人が渡し舟を使った代わりに、私は 「 渡しバス 」 を使うわけで、何も 「 やましい 」 事はありません。 次回は浜松駅からバスで天竜川の右岸まで戻って来て、そこから浜松宿を通り舞阪の宿へと歩いて行けばよいわけです。 なお、カホルは見附宿よりさらに手前の遠鉄バスのターミナルまで4〜5kmほど歩いた所でバスに乗ってJR磐田駅経由浜松まで先に行って 浜松市楽器博物館 を見学したりしながら私の到着を待つことにしました。

 10時30分に袋井駅を出発します。 駅から北に約700m歩くと旧東海道に交差します。 左折して見附の宿場跡に向う所から今日の行程は始まります。 すぐにこんどは 「 東海道どまん中西小学校 」 が現れ ( 袋井市は 「 ど真ん中 」 がまち興しのキーワードなのですね )、そこを過ぎてしばらく歩くと右後ろから来た国道1号線に合流、更に数百m歩くと右の細い道に入ります。 これが旧東海道で、やがて昔通りに復元された立派な木原の一里塚 ( 61里 ) が現れます。 再びもとの広い道に合流するとやがて磐田市に入り、太田川に架かる三ケ野橋を渡る手前に、昔家康と信玄が戦った 木原畷 ( きはらなわて ) の古戦場 がありました。 付近には古い神社が幾つもあります。 川を渡ると松並木が現れたあと、細い坂道は複雑に入り組んできます。 事前に参考書をよく読んで注意深く歩かなくてはなりません。 カホルはこの少し先で磐田駅行きのバスに乗るため、私から離れました。


 やがて 「 遠州鈴ケ森 」 という怖そうな名前の昔の処刑場跡が現れます。 そういえば、第2日目に品川宿から川崎宿間を歩いた時、鈴ケ森の処刑場跡を見ました。 見つけるのがなかなか難しかった阿多古山 ( あたごやま ) の一里塚跡 ( 62里 ) を過ぎ、しばらく歩いて見付宿町のバス停をすぎた所で街道を一旦外れて右折すると、現存する日本最古の洋風木造建築の小学校と言われる 「 旧見付学校 」 があります。 5階建ての美しい建物で明治から大正にかけての教育について知ることができるのですが、月曜はあいにくの休館日で、入れないのが残念でした。


 街道に戻って更に歩くと旧見附宿場跡があるのでそれを眺めながら歩き、やがて交差点を左折して東海道は南に向かいます ( 左折せずまっすぐ行く道は東海道の別ルートとして有名な 姫街道 です )。 1,5km歩いてJR磐田駅前に出た後、今度は右折して西北西にまっすぐ進み5kmほど歩くと宮野一色 ( みやのいっしき ) の一里塚 ( 63里 ) 跡を経て漸く目的地の天竜川の左岸 ( 東岸 ) に達します。 この最後の6kmほどは、地元の方には申し訳ないのですが、全くと言ってよいほど、見るべき名所旧跡はありません。 新興住宅街と工場ばかり並んでいます。 というわけで後半はわき目も振らずにサッサと歩き、今日は14km余りを、多少の寄り道見学と休憩を含めちょうど4時間で歩きました。 一里塚跡は3つ通り過ぎました。


再建された木原一里塚 ( 61里 )                 阿多古山一里塚跡 ( 62里 )                 宮野一色一里塚跡 ( 63里 )

 天竜川の堤防から鉄橋を眺めた後、疲れた脚を引きずり、予めインターネットで場所と時刻表を調べておいた長森という遠鉄バスの停留所を見つけて、浜松駅行きのバスに乗り込み、難所の天竜川の鉄橋を越えて約25分で浜松駅に着き、カホルと合流しました。 有名店の旨いうなぎでも食べようかと考えたのですが、5時にならないと店が開かない所ばかりなのでこれは次回に譲り、新幹線で帰途につき小田原で夕食にしました。



手前が天竜川橋。 その奥に橋脚が見えるのが新天竜川橋

第21日
2009年5月21日(木曜) 天竜川右岸→JR高塚駅 単独行 天候:うす曇


これは右岸から撮った天竜川橋です。 上の前回の写真は左岸からのものです。

 今日は浜松駅からバスで天竜川の右岸まで戻って、そこから歩き始めます。 浜松市の天竜川右岸地区は現在中ノ町 ( 昔は中野町村といわれた ) といいますが、これも、京都と江戸の真中に位置する町という意味だそうで、昔は測量の精度もそう高くはありませんし、前々回、前回触れた仲道寺も袋井宿もこの中野町村も、どこもみなそのように 「 自分こそが中心だ 」 と自己宣伝したものと思われます。

 その中ノ町のバス停で降りて、天竜川右岸の堤防まで歩き、堤防沿いに旧東海道をちょっと歩いてから右折し西に向かって歩き始めたのは11時40分でした。  バスに30分も乗ったあと、ほとんど同じ道を歩いてまた戻るなんて、「 エコ 」 の観点から見たら、本当に無駄でバカげたことですが、ご勘弁願いましょう。 金原明善 (*1) の生家を見学し、安間一里塚跡に着くまでの1km弱は、静かで落ち着いた街並みが続きます。 ここから国道に合流し、さらに北から下りてきた国道1号線のガード下をくぐってJR東海道線の北数百mを西に向って進むと、やがて浜松市の中心街に入り浜松駅の北側に出ます。 この7kmあまりの旧東海道は、延々と続く浜松市街を駅に向かって歩くだけの、全く退屈なウォーキングです。 袋井や見附にあるような見るべき 「 名所旧跡 」 は浜松市内の旧東海道沿いにはほとんどありません。 最初の数kmは歩道さえ無く、側溝 ( 要するにどぶ ) のふたの上を歩かされます。

 

 やがて歩道が現れたかと思うと、所々に松並木が残っていて歩道を塞いでいました ( 上左 )。 でも、これは風情があって結構です。 と思うと、所々で、民家が 「 私は退きたくない 」 とばかりに 車道いっぱいにせり出してきていて、再び側溝のふたの上を歩かされます ( 上右 )。 次々に現れる交通信号に足を止められ、路線バス、乗用車の波状攻撃を受け、轢かれないよう気をつかいつつ、何の変哲もない商店街を、ただひたすら前へ前へと私は歩くだけです。 時には横断歩道さえなく、地下道をくぐらないと歩行者は前へ進めない所が2か所ありました。 悪口は言いたくありませんが、浜松市の道路ってひどい ! ただし、浜松駅の付近に差し掛かると道幅は広くなり、町並みも立派でした。

 連尺 (*2) の交差点の辺りが昔の宿場の中心です。 宿場跡で私が目に出来たのは道の両側の 「 ここには当時・・・が在った 」 といういくつもの説明板だけです。 それだって、昔はこんなに道幅が広かったはずはないと思うと、それほど正確な位置とは言えないでしょう。 ともあれ、この交差点を左折したあと、JRの線路の下をくぐって今度は東海道線の南側数百mを旧東海道は西に向って続いています。 このあたりに来ると交通量も減って街は再び静かになってきました。 明治初年のものと思われる古い木の看板を掲げた店があって、自家製の浜納豆を売っていたので、1袋買い求めました。


 一里塚跡も、安間 ( あんま:浜松市東区安間町:64里 )、馬込 ( まごめ:浜松市中区相生町:65里 )、若林( 浜松市南区若林町:66里 )、篠原 ( 浜松市西区篠原町:67里 ) と、市内に4つもあることはあるのですが、殆ど目にすることはできませんでした。 最初の安間の一里塚跡ですが、たった1本の、文字もはげかかった柱が金網越しにやっと認識できるだけ ( 下の写真 )。 いくらなんでもこれは安間里ではないでしょうか。


このお粗末な状況は安間里では?

 でもこの程度で驚いていてはいけません。 次の馬篭の一里塚跡の柱は浜松東警察署の立派な建物のすぐ先、国道沿いに在ると本には書いてあるのですが、見つからないので近くの2軒の店で聞いても 「 知らない 」 と言います。 仕方なく警察署に行って聞きましたが、そこでも 「 分からない 」 とのこと。 うろうろしていると近所の人らしいおじいさんが歩いてきたので聞いたら、教えてあげると言います。 ついていったのですが 「 ここについこの間まで立っていた 」 と彼が指す所に標柱はありません。 「 誰かが抜いていったのかなあ 」 だそうです ( 下の写真 )。*3 呆れてしまい、もうそのあと、浜松市内で一里塚跡を探すのは止めました。 浜松市というところは、今まで通ったたくさんの町のうちで、古い史跡を大事にしないという点では一番ではないかと思いました。


 明治維新の後、僅か四、五十年の間に西欧の文明、文化を驚異的な速度で習得して発電所、製鉄所、鉄道、工場、軍艦・・・などをすべて自力で作れるようになり、初等教育から大学までの高いレベルを構築していった明治の人たちの偉さに改めて思いを致す今日この頃ですが、その一方で一里塚だけでなく江戸時代の貴重な文物の多くを、惜しげもなく取り崩し売り払い捨て去ってしまった行為は、欧州の古い都市の文化遺産の保存状況を知るにつけ、惜しまれてなりません。

   実は、江戸時代、浜松宿は本陣が6つ、旅籠は94もあったという旧東海道では最大級の宿場だったのです。 しかし、浜松市が太平洋戦争の末期に徹底的に爆撃されたため、当時残っていたわずかな古い遺産まで、何もかも破壊され燃えてしまったのだそうです。 そういう次第で、私が4時間ほど経って浜松駅まに戻ってくるのを待つ間、カホルが観光バスを使って観て回ったものといえば、博物館や美術館など、新しいものばかりでした。 家康が29歳の時建てたという浜松城天守閣だって、昭和33年に再建されたものです。


広重の浮世絵の題名は 「 冬枯れの図 」 現在の繁華街と比べれば夢のようです。

 浜松の街を通り越し、次の高塚駅まで歩いた辺りで15時10分、ちょうど13kmほど歩いたことになるので、ここで歩くのをやめて電車に乗って浜松駅に戻りました。 今日の歩行時間は3時間半でした。 今日こそ浜松駅の近くの有名店のうなぎを食べようかと考えましたが、前回と同じ理由・・・つまり5時以降にならないと店が開かないそうなので、またしても次回に譲って小田原に戻って夕食としました。 次回こそ、歩く時間帯を遅くして、きっと食べてやるぞ ! たまたま今日は77歳の誕生日でしたが、今日も元気に歩けたことを喜びたいと思います。

*1: 明治時代、私財をなげうって天竜川の治水に尽くした人

*2: 私が子供の頃住んでいた高崎の町にも連雀町という名の町がありましたが、江戸時代から続く古い町の多くには今も連雀、または連尺という地名が残っています。 当時の行商人は 「 れんじゃく 」 という背負子 ( しょいこ ) に荷物を載せて担ぎ、各地を往来していて、連雀衆ともいわれました。 連尺を担いで諸国を渡り歩いた行商人の姿が雀が飛び回るように見えたため、連雀とも書かれるようになったと言われ、また、彼らが連尺に荷を載せたまま荷物を下ろし、そこで商いをしたため、そういう地域が連尺町、連雀町などと呼ばれるようになったと言われています。

*3: このおじいさんの案内と判断が100%正しいかどうかは、もちろん分かりませんが。


第22日
2009年6月1日(月曜) JR高塚駅→新居宿 単独行 天候:晴

 この季節になると、もう快晴の日に歩くと舗道の照り返しで暑くてたまりません。 うす曇りがベストです。 今日も 「 浜松地方は晴時々曇 」 という予報を信じて日を決めたのでしたが、直前に終日晴に変ってしまい、実際その通りでした。 幸い風が涼しく、何とか歩くことができました。


 高塚駅に着くなり直ちに舞阪 ( 舞坂と書いている文章を時々目にします。 江戸時代はそう書いたようですが、現在の表記は舞阪です。 そうか、大阪も同じですね *1 ) の宿場跡に向かって歩きだします。 今日はJRの駅名で言うと高塚→舞阪→弁天島→新居町 ( あらいまち ) と駅を3つぶん歩くわけです ( 添付地図の赤数字の1から4まで )。 行程は距離的にはたいしたことはなく、寄り道を含め12.5kmほどです。 舞阪に入る手前の辺りには道の右側に秋葉山の常夜燈が沢山残っていました。 現代の街路灯に相当するものですから、昔は街道沿いに沢山あったのでしょうが、これほど多くを見たのは初めてでした ( 上の写真はその一つ )。


 この浜名湖の南の舞阪宿と新居宿の間は、現在は橋も架かっていて、すべて歩いて通れますし、JRの鉄橋や国道1号線も通っていますが、江戸時代は海上1里を舟で渡るしかなかった難所 ( 今切の渡し ) の一つでした (*2)。 荒井 ( 当時は荒江とも書いた。 現在は新居と書く ) の 「 今切真景 」 と題する下右の広重の浮世絵をご覧下さい。 風が強い地方なのでさぞかし舟も揺れたことでしょう。


   当時舞阪側には身分により使い分けられた渡船場 ( 雁木 ( がんげ ) という ) が3つほどあったようですが、そのいずれからも現在は渡し舟は出ていません (*4)。 大まかに申して上の地図の赤の3の文字から4の文字までを真っ直ぐに結んだ線の上を渡し船は通っていたようです。 地図上で測ると約5kmありますが、幾つかの記録に海上1里と書いてあるので、ほぼ合致します。


 4の新居宿側の渡船場付近は大正時代の埋立てにより現在は陸地に造成されてしまい、地形は当時とはすっかり変っています。 いずれにしても、私はこの線より数百m北の現在鉄橋が架けられJRや国道1号線が通っている部分を歩いて、この舞阪側の渡船場跡 ( 3 ) から新居町の渡船場跡 ( 4 ) まで行くことになり、江戸時代の旅人たちとはだいぶ異なる部分を通ることになるのは止むを得ません (*3)。

 なお、蛇足ですが、もう一方の舞阪の浮世絵に富士山が描かれているのは奇妙に思えるかも知れません。 第20回の所に書いたように、京から下ってきて初めて富士山が見えたのは見附の宿だったと言われているからです。 しかし、ここより更に京に近い白須賀宿の近くの潮見台あたりから富士山が見えたという記録もあります ( 高い建物がなかったから ? )。 絵画の世界ですから、想像で加えられていても構わないとも言えます。

 ともあれ、快晴の五月晴れの日に、この風光明媚な地域を歩くのは、何とも爽快な気分です。 カホルは体力を勘案して舞阪駅から弁天島駅までの3km弱プラス新居町駅と新居の宿場跡の往復1kmだけを歩き、浜松→舞阪と弁天島→新居町は電車に乗ることにしました。


弁天島に渡る弁天橋から新居宿方面を望む


 舞阪と新居は共に江戸時代に宿場のあった町で、舞阪には今でも立派な松並木が道の両側に残っています。 舞阪のそれは、江戸時代には並木の延長が約920m、松が1420本もあったそうですが、現在は今では約700mに300本だそうです。 また、舞阪の宿場跡には見附石垣、脇本陣茗荷屋、一里塚跡など、史跡も多く保存されています。 でも、残念なことに脇本陣は月曜日は休館日で、中に入って見学することはできませんでした。


舞阪宿の松並木と脇本陣 ( 天保9年 ( 1838 ) 建築 )


 風の強い弁天島を帽子を押さえながら通り抜けると新居の町に入ります。 弁天島は浜名湖の海側の細い部分ですから、後半は左に遠く遠州灘、右に浜名湖と、景色の良さは申し分無い・・・・と思っていたら、道の両側に倉庫や店舗が並んでいて、海も浜名湖も殆ど見えませんでした。

 新居の宿場 跡は新居町駅から更に500mほど先 ( 上の地図では赤字4の左上にある新居関跡・・・埋め立てられる前はこの関所の建物に隣接して新居の渡船場がありました ) にありますが、ここも全く同様で、関所跡、旅籠紀伊国屋跡、一里塚跡その他多くの興味ある史跡が残っています。 江戸時代建造の関所の建物は明治時代まで残っていたものがその後学校に転用されたりしながら保存されてきたものだそうです。 現在も周囲を発掘調査中で、近い将来江戸時代の関所の全容が復元される見込とのことです。 但しここでも建物は月曜日はみな閉まっていました。 いずれにしても、両宿場跡とも前回歩いた浜松宿跡のような雑踏の市街とは雲泥の差の静かな落ち着いた街並みで、楽しく歩けました。


新居宿の関所跡 ( 建物は安政2年の建築 )


 約12.5kmを3時間ほどで歩いたところで、今日はここまでにして新居町駅に戻り、JRで浜松に出ました。 いよいよ次回は遠江の国から三河の国へと入ることになります。

 浜松の街も今日で3回目となり、漸く今回、名物のうなぎを食べることができました。 浜松のうなぎの名店は面白い事に関東風の蒲焼を出す店と名古屋風の 「 ひつまぶし 」 を食べさせる店とが半々です。 残念なことに、ここもまたお目当ての店が月曜日は休業でしたので、他の店に入りました。 「 旧東海道歩きは月曜日は避けること 」 と学んだ1日でした。

*1: 大坂→大阪の場合、坂という文字は、左右に分解すると土に反る ( 死ぬ ) となるので縁起が悪いと阪に変えたのだそうです。 舞阪の場合も同じ理由かも知れません。

*2: 浜名湖は古くは遠州灘の海水とは切り離された淡水湖でした。 湖面の方が海面より高く、浜名湖から流れ出る川を海水が逆流するようなことはなかったそうです。 しかし、明応7年 ( 1498年 ) に起きた大地震に伴う地盤沈下によって湖面が下がって海水が流入しやすくなり、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分がその後津波で決壊して現在のような汽水湖 ( 海水と淡水とが混じり合っている湖 ) になったと言われます。 この時、決壊した部分は今切の渡し ( いまぎれのわたし ) と呼ばれ、約1里の風の強い海を渡し舟で渡るしかなくなり、旧東海道の交通の難所の一つとなりました。 ここを避けて通るために設けられた道が第20回に記した姫街道です。

*3: しかし、最近モーターボートをチャーターして渡った人もいます。 埋め立てられた部分も運河が通っていますから、新居の渡船場跡の近くまで何とか行けたそうです。

*4: 昔伊勢湾を舟で渡っていた宮宿と桑名宿の間 ( 7里 ) の事情とちょっと似ています。 ここも現在は舟で渡れないので北の名古屋市をぐる〜っと回って電車で桑名まで行くしかありません。

第23日
2009年6月7日(日曜) 新居宿→二川宿 単独行 天候:晴

 今日歩く新居宿→白須賀宿→二川 ( ふたがわ ) 宿の行程は 「 旧東海道歩き 」 の中で、平成の現在では一番寂しく、またある意味で最もきびしい部分ではないかと思います。 もちろん、江戸時代以前は、品川や府中 ( 静岡 ) などの繁華街はともかく、箱根の山道だって小夜の中山だって宇津の谷峠だって、淋しくて物騒な道はいくらでもあったというか、旧東海道の殆どがそういう道だったと思います。 ところどころに常夜灯が立っていたとは言え、夜など暗くて怖くて歩けるはずもありません。


白須賀の宿場は地震・津波で壊滅し1707年に潮見坂下から坂上に移されました。 二川の宿場には現在でも江戸時代の町割がほぼそのままの状態で残されています。

 しかし、現在では今まで私が歩いたどの行程でも、山道の短い部分以外は私のすぐ脇を電車や路線バスやタクシーが通っていたので、仮に歩いている途中で少々体調が悪くなったとしても、あまり心配はありませんでした。 喉が乾けばすぐに飲料の自販機を見つけられたし、腹が減れば食べ物屋やコンビニが道沿いにありました。

 所が、今日のこの行程は、歩く前の予備調査では、いちばん江戸時代に近い ? のではと思われました。 歩いている道のそばには、電車は1本も通っていないし、路線バスさえ行程のごく一部に朝晩1、2本通っているだけです。 先輩たちの紀行文を幾つか事前に読んだ私は、ここを単独行で歩くにあたり、食料、飲料、救急薬品、携帯電話の充電などを、初めてと言ってよいほど入念に準備して臨みました ( 今まではいつも相当いいかげんでした )。 もちろん、いつものようにカホルが 「 途中で歩くのを止めて乗り物に乗る 」 ことなど期待できませんから、今回は全行程を一人きりで歩きました。

 この地域でも旧東海道は国道1号線と 「 付かず離れず 」 並走していますが、これらの2つの道路が2つの幹線鉄道 ( JR東海道線と東海道新幹線 ) と、これほど離れているケースは、これまでにはありませんでした。(*1) という事は、今日の行程の途中には大都市は勿論、中・小都市すら存在していないということです。(*2)  出発点の新居町駅で私と別れたJR東海道線はたちまち北の彼方に去って行き、私が15km歩いた後、再び二川駅でお目にかかるまでは、はるか遠くを走っているのです。

 さて実際歩いて見たら、それほどに田舎でもなく、最近建てられた住宅が並んでいたりする地域もありましたが、それでも出発点の新居町と到着点の二川駅付近以外の道沿い14kmに食事処や食料品店は実質上1軒もないと言ってよく、コンビニが後半に2軒あるだけでした。 飲料の自販機も全行程で7台ほど見掛けた程度でした。

 10:25に新居町駅を歩き出した私は、すぐに新居の宿場跡に差し掛かります。 前回月曜日で休館日だった 新居関所・関所資料館 をもう一度外側から十分眺めた後、 入らずに先を急ぐ事にしました。 街道の突き当たりを左折してしばらく歩くと、左側に新居一里塚跡碑がありました。 その先のT字路を今度は右に曲がると、道幅は狭くなりクランク状に屈折しています。 宿場の警護のために一度に大勢が通れないようにする仕掛けで、棒鼻と呼ばれるものです。


 その後途中しばらく、道の左側だけに松並木が残った田舎道を歩きました。 松並木が終ったあと更にしばらく歩くと、やがて遠江最後の ( ということは静岡県最後の ) 宿場である昔の 白須賀宿場跡 に着きます。 昔は海岸に在ったのですが、後に 上の浮世絵が描かれた潮見坂上に移りました。 というわけで、私は右折し潮見坂を上って新しい宿場跡に達します。 潮見坂は旧東海道随一の景勝地と言われていたそうです。 京から下ってくると初めて遠州灘が眼下に見下ろせ、遠くに富士山の頂きが見えたので旅人達は感激したと言います。 しかし、今は近くや遠くの建物、電柱などで目隠しされてしまい、富士山など到底見えそうにありません。 遠州灘さえ見えにくくなっていました。

 この辺りは上述のような静かな田舎ですから、宿場跡には昔の面影をほとんどそのままに遺した家並みも残っています。 史跡を保存しようという町の熱意もあちこちに感じられ、潮見坂を上がったところにはいろいろな展示もある無料の立派な休憩所 ( 下の写真 ) があり、冷た麦茶をサービスしてくれました。 ここで弁当を食べた後、再び歩き始めます。 ここは大げさに言えば 「 江戸時代がまだ息絶えてはいない町 」 でした。 そういう点では、これらが何もかも無くなってしまった清水市内や浜松市内を歩いた時よりは遥かに私は幸せでした。 道で出会った中学生たちが全員大きな声で 「 こんにちは 」 と挨拶してくれたのも印象的でした。


 白須賀宿を出てしばらくすると、道は国道1号線へ合流し、遂に静岡県と愛知県の県境に達しました。 途中、母の病気や死で半年間中断したとは言え、私が神奈川県から静岡県に入ったのは昨年の5月4日でした。 静岡県を抜けるのに13カ月もかかったというわけです。 久しぶりに新しい県に入るというのは嬉しいものですが、それにしても静岡県というのは、伊豆→駿河→遠江と、実に横に長い県でした。


 新居、白須賀 ( 元町 ) に続く今日3つ目の細谷の一里塚 *3 を過ぎると、あとは埃まじりの強い風の吹く、まっすぐな、乗用車と大型トラックがビュンビュン飛ばす広い国道脇の歩道をただただ歩くだけです。 道の両側は玉ねぎの畑です。 畑の土はこれまでの静岡県の黒っぽい土とはガラリと変り、明るい赤褐色で小さな砂利が混っています。 今日は小さな日傘を持参して本当に良かったと思いました。 これがなかったら熱射病になりそうな照り返しの暑さでした。


細谷の一里塚跡については *3 をご参照ください。 赤土の色は八丁味噌とは無関係と思います。

 ようやくのことで再び近づいてきた新幹線のガードをくぐり、東海道線の線路を渡り、今日4つ目の二川の一里塚跡を過ぎると、二川の宿場跡に入ります。 14kmを3時間半(時速4.0km)で歩きました。 二川の町にも素晴らしい 二川宿本陣資料館 ( 下の4枚の写真 ) をはじめ、古い江戸時代の面影を残す家々が残っていましたが、5年、10年前に歩いた人の残した記録と比べると、古い面影を残す民家の数は減って一部が今風の家に改築されているように思えましたがどうでしょうか。 資料館をゆっくり30分ほど見学した後、更に1kmほど歩いてようやく JR二川駅に着いて今日の行程を終りました。 今日も約15kmをほとんど休まずに歩き切りました。



*1: 今後はあります。 豊橋から岡崎の間は両者はもっと離れているし ( 代わりに名鉄本線が東海道のそばを通っています )、名古屋から草津までは両者は全く離れてしまいます。

*2: 実は私は今回、行政的には静岡県湖西市から愛知県豊橋市へと続く道の上を歩くのですが、このあたりは市と言っても、つい最近の市町村合併のおかげで市になっただけ。 失礼ながら実質的には 「 市 」 とは申しにくい感じです。

*3: 細谷の一里塚は道の両側にあったもののうち、北側のひとつだけですが江戸時代のままの塚が残っている稀有で貴重な一里塚ですが、周囲をうっそうと木立が囲んで茂ってしまい、いったいどこが一里塚だったのか理解しにくくなっているのが残念です。

 この続きは毎回書き加えて行きます。

二川宿以降はこのページに進んでご覧下さい。


ご感想、ご意見、ご質問などがあれば まで。