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ヘロドトス:歴史:第六巻
アテネ軍総司令官の輪番制

2017年3月

これは第六巻110節に出てくるが、Godreyの注釈では一日交替、 塩野七生氏(ギリシャ人の物語Ⅰ)では四日ごと、とされている。

国の存亡がかかっている戦闘時にも総司令官を輪番制ですと。 どこぞの国の「お手々つないで皆でゴール」を想起して嗤ってしまうが、 さすがに国家存亡時にはまづいと思うくらいの常識は、 持ち合わせていたものとみえる。

アテネの種々の行政官が1年ごとに交代することに 習ったものであろうが、それにしてもなあ。

そもそもアテネ人が僭主制や寡頭制を嫌ったのは、 市民各人が権利意識が強いため、心の底に 「あいつばかりがなぜ目立つ!」という妬み、そねみがあるに違いないと、 小生などはゲスの勘ぐりをしてしまうのである。

「手柄の独りじめは絶対に許さない」という意識が強いのであろう。 出る杭は打ちたいし、足も引っ張らねばならないのである。 そこで、ゲスな気持ちは表にださず、 相手を凹ましたり、手柄の独りじめを「合法的に」阻止するために考え出されたのが、 後世賞賛されている「民主制」という制度ではなかったかと、 ゲスな人間は考えるのである。

「歴史」を読むまでもなく、この世を動かしているのは、 「妬み、そねみと色と欲(ゼニ)」だと私は見ている。そしてこれはしばしば、 「正義」という錦の御旗をまとって表出する。 だから、正義を振りかざす言説は眉につばして 聞いたほうがよいのである。

見てごらん、まなじりを決して正義を振りかざしているヒトの腹の底には、 妬み、そねみと色と欲の塊が、しっかり鎮座ましましているから。 とかく「正義」はうさん臭い。

ヘロドトスが「歴史」の序言に、ギリシャとペルシャの いさかいの原因を探究した、と書いているが、「そんなこたあ、あなた、 色と銭、妬みそねみに決まっているじゃあないの。」と言ってやりたい。 が、如何せん、相手は2千5百年前に幽冥境を異にしている。詮方なきや。


ペルシャ戦争 マラトンの会戦
ヘロドトス 「歴史」 第六巻116節

2017年3月

本文中に記載した小生(前田)の注釈です。

アテネとペルシアがそれぞれ一万と一万五千の軍勢をもってマラトン平原で会戦し、辛うじてアテネが勝利をおさめたのだが、ダティス麾下のペルシャ海軍(一万)は船でアテネの街に向かった。そこは女子供と奴隷だけしかおらず、兵士は全員がマラトンに出払っている。無防備の街なら、負けたとは言え、マラトン戦の生き残りと手つかずの船団兵一万を合わせれば悠々と占領できるはず。

アテネ軍としてはペルシャ軍よりも早く街に帰って迎撃態勢を取らねばならない。で、何とかそれは達成し、ペルシャの攻撃に備えていたところ、当のペルシャ軍はアテネ沖にしばらく碇泊したのち、突然帆を上げ、アテネを後にしてアジアへ向けて帰って行った。

さぞかしアテネはほっとしたことだろうが、この間のペルシャ司令官、ダティスとアルタフェルネスの動向が本文には全く記されていない。なぜペルシア軍はアテネを攻撃せずに撤退したのだろうか。塩野七生氏の説では、ペルシアの二将軍の官僚的な気質がそうさせた、ということである。つまり、さらなる失敗を怖れ、取りあえずはエレトリア征服と奴隷という成果をダリウスへ持ち帰ることで、自らの安泰を図ったということらしい。

それにしてもヘロドトスの調査力(ヒストリアイ)がこの場には及ばなかったということか。他の場面では、ペルシャの内部事情についてやたら詳しいのだが。ここは「どうした、ヘロドトス」と野次が飛ぶところである。もっとも、ダティスとアルタフェルネスが、身の回りの雑用をこなす奴隷身分の従者たちを完全に排除し、文字通り二人きりの密談を行なったとしたら、その内容は決して外部には漏れないだろう。

ほかの場面では、ペルシャやギリシャの貴人たちの会話が筒抜けのようにヘロドトスによって聞き取られ、書き込まれているのは、こうした奴隷たちが会話の場に空気のごとく居合わせていたからと思われる。 ヘロドトスはその者たちから「聞き取り調査」を行なったのだろう。


マラソンの起源
ヘロドトス 「歴史」 第六巻116節

2017年3月

本文中につけた注釈の転載。これはその第二。

近代オリンピックのマラソン競技は、ギリシャとペルシャが会戦したマラトン平原の名に由来することはあまりに有名。マラトンでの勝利の報せをできるだけ早く祖国アテネに知らせるべく、一人の兵士がマラトンの平原(およそ三十六Km)を突切って走りきり、アテネに勝利を知らせた直後に絶命したという逸話が伝えられているが、本書には記載されていない。どうやら後からつけ足された架空の話らしい。本巻105節に登場する韋駄天フィリピデスの話と混同している人もあるようだ。

その後の調査結果;プルターク(PlutarchまたはPlutarchus;46年~48年頃ー127年頃、言わずもがな、対比列伝、または英雄伝の著者)の倫理論集(Moralia)、第22章De gloria Atheniensium;アテナイびとの名声は戦によるか、知によるか?第3節中に当の記述を見つけた。その部分だけを抜粋して以下に訳しておきます。

英訳は、Harold North Fowler
The Loeb Classical Library edition, 1936
邦訳はもちろん、ここの管理人(前田滋)

「De gloria Atheniensium;アテナイびとの名声は戦によるか、知によるか?」第3節より

ポントス(Pontus)のヘラクレイドス(Heracleides)の 伝えるところによると、マラトンにおける勝利の報せを 持ち帰ったのはエラエオダイ(Eroeadae)のテラシッポス(Thersippus) であるとしているが、大方の史家の言うには、完全装備の上、 戦闘で気が激したまま走り続けたのはエウクレス(Eucles) という兵士で、この男はアテネについて最初に目についた 家の扉を開けて倒れ込むと、次の言葉だけを口走って息絶えた、 ということである。"神は我らを救へり。我らが勝った。"」

さて、この兵士は、自身が参戦していた戦(いくさ)が勝利したという報せをひとりでもたらしたことになる。しかしながら、ヤギ飼いや牧童の群れも、遠くの高い丘から戦闘を注視していたなら、その言語に絶する会心の出来事を目の当たりにし、傷も負わず血もしたたらすことなく、アテネの街に伝令として向かったはずである。

そこでかれが、兵士たちの勇猛と負傷、最期の出来事を報告したとして、 キナエギロス(Cynaegirus)、カリマコス(Callimachus)、および ポリゼロス(Polyzelus)に与えられた栄誉を自分にも与えよと主張した場合、 この男は厚顔無恥にも程があると思われずにいただろうか? ツキディデス(Thucydides)が述べているように、マンテニア(Mantineia)の 戦の勝利の喜びを伝えた人に、スパルタ人たちは公共の食料庫から 食糧以上のものを与えなかったことを考えれば!

実際のところ昔からそうなのだが、歴史編纂者というのは、 生来の如才ない演説能力を以て偉大な事象を知らしめる者のことである。 そして美麗と力強さを自らの叙述にちりばめて自身の著作を首尾よく 完成させる者の謂である。そして、その出来事に初めて遭遇し、 書き留める人々は、かくの如き歴史家が語る喜ばしい出来事に、 恩恵を受けているのだ。

そして確かに、著述家という者は、成功を収めたがゆえに読まれ、人々の記憶に残ることで、また賞賛されるのである。それは、言葉が出来事を創出するのではなく、読むに値すると判断した出来事のゆえである。
以上、引用終わり。
ということで、ある兵士がマラトン平原を駆け抜けたという逸話が眉唾であるとは記されていない。

ちなみに、上記プルタルコスの倫理論集(Moralia;全76章)は、世界最古の随想録とされているが、未だ本邦において完訳はない模様(部分訳はある)。


ヘロドトス 歴史
第七巻 ポリムニアの巻

2017年4月

例によって話が横道にそれること多く(?)、ペルシア軍がなかなか前進しません。 特に54節から100節にかけて、ペルシア軍の部隊紹介の部分は、 太古の風俗などに関心のある方を除き、飛ばされても一向にかまわないでしょう。

なんなら前半を大幅に飛ばして101節以降とか、172節以降から読まれてもかまいません。

第六巻の倍ほどの分量だったので、読了に3ヶ月を予想していたのですが、 それに反して早く終わりました。それもこれもインターネットのお陰、パソコンのお陰です。

この二つがなければ、そもそもこんな翻訳作業をしようなどと思いもつきませんし、 ネット環境がない状態で翻訳中の疑問点を解決するとして、図書館で調べるには 膨大な時間がかかります。事実上不可能です。

それゆえにこそ、パソコンやインターネットが普及する前の時代では、身近に膨大な資料を備えたり、図書館を利用できる大学の先生などでないと、このような特殊な文献を邦訳できなかった、というのも、むべなるかな、デス。


ヘロドトス 歴史
第八巻 ウラニアの巻

2017年6月

第七巻の後半以後、話が横道にそれることずいぶん少なくなってきました。 そしてその時点で、はたと気がつきました。この『歴史』は口語体だということに。これに気づいてからは、訳文を会話体,口語体に変えてみました。

どうりで細かな枝葉の多い文章なのですな。調べてみたら、ヘロドトスさん、各地で人を集め、講談師よろしく、そのときどきの聴衆に合わせて『歴史』の中の一節を講釈(口演)していたようです。おそらく木戸銭を取っていたはずですが、それがいかほどだったのか、そんなことも気になります。

従って、この『歴史』は、言ってみれば講談の筆記録という側面があるのかもしれません。日本では『平家物語』や『太平記』に相当するでしょう。もっとも平家物語や太平記は原文が日本語ですから、五七調で語りやすく,耳に心地よい語調になっていますが・・・。

ヘロドトスの文章は英訳文からの判断とは言え、かつて小生がカイロプラクティックの教本を訳していたときの英文の語調とそっくりです。まず議論好きなところ(悪く言えば屁理屈)、そしてひとつの文章に、自分の思いを何でもかんでも詰め込もうとするところ。

その典型例が第一巻の冒頭に挙げた『序言』です。そもそもどんな本でも、序言は著者が気合いを入れて、格好よく見せようという意識が働くために、気取った文章になることが多いもの。ヘルドトスの序言もその例に漏れず,気合いを入れすぎて、ほぼ全文がひとつのセンテンスになっていて、最初と最後で文章が破綻してしまっています。

欧米の小中学生の作文では、先生が口を酸っぱくして「クリアに書きなさい」と指導していると聞いているが、さもありなんと思われる。放っておけば、議論好きな気質から,ぐちゃぐちゃと書き込んで訳が分からなくなるんだろうね。

欧米人の書き癖、気質は少なくとも2千5百年前には、すでにできあがっていたのですな。


ヘロドトス 「歴史」 第九巻113節
ヘンデル作:オペラ:「セルセ(Xerxes)」

2017年7月

「セルセ」は「Xerxes(クセルクセス)」のイタリア語読み.。
本文中につけた注釈の転載。これはその第三。

ギリシャとの戦いにことごとく惨敗を喫したクセルクセスは、しっぽを巻いて祖国ペルシャに逃げ帰り、その後は精神の箍がはずれたようになってしまった。そして女狂いに走った。ペルシア宮廷内におけるクセルクセスの邪恋をもとにして、はるか後年、ドイツ人作曲家(イギリスに帰化)ヘンデルによって「セルセ」というオペラが書かれている(1738年初演)。その恋の騒動は史実とは異なり、一般受けするように変更されている(横恋慕の的が、息子の妃から弟の恋人に変更)。現在では上演されることはないようだが、主人公セルセが開幕冒頭で歌うアリア(独唱)が、ことのほか有名で、小生が高校時代の音楽教科書にも掲載されていた。それが「ラールゴ(Largo)」または「なつかしい木陰(Ombra Mai Fu)」という美しい曲である。

1986年にニッカウヰスキーが、Kathleen Battleによるこの曲をTV-CMに用いたところ、「スーパーニッカ」の売り上げが2割伸びたという。歌ったKathleen BattleのLPも25万枚を売り上げたと記録されている。ただし、オペラではカストラート(幼少期に去勢され、声変わりしていない男性)が歌う設定になっている。

ラールゴ(Largo)またはオンブラ・マイ・フ(Ombra Mai Fu)という曲をYouTubeで探すと、それこそ佃煮にするくらい多くの歌手、演奏が聴けます。このたび「歴史」を訳していて、高校生の頃から知っていた、あのラールゴという曲が、ペルシア戦争後のペルシア宮廷の恋愛劇のアリアだということを知りもしませんでした。それもこれもインターネットのお陰です。

なお,このラールゴ(Largo)というイタリア語の意味は、「ゆるやかに」で、この曲を嚆矢として、そのまま音楽記号として用いられています。

オペラ作品で古代ペルシア、ギリシャ時代の史実に材を取った作品は、多くあるようですが、有名なのは、ヘブライ人のバビロン捕囚を材に取った、ヴェルディ作「ナブッコ Nabucco」があります。この第三幕でヘブライ人の奴隷たちが祖国を思って歌う「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」という合唱曲が感動的です。実はこの曲、イタリアの第二の国家と言われるほどイタリア人に愛されていて、イタリアが出場する国際試合ではイタリア人観客が一斉に歌って応援しています。 行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って:You Tube

ヘブライ人のバビロン捕囚は、ユダ王国を征服した新バビロニア王たるネブカドネザル二世(=ナブッコ)によって、B.C.597とB.C.586の二度にわたって行われています。そのヘブライ人を解放したのが、後に新バビロニアその他の国を征服し、オリエントを統一したキュロス大王(キュロス二世)なのです。すなわちアケメネス朝ペルシアの初代国王。

キュロス大王の次はカンビュセス2世、ダリウス一世、クセルクセス一世と続き、ダリウスの時代からペルシア戦役に突入します。

そういえば、ヴェルディのオペラには「アイーダ」というのもありますね。こちらは古代エジプトが舞台。

ちなみに、英国の第二の国家と言われているのはエルガーの「威風堂々」という曲。これはもともと器楽曲で、歌詞はついていなかったのですが、国際試合では、歌詞をつけて歌われています。これも聞いていて元気が出ますね。壮観です。 威風堂々:You Tube


ヘロドトス 歴史 第九巻
122節(最終節)について

2017年7月

ヘロドトスさん、最後にこんな話を持ってくるなんて、ひねりか効いてますな。 ペルシアのアケメネス朝初代王キュロスがいよいよメディアを滅ぼし、オリエントを統一しようとしている時期に、もっと豊饒な地に移住するべきだと建言されても、それを一蹴したエピソードを、この長大な物語の掉尾にもってくるとは。

もともと、キュロス大王のペルシアという領土は、現在のペルシャ湾の出口に近いホルムズ海峡の奥地にある高原地帯だった。それゆえ狭く、起伏の多い地から移住しようと考える者がいてもおかしくはない。(もっともその後、ペルシア王国の首都は、そこからずっと北西のペルシャ湾最奥部のスーサに移っているのだが。)

それなのに、どうして後に続く王たちが、あの狭く凸凹の多い、それほど肥沃とも言えない、ギリシャという土地をほしがったのか、という謎かけのようでもある。

もっとも、この「歴史」が九巻で完結しているのかどうか、学者の間では議論が分かれるところらしい。というのも、さまざまなエピソードを話している途中で、「後述する」と表現されている箇所がいくつかあり、それが尻切れトンボのままになっているためである。

素人ながら私の感想では、この最終節の構成からして、本人は実際に、書いている途中では書き足りないエピソードを後で書くつもりであったのかもしれないが、九巻まで書いてきて気が変わり、ここで終えることにしたのではないかと、思っている。あるいは長い話を書き継いでいる中で、「あとで説明する」といったことなど全く失念していた可能性も、なきにしもあらず。

かりに書き継ぐとするなら、最終節の前にそれらを配置しなければ、物語の構成がまったくおかしくなる。それほどまでに、この最終節の構成上の役割は重いと愚考する。


小よく大を制す
テルモピュレー(熱き門)
サラミス、桶狭間

2017年8月

「衆寡敵せず」という言葉があるが、第二次ペルシア戦役では、ペルシア側はまさにこれを地で行くつもりで、20万人(塩野七生氏の説)もの大軍でテルモピュレーに押し寄せ、鎧袖一触のつもりだったはず。

対するギリシャ側は、テルモピュレー(長さ約10Km、片側は急峻な崖、片側は海に落ち込む崖、道幅は最も狭いところで15m)の隘路で待ち受けた。内訳はスパルタの重装歩兵300人を中核としておよそ5千~7千。これがほぼ全滅するのだが、ペルシア側の損害はこれを大きく上回って、およそ2万。そしてここでペルシア軍の南下を食い止め、時間稼ぎをしたお陰で、次のサラミスにおける海戦の準備ができたのだ。そしてサラミスも狭い湾内での戦闘である。

これを要するに、寡兵が大軍と対等に戦うには、「狭い空間」に限るということ。はるか後年、A.D.1560(永禄3年)、ところも変わり東洋の東のはずれ、日本の戦国時代における新興勢力たる織田信長の小軍(2千)が今川義元の大軍(5千~6千;全勢力としては3万前後)を破ったのも、桶狭間という隘路での奇襲戦だった。もっとも当日の桶狭間は、今でいうところのすさまじい集中豪雨だったので、これも織田方に有利にはたらいた。

ペルシア戦役での大勝利によって、アテネを初めとするギリシャ人は自信を深め、その後の文明発展を遂げることになった。もちろん織田信長もこの勝利によって大いに自信を持ち、破竹の勢いで勢力を拡大していったことは、諸賢ご承知の通り。

クセルクセスとしては、ギリシャという、狭く痩せた地など「ほんの一握りの麦」ほどの価値しかないと思い、また大軍で押し寄せれば、ただちに征服できると思っていたのが、相手は刃向かう態度を見せ、それでも鎧袖一触と考えていたのが、逆にどこの戦場でも惨敗をきたし、ことごとく自分の予想を裏切る結果となり、クセルクセスは絶望と恐怖に陥ったのであろう。

その恐怖心から大慌てでアジアに逃げ帰ったが、それがきっかけでクセルクセスの中で何かが壊れたようだ。自信喪失のあまり、女にうつつを抜かすようになった(第九巻108節~113節)。


ペルシア戦争に吹いた神風

2017年8月

最初はB.C.492年。ダリウスの命を受けたマルドニオスが水軍を率いてアトス岬を迂回しているとき、アトス山から吹き下ろす強烈な北風に見舞われて軍船300隻、兵員2万人以上を失った。第六巻44節参照

二度目はB.C.480年。クセルクセスがサルディスを発してヘレスポントスに架橋工事を完成させたとき。一旦は完成した橋が、その直後,大嵐によって破壊された。 第七巻34節参照

三度目は同じくB.C.480年、アルテミシオンの海戦時。12年前にダリウスの水軍がアトス岬で暴風に襲われたのに懲りて、今回はその岬の根元に軍船を通すため、わざわざ大運河を開墾したというのに、やはり夏に吹く季節風で海戦の最中、風にやられている。 第七巻188節参照

四度目も同じくB.C.480年。クセルクセスがアジアに逃げ帰り、あとを任されたマルドニオスが水軍をマグネシアの海岸に碇泊させている時。ペリオン山から吹き下ろす強風によって大損害を被っている。 第八巻12節参照

ちなみに,日本の鎌倉時代にあった二度の元寇に対して神風が吹いたという説は、単純に暴風雨に遭って元軍が撤退したのではなく、日本の武士団が粘り強く抗戦している中で、暴風雨が到来したということらしい。。 神風 - Wikipedia


アトス修道院にいる日本人司祭

2017年12月

その人の名は、日本ハリスト正教会、およびギリシャ正教会に所属するパウエル中西裕一司祭。

この人の息子で、カメラマンの中西裕人氏が、聖地アトスの写真集を出版するという記事が、新潮社のPR誌「波」の2017年12月号に掲載されているので、ここに紹介しておきます。写真集の題名は『孤高の祈り ギリシャ正教の聖山アトス』。対談記事がネットに掲載されていますので、リンクしておきます。ギリシャ正教の祈りとは--中西裕人×最相葉月・対談

ヘロドトスの『歴史』に何度も出てくるアトス岬は、第六巻44節や第七巻22節で述べられている地中海の難所。ペルシア軍が夏の強い季節風で何度も大損害を被った場所だが、ここはギリシャ正教の聖地で、アトス自治修道士共和国というギリシャ正教最大の聖地となっていて、信徒以外の立ち入りは禁止されている(女人禁制)。1988年に世界遺産に認定。

この聖地には、およそ二千人の修道士が修行をしている由。撮影に当たり、息子の中西裕人氏もギリシャ正教に入信したという。

本邦ではギリシャ正教の聖堂は全部で60あまり、そのうち最も有名なのは東京、お茶の水にあるニコライ堂(東京復活大聖堂教会)。信者数は1万人あまり。対してカトリック信徒は44万人、聖堂は971との由。


『ギリシャ人の物語 Ⅲ」 塩野七生著
これにて完結

2018年1月

昨年末に発売され、早速購入して一気に通読。今回も楽しませていただきました。 格別印象に残ったのは、ソクラテスの裁判に関する記述と、アレキサンドロスの事績に関する部分。

ギリシャ哲学は、高校時代の「倫理・社会」で少し囓った程度。全く興味がないこともあり、何しろ退屈な授業だった。試験で「ソクラテスの用いた問答法を何というか?」と問われ、「産婆術」という正解を答えられなくて、地団駄を踏んだことがある。

試験前に教科書を一夜漬けで斜め読みしていたが、そんなこと、どこにも書いてなかったようだし、授業でも教師は言及していなかったような気がするーもっとも、居眠りしていた可能性が高いー。そんなこんなで、「授業で言ってないことを問題に出すなよ」と心の中では憤慨していたことを思い出した。以上、半世紀前の話。

今でいうところの五百名の裁判員裁判で「有罪」とされたソクラテスが、毒杯を仰いだ当時のアテネのどうしようもない凋落ぶりが強く印象に残った。

そういえば、「ソクラテスは亡命できたのに、なぜ敢えて毒杯を仰いだのか?」という設問もあったような。・・・その答えは本書に書かれています。

アレキサンドロスに関しては、本書のおよそ7割(全455頁中329頁)を費やして語られていて、これが滅法面白い。『偉人伝』のたぐいは何歳になって読んでも(小生、今年68歳)面白いものです。ただし書き手によりますが。

『ギリシャ人の物語・完結インタビュー』が、例によって新潮社の「波」2018年1月号に掲載されていますので、リンクしておきます。
『私は二千五百年を生きた・前編』
ついでと言っては何だが、次のようなインタビューもあります。
『ローマ亡き後の地中海世界』刊行記念対談

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