カイロプラクティック・アーカイブ:表紙へ   ヘロドトス:歴史へ

歴史 第六巻 エラトの巻 ヘロドトス
The History BOOK VI ERATO  Herodotus


英文サイト管理者の序

本著作は一般ライセンス下で認可されている(次のURLから入手できる)。
http://creativecommons.org/licenses/by-nc-sa/3.0/au/

本研究の複写、配布、展示、および派生研究などに関しては、下記の条件下でのみ許可される。

著作権者が指定する方法によって本著作の出典を明らかにすること。
本著作を商業目的に利用しないこと。
本著作を改編したり翻訳、追加した場合には、その研究著作をこれと同一のライセンス下でのみ配布して良い。
本著作を再利用および配布する場合には、必ずこの著作の認可条項を周知させ、明確にしなければならない。
著作権者からの許可を得るなら、上記の認可制限は解除される。公正に使用する限り、これを活用することと、他のあなたの権利は決して上記の認可制限に影響を受けるものではない。

line2

邦訳者(前田滋)の序

本訳文に関しては、英文サイトの著作権宣言と全く同一の事柄をここに宣言しておく。すなわち、

1. 本著作を商業目的に利用しないこと。
従って、金銭のやりとりを目的とするサイトへの引用・転載は一切してはならない。

2. 本著作を商用以外の目的で引用・転載を希望する場合には、全文ならなおさら、ごく一部であっても、必ず訳者(前田滋)の許可を取ること。メールはこちら

またその際には、必ず下記のURLと訳者(前田滋)の氏名を共に添付すること。
  http://www.asahi-net.or.jp/~xf6s-med/jherodotus-6.html

ただし、本サイトへのリンクはフリーとしますので、これはご自由にどうぞ。

3.商用以外の目的であっても、本著作を再利用、配布する場合には、必ずこの著作の認可条項を周知させ、明確にすること。

4. 当サイト(カイロプラクティック・アーカイブ)は、無断転載・盗用があまりにも多いので、これを防ぐためにほとんどのページを暗号化し、ダウンロードやプリントができないようにしてある。しかし、ヘロドトスの著作に関しては、英文サイトの情報公開理念に従って暗号化処理を施さず、自由にダウンロードできるようにした。

line2

歴史 第六巻 エラトの巻 ヘロドトス著
The History BOOK VI ERATO  Herodotus

底本(英訳文)
*The History Herodotus
 A.D.Godley
 Cambridge.Harvard University Press.1921
*The History Herodotus
 G.C.Macaulay
 Macmillan, London and NY 1890
*The History Herodotus
 George Rawlinson
 J.M.Dent,London 1858
*Inquiries Herodotus
 Shlomo Felberbaum
 work in progress 2003

邦訳:前田滋 (カイロプラクター、大阪・梅田)
( http://www.asahi-net.or.jp/~xf6s-med/jherodotus-6.html )

掲載日 2017.03.05

〜〜〜目 次〜〜〜

1-30   ヒスティアイオス−逃亡から死まで
31-40  ペルシアによるエーゲ海諸島、
       ヘレスポントス沿岸諸都市の攻略
43-45  マルドニオス(ペルシア)によるギリシア本土攻撃
46-50  タソスの降伏
51-93  二人のスパルタ王:クレオメネスとデマラトス
94-102  ペルシア遠征軍、諸島を経てマラトンへ
102-131 マラトンの戦い(第一次ペルシア戦役)
132-140 ミルティアデス



1.ミレトスの僭主ヒスティアイオスはダリウスに放免された後、サルディスに至った。かれがスーサからその地に来ると、サルディスの総督アルタフェルネスはかれに、イオニア人が反乱を起こした理由は何か、と問うた。ヒスティアイオスは今の騒動を全く知らぬげに、判らぬ、起きた事に驚いている、と返答した。

しかしアルタフェルネスは、かれが反乱の詳しい筋書きを承知の上で知らぬ振りをしていると見て取り、「ヒスティアイオス、お前に言ってやろう、この騒動の真実を。靴を縫い上げたのはお主で、それを履いたのはアリスタゴラスだ。」と告げた。

2.アルタフェルネスは反乱についてこう解いた。ヒスティアイオスはアルタフェルネスが事情を把握していることに怖れをなし、その日の夜にはさっさと海へ逃げ出した。というのもかれは、島々の中でも最大のサルディニア島を征服するとダリウスに約定して欺く一方で、ダリウスに敵対するイオニア人の将となることを目論んでいたからである。

かれはキオス島に渡ったが、そこでは、騒動を起こすためにダリウスに送り込まれたとキオス人に思われて捕らえられ、拘束された。しかしダリウス王に対する反抗の全貌を知るや、彼らはヒスティアイオスを解放した。

3.そこでヒスティアイオスはイオニア人に問われた。何ゆえアリスタゴラスに対して王に背くことを強く命令したのか、そして何ゆえイオニア人にあのようなひどい悪業を働いたのかと。ヒスティアイオスは真の理由を全て明かすことはせず、ダリウス王がフェニキア人をイオニアへ移住させ、イオニア人をフェニキアへ移住させることを目論んだので、反抗令を発したのだと語った。ダリウス王はそのような計画を持っていなかったが、ヒスティアイオスはイオニア人たちを恐怖に陥れたかったのである。

4.ヒスティアイオスはアタルネウス生まれのヘルミプスを使者に立て、サルディスのペルシア人たちに親書を託した。というのも彼らは以前に反乱について彼と謀議していたからである。ところがへルミプスは届け先の人たちにではなく、アルタフェルネスに親書を届けたのである。

アルタフェルネスは謀議が進行中であることを知り、へルミプスに対してはヒスティアイオスの親書を渡すべき者たちに届けるよう、そしてまたヒスティアイオスへのペルシア人たちの返書を自分に見せるよう指示した。こうして反乱者たちが白日の下に明らかとなり、アルタフェルネスは多数のペルシア人を死に追いやったのである。

5.当然サルディスには混乱が生じた。ヒスティアイオスの計画が失敗したことで、キオス人たちはかれをその要望に従ってミレトスに退かせた。しかしミレトス人たちはアリスタゴラスから解放されるだけで充分喜び、自由を謳歌しているので、別の僭主を受け入れるつもりはなかった。

さてヒスティアイオスは夜陰に乗じて強引にミレトスに入ろうとしたが、一人のミレトス人によって大腿を負傷した。かくの如く故国から追放されたので、かれはキオスに戻った。しかしキオス人から船を調達できなかったため、かれはミティリーニ(*)に渡り、そこで船を調達した。
(*)レスボス島の街;前田注

その船というのは八隻の三層櫂ガレー船で、ヒスティアイオスとともにビザンチウムまで航行した。彼らはそこで陣を構え、黒海から出帆してくる船をことごとく捕らえたのであるが、ヒスティアイオスに従うことを受け入れた者たちは捕らえることをしなかった。

6.さてミレトスには陸と海から大軍が押し寄せていた。ペルシアの諸将が配下の軍を統合して一軍となし、他の要塞都市に睨みをきかせつつ、ミレトスに向かっていたのである。船団の中ではフェニキア人たちが戦いに向けて気をはやらせていたが、新しく征服したキプロス人、シシリア人、エジプト人も彼らに従っていた。

7.以上の軍団がミレトスと他のイオニアを攻撃しようとしていた。これを知ったイオニア人はパニオニオン(1)に評議のための使者を送った。その会議では、ペルシア軍に対する陸上軍は派遣せず、ミレトス人だけで防御壁を守らせること、しかし最後の一隻に至るまで一刻も早く船を集め、船団に兵員を乗り込ませてラデに集結し、ミレトスの海戦に向かうことを決めた。ラデはミレトスの近くに浮かぶ小島である。
(1)ミケーレにあるイオニア同盟の聖地

8.そして兵を乗せた船でイオニア人たちはミレトスへやって来た。これにはレスボス島に住むアイオリス人たちも同行していた。彼らの戦闘隊形は次の如し。すなわちミレトス軍が東翼に八十隻、その横にプリエネ軍が十二隻とミエウス軍が三隻、ミエウスの横にはテオス軍が十七隻。そしてこの横にキオス軍が百隻。これらの船の近くに並んでエリュトゥラー軍が八隻。フォカイア軍が三隻、この横にレスボス軍が七十隻。最後に西翼を担うのは六十隻を擁するサモス軍であった。これら全てを合わせると三百五十三隻となる。

以上がイオニア人たちの船団である。これに加えて諸国から参戦した船が六百隻に上った。これら船団がミレトス海岸に到着し、陸上軍もそこに会した。

9.イオニア船団の数を知ったペルシアの将軍たちは、これではギリシャ軍に敗北するのではないかと怖れた。制海権を失えばミレトス攻略は不可能となり、加えてダリウス大王による酷い仕打ちが待っている。

このことを念頭におき、彼らは、ミレトスのアリスタゴラスによって政権から追放されてペルシアへ逃亡し、今はミレトス攻撃軍に加わっているイオニアの僭主たちを呼び寄せて宣告した。

「イオニアの僭主たちよ、このたびは諸卿それぞれが王家への忠誠を見せてもらいたい。まず諸卿の同胞を連合軍から引き離すよう努めてもらいたい。その際、次の約定を彼らに示してよい。すなわち、反乱の罪は問われない。神殿も家財も焼き払われない。ましてやこれまで以上に乱暴な仕打ちは決して受けない。」

「しかし、これに従わず戦いを挑むというなら、次の口上を述べて彼らを脅し、抑えつけよ。すなわち負け戦となれば、奴隷にされ、息子たちは去勢され、娘たちは捕らえられてバクトラ(*)に連れ去られ、領地は他国のものとなるであろう」
(*)ペルシア東端の街;前田注

10.そこでイオニア僭主たちは夜の内にそれぞれの国に伝令を送った。ところが、これを受け取ったイオニア人たちは、この伝言が自分たちだけに送られたものと解し、頑として裏切りを拒んだ。以上は、ペルシア軍がミレトスに到着した直後のことである。

11.一方、ラデに集結したイオニア人僭主たちは評議を開き、諸氏演説した中で、フォカイアの将軍ディオニシウスが説いた。

「イオニアの戦士たちよ、我らの立場は、自由市民になるか、奴隷になるか、逃亡奴隷になるか、まさにカミソリの刃の上にある。諸君に苦難に耐える覚悟があり、眼前の戦いに臨むなら、必ずや敵を打ち負かし、自由を手にするであろう。」

「しかるに諸君が怠惰で無統制であるなら、反乱の報いとなる王からの処罰は免れぬだろう。」

「我を信じよ、そして諸君の身を我に委ねよ。神が我らを公平に扱う限り、諸君に誓って言う、敵は我らとの交戦を避けるか、交戦しても完敗するであろう。」

12.これを聞き、イオニア人たちはディオニシウスに全てを委ねた。そこでかれは、日ごと縦列船隊を組んで海に出、漕ぎ手には船同士の戦列を突破させるように訓練し(2)、甲板上の人員には武装させた。それが終わったあとも船の錨を降ろして海に留め、終日イオニア人兵士たちを働かせた。
(2)この動きは、敵船の横列を突破し、敵船の舷側や船尾を攻撃する方法である。

七日間はディオニシウスの命令に従った兵士たちも、八日目には過酷な訓練と照りつける太陽に疲れ切り、訓練を放棄した。そして口々に言い合った。

「わしらにどんな罪があって、こんな試練をこなさねばならぬのか?たった三隻しか連れてきていないフォカイアの法螺吹き野郎に万事を委ね、塗炭の苦しみに苛まれるなど、わしらは気が狂って馬鹿げたことをやらかしてしまったもんだ。大勢がすでに病気に罹ってしまい、病気になりかけの者も大勢いるぞ。今の苦痛に比べれば、他のどんな苦しみでもそっちの方がマシというものぢゃ。この先何があろうとも今の重圧よりは、奴隷になる方が耐えられるぞ。最早あやつに従うのは止めよう!」

こう言って、以後は誰もディオニシウスに従おうとしなかった。そして陸上軍の如く島に天幕を張って日陰で過ごし、乗船することも訓練も拒んだ。

13.イオニア人たちの行状を知ったサモス人の将軍たちは、シュロソンの子アエアケスが以前ペルシアの指令によってもたらした要請、すなわちイオニア同盟を破棄せよという要請を思い出した。イオニア人たちの大混乱を見て、彼らはこの提案を呑むことにした。ダリウス王の兵力に勝てそうもなし、たとえ今の軍勢に勝ったとしても、次にはその五倍の軍勢を派遣してくることが判りきっていたからである。

そこで、イオニア人たちが役目を放棄するのを知るや、そのことを口実にして、自分たちの神殿や財産を守る方が有利であると判断したのである。伝言をもたらしたアエアケスは父の名をシュロソン、祖父の名をアエアケスと言ったが、他のイオニア僭主たちと同じく、ミレトスのアリスタゴラスによってサモスの支配権を剥奪されていたのである。

14.さてフェニキアの船隊が向かって来ると、イオニア軍は一列縦隊を組んで海上で彼らを迎え撃った。彼らは相手を引き寄せて互いに戦ったが、誰が勇敢で誰が臆病であったか、正確に述べることはできない。彼らは互いに責任をなすりつけ合ったからである。

サモス人が言うには、彼らはアエアケスとの取り決めに従って持ち場を離れ、十一隻を除いて残りは全てサモスに向けて帆を上げたということである。

残った船の船長たちは将軍たちの命に逆らって自分の配置につき、戦った。この行ないに対してサモスの人々は父祖の名と共に彼らの名を柱に刻み、その勇猛を讃えた。この顕彰碑は今もサモスのアゴラ(市場)にある。レスボス人は、横にいるサモス軍船が逃亡するのを見て同じ行動を取った。そしてイオニア軍船の殆どが同様に逃げ出した。

15.海戦の持ち場を離れずに戦った船団中、最も厳しい戦いを見せたのはキオス軍だった。それは彼らが臆病な振る舞いを潔しとせず、華々しい戦果を挙げたからである。

先の通り、彼らは百隻を擁し、それぞれの船には選抜された四十人の武装兵を乗せていた。そして多数の船が彼らを見捨てて連合軍から逃亡するのを見ても、臆病な振る舞いに同調しようともせず、僅かな連合軍とともに踏みとどまって戦い続け、敵の戦列突破を絶やさなかった。その結果、多数の敵船を撃破したが、自軍の船も多数失った。

16.キオス軍は残された船で自国に敗走した。損壊して動けなくなったキオス船の兵たちはミカレ岬に向けて逃げた。彼らは船を浜辺に乗り上げてそれを捨て、本土を横断して進んだ。

やがてキオス兵の行進はエフェソスの街に入ったが、それはちょうど街の女たちがテスモフォリアの祝祭を行なっている夜だった。エフェソス人たちはキオス人の戦闘の件を全く聞いておらず、侵略軍も見ていなかったので、彼らが女たちの後を追ってきた群盗であるとすっかり思い込んでしまった。そして国の兵を全員集め、キオス兵を殺戮してしまった。彼らの最期はかくの如し。

17.一方、フォカイアのディオニシウスは、イオニア軍の敗北を見て、分捕った敵の船三隻と共に逃走した。向かう先はフォカイアではなくーここも他のイオニアとともに攻略されることが判りきっていたー脇目も振らずフェニキアへ直行した。そこで数隻の商船を沈めて多額の金銭を奪い、シシリー島へと帆走した。そしてこの地を本拠地にして海賊となり、カルタゴ、ティレニアの船を襲ったが、ギリシャの船は避けた。

18.イオニア軍との海戦に勝利した後、ペルシア軍はミレトスを海陸両方から包囲し、あらゆる道具を利用して城壁の下を掘り進んだ。そしてミレトスが完全に陥落するまで、アリスタゴラスが反乱を起こしてから都合六年の歳月を要した(3)。その結果ミレトス人は奴隷にされたが、この受難はミレトスに下された神託の通りであった。
(3)BC.494

19.それは、アルゴス人たちがデルフォイで彼らの都市の安全について神託を請うた時のこと、アルゴス人への神託に加え、ミレトス人への神託も含まれていたのである。

アルゴス人への神託は本書中で然るべき箇所において述べるつもりであるが、次に挙げるのはミレトス人不在の元で下された神託である。

 「ミレトス、悪魔の所行の計略者よ、汝、多くのものの
 生贄となり、輝く贈与物となろう。汝らの妻女は
 長髪族の足を濯がされ、ディディマ(4)なる我が聖廟は
 他国の聖職者に委ねられよう」
(4)ミレトスの近くにあるアポロ聖廟のこと。ブランキダエとも呼ばれる。第一巻46節参照

この神託の通り、ミレトスの男たちは殆どが長髪のペルシア人に殺され、女子供は奴隷にされ、ディディマの神殿と神託所は掠奪、放火された。この神殿にあった財宝については本書のあちこちですでに述べている。

20.その後、捕虜となったミレトス人たちはスーサに連行された。ダリウス王は彼らに更なる危害を加えず、赤い海に面したアンペという街に住まわせた。この街のすぐ傍にはチグリス川が流れ、この海に流れ込んでいる。ミレトスに関しては、市街地と平原をペルシア人が手中にし、山地をペダサから来たカリア人に与えた。

21.ミレトス人がペルシア人からかくの如き仕打ちを受けるにつけ、国を追われてラウスとスキドロスに移住していたシバリス人たちは、彼らが以前ミレトスから受けた施しに報いることをしなかった。シバリス人がクロトン人に征服されたとき、ミレトスの人々は老いも若きも全員が頭を丸め、国を挙げて哀悼の意を表したのである。この二国ほど親密な関係を持った例を我らは知らない。

しかしアテネ人の取った行動は、これとは大いに違った。アテネの人々はミレトス陥落に対してさまざまな場面で深い哀悼の意を表した。特段の例を挙げるなら、プリュニコスが「ミレトス陥落」という劇を書いて上演したとき、劇場全体がむせび泣いたことがある。これに対して彼ら自身の災悪を想起させるという罪科をあげて千ドラクマもの罰金をプリュニコスに科し、以後の上演を禁じたのである。

22.そしてミレトスから人々はいなくなった。一方でサモスの富裕層たちは船団の将軍たちがペルシア軍に対して取った行動に不満を呈し、海戦の終わるや否や評議を開き、国に残ってペルシアとアエアケスの奴隷になるよりは、僭主のアエアケスが自分たちの国にやって来る前に植民地に向けて出帆することを決めた。

ちょうどこの頃、シシリーにあるザンクレ(5)の人々がイオニア人に使者をよこし、イオニア人が街作りを計画していた「美しい磯(Fair Coast)」に移住するよう提案していたのである。この「美しい磯」はシシリー島にあり、ティレニア海に面している。この招きに従って移住したのはイオニア人の中でもサモス人だけで、他にはミレトスの避難民が加わっていた。
(5)後のメッセネ、現在のメッシーナ

23.ところで彼らがシシリーに向かう航海の途中、エピゼフィリオイ・ロクリア(6)に到着した頃、丁度ザンクレ兵とその王スキュテスがシシリー島のある街を攻略しようとして包囲しているところだった。
(6)イタリア半島南端付近の都市。ギリシャ本土ロクリスからの植民都市

これを知ったレギウムの僭主アナクシラウスは、ザンクレと反目し合っていたことから、サモス人を説得して「美しい磯」行きを中止し、男子不在中のザンクレを共に占領しようと説いた。

そしてサモス人はこれに賛同し、ザンクレを獲得した。自分たちの街が占領されたことを知ったザンクレ兵はゲラの僭主ヒポクラテスに助力を要請するとともに、自分たちの街の救援に向かった。

しかし兵を引き連れて助けにやって来たヒポクラテスは、街を失ったという理由でスキュテスとその弟ピトゲネスを捕らえ、イニュクスの街へ送った。そしてヒポクラテスは残されたザンクレ人を裏切り、サモス人と合意し、誓約を取り交わした。

サモス人が合意した内容は、市中にある動産と奴隷のそれぞれ半分と市外にあるもの全てをヒポクラテスに帰するというものであった。

そしてかれは殆どのザンクレ人を奴隷として捕縛し、そのうちの主立った300人をサモス人に引き渡して死罪にさせようとしたが、彼らはそうしなかった(*)。
(*)この節の最後で文意に矛盾あり;前田注

24.一方ザンクレの僭主スキュテスはイニュクスから脱走してヒメラに逃げた。そしてそこからアジアに渡り、山野を越えてダリウス大王の元へたどり着いた。ダリウスは、これまでギリシャから来た者の中でかれが最も誠実であると見なした。

というのもかれはダリウスの許しを得てシシリーに帰ったが、そこから再びダリウスの元へ戻ったからである。そして年老いて死を迎えるまで、ペルシアで裕福に暮らした。このようにしてサモス人はペルシアから逃亡した後、ザンクレという美しい街に何の労苦もなく入植したのである。

25.ミレトスの海戦の後、フェニキア軍はペルシア軍の命によってシュロソンの息子アエアケスをサモスに戻した。これはペルシア軍に対する彼の貢献と業績が高く評価されたためである。反乱軍の中でサモスの船団のみが海戦から離脱したことにより、サモスの街や聖廟は焼き払われなかった。

ミレトス攻略後、ペルシア軍はすぐさまカリア地方(*)を攻略した。自発的に屈服した街もあったが、その他は武力で征服した。
(*)小アジアまたはアナトリア半島南西部(トルコ);前田注

26.この状況の下、ミレトス人のヒスティアイオスは、ミレトスの事件を知ったときにはビザンチウムに居て、黒海から出航してくるイオニアの商船を捕獲していた。かれはアフォロファーネスの息子でアビドス人のビサルテスにヘレスポントスのことを任せ、レスボス兵と共にキオスに向けて出航したが、キオスの警備船軍に阻まれたので、「キオスの谷」と呼ばれている低地で戦端を開いた。

そして多数の兵を斃した。残りの兵たちは海戦によって負傷していたこともあって、キオスのポリクネを陣地とするヒスティアイオス配下のレスボス兵によって制圧された。

27.都市や国家に甚大な脅威が迫っている時には、ある種の徴候があるものだが、キオスにおいても、この事変の生起する前に明らかな前兆があった。

その一つは、百人の若者からなる合唱舞踏隊がデルフォイに派遣されたのであるが、帰還したのは僅か二人だけで、残りの九十八人は疫病に罹って死んでしまったことがある。さらにこれとほぼ同じ頃で海戦の少し前のこと、学堂にいる百二十人の少年たちの上に屋根が落ちてきたのである。逃げおおせたのは一人だけだった。

神はかくのごとき前兆を示されたのだが、海戦が始まって街は消沈してしまった。海戦の直後にはレスボス兵を従えたヒスティアイオスが攻めてきたのだが、キオスの国は今述べたように悲惨な情況だったゆえ、あえなく陥落してしまった。

28.その後ヒスティアイオスはイオニア兵とアイオリス兵を大勢従えてタソス島を攻めた。ところがタソスを包囲中、フェニキア兵がイオニアの残った国々を攻略するために出航したという知らせがもたらされた。これを知ったヒスティアイオスはタソスの包囲を解き、全軍挙げてレスボス島に急行した。

ところがその軍隊は糧食不足に苦しんでいたので、アタルネウス(*)の穀物やミュシア地方のカイコスの穀物を手に入れるためにレスボス島から本土に渡った。しかしそこには偶然にもペルシアの将軍ハルパゴスが大軍を従えていた。ヒスティアイオスが上陸するやハルパゴスは戦いを仕掛けてかれを生け捕りにし、その軍の大半を壊滅したのである。
(*)小アジアの街;前田注

29.ヒスティアイオスが捕らえられた経緯は次の通り。ギリシャ軍はアタルネウス地方のメレネでペルシア軍と長時間にわたって戦ったが、ついにはペルシアの騎兵が突撃し、ギリシャ軍に襲いかかった。騎兵が勝敗を決したのである。ギリシャ軍とともに敗走する中、ダリウス大王は今回の反乱を起こした自分を殺さないだろうとヒスティアイオスは考えると命が惜しくなり、かれは次のような振る舞いに及んだ。

逃げている途中、ペルシア兵に追いつかれ、槍で突き刺されようとした時、ペルシア語で自分はミレトスのヒスティアイオスだ、と叫んだのである。

30.私の考えでは、かれがダリウス大王の元へ送られていたなら、大王は何も咎めず、彼の罪を許しもしたであろう。しかしヒスティアイオスがサルディスに送られるや、サルディス総督アルタフェルネスとかれを捕らえたハルパゴスは、ヒスティアイオスの行状を鑑み、またかれが逃走して再び王宮で勢力を取り戻すのではないかという疑心から、直ちにかれを刺殺し、首を塩漬けにしてスーサに居るダリウスの元へ送った。

これを知ったダリウスは、ヒスティアイオスを殺し、生かして連れてこなかったことで、それを実行した者たちを咎め、さらには首を清めた上で、ダリウス自身とペルシアに多大な貢献をなした者として手厚い儀式を執り行なって埋葬するように命じた。ヒスティアイオスに関しては以上。

31.さてペルシア艦隊はミレトスで冬を越し、翌年には出航して本土から少し離れた位置に浮かぶキオス島、レスボス島、テネドス島を難なく征服した。ペルシア軍が島を征服したときには常に住民を網ですくうように一掃していたが、彼らは次の如くにそれを行なった。

兵士たちが手を繋ぎ、北の海岸から南岸まで一線に並んで島全体を進み、住民を狩り出したのである。同様に彼らは本土のイオニア地方の諸都市を征服したが、住民を網ですくうやり方は実行不可能なため、この方法は採らなかった。

32.そしてペルシアの諸将は、対峙して陣を張るイオニア兵たちに脅しつけたことを忘れず実行した。すなわち彼らが諸都市を征服するや、とびきりの美少年を選んでその者たちを去勢し、美少女たちはダリウス大王の元へ連れ去ったのである。その上、都市は神殿とともに焼き払った。かくしてイオニアは隷属させられること三度に及んだ。最初はリディア人によって、残り二回はペルシア人によって。

33.その後、ペルシア艦隊はイオニアを出航し、ヘレスポントスの西側を全て攻略した。その東岸はすでにペルシア軍が陸上から占領していたからである。以下はヘレスポントスのヨーロッパ側である。多くの都市があるケルソネソス、ペリントス、トラキアの要塞群、セリンブリア、ビザンティオン。

ビザンティオン人とその対岸のカルケドン人はフェニキア軍を迎え撃つこともせず、自身の街を捨て、船で黒海に逃げ、メサンブリアという街に落ち延びた。フェニキア軍は先の都市群を焼き払った後、向きを変えてプロコネソスとアルタキに向かった。そして同じくこれらの街を焼き払った後、反転してケルソネソスに戻り、以前上陸した時に破壊できなかった残りの諸都市を攻略し尽くした。

しかしフェニキア軍はキュジコスへは決して船を向けなかった。この都市はフェニキア軍が遠征する以前から、ダスキュレイオンの総督で、メガバゾスの子オイバレスの合意の元、すでにダリウス大王の支配下に入っていたからである。こうしてフェニキア軍はカルディアの街を除き、ケルソネソスの全都市を征服したことになる。

34.これらの都市は、ステサゴラスを祖父に、キモンを父に持つミルティアデスが僭主として君臨していたが、それ以前はキュプセロスの子であるミルティアデスが次の如くに統治権を手にしていた。

元来ケルソネソスにはトラキアのドロンキ族が住んでいたが、アプシントス人が攻めてきたので、王たちは戦いに関する神託を乞うためにデルフォイに向かった。

デルフォイの巫女が答えるに、この聖域からの帰途、最初に手厚く遇してくれる最初の人物を国の創設者として連れ帰るがよい、と告げたのである。そこでドロンキ人たちは「聖なる道」(7)を進んで帰途についたが、ポキス、ボイオティアを過ぎても彼らを歓待してくれる者が現われなかったので、道を変えてアテネに向かった。
(7)ダウリス、パノペウス、カイロネアを経てコロネア、ハリアルトス、テーベに続き、その後キタエロン山を越えてエレウシスからアテネに至る。

35.その当時、アテネではペイシストラトスが全権を掌握していたが、キュプセロスを父に持つミルティアデスも多大な力を持っていた。かれは、四頭立て戦車を維持できるほどに裕福な家の出で、その出自はアイアコスとアイギーナにまで遡る。その家系がアテネ人となったのは最近で、アイアスの子ピライオスがアテネ人となった嚆矢である。

ミルティアデスが自宅の玄関前に座っていたとき、異国の身なりで槍を持ったドロンキ人が通りかかったのを見て、かれはその者たちを呼び寄せ、宿の提供と饗応を申し出た。彼らはその誘いを受け入れ、ミルティアデスのもてなしを受けた後、神託の内容を全て打ち明け、神託に従ってくれるよう、頼んだ。

ドロンキ人たちの話を聞くやいなやかれは承諾した。というのもかれはペイシストラトスの政治体制にうんざりし、そこから離れたがっていたからである。そして早速デルフォイに出かけ、ドロンキ人の依頼を受けるべきかどうかの神託を請うた。

36.巫女もまた同じことを告げた。かつて四頭立て戦車競技でオリンピック勝者となったことがあるキュプセロスの子ミルティアデスは、遠征に加わる希望者を募り、ドロンキ人とともに出航した。そしてかれを招いた者たちから僭主にと請われ、その国を支配したのである。

かれが最初に実施したことは、カルディアからパクティエ(8)に至るまでのケルソネソス地峡部に防護壁を築くことだった。これによってアプシンティオイ族(*1)の侵略を防いだのである。この地峡部は幅が三十六スタディア(*2)で、その距離は四百二十スタディア(*3)だった。
(8) ブライエの近くにあるガリポリの半島地峡部の幅は、およそ4.5マイル(7.2Km)
(*1)トラキアの一部族;前田注
(*2)180m×36≒6.5Km;前田注
(*3)180m×420≒76Km;前田注

37.ケルソネソスの地峡部に防護壁を築いてアプシンティオイ族の攻撃を防いだ後、ミルティアデスはランプサコス族との初戦に臨んだが、ランプサコス族は伏兵を用いてかれを捕らえてしまった。ところがミルティアデスは、リディアのクロイソス王と親密な仲だったので、クロイソス王が事情を知るや、かれはランプサコスに使者を派遣してミルティアデスを解放するよう通告した。さもなくば松の木を切り倒すように国を破壊すると脅迫したのである。

ランプサコス族は、松の木の如く破壊すると言って脅迫したクロイソスの言葉の意味を解するのに評議で紛糾した。そしてついに一人の長老がその意味を解いて言った。松は一旦切り倒されたなら二度と発芽しない唯一の木だ。それは徹底的に破壊するという意味だ、と。クロイソスの言葉に恐懼したランプサコス族は、ミルティアデスを解放して逃がしたのである。

38.クロイソス王の介入のお陰でかれは解放されたが、その後、子供をなさずに亡くなり、異母兄弟のキモンの子ステサゴラスに国の支配と財産を託した。彼の死後、ケルソネソスの人々は慣習に従って国祖としてかれに生贄を捧げ、馬車競走や体育競技を創設した。ただし、ランプサコス族の参加は許されなかった。

ランプサコス族との戦いにおいて、ステサゴラスもまた跡継ぎを残さずに死亡した。かれが市民集会所にいる時、脱走兵のふりをした凶暴な敵兵によって手斧で頭部を撃たれたのである。ステサゴラスの最期はかくの如し。

39.ペイシストラトス一族は、亡くなったステサゴラスの兄弟で、キモンの子であるミルティアデスを三層櫂ガレー船に乗せてケルソネセスに派遣し、国を支配させた。彼らはこれまでもミルティアデスの父キモンの死に荷担していなかった振りをして、アテネにおいてかれを上手に処遇していた。なお、キモンの死については別の所で述べる

ケルソネセスに到着後、ミルティアデスは自宅に籠もり、兄弟であるステサゴラスの喪に服する振りをしていた。ケルソネセスの人々がこれを知り、各地の部族の統治者たちが一同会して弔問に訪れた。しかしかれはその者たちを拘束してしまった。こうしてミルティアデスは自らケルソネソスの支配者となり、常に五百人の護衛部隊を従え、トラキア王オロロスの娘であるヘゲシピレを娶った。

40.さてキモンの子ミルティアデスがケルソネセスに来てから(9)程なくして、これまでよりも大きな問題が降りかかってきた。その2年前、かれはスキタイ人から逃れるために国を離れていた。スキタイ遊牧民はダリウスに攻め込まれたことに怒り、一団となって騎馬ではるばるケルソネセスに攻め入ってきたのである。
(9)BC.493

ミルティアデスは彼らを迎撃せず、スキタイ人がそこから離れ、ドロンキ族がかれを再び連れ戻すまでケルソネソスから逃亡していた。以上が、ミルティアデスが今のことに関わる2年前に起きたことである。

41.そして今、フェニキア兵がテネドス島に来ていることを知ったミルティアデスは、身近にある財産を五隻の三層櫂ガレー船に積み込んでアテネに向けて出航した。一行がカルディアからメラス湾を横断し、ケルソネソスの沿岸に沿って航行している時、フェニキアの軍船が襲いかかってきた。

ミルティアデス自身は四隻の船と共にインブロスに逃れたが、残りの一隻はフェニキア軍に追跡されて捕らえられてしまった。この船の船長はメティオコスといい、トラキア王オロロスの娘ではなく、別の夫人との間に生まれたミルティアデスの長男だった。

フェニキア軍はかれをその船と共に捕虜とした。そして船長がミルティアデスの息子であることを知り、これは大きな功労であると考え、かれをダリウス大王の元へ連行した。というのも、スキタイ族がイオニア人に向けて突きつけた要求、すなわち船を繋いで作り上げた橋を破壊して各自の国へ船で帰れ、という要求に従うべきという意見を述べたのがミルティアデスであったためである。

しかしながら、フェニキア人がメティオコスをダリウスの元に連行しても、王は何の危害も加えず、逆に遇すること厚く、邸宅と富、ペルシア人の妻とを与えた。そして生まれた子供はペルシア人と認めた。一方、ミルティアデスはインブロスからアテネに向かっていた。

42.この年(10)、ペルシアとイオニアとの間には更なる衝突はなかった。また同じ時期にイオニア人にとって大いに有益な出来事があった。それは、サルディス総督アルタフェルネスがイオニア各都市から代表者を招集し、イオニア人同士での盗みや略奪を禁止し、法の裁きに従うという協定をお互いに結ぶことを強要したのである。
(10)BC.493

その協定を結ばせた後、かれはイオニア各都市の規模を測量させた。単位はパラサングというペルシアの単位で、これは三十スタディア(*)に相当する。そしてこの時までずっと変わらずに決まっていた年貢を、測量結果に従って各都市が献納することを命じたのである。
(*)180m×30≒5.4Km;前田注

なお、指定された年貢の額は以前のそれとほぼ同額だった。ゆえにイオニアには平穏が保たれた。

43.翌年の早春(11)、ダリウスは諸将を解任したが、ゴブリアスの子マルドニオスを海陸の夥しい大軍の将としてイオニア沿岸に派遣した。このマルドニオスというのはまだ年若く、ダリウスの娘アルタゾストラを娶ったばかりだった。
(11)BC.492

マルドニオスは軍の基地キリキアに到着すると、みずから船に乗り込み、船団を従えて出航し、他の諸将には陸上軍を任せてヘレスポントスに向かわせた。

やがてマルドニオスがアジア側の沿岸を航行してイオニアに到着した時のことである。ギリシャ人なら信じられない驚異的な出来事があったので、ここに書き留めておく。それは七人の長老の中でオタネスという人物が、民主制がペルシアに最良の政治形態であると明言したのである(12)。その説に従って、マルドニオスはイオニア人僭主たちを全て解任し、それらの都市に民主制を敷いたのである
(12)第三巻80節参照

これを済ませた後、かれはヘレスポントスに急行した。海と陸の大軍を集結させた後、ペルシア軍は船でヘレスポントス(海峡)を渡り、エレトリアとアテネを目指して陸路をヨーロッパに進軍した。

44.しかしこれは遠征のための口実で、ペルシア軍は可能な限り多くのギリシャ諸都市を征服するつもりだった。海軍は抵抗の少ないタソスを攻略し、陸上軍はマケドニアを攻略し、それよりペルシアに近い地域ですでに従属している諸都市の一部にこれらを加えた。

さて船団はタソスから沿岸沿いに進み、アカントスに向かった。そしてアカントスを出航してアトス岬(*)を迂回しようとした時、とてつもない北風を伴う大嵐に見舞われて多数の船がアトスの海岸に打ち上げられてしまったのである。

(*)リンク先を参照。アトス岬の先端に屹立するアトス山は標高2033m。地中海では夏に強い北東の季節風が吹く。この北風が高い山に当たるといわゆる颪(おろし)という強烈な風になるのであろう。日本人の感覚では「暴風雨」の方が実感がわくのだが、英訳文には「北風」としか記されていないので、「暴風雨」とは書けなかった。;前田注

(*)現在、この地域はアトス自治修道士共和国というギリシャ正教最大の聖地となっていて、一般人の立ち入りは厳しく制限されている(女人禁制)。1988年に世界遺産認定;前田注

およそ三百隻の船と二万人以上の兵が失われたということである。アトスの沿岸には多くの野獣が棲息していて、それに襲われて絶命した者もいるし、岩に激しく打ちつけられた者もいる。泳げない者は溺死した。そして寒さで死んだ者もいる。以上、海軍はこのような事態となった

45.陸上軍を率いるマルドニオスはマケドニアで陣を張っていたが、トラキアのブリギ軍に夜襲をかけられて多数の兵士が斃され、マルドニオス自身も負傷した。しかし彼らがペルシアに屈服することは免れなかった。というのもマルドニオスは彼らを征服するまでこの地を離れなかったからである。

ブリギ族を征服した後、マルドニオスは麾下の軍を帰国の途につかせた。ブリギ族による軍の損失が大きかったのと、アトスにおける海軍の損失も多大だったからである。かくて不名誉な結末のままに遠征軍はアジアへ帰還したのであった。

46.この翌年(13)、タソスで謀反の計画ありという近隣諸国からの知らせを得て、ダリウスは、かの国の防護壁をみずから破壊し、その保有する船をアブデラに移せという命令をタソスに伝えた。
(13)BC.491

タソスはかつてミレトスのヒスティアイオスに包囲され攻められたことがあり、また裕福でもあったので、その富を用いて軍船を建造し、強固な防護壁を都市の周りに築いた。

彼らの財源は本土の領土と鉱山から得ていた。スカプテ・ヒーレ(14)の金鉱からは平均しておよそ八十タラントン(*)の収入があり、タソスの地元鉱山からはそれより少ないとは言え相当額の収入があった。従って作物に対する課税はなく、本土の領地と鉱山からは毎年平均して二百タラントンの収入があり、多い年には最大で三百タラントンもの収入があったのである。
(14)トラキア沿岸で、タソス島の対岸にある
(*)1タラントン=金にして約26Kg(アッティカ単位)〜約37Kg(アイギーナ単位);前田注

47.私はこれらの鉱山に行ったことがある。そのうち最も素晴らしいのはタソスという名のフェニキア人が同胞と共にこの島に入植し、発見した鉱山である。それ以後、この島はフェニキア人のタソスからその名をつけられたのである。

これらフェニキア人の鉱山はタソス島のアエニラとコエニラという場所の中間にあり、そこはサモトラケ島の対岸にあって、鉱脈を探すために掘り返された高い山の中にある。これに関しては以上。結局のところ、タソス人はダリウス王の命に従って城壁を破壊し、所有する船をアブデラに回送した。

48.この後ダリウスは、ギリシャ人がペルシアに刃向かおうとしているのか、恭順しようとしているのかを確かめるために、ギリシャ全土に使者を送り、それぞれに土地と水を差し出すよう要求した。

そしてこれと同時に、すでに属国となっているギリシャ沿岸の諸都市にも使者を送り、軍船と馬の運搬船の建造を命じた。

49.各地の都市は準備に取りかかった。その一方で、使者たちがギリシャに到着すると、ギリシャ本土の多くの都市、はたまた全ての島嶼はペルシアが要求した物を差し出した。そしてその中にはアイギーナも含まれていた。

アイギーナがペルシアの要求を受け入れたことを知ると、アテネは、アイギーナがアテネを攻略するために、その行動を取ったのだと推量し、やがてはペルシアと組んでアテネに遠征して来ると考え、アイギーナに向けて急ぎ進軍した。アテネにとっては、これがアイギーナに攻め入る絶好の口実となったのだ。またアテネはスパルタに使者を送り、アイギーナの行ないはギリシャを裏切るものであると告発したのである。

50.時のスパルタ王は、アナクサンドリデスの子クレオメネスだったが、かれはこの訴えをもとにアイギーナへ騎馬で駆けつけ、首謀者たちを捕らえようとした。しかしその時、それに抵抗したアイギーナ人の中でポリクリトスの子クリオスという者が、アイギーナ人を一人でも連行しようものなら無事には帰さぬぞ、と宣告した。この者が言うには、クレオメネスはスパルタの国としての権限を持たず、アテネ人に金を貰ってやって来ているのだ、そうでなければもう一人の王と共に来ているはずだ、と。デマラトスの差し金で、かれはこう言ったのである。

そしてクレオメネスがアイギーナから撤退する際、クリオス(15)にその名を問い、クリオスが正直に返答するとかれはこう言った。「牡羊よ、お前の角に青銅を張っておけ。近々大きな騒動に巻き込まれるだろうゆえ。」
(15)牡羊という意味

51.この頃、スパルタに残っていたアリストンの子デマラトスはクレオメネスの悪評を広めるのに奔走していた。この人物もスパルタの王だったが、クレオメネスよりは低い家系の出自だった。しかし実際にはいかなる点からも低いとは言えない。というのも彼らは共通の祖先を有しているのであるから。ただ、エウリステネス家(16)の方が直系であるため、より敬意を払われている。
(16)エウリステネスは伝説的なスパルタ王

52.どの詩人の伝えることとも一致しないが、ラケダイモン人(*1)が言うには、今のスパルタ領に彼らを引き連れてきたのは、ヒュロスを祖祖父、クレオダイオスを祖父、アリストマコスを父とするアリストデモス自身であって、彼の子孫ではない、ということである(*2)。
(*1)スパルタ人は自身をこう呼んでいるが、紛らわしいので以下はスパルタ人と表記する;前田注
(*2)一般的な伝承では、アリストデモスはスパルタ入植前に死んだとされている;前田注

スパルタ入植後、暫くしてアリストデモスの妻アルゲイアが子を産んだ。彼女は、ポリネイケス、テルサンダー、ティサメノス、アウテシオンの系譜に繋がる娘で、生んだのは双子だった。アリストデモスはその子たちを見た後、病死した。

当時のスパルタ人は慣習に従って長子を王につかせようとしたが、その双子はどこから見てもそっくりだったので、どちらが長子か判断できなかった。あるいはその前かもしれないが、彼らはその母親に、どちらが兄であるかを問うた。

その母は、どちらが兄か自分も判らないと言ったが、実際にはよく判っていたはずである。というのも彼女は何とかして二人とも王にしたかったのだ。スパルタ人は途方に暮れ、デルフォイに使者を送り、これについてどのように対処すべきか、神託を求めた。

巫女の返答は、二人を王にせよ、ただし兄の方に高い栄誉を与えよ、というものだった。この神託を聞いても、スパルタ人は以前と変わらず、どちらが兄であるかを見分ける方法が判らず困惑していた。この時、メッセニア人のパニテスという者がある助言を与えた。

彼の助言は、母親がどちらの子を先に沐浴させ、授乳するかを見極めよ。彼女が常に順を違えなければ、それで判別できるだろう。しかし、彼女がでたらめな順で事を行なうなら、母親も判っていないことが明らかとなるだろう。その時には他の方法を探すべきだ、というものだった。

スパルタ人はメッセニア人の助言に従った。見られている理由を母親に知らせぬままで、子供たちの母を観察すると、彼女は常に授乳と沐浴の際に同じ子を先にしていることが判った。そこでスパルタ人は先の子を第一子と見なして国費で養育し、その子をエウリステネスと命名し、もう一人をプロクレスと名づけた。

この兄弟は成人後も生涯にわたって確執が絶えず、彼らの子孫もまたずっと不仲だったということである。

53.以上の話を伝えているのはギリシャ人の中でもスパルタ人だけである。次に記すことはギリシャ人全般の伝えるところに基づいている。またダナエの子ペルセウスにまで遡るドーリア人の諸王については---その以前の神(17)の時代は伝えられていない---ギリシャ人の言い伝えが正確であり、これらの諸王がギリシャ人だったことも史実であると証明されている。そしてその前から、彼らはすでにギリシャ人であると見なされていたのである。
(17)ゼウスのこと。ペルセウスはゼウスとダナエの子とされる伝説上の神

先にペルセウスにまで遡ると書き、私がそれ以上の過去は取り上げないのは、ペルセウスの父の名が判らないからである。例えば、ヘラクレスの父の名はアンフィトリオンであると判っているように。従ってペルセウスにまで遡るギリシャの記録は正しいと私が言うのは、正当な理由によるものである。アクリシウスの娘ダナエから各時代の王たちの祖先を遡れば、ドーリア人の指導者たちは生粋のエジプト人であることが証明されるだろう。

54.以上、ギリシャ人の伝えるところに従ってその血統をたどった。ところがペルシア人の伝えでは、ペルセウスはギリシャに渡来したアッシリア人で、ギリシャ人を祖先とする者ではないとされている。ペルシアではアクリシウス(18)の祖先はペルセウスと血縁がなく、ギリシャ人の伝えによれば、エジプト人とされている。これに関しては以上。
(18)第七巻150節ではペルセウスはダナエを母とし、アクリシウスを祖父とする、と書かれている。ペルセウス伝説は明らかに矛盾と混乱が見られる。

55.エジプト人である彼らが、なにゆえ、またいかなる功績があってドーリア人の王となり得たかについては、他で語られているので、それについては省略する。ここでは、他で触れられていない事柄を取り上げることにする。

56.スパルタの王には次の権限が与えられている。すなわちゼウス・ラケダイモンとゼウス・ウラニオス(19)という二つの聖職。そして彼らは自分が意図するなら、どの国へでも軍を派遣できるという権限である。スパルタ人は誰もこれを妨げることはできない。もしそのようなことをする者があれば、その者は神を冒涜する者としてのそしりを受けることになる。進軍に際しては王が先頭に立ち、帰還時には最後尾につくのが習わしである。戦闘中は選ばれた百人の護衛兵を従え、出陣に際しては山羊・羊などの家畜を好きなだけ生贄として神に捧げ、その皮と背肉は王の物となる。以上、戦時下での権限。
(19)スパルタのゼウスと天上のゼウス

57.以下は平時における権限。公費で開催される生贄の儀式では、二人の王は最初に宴席に座り、最初に給仕を受ける。その量も宴席に連なる他の参加者の二倍。貢酒も最初。生贄にされる獣の皮も王の物となる。

新月ごとに、また毎月七日に、アポロ神殿に捧げるための成熟した生贄一頭と一メディムス(*)の大麦粉、ラコニア升(20)の1/4量の葡萄酒がそれぞれの王に公費で供される。競技を観覧する時には別に特別席が用意される。
(20)この容量は不明
(*)52〜58リットル;前田注

また、国外からの訪問者に対しては、その饗応役(21)の市民を誰であれ指名できる。そしてそれぞれの王は二人のピティアンを選任できる。ピティアンというのはデルフォイに神託を求めて派遣される使者で、公費で王とともに饗応を受けられる特権がある。王が公式の晩餐に出席しないときには2コエニクス(*1)の大麦粉、半パイント(*2)の葡萄酒がその屋敷に届けられる。出席するときには、その二倍の量が供される。個人によって私的な晩餐に招待される場合でも上と同じ待遇を受ける。
(21)通常は自国民を守るために任命される特別職。スパルタでは外国からの訪問者の便宜を図る公職。
(*1)約2リットル;前田注
(*2)約250ml;前田注)

二人の王は下された神託を管理・保管するが、ピティアンもそれを知っていなければならない。王が単独で裁定できるのは次のことだけである。すなわち未婚の女子相続人の婚約者を生前の父が決めていない場合、その配偶者を決めること。そして、公共の道路に関することである。

市民が養子を決めるときには、両王の立ち会いの下になされる。評議会には二十八人の長老とともに出席する。王が欠席すると、王に最も近い血縁の長老が王の権限を行使し、代理票として二票、自身の票として一票を投じる(22)。
(22)この部分の叙述に混乱あり。二人の王がそれぞれ二票を有するという意味ではなく、欠席している二人の王に二票が与えられ、その代理人たる近親者が一票を持つ。

58.両王は生涯にわたりスパルタ国家から以上の権限を与えられていて、その死に際してはつぎの特権を有する。騎馬による伝令がラコニア全土に急行して訃報を告知する。街の女たちは大鍋を打ち鳴らしながら歩き回る。その音が聞こえたら、各戸ごとに男女二人の自由市民が喪に服さねばならない。これを怠ると重い罰則が科せられる。

スパルタ王の死に際して行なわれる風習は、他のアジア人のそれと同じである。すなわちスパルタ王が死亡すると、スパルタ人に加えて、ラコニア地方全土からペリオイコイ(*)の一定数の人員が強制的に葬儀に参列させられる。
(*)スパルタ周辺部に居住し、農業や商工業に従事した自由人。市民権なし;前田注

ペリオイコイ、ヘロット(スパルタの奴隷)、スパルタ市民が女たちも含めて一堂に会し、数千人が集まったところで、彼らは、直前に亡くなった王が、歴代の王の中で最も偉大だったと叫びつつ、激しく額を叩きながら果てしなく大声で慟哭(どうこく)し続けるのである。王が戦死した時には、その像を造ってそれを美しく装飾された棺に横たえ、墓所に運ぶ。葬儀ののち十日間は評議会も行政官の選挙も行なわず、国を挙げて喪に服す。

59.スパルタ人がペルシア人と似ているところは他にもある。王が死んで次の者が王位に就くと、前任の王または国に対するスパルタ人の負債は帳消しにされる。ペルシアでは王が統治を始めるに当たり、統治下の全ての都市に対して未納の貢物は免除される。

60.スパルタ人は次の点ではエジプト人に似ている。伝奏者、音曲者、料理人は、その父からの技能を受け継ぎ、それぞれの仕事を世襲することになっている。例えば、声が大きく明瞭であるからと言っても、その者が伝奏者の地位を侵害することは許されないのである。彼らは生まれた直後から技能をたたき込まれるのだ。以上、かくの如し。

61.話をクレオメネスに戻す。アイギーナに留まっていたクレオメネスはギリシャの国益のために力を尽くしていたが、デマラトスはアイギーナのためではなく、嫉妬と羨望からかれを誹謗していたのである。クレオメネスはアイギーナから帰国すると、以下のことを口実にしてデマラトスを王位から追放しようと画策した。

かつてスパルタにはアリストンという王がいて、二度結婚したものの、二度とも子に恵まれなかった。かれは自分に原因があるとは思わなかったので、三度目の結婚をした。そしてこれは以下のような経緯がある。かれには特に親しいスパルタ人の友人がいた。この友人の妻はスパルタ随一の美人だったが、幼い頃は大変醜かったのである。

彼女の乳母はおさな子の醜い顔立ちや、裕福な両親を持ちながら不美人であること、そして両親が娘の容姿を大きな不運であると感じていることなどを見て、あることを実行したのである。乳母はその子をヘレネの聖廟へ毎日連れて行った。そこはテラプネ(23)といって、ポイボス(アポロン)の聖廟を越えたところにある。そこへ子供を連れて行くたびに乳母は子供を神像の前に立たせ、この子の不器量を取りのぞき給えと女神に祈ったのである。
(23)スパルタの南東にある。メネラウスとヘレネの伝説上の墓所。その神殿の基礎構造は今に残っている

そしてある時、聖廟からの帰り道でひとりの女が現れ、乳母が腕に抱いているのは何かと問いかけた。乳母が子供を抱いているのだと答えると、女は子を見せてくれと頼んだ。乳母は両親から誰にも子供を見せるなと言われていたので、見せることを断った。しかし女はなおも見せてくれと強く懇願した。

乳母は女がよほど執心していることを見て取り、遂に子供を見せた。女は子供の頭を撫でながら、この子はスパルタでとびきりの美人になるであろう、と呟いた。その日から子供の容貌が変わってゆき、年頃になって、アルケイデスの息子アゲトスと結婚したというのである。この者がアリストンの親しい友人なのだった。

62.アリストンはこの女性に横恋慕し身を苛まれた結果、あることを企てた。かれはアゲトスに向かって自分の持ち物の中で何でも好きな物を与えようと提案した。そして自分にも同じ約束を実行するよう無理強いしたのである。アリストンには妻がいるので、アゲトスは自分の妻のことは全く心配せずにアゲトスの提案を受け入れ、二人はこの言葉に誓いを立てたのである。

アリストンは自分の財宝の中からアゲトスの選んだ物を与え、自分にも同じ返礼を求め、その妻をよこせと迫ったのである。アゲトスは何でも与えると約束はしたが、それだけは別であると拒んだものの、誓約したことは曲げられず、この卑劣な策略にはまって妻を取られてしまった。

63.かくしてアリストンは二人目の妻と絶縁し、三人目の妻を娶った。しかし新妻は十月を経る前に、あまりにも早くデマラトスを出産したのである。

アリストンがエフォロス(*)たちと評議しているところへ彼の家僕が男児の誕生を知らせたとき、当人は結婚の時期を思い浮かべて指折り数え、神に誓って言った。「その子は我が子にあらず」と。エフォロスたちはこの言葉を聞いたが、その時はさしたることとも思わず聞き流していた。しかしその子が成長してから、デマラトスが自身の子であることを固く信じるようになっていたこともあって、アリストンは以前放った言葉を悔やんだ。
(*)スパルタの監督官で五名選出される;前田注

その子にデマラトスと名づけたのは、子供が生まれる前のことだが、アリストンがこれまでのスパルタ王の中でも最高の名声を得ていたこともあって、その王に息子が生まれるようにと、スパルタの全市民から祈りを捧げられていたからである。デマラトスというのは「人々の祈りへの返答」という意味である。

64.やがて時を経てアリストンが死に、デマラトスが王位を継いだ。しかし以上の事実が知れ渡るようになり、これがためにデマラトスは王位を失うことになる。それまでにかれはクレオメネスと仲違いしており、それはエレウシスから軍を引き上げた時と、このたびのペルシアに荷担しているアイギーナ人を捕らえに出向いた時に起きている。

65.クレオメネスはデマラトスへの報復を決意し、デマラトスと同じ一族で、アギスを祖父に持ち、メナレスを父とするレオティキデスと密約を交わした。その密約とは、デマラトスに代えてレオティキデスを王位につける代わりに、クレオメネスとともにアイギーナ征討に同行する、というものであった。

レオティキデスは以前からデマラトスに激しい敵意を抱いていたのだが、それは次の理由による。かれはデマルメノスを祖父に、キロンを父に持つペルカロスと婚約していたが、デマラトスがペルカロスをこっそり奪って先に結婚してしまったので、レオティキデスの結婚は水泡に帰してしまったのである。

このことがあってからレオティキデスはデマラトスに敵意を抱くようになっていたので、クレオメネスの誘いに対して承諾の誓いを立て、デマラトスはアリストンの息子ではないので、本来ならスパルタの王ではないと口上した。この誓いを立てた後、かれはデマラトスを告訴した。その理由としては、家僕が息子の誕生をアリストンに知らせたとき、かれが月数を数え、その子は自分の子ではないとかれが神に誓って口走ったことを再び取り上げたのである。

これを根拠にして、レオティキデスはデマラトスがアリストンの息子ではなく、従ってスパルタの正当な王ではないことを証明しようとした。そしてアリストンが上の言葉を発したとき、彼の横に座してそれを聞いていたエフェロス(監督官)たちを証人として召喚したのである。

66.これに関しては大論争が巻き起こったが、最終的にスパルタでは、デマラトスがアリストンの息子であるかどうか、デルフォイに神託を請うという結論に達した。

実は神託を請願することはクレオメネスの差し金によるものだった。かれはデルフォイ人の中で大きな勢力を誇るアリストファントスの子コボンを味方に引き入れており、コボンはペリアロスという巫女を通してクレオメネスの望む通りのことを言わせたのである。

果たしてデマラトスがアリストンの息子であるか否かの神託を、使者たちが求めると、巫女はそれを否定する答えを返したのである。その後、この間の事情が明らかになったことで、コボンはデルフォイから追放され、ペリアロスは巫女の地位を剥奪されたということである。以上、デマラトスが王位を剥奪されたいきさつである。その後、かれは以下に述べるような侮辱を受けたことによってペルシアへ亡命することになる。

67.デマラトスが王位を失った後、かれは選出されて行政官に就いた。ある時、ジムノパエディア(24)の開催中、今は王位に就いているレオティキデスが観衆の中にデマラトスを見つけるや、従者を使いに立て、「王をやめた後に行政官についた気分は如何?」と、からかいと侮蔑を込めて問いかけさせた。
(24)真夏のスパルタで開かれる、裸体の若者による祭礼。

この問いかけに怒り心頭に発したデマラトスは、「俺さまはレオティキデスに先んじて二つの役職をこなしたんだ。それから、こんな質問はスパルタにとっては、計り知れない災悪の始まりになるか、計り知れない幸運の始まりになるか、どちらかになるぞ。」と言い返した。このあとかれは頭を隠して劇場を後にし、自邸に戻るとすぐさま牡牛を一頭用意してゼウスへ捧げた。その後、母親を呼び寄せた。

68.母親がやって来ると、かれは生贄の臓物の一部をその両手に持たせ、懇願して言った。「母上よ、家神ゼウス、その他全ての神々にかけてお訊ねします。わが父はどなたか、本当のことをお答えくだされ。」

「あの騒ぎの時、レオティキデスが言うには、母上が父上の元へ来られたときには、前夫との間ですでに身ごもっておられたということです。なおも愚かなことには母上が家僕やロバ飼いと通じて私が生まれたのだという噂もあります。」

「神にかけてどうか真実をお話しくだされ。噂通りのことであっても、そのようなことをしているのは母上だけではありませぬ。多くの女たちも同様なことをしているのですから。なおも喧しいことには、アリストンには子種がなかったに違いない。さもなくば前の妻たちに子が生まれていたはずだと、スパルタでは言われております。」

69.そこで母親が返答するに、「息子よ、それほどまでに真実を知りたいというなら、本当のことを全て話しましょう。あれは父上の屋敷に連れて来られてから三日目の夜のこと、父上によく似た幻が私の目の前に現われたのじゃ。その幻が私と床入りした後、頭の花冠を私に被せると、立ち去られた。」

「そのあと父上がやって来られ、花冠をかぶっている私を見て、誰から花冠を貰ったのかを問われた。貴方から貰ったと答えると、父上はそれを否定なされた。そこで私は神に誓って言ったのです。貴方がやって来られる直前にその人が現れて私とともに床に入り、花冠を下さったと。それを否定なさるとは貴方の名誉に関わりましょう、とも言いました。」

「私が誓いを立てて語ったのを聞き、これは何かの神事であると父上は解された。そのあとで、花冠は屋敷の外門のそばに祀られているアストラバコス廟という英雄廟にあったものであることが判りました。そして予言者たちが言うには、私の元にやって来たのはこの英雄であるということです。息子よ、お前の知りたいことはこれで全てじゃ。」

「そなたがアストラバコスの子であろうと、アリストンの子であろうと、そなたを宿したのはその夜です。そなたの誕生を知らされたときに、父上自身が、十月に達していないという理由から大勢の前でそれを否定なさったことをあげつらって、対立勢力がそなたを攻撃しているようだが、父上は事情がよく判らぬままに、あのような戯れ言を放たれたのじゃ。」

「女というものは九ヶ月で子を産む者もあれば、七ヶ月で産む者もおります。誰でも十月で産むとは限りませぬ。私はそなたを七ヶ月で産んだのです。そのすぐ後に、あのようなことを口走ったのは、おのれの愚かさゆえであったと、父上は気づかれたのです。そなたの生まれにまつわるいきさつについて、他人の言うことを信じてはなりませぬ。さあ、これで全てを話しました。レオティキデスや他の男の女房たちをはじめ、口さがない者どもこそ、ロバ飼いの子を産みやれ。」デマラトスの母はこう語った。

70.知りたいことを聞いたデマラトスは旅の準備を調え、デルフォイに神託を請願しに行くと見せかけてエリスに向かった。しかしスパルタは国外逃亡の嫌疑でかれに追手を放った。

デマラトスは追手が来る前にエリスからザキントス島へ何とか逃れたが、スパルタの追手はそれに追いつき、彼の従者たちを捕らえた。しかしその後、ザキントス人はかれをスパルタに引き渡すことを拒んだので、かれはそこからアジアに渡り、ダリウス大王の元へ逃れた。ダリウスは敬意を持ってかれを受け入れ、領土と都市をデマラトスに与えた。

上述の如き好機を得てデマラトスはアジアに逃れたのだが、かれは多くの業績と知力によってスパルタ人に高い名声を博しており、またオリンピアにおいて四頭立て戦車競技で優勝して国威を発揚したのは、スパルタの王の中で彼のみだった。

71.デマラトスが王位を降されたあと、メナレスの子レオティキデスが後を継いで王位に就いた。その後、かれにはゼウクシデモスという息子が生まれたが、一部のスパルタ人からはシニスカスと呼ばれていた。このゼウクシデモスは、アルキデモスという息子を残してレオティキデスより先に死亡したので、王位に就くことはなかった。

ゼウクシデモスが亡くなったあと、レオティキデスはメニウスの姉妹でディアクトリデスの娘であるエウリダメと二度目の結婚をした。この妻からは息子は生まれず、ランピトという娘が生まれたが、この娘はレオティキデスの意向によって、ゼウクシデモスの子アルキデモスと結婚した。

72.ところが、レオティキデスもまた晩年までスパルタで過ごしたわけではなかった。つぎに述べるように、かれはデマラトスに対する行ないの報いを受けることになる。

あるときかれはテッサリア地方へ進軍したことがある(25)。そして全ての都市国家を征服できたかもしれないのに、多額の賄賂を手にしたのである。ところが陣中で、コインで膨れあがった袋に腰かけているところを目撃されて訴えられた結果、かれはスパルタから追放され、その屋敷は取り壊されるという仕儀となった。かれはテゲアに亡命し、その地で果てた。以上のことは随分あとになってからのことである。
(25)おそらくBC.475、あるいはBC.470

73.さて、デマラトスをうまく放逐したので、クレオメネスは直ちにレオティキデスを伴ってアイギーナの攻略に向かった。アイギーナの侮蔑的な応答に対して、かれは激しい憎悪を抱いていたからである。

アイギーナでは、二人の王がやって来たのを見て、これ以上抵抗しないのが最善策であると考え、富と血統の最も優れている十名を選び出し、中でもアイギーナ中、最も勢力を誇るポリクリトスの子クリオスとアリストクラテスの子カサンボスの二人を含めてスパルタ側に引き渡した。征討軍は彼らをアッティカ領内に連行し、アイギーナの最大の敵であるアテネに預けた。

74.その後、デマラトスに対するクレオメネスの策略が明らかとなるにおよび、かれはスパルタ人を怖れ、密かにテッサリア領へ逃亡した。そしてそこからアルカディアに行き、スパルタに対抗するべくアルカディア人を扇動し、糾合した。彼の人心掌握術は、自分の行くところならどこへでもついて行くと誓わせることの他、特にアルカディアの族長たちをノナクリスに連れて行き、スティクスの水(26)にかけて誓わせるというものであった。

ノナクリスの近くにはスティクスの水というアルカディアの水があると言われていて、それは岩の割れ目から水たまりにしたたり落ちている小さな水流である。その水たまりの周囲は小さな石で囲われている。この泉のあるノナクリスは、アルカディア領内のフェネオスの近くにある。
(26)ケルモス山北面の人気のない谷間を流れる水流

75.さて、クレオメネスの動きを知ったスパルタ人は怖れをなし、かれをスパルタに連れ戻し、以前と同じ王位に就けた。ところが、かれは逃亡から帰還した時には狂気に取りつかれていた。かれはそれ以前から正常な心を失っており、たまたま出会ったスパルタ人の顔を、誰であろうと杖で叩くのである。

このようなことが続き、彼の狂気が明らかとなったので、その近親者たちはかれに足枷をつけて拘束した。しかしある時、番人が一人だけであることを見て取ったクレオメネスは、短剣をよこせと言った。番人は最初は拒んだが、自分が自由の身になった暁にはどんな目に遭うか考えよ、と言って番人を脅した。その番人はヘロットという奴隷の身分だったので、その脅迫に怖れをなして短剣を与えてしまった。

クレオメネスは短剣を手にすると、わが身の脛から上方に深く切りつけ、そこから大腿部まで肉を長く切り、つぎには大腿から臀部、脇腹、腹部へ至るまで切り裂いたのである。かくしてかれは絶命した。

大方のギリシャ人の伝えるところでは、デマラトスついて自分に都合の良いように巫女に話させたのが、ことの原因であるとされている。アテネ人だけは、かつてかれがエレウシスに侵略し、神域を荒らしたためであるという。またアルゴス人のいうには、かつて戦いのあと、アルゴス人がかの国の聖廟(27)に逃げ込んだとき、そこから彼らを連れ出して斬り殺し、さらに聖廟の森まで焼き払った祟りであるという。
(27)本巻80節参照

76.かつてクレオメネスがデルフォイで神託を求めたとき、返ってきた神託は、かれはアルゴスを攻略するだろう、ということだった。そこで、スパルタ軍を率いてエラシノス川に着いたとき、かれはこの川に生贄を捧げた。このエラシノス川はスティンファリアン湖(28)から流れてきており、スティンファリアン湖は一度は暗渠に流れ込み、アルゴスで再び姿を現すので、その地点からの流れをエラシノス川とアルゴス人は呼んでいる。
(28)アルカディア地方のキレネ山麓にある湖。

予言は彼の遠征について凶と出た。そこでかれは言った。「エラシノス川が同胞を裏切らないことには敬意を払うが、たとえそうであってもアルゴス人は無傷では済ませない。」と。そしてかれは海に近いティレアまで軍を退き、生贄として牡牛を海に捧げてから船でティリュンス領を抜け、ナウプリアの街に向かった。

77.このことを知ったアルゴス軍はクレオメネスと一戦を交えるべく海岸へと進出した。そしてティレンスの近くでヘシペイアという場所でスパルタの陣と対峙して陣を構えた時、双方の陣営には僅かな余地しか残されていなかった。アルゴス人は、正々堂々の戦いに怖れを抱くものではなかったが、敵の策略を怖れた。

それというのも、アルゴス人とミレトス人に共通して下された巫女による神託の中に、それらしきことがあるからである。その神託は以下の通り。

 「女が男を打ち負かし退け(29)、
 勝利の栄光をアルゴスにもたらす時、
 アルゴスの女たちは頬を悲嘆の涙で濡らすだろう。
 やがていつの日か一人の男が現れ、語ることもあろう。
 三重(みえ)にとぐろを巻いたおぞましき大蛇が槍に突かれて
 死せり、と」
(29)策略を女、潔い戦を男とも読める。

これらの事情から、アルゴス軍の間に恐怖が広まった。そこで彼らは防御策として敵の先触れを利用することにした。すなわち、スパルタが兵たちに伝える合図を利用して、アルゴス兵もそっくりそのまま同じことをしたのである。

78.アルゴス軍がスパルタ軍の合図を使って同じことをしていると知ったクレオメネスは、一計を案じ、伝令が朝食の合図を叫んだ時には武器を取ってアルゴスを攻撃するように命令を発したのである。

スパルタ兵はこの通りに命令を実行し、アルゴス兵が合図に従って朝食を摂っている時に彼らに襲いかかり、多数のアルゴス兵を斃した。しかし、それに勝る数の兵たちがアルゴスの森に逃げ込んだので、スパルタ軍はそれを包囲して監視した。

79.つぎにクレオメネスの立てた作戦はこれである。アルゴスの逃亡兵から、聖域に立て籠もっているアルゴス兵の名前を聞き出し、その上で使者を送って一人ずつその名を呼び、身代金を受け取ったという虚偽の言葉で誘い出したのである。ペロポネソス諸国では、捕虜の身代金は一人につき2ミナエと決められている。かくしてクレオメネスは、およそ五十名のアルゴス兵を誘い出し、殺戮した。

聖域に籠もっている残りの兵士たちは、どういうわけかこのことに気がつかなかった。というのも、聖域の森が深いため、その中にいる者には外にいる者が何をしているのか知り得なかったからである。しかしようやく、ある兵士が木に登って何が起きているかを目撃してからは、使者が呼びかけても誰も応じなかったということである

80.そこでクレオメネスはヘロット(奴隷)たちに命じて森の周りに木を積み上げさせ、準備が整ったところで森に火をつけさせた。森が燃えているのを見ながら、そこに祀られている神は何かと、かれは一人の逃亡兵に問いただした。アルゴスの神、というのが返答だった。これを聞いたクレオメネスは大きなうなり声でつぶやいた。「アポロよ、神託の神よ、汝、われがアルゴスを制覇するであろうと、ゆゆしくも欺かれた。これが神託の成就なのであろうか。」

81.その後、クレオメネスは麾下の軍を殆どスパルタに帰し、自身は千名の精兵とともにヘラの聖廟(30)へ行き、生贄を奉納した。しかしクレオメネスが祭壇に生贄を捧げようとしたとき、神官は、他国の者が生贄を捧げることは許されぬ、と言ってそれを制止した。そこでかれはヘロット(奴隷)たちに命じて神官を祭壇から遠ざけて鞭打たせ、生贄の儀式を遂行した。これを終えてから、クレオメネスはスパルタに帰還した。
(30)アルゴスの北東約6.5Km

82.クレオメネスの帰国後、その敵対勢力は、アルゴスを難なく攻略できたかもしれないのに、賄賂をとってそれを回避した、という廉でかれをエフォロス(監督官)に告訴した。その真偽は定かではないが、クレオメネスは次のように主張した。すなわち、「アルゴスの聖域を制したことで、自分は神託が成就したものと考えた。それゆえ、生贄を捧げ、都市の攻略に関する神の諾否を確かめるまでは、何もしないのが最善策であると考えた。」

「ヘラの聖廟で予言を受けたとき、神像の胸から閃光が煌めいたので、アルゴス攻略は不可であると知った。頭から閃光が出ていたなら、それこそ頭から足まで徹底的にアルゴスを攻略したであろう。しかし胸から閃光が出たということは、神意を充分し尽くしたという徴(しるし)である。」

この主張はスパルタ人にとって信頼でき、また理にかなっているように思えた。その結果、かれは告発人たちの追求を易々と退けたのである。

83.ところで、アルゴスからは全ての市民男子がいなくなったので、戦死した兵士たちの息子が成長するまで、奴隷たちが全ての国事を取り仕切った。やがて息子たちが成長して国権を取り戻すと奴隷たちは放逐され、その奴隷たちは武力によってティリンスを征服した。

暫くの間は両国に平和が続いた。しかしあるとき、アルカディアのピガレイアの生れでクレアンダーという予言者がやって来ると、奴隷たちを煽勤して反乱を起した。そしてこれ以後、アルゴス市民と奴隷たちの間で長い戦いが続いたが、それを辛うじて制したのは結局アルゴス市民であった(31)。
(31)BC.468頃

84.アルゴス人が言うには、これらの事柄が原因となってクレオメネスが発狂し、不吉な死を迎えたということである。しかしスパルタでは、彼の狂気は神がかりによるものではなく、スキタイ人と交わることによって生のままで葡萄酒を飲むようになり、そのために発狂したと言われている。

かつてダリウス大王が遊牧の民スキタイ人の領土を侵略したとき、彼らは報復に執心し、スパルタに使者を送って同盟を結んだ。その内容は、スキタイ軍がファシス川を渡ってペルシアに侵入し、スパルタ軍がエフェソスから出発して内陸に進出し、スキタイ軍と合流するというものであった。

スキタイ人が同盟のためにスパルタに来たとき、クレオメネスは彼らと随分親しく交わり、親密になりすぎた挙げ句、葡萄酒を水で割らずに生のままで嗜むことを覚えたのである。これがためにかれは狂気にとらわれたとスパルタ人は見ている。それゆえ、以後のスパルタでは、強い酒を飲みたい時には「スキタイ式に注いでくれ」と言うようになった。

以上がクレオメネスについてスパルタで語り継がれていることであるが、クレオメネスの死にざまは、デマラトスを陥穽(かんせい)にはめたことに対する天罰であると、私は考える。

85.ところでクレオメネスの死を知ったアイギーナでは、アテネに幽閉されている人質を取り戻すべく、スパルタに使者を送り、レオティキデスを訴えた。スパルタ側は法廷を開き、レオティキデスがアイギーナ人に行なった行為は横暴かつ不法であるという裁定を下した。そしてアテネに捕らわれている者たちの代わりとして、レオティキデスをアイギーナからの使者に引き渡すという裁定を下した。

アイギーナの使者たちがレオティキデスを連れて行こうとしたとき、レオプレペスの子テアシデスという人望のある男が彼らに語りかけた。「アイギーナの方々よ、貴殿らはどうなさるおつもりか?市民から見放されたスパルタの王を連れて行くとでも?今は怒りに駆られてあのような裁決を下しはしたが、貴殿らがその通りの行動を取ったなら、やがては貴国が破滅に至る災厄を、スパルタがもたらすやもしれませぬぞ。」

これを聞いたアイギーナの使者たちはレオティキデスを連れ帰ることを諦め、代わりにレオティキデスが彼らとともにアテネに行き、捕虜たちをアイギーナに返す、という協定を結んだのである。

86.レオティキデスがアテネに着いて捕虜を返すように要求すると、アテネはそれに難色を示し、つぎのような言い訳をした。二人の王が捕虜を預けに来たのに、一人が欠け、一人の王だけに返すのは理屈が通らぬ、と。

アテネの拒否に対してレオティキデスは反論する。「アテネ人たちよ、好きになさるが良かろう。ただし捕虜を返すは道理、返さぬは非道理でござる。そして道理が損なわれた時にスパルタが何をしてきたかを、貴殿らにお聞かせいたそう。」

「われらスパルタには、三代前にエピシデスの子グラウコスという者がいたと伝えられている。この者は備わった美徳の中でも高潔であることにかけては、当時のスパルタでは誰も適うことはなかったという。」

「時至り、つぎのことがこの男に降りかかってきたということじゃ。それは、ミレトスから一人の男がスパルタにやって来て、グラウコスに会い、つぎのことを申し出た。」

"わが輩はミレトスの者じゃが、貴殿の高潔に頼りたきことがあって来たのじゃ、グラウコスよ。貴殿の高潔さについてはギリシャ中はもとより、イオニアでさえも、さんざん語られておるでな。さてペロポネソスはごく安全じゃが、イオニアは常に危険にさらされておってな。それゆえイオニアでは財産を保全できる者は誰もおらぬのじゃ。"

"これについて熟慮し、思案もした末に、わが輩の財産のうち半分を金に換えて貴殿に預けることにしましたのじゃ。貴殿に預かってもらうのが安全じゃと確信しておりますからの。どうか金を預かって下され。それから、この割符もな。そして同じ割符を持参して返却を求める者があれば、その者に金を戻して下されや。"

「ミレトスからの訪問者はこう語り、グラウコスは相手のいう条件で金を預かった。そして長い年月が過ぎ、金を預けた男の息子たちがスパルタにやって来てグラウコスに割符を見せ、金を返してもらいたいと告げた。」

「ところがグラウコスは次のように答えて彼らを追い返したのである。"そんなことは憶えていない。お前たちの言うことを聞いても何も思い出すことはない。思い出したなら、然るべく対処もしよう。私が金を預かっているなら、当然のことながらお返ししよう。私が全く金を預かっていないなら、ギリシャの法廷にお前たちを訴えることにする。ただしそれを決めるのは今日から四ヶ月後にしよう。"」

「ミレトス人たちは、金を欺し取られたとして悲嘆にくれて帰って行ったが、グラウコスはデルフォイに旅して神託を求めた。誓いを立てて金をわが物とすべきかどうかの神託を請うと、巫女は次の言葉でかれを強く咎めた。」

 "エピシデスの子グラウコスよ、
 誓いを捧げて金をものにするとは、
 今はさぞや利すること大であろう。
 立てるべし、誓いを。
 真実を誓う者にさえ死は待ち受けておるゆえ、な。
 しかれども誓いの神には名もなく手足もなき子ありて、
 この子が家族の全て、一族全てを素早く追い詰め、
 捕らえるや、破滅させるであろう。
 真実を誓う者の末裔にこそ、後の世に栄えあれ。"

これを聞いてグラウコスは、かくの如き神託を求めたことを神に詫びた。巫女が答えるに、神を試すことと悪行を実践することは等しきことなり、と。」

「そしてグラウコスはミレトスの訪問者たちを呼び寄せて金を返した。しかしアテネ人たちよ、聞き給え。なにゆえこの物語をお手前たちに話し始めたのかを。今ではグラウコスの子孫は絶えておる。その家屋敷も見当たらぬ。かの者はスパルタから根絶されたのじゃ。であるからして、預かり物を返せという求めがあれば、何はさておき、その通りにするのが得策というものじゃ。」

レオティキデスがこう言ってもアテネ人は聞く耳を持たず、仕方なくかれはアテネを去った。

87.さてアイギーナでは、テーベに取り入るつもりでアテネに加えた暴虐の報いを受けないうちに、以下の行動に出ていた。彼らはアテネ人から暴虐を受けていたことで憎悪をつのらせており、それに報復する準備をしていたのである。ちょうどアテネは五年ごとにスニオンで開く祭りの最中だったので、待ち伏せしてアテネの著名人が大勢乗っている神船を捕獲し、彼らを投獄したのだった。

88.アイギーナから被害を被ったアテネは、アイギーナに対するあらゆる敵対行為を即刻実行に移した。アイギーナにはクノエトスの子ニコドロモスという著明人がおり、以前アイギーナの島から追放されたことでアイギーナに怨みを抱いていた。アテネがアイギーナを攻撃することを知ったニコドロモスは、アイギーナを裏切るとアテネに約定し、アテネ兵がかれに合流して行動を起こす日を決めた。

89.その後、ニコドロモスは約定日に旧市街を占拠したが、その日にアテネ人は現れることはなかった。というのも、アテネには戦闘用の船が不足していたので、コリントに船を貸してくれるよう依頼している間に、計画は頓挫したのである。

その当時、コリントとアテネは親密な関係にあったので、コリントはアテネの依頼に応じる決定を下し、一隻につき五ドラクマという価格で二十隻の船を譲渡した。コリント法では、無償での譲渡は不可とされていたのである。これらの船とアテネの船を合わせて七十隻が兵を乗せてアイギーナに向けて出航したが、到着したのは約定日の一日後だった。

90.アテネ軍が約束の日に現われないことを知ったニコドロモスは、アイギーナから船で逃走した。これには他のアイギーナ人も同行したが、アテネは彼らの定住地としてスニオンを与えた。そして彼らはこの地から出撃してアイギーナ島を掠奪することを頻繁に繰り返した。しかしこれはずっと後の話である(32)。
(32)BC.490〜BC.480

91.アイギーナの富裕者たちは、ニコドロモスとともに蜂起した者たちを制圧、投獄し、最後には殺戮した。ところが、これがためにアイギーナには祟りが降りかかってきた。この祟りは生贄を捧げる儀式を行なうなど、いかなる努力にも拘わらず払いきれなかった。そして女神による慈悲を待つまでもなく、彼らは島から追放されてしまったのである。

彼らは七百人を生捕りにしたが、その者たちを死刑にするべく外に連れ出しているときに、そのうちの一人が縛めを解いて立法者デメテルの聖廟門まで逃走した。そしてその男は門の把手を掴み、しがみついたため、力づくで強引に引き離そうとしても無駄だった。そこで追手は男の両手を切断して連れ去ったが、残された両手は把手にしがみついたままだったということである。以上、アイギーナ人同士が演じた騒動である。

92.さてアテネ軍が来襲すると彼らは七十隻の船で海戦を繰り広げたが、アイギーナはこれに敗北し、以前と同じくアルゴスに救援を求めた。しかし今回アルゴスは助けを出そうとしなかった。それは前にクレオメネスがアイギーナの船を力づくで奪い、アルゴスの海岸に着けた上、スパルタ軍とともに乗組員が上陸したことがあったからである。

なおこの時、シキオンから来ていた軍もこれに与していたが、アルゴスはこれに対してアイギーナとシキオンそれぞれに五百タラントン(*)ずつ、計千タラントンの賠償金を要求した。シキオンはその非を認め、百タラントンの支払いで合意したが、アイギーナは非を認めず、傲慢な姿勢を崩さなかった。このことがあったため、アルゴスは救援要請に対して誰一人送らなかった。ただし五種競技(33)に熟達しているエウリバテスが司令官となり、この者がおよそ千人の志願兵を率いて救援に向かった。
(33)跳躍、円盤投げ、槍投げ、走力競争、レスリングの五種
(*)1タラントン=金にして約26Kg(アッティカ単位)〜約37Kg(アイギーナ単位);前田注

しかし、この兵士たちの殆どが帰還しなかった。彼らはアイギーナに侵攻してきたアテネ軍の手にかかって殺されてしまったのである。司令官のエウリバテス自身は一騎打ちによって三人の兵を斃したが、四人目の相手であるデケレイア出身のソファレスという兵によって斃された。

93.さてアイギーナの船隊はアテネ船隊の隊列が乱れているのを見て取り、攻撃を仕掛けた結果、四隻の船と乗員を捕獲した。以上、アテネとアイギーナの激戦である。

94.一方ペルシアではダリウス大王が独自の計画に取りかかっていた。これは、従臣が常にアテネのことを王に思い起こさせるよう仕向けていることと(34)、王の近くに仕えるペイシストラトス一族(*)がアテネを非難し続けていることによる。さらに、ダリウスはこれを口実にして土地と水を差し出さないギリシャ全土を征服したいと思っていたからである。
(34)第五巻105節参照;
(*)ペイシストラトスの息子ヒッピアス一族のことか?;前田注

王は遠征に失敗したマルドニオスを解任し、アテネとエレトリアの攻略司令官として他の将軍たちを任命した。それはペルシア生まれのダティスと王自身の甥であるアルタフェルネス(父はアルタフェルネス)だった。出発に当たり彼らに下された指令はアテネ、エレトリアの征服と、奴隷を王の面前へ連れ帰ることだった。

95.二人の司令官は王のもとを出発し、キリキアのアレイン平野に到着した。率いていたのは完全武装の大陸上軍である。軍はここに陣を張っていたが、そこへ諸国に命じていた海軍が全て合流した。加えて以前からダリウスが従属国に供出を命じていた馬の運搬船も到着した。

馬を運搬船に乗せ、陸上軍を六百隻の三層櫂ガレー船に収容してペルシア軍はイオニアに向けて出航した。アレインからはサモス島、イカロス島を経て島嶼をたどる航路を選び、本土沿岸に沿って直接ヘレスポントスとトラキアに向かう航路を取らなかった。私の考えでは、この経路を選択したのは、以前アトス岬を迂回する航路を取ったときに大災害に遭遇したことがあり、それを怖れたためである。さらにはナクソスが未征服のままで、ここがペルシアに反抗していたことによる。

96.船団がイカロス海からナクソスに到着し、船の錨を降ろすと(ペルシア軍は最初にナクソスを攻略するつもりだった)、以前の事件(35)を忘れていないナクソス人たちは迎撃しようとせず、山に逃げ込んだ。ペルシア軍は捕らえた住人を全て奴隷にし、ナクソスの聖廟と市街を焼き払ったあと、他の島嶼に向けて出航した。
(35)おそらく反乱に対するペルシアによる制圧事件のこと。本巻31〜32節参照

97.ペルシア軍がいよいよ進軍して来たので、デロス人もまた自分たちの島を後にしてテノス島に逃げた。船隊がデロスに近づくと、ダティスは船隊の先頭に進み、船隊をデロスに投錨させず、その先のレナイア島に碇泊させた。そしてデロス人が避難している場所を知ると、ダティスは次の布告を使者に託した。

「聖なる者たちよ、なぜ逃げ出したのか?わが輩の意図が判らぬか? 二神(36)の生誕地はもとより、領土も住民もを荒らさぬことは、わが輩の願いであり、またわが王の命でもある。家へ戻り、そなたらの島で暮らすがよい。」
(36)アポロとアルテミス

ダティスはデロス人に右の布告をし、重量にして三百タラントン(*)の乳香を祭壇に積み上げて焚いた。
(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)〜約37Kg(アイギーナ単位);前田注

98.この後、ダティスはまずエレトリアに船隊を進めたが、これにはイオニア人とアエオリア人も加わっていた。そして船隊が出帆した後、デロス島に地震が発生したが、これは後にも先にもなかったことであると、デロス人が伝えている。思うに、この予兆は天から下されたものであり、このあとに起きる凶事の前兆だった。

ヒスタスペスの子ダリウス、その子のクセルクセス、その子のアルタクセルクセスの(37)三代にわたってギリシャに起きた凶事は、ダリウスの二十世代前まで遡って起きたことよりも酷いものだった。その凶事はペルシアが原因のものもあり、都市国家間の指導者たちの覇権争いが原因のものもある。
(37)BC.522-BC.424

というわけで、それまでに起きたことのなかったデロスの地震は、不思議でも何でもない。その上、デロスに関する以下の神託も残されている。「いにしえより揺れずのデロス。われはこれを震撼させるであろう。」

また前記三代の王の名は、ギリシャ語では次の意味になる。ダリウスは実行者、クセルクセスは戦士、アルタクセルクセスは大戦士。ギリシャ人はこれらの王たちを自国語で呼んでも差し支えないだろう。

99.さてペルシア船隊はデロスを出航したあと島嶼に寄港し、島人の息子たちを人質に取りつつ兵士を徴用した。島嶼を巡る航海中、カリストスに寄港したとき、島人たちは近くの都市であるエレトリアとアテネに敵対することになるペルシア軍へ参加することも、人質を差し出すことも拒んだ。そこでペルシア軍は島を包囲し、島を荒らし回ったので、最後にはカリストスもペルシアに降伏した。

100.ペルシアの遠征船団が攻撃に向かってきていることを知ったエレトリアでは、アテネに援軍を求めた。アテネは助力を拒まなかったが、送ってきたのはカルキスに入植している馬飼いの小作人、四千人だった(38)。しかしエレトリアの作戦は的外れであるかと思われた。アテネに助けを求めながらも、国論は二分していたのである。
(38)第五巻77節参照

ある者は街を放棄してエウボエアの高地に陣取ることを主張し、ある者はペルシアからの利得を期待して、降伏することを画策していたのである。

時のエレトリア指導者の一人だったノトンの子アイスキネスは、二つの計画を知ってから、援軍のアテネ人に状況を説明し、当地の者とともに死なずに済むよう、母国に戻ることを勧告した。援軍のアテネ人たちはその勧告に従ってオロポスに渡り、危難から逃れたのであった。

101.一方ペルシア船団はエレトリア領内のテメノス、コイレアイ、アイギレアに船を入れるや、直ちに馬を下船させ、戦闘準備を調えた。

対するエレトリアは出撃して戦うつもりはなかった。街を放棄しないという主張が優勢だったゆえ、できるだけ城壁を守ることに心を砕いていた。城壁は激しい攻撃にさらされ、六日にわたって双方ともに多数の死者を出した。七日目に至り、アルキマコスの子エウフォルボスとキネアスの子フィラグロスというエレトリアの有名人ふたりがペルシアに寝返った。

ペルシア軍は街に進入し、かつてサルディスの聖廟を焼かれた報復として、その聖廟を掠奪し、焼き払った。加えて、ダリウスの命令のままに住民を奴隷に取った。

102.エレトリア征服後、数日おいてペルシア軍はアッティカ地方に向けて出航した。その意気込みたるや、アテネをエレトリアと同じ目に遭わせようと血気に逸っていた。

さてアッティカ地方のマラトン平原(39)が騎馬に最適な場所であることと、エレトリアにも近いという理由で、ペイシストラトスの子ヒッピアス(*)はここにペルシア軍を誘導していた。
(39)マラトンの戦場に関しては種々の疑問、議論がある。
(*)ペルシアに亡命していた;前田注

103.これを知ったアテネもマラトンに向けて軍を進めた。率いたのは十人の司令官(ストラテゴス)で、十番目にはミルティアデスがいた。彼の父キモンはステサゴラスの息子だが、かつてヒポクラテスの子ペイシストラトスによってアテネから国外追放されていたことがある。

キモンが追放されている期間に、かれは四頭立て戦車競技においてオリンピックで優勝したことがある。これによってキモンは腹違いの兄弟ミルティアデスと同じ勝利を獲得したことになる。そして翌年のオリンピック競技では同じ馬を駆って勝利したが、公式にはペイシストラトスを勝者とすることを容認した。そして勝利を譲ることでペイシストラトスと和解し、母国に復帰することを許されたのである。

しかしその後に開催されたオリンピック競技においても、かれは同じ馬を用いて優勝したのだが、すでに死亡していたペイシストラトスの息子たちに殺されてしまった。彼らは街の公会堂の近くで夜陰に乗じて刺客を待ち伏せさせ、キモンを殺害したのである。その亡骸(なきがら)は、街の前の「谷道」と呼ばれている道を越えた場所に埋葬されているが、三度のオリンピックで共に優勝した馬もその対面に埋められた。

ラコニア人のエバゴラスの馬たちも同じ偉業を成し遂げているが、同じ馬で三度優勝した例は、これ以外には例がない。

さてキモンの長男ステサゴラスはケルソネソスに住んでいたミルティアデスという叔父に養育されていたが、次男はアテネでキモンの下にいた。この息子はケルソネソスの開拓者であるミルティアデスの名前をもらっている。

104.アテネの司令官は、ケルソネソスから帰還していた、このミルティアデスだったが、かれは二度までも死を免れていたのである。一度目は、かれを捕らえてダリウスの下へ連れて行くことが大きな功績になると考えたフェニキア人が、はるばるインブロス島までかれを追跡してきたたこと。

二度目は、これを振り切って母国に帰り、一難去ったと思った矢先に敵対勢力に遭遇したこと。この時は法廷に引き出され、ケルソネソスにおける専制の廉で訴追されたが、何とか有罪を免れたあとで市民から選ばれ、アテネの司令官に任命されたのである。

105.司令官たちがまだアテネの街にいる間に、まずフィリピデスを使者としてスパルタに送った。この男はアテネ生まれで、長距離を走り抜くことに長けていて、それを仕事にしていた。

その彼自身が語ったことであるが、テガエの上にあるパルテノンの山中で牧羊神パンに出会ったときのアテネに向けた伝言がある。

牧羊神パンはフィリピデスの名を大声で呼び、自分はアテネのことを気に入っていて、これまで随分アテネに尽力していて、これからもそうするつもりであるのに、アテネ人はなぜ自分に気を遣わないのか訊いてくれ、と頼んだ

これを聞いたアテネ人は、フィリピデスの言葉を信じ、平時になってからアクロポリスの麓にパンの聖廟を建立した。そしてそれ以来、毎年生贄を捧げ、たいまつ競争を開催して牧羊神パンを宥めている。

106.フィリピデスがパンに出会ったことを語り、司令官たちから指令を受けてアテネを出発した日の翌日には(40)、かれはスパルタにいた。かれは執政官たちの前に行って口上を伝えた。
(40)アテネ・スパルタ間はおよそ240Km

「スパルタの方々よ、アテネはお手前方に救いを求めております。どうかギリシャで最古の都市が異国人によって隷属させられるのを傍観なされませぬよう。エレトリアも今は隷属状態となってしまい、この有力都市を失ったことでギリシャはさらに弱体化しておりますぞ。」

この口上を聞いたスパルタ人たちは、アテネに救援を出すことを決めたが、すぐには出発できなかった。というのも彼らはスパルタの慣例を破ることに躊躇したからである。その日は月の出から九日目だったが、満月になるまでは出陣できないと彼らは言ったのである(41)。そしてスパルタは満月まで待った。
(41)スパルタのカルネイオス月(アッティカのメタゲイニオン月:現代の八月後半から九月前半)では、月の七日目から十五日目までは アポロンを祭神とするカルネイアの祭礼が開かれる。

107.一方、ペルシア軍はペイシストラトスの子ヒッピアスに導かれてマラトンにやって来た。その前夜、かれは母親の腕に抱かれて寝ている夢を見た。

この夢によって、かれは追放を赦免され、アテネに帰れるのではないかと思った。その地位を回復し、母国で老いて死を迎えるまで。この夢をかれはこう解釈した。さてかれは道案内としてエレトリアの奴隷たちをスティリア人の支配下にあるアエギリア島に上陸させたあと、マラトンの海岸まで船隊を進め、そこに投錨した。そして異国の兵士たちを上陸させて配置につけた。

これに取りかかっている最中に、かれはいつになくひどいくしゃみと咳に襲われた。かれは老齢だったため、殆どの歯が弛んでいたのだが、咳のために一本の歯が抜け落ちてしまったのである。それが砂の中に埋もれてしまったので懸命に探しはしたものの、結局見つからなかった。

かれは深く溜息をつき、近くに立っている者たちに言った。「この国は我らの物ではない。我らはここを征服できぬだろう。ただし、かつてわれの取り分だった物は、わが歯が代わりに掴んでおるわ。」ヒッピアスが解釈した夢は、かくの如く現実となったのである。

108.さてアテネ軍がヘラクレスの神殿で隊列を整えている時、プラタイア人が全軍挙げて援軍に駆けつけた。かねてよりプラタイアはアテネの傘下に入っており(42)、またアテネはプラタイアのために多大な労苦を厭わなかったためである。その事情は以下の通り。
(42)ツキディデスによればBC.519、グローテはそれより後の年代を提示している。

かつてプラタイアがテーベから攻撃されていたとき、最初に、たまたまプラタイアに来ていたアナクサンドリデスの子クレオメネス率いるスパルタ軍に助けを求めたが、スパルタは承諾しなかった。その時の口上はこうだ。

「スパルタはプラタイアからあまりに遠いゆえ、我らの助けは間に合わぬであろう。貴国は我らが聞き知る前に何度も奴隷になるやもしれぬでな。それよりもアテネに助けを求められるがよろしかろう。アテネは貴国の隣国であるゆえ、悪いようにはせぬであろう。」

スパルタ人はこう助言したが、これはプラタイアに対する温情からではなく、アテネとボエオティアとの紛争を期待してのことであった。

プラタイアはこの助言に従ったが、アテネが十二神(43)に生贄を捧げる儀式を行なったとき、彼らは祈願者として祭壇に座ることでアテネの傘下に入ったのである。このことをテーベが知るとすぐにプラタイアに進軍して来たが、アテネは助けにやって来た。
(43)ゼウス、ヘラ、ポセイドン、デメテル、アポロ、アルテミス、ヘファエストス、アテナ、アレス、アフロディテ、ヘルメス、ヘスティアの十二神

両者が戦端を開こうとしたとき、ちょうど居合わせたコリント人たちがそれを止め、和解を提案した。両者はコリント人の仲裁を受け入れ、その結果、ボエオティアに帰属したくない者については、テーベはこれを咎めないという条件の下で、国の境界を確定した。この決定を提案してからコリント人たちは出発した。そしてアテネ人が帰国の途についたとき、ボエオティアはこれを攻撃したものの、戦いには負けてしまった。

アテネ軍は、コリント人がプラタイアのために裁定した国境を越えて進軍し、テーベとプラタイアおよびヒシアとの国境はアソポス川であると決めたのである。このような事情からプラタイアは先のごとくアテネの傘下に入り、いまマラトンに援軍を送ってきたのである。

109.ところで、アテネ軍内では司令官(ストラテゴス)同士の意見がちょうど二つに分かれていた。ペルシアの軍勢に対し、アテネ側はあまりに少数であるゆえの不戦派と、ミルティアデスを含む主戦派である。

かくして意見は対立し、しかも拙劣な意見の方が優勢だった。そこでアテネでは慣例に従い、軍の意見が二分した時に、最後の一票を投じる十一人目の軍長官(Polemarch)(44)を抽選によって選出することになった。この時の軍長官はアフィドナイの人カリマコスだったが、ミルティアデスはかれに言った。
(44)九人のアルコンから抽選によって選ばれる。

「カリマコスよ、アテネが隷属するか、自由の身となるかは貴殿の決断にかかっている。ゆえに後世のためにも、ハルモディウスやアリストゲイトンでさえ、なしえなかった名声を残すべきだ。アテネは未だかつてない危機に見舞われており、万一降伏すれば、ヒッピアスの圧政に苦しめられること必定である。逆にアテネが勝てば、ギリシャ都市国家の中で筆頭の地位を獲得するだろう。」

「そのために何をなすべきか、また貴殿に課せられている問題を如何に決断すべきか、貴殿に申し上げたい。いま十名の司令官は主戦派と非戦派に別れている。」

「いま戦いを避けたなら。アテネに大きな紛争が起き、その士気にも動揺が拡がり、そしてやがてはペルシアに屈することになるだろう。逆に、不埒な考えがアテネ市民に蔓延する前に戦いを仕掛けたなら、神が公正である限り、勝てるだろう。」

「これら全てが貴殿にかかっているのだ。我に票を投じたなら、貴殿の国は自由となり、またギリシャで第一の国となるだろう。万一非戦に票を投じたなら、わが輩が数え上げた栄光の結末と逆のことが到来するだろう。」

110.この言説によってミルティアデスはカリマコスを説き伏せ、軍長官の票を獲得したことで、開戦が決定された。その後、開戦に賛成した司令官たちは総司令官の順番が巡ってくると(45)(*)、ミルティアデスにその席を譲った。かれはそれを引き受けたが、本来の自分の順番が巡ってくるまで攻撃を開始しなかった。
(45)総司令官は各司令官が一日交替で順番に担当した。
(*)塩野七生氏(ギリシャ人の物語T)によれば、四日ごととされている;前田注

(*)それにしても戦闘時にも総司令官を輪番制にするとは! どこぞの国の「お手々つないで皆でゴール」を想起して嗤ってしまうが、 さすがに国家存亡時にはまづいと思うくらいの常識は、 持ち合わせていたものとみえる。;前田注

111.総司令官の番が回って来ると、ミルティアデスは戦闘隊形を調えた。まず軍長官のカリマコスを右翼司令官に指定した。アテネの慣習では、軍長官は右翼を担当することになっているのである。これに続いて各地区(トリブス*)からの部隊が順に配置され(46)、プラタイアからの部隊は最後に配置につき、左翼を担った。
(46)行政区の順は決まっていたが、プルタークの戦記では別の順で配置されたとしている。おそらく籤で配置を決めたのであろう。
(*)原意は「部族」だが、この頃のアテネは「行政区」となっていた;前田注

この戦いのあと、アテネで四年目ごとに開かれる祝祭(47)における生贄儀式では、アテネの使者はアテネとプラタイアのための吉事を祈願することになったのである。
(47)大パナテナイア祭とポセイドン祭

マラトンでのアテネ軍は、その陣の幅をペルシアの陣形幅と同じに取った。ただし、中央部では兵士は数列の奥行きしかなく、最も手薄だったが、代わりに両翼は兵士の数を増やし、厚く布陣した。
*ギリシャとペルシアの布陣;前田注

112.戦闘配置が完了し、生贄儀式も吉と出たので、アテネ軍は駆け足で敵陣に突撃した。この時の両陣営の距離は少なくとも八スタディア(*)はあった。
(*)180m×8≒1.4Km;前田注

ペルシア軍は敵が駆け足で向かってくるのを見て、それに備えたが、アテネ軍は完全に狂っていると見た。というのも兵士の人数が少ない上に走るのが速く、騎馬隊や弓手隊さえ伴っていなかったからである。

ペルシア軍はこのように見て取ったが、いざアテネ軍が一斉にペルシア軍に襲いかかったとき、後世に伝えるべき画期的な戦法を採ったのである。我らが知る限り、駆け足戦法を用いたのは、このギリシャ兵が初めてである。またペルシアの衣服や、それを着用している兵士を見ても怯むことがなかったのも、この時のアテネ兵が初めてだった。それまでは、ペルシア人の名前を耳にするだけでもギリシャ人は震えあがっていたのである。

113.マラトン平原での戦闘は長時間になった。戦線の中央ではペルシア人とサカイ人(*)を配した部隊が優勢だった。このペルシア部隊は相手を押し込み、内陸に向けて進んだ。しかし両翼のアテネ軍とプラタイア軍は敵を圧倒していた。
(*)イラン高原北部の部族;前田注

勝っている両翼では、総崩れとなった敵兵が敗走するのは追わず、押し込まれていた中央部で合流し、敵を攻撃した。そして勝ったアテネ軍は、敗走するペルシア兵を追跡して斃した。海岸まで追いかけたアテネ軍は灯りを探し求めてペルシア船団を捕獲した。

114.この戦闘では、軍長官のカリマコスが勇敢に戦って戦死し、司令官の一人でティサシラウスの子ステシラウスも戦死した。エウフォリオンの子キナエゲイロス(48)は敵船の船尾飾りを掴んだところ、その腕を斧で切断されて死んだ。その他多くの著名なアテネ人が、この戦闘で戦死した。
(48)悲劇作家アイスキュロスの兄弟。アイスキュロスも参戦した。

115.結局、アテネ軍は七隻の船を捕獲した。他のペルシア船は岸から離れ、以前島に預けていたエレトリアの奴隷を引き取ったあと、アテネ軍よりも先にアテネの街に到達するつもりで、スニオン岬を回る航路を取った。ただ、この後のアテネでは、アルクメオン家の陰謀によって、ペルシア軍がこの行動を取ったのだという告発騒ぎが起きた。当該家の者がペルシア軍が乗っている船に向けて、盾を掲げて合図をしたというのである。

116.ペルシア船団がスニオン岬を回っているとき、アテネ軍は街を守るべく、できる限り速く行軍したので、敵軍よりも早く街にたどり着いた(*1)。そしてギリシャ軍はマラトンにあるヘラクレス聖廟に陣を設営していたので、今回もキノサルゲスにあるヘラクレス聖廟に陣取った。一方ペルシア軍は、その当時アテネの軍港だったファレロン沖に到着して投錨したが、暫く碇泊した後に出航し、アジアに帰っていった(*2)。

(*1)ペルシア軍にはまだ手つかずの兵が一万残っていた。この軍勢とマラトンの生き残りとが合流して、女と子供だけで兵士がいないアテネを急襲する恐れがあったので、アテネ軍は帰国を急がねばならなかった。;前田注

(*2)なぜペルシア軍はアテネを攻撃せずに撤退したのか理由は不明。塩野七生氏の説では、ペルシアの二将軍の官僚的な気質がそうさせた、ということである。つまり、さらなる失敗を怖れ、取りあえずはエレトリア征服と奴隷という成果をダリウスへ持ち帰ることで、自らの安泰を図ったということらしい。それにしてもヘロドトスの調査力(ヒストリアイ)がこの場には及ばなかったということか。他の場面では、ペルシャの内部事情についてやたら詳しいのだが。ここは「どうした、ヘロドトス」と野次が飛ぶところである。尤も、ダティスとアルタフェルネスが、身の回りの雑用をこなす奴隷身分の従者たちを完全に排除し、文字通り二人きりの密談を行なったとしたら、その内容は決して外部には漏れないだろう。;前田注

117.マラトンの戦闘ではペルシア軍の戦死者は六千四百名で、アテネ軍は百九十二名だった。これが双方の戦死者数である(*)。

(*)マラトンでのペルシア側の軍勢は一万五千、アテネ側の軍勢は一万---塩野七生著「ギリシャ人の物語T」参照;前田注

(*)近代オリンピックのマラソン競技は、この地の名前に由来することはあまりに有名。マラトンでの勝利の報をできるだけ早く祖国に知らせるべく、一人の兵士がマラトンの平原(およそ三十六Km)を突切って走りきり、アテネに勝利を知らせた直後に絶命したという逸話が伝えられているが、本書には記載されていない。どうやら後からつけ足された架空の話らしい。本巻105節に登場する韋駄天フィリピデスの話と混同している人もあるようだ。;前田注

(*)その後の調査結果;プルターク(PlutarchまたはPlutarchus;46年〜48年頃ー127年頃、言わずもがな、対比列伝、または英雄伝の著者)の倫理論集(Moralia;世界最古の随想録)中、(De gloria Atheniensiumアテナイびとの名声は戦によるか、知によるか?)の巻に当の記述を見つけた。それによると、

(*)「マラトン勝利の報せを最初にもたらしたのはエラエオダイ(Eroeadae)の テラシッポス(Thersippus)であると、ポントス(Pontus)のヘラクレイドス(Heracleides)は 伝えているが、大方の史家の伝えるところでは、完全武装の上、 戦闘で気が激したまま走り続けたのはエウクレス(Eucles)という兵士で、 この男はアテネについて最初に目についた家の扉を開けて倒れ込むと、 次の言葉だけを口走って息絶えた、ということである。"神は我らを救へり。我らが勝った。"」 このあとは歴史家の置かれている状況に話が移り、この逸話の真偽について言及していない。

ところで、マラトンでは次のような不思議な出来事があった。クファゴラスの子エピゼロスは勇敢に戦っていたが、身体のどこも殴られたり叩かれたりしていないのに眼が見えなくなり、その後の生涯はずっと盲目のままだったということである。

かれがこの不運な話をしているのを聞くところによると、背の高い戦士が自分に向かってくるのに気づき、そしてその戦士の巨大な顎髭が自分の盾に覆い被さったと思った刹那、その幻が自分をやり過ごし、傍にいる戦士を斃した、ということである。以上、エピゼロスの談。

118.さて、ダティスは麾下の軍をアジアに進めた。ミコノス島に到着し、寝ているときにある夢を見た。その夢がどんな内容であるかは不明だが、夜が明けるとすぐに船団を捜索させた。そしてフェニキア船内に金張りのアポロ像を発見し、それをどこで掠奪したのかを質した。その掠奪した聖廟を聞いたのち、自分の船でデロスに向かった。

デロス人はその時には自分の島に戻っていたが、ダティスは先の神像を聖廟に設置し、カルキスの対岸にあるテーベ領のデリオンにこれを戻すよう命令した.

ダティスはこう命じてから船で去ったが、デロス人はその神像を戻さなかった。それからはるか二十年後に、ようやく神託に従ってテーベ人がデリオンにその神像を戻したのである。

119.ダティスとアルタフェルネスは船でアジアに到着すると、エレトリアの奴隷たちを内陸のスーサに連行した。

エレトリア人が捕囚される以前、ペルシアが挑発していないのに彼らがダリウスに災悪を及ぼしたとして、大王は激怒していた。しかし王の面前に引き出され、服従している彼らを見ても、王は彼らに危害を加えることなく、キッシア地方のアンデリッカという街に住まわせた。この場所はスーサから二百十スタディア(180m×210≒38Km)離れており、三種の物質を産する井戸からは40スタディア(180m×40≒7.2Km)離れている。

その井戸からは、アスファルトと塩、油が以下の要領で産出される。引き上げには釣瓶を用いる。籠の代わりに半分に切った革袋を釣瓶に縛りつけ、それを井戸に下ろして液体を汲み上げ、溜め池に注ぐ。その後は三種の工程を経て別の容器に移すのである。アスファルトと塩はすぐに凝固する。ペルシア人がラディナケと呼んでいる油(49)は黒色で悪臭を放っている(*)。
(49)石油のこと

(*)この節の記述は極めて不明瞭。上流階級に属するヘロドトスにとっては、現場の汚れ仕事の作業内容はチンプンカンプンだったことであろう。また大昔のことゆえ、物理化学的な知識も乏しかったにちがいない;前田注

ダリウスはそこにエレトリア人を住まわせ、彼らは当時の古い言語のままで、今現在までそこに定住している。エレトリア人については以上。

120.さて、満月を迎えてからスパルタ軍がアテネに向けて出発した。急ぎに急ぎ、アッティカに到着したのはスパルタを発してから三日後だった。戦闘には間に合わなかったが、ペルシア人を見たかったので、彼らはマラトンに行き、その姿を見た。そしてアテネ人と、その勲功を賞賛し、帰国した。

121.ところで私には次のことが不思議で、とても信じられないのだ。アルクメオン家が、アテネをペルシアとヒッピアスに屈服させようとして、ペルシア船団に向けて盾を掲げて合図を送ったと報じられていることである。この一家はカリアス(ファエニポスの子で、ヒポニコスの父)と同じく、あるいはそれ以上に明らかな反僭主派であるゆえに。

ペイシストラトスがアテネから追放されたあと、その財産を国が売り出したとき、敢えてそれを買い取ったのが、アテネでただ一人、カリアスだった。またかれはペイシストラトスに対してさまざまな敵対行為を行なっている。

122.(50)このカリアスという男は、種々の理由であらゆる人が記憶に止めておくべき人物である。第一に、母国の開放に大いに貢献したことは既述の通り。二番目に、オリンピアでの功績がある。ここでかれは 競馬で優勝し、四頭立て戦車競技で二位を獲得し、それ以前にピュティア競技でも優勝している。その他、気前のよい派手な金遣いにかけてはギリシャ中で注目の的だった。

そして三番目は、三人の娘に対して大きな寛容を見せたこと。娘たちが婚期に達すると、多大な持参金をそれぞれに与え、その上、アテネ中で娘がこれと選んだ相手に嫁がせたのである。

(50)本節は後に挿入されたと見なされている。ヘロドトスの文体、文脈とは異なる

123.アルクメオン家がカリアスに負けず劣らず僭主嫌いだったので、盾を掲げて合図をしたという告発が、私には不可解であるし、信じられない。この一族は僭主制が続いている期間はずっと亡命していたし、ペイシストラトスの息子たちを僭主の地位から追い落とす策略を練ったのも彼らなのであるから。

私の評するところでは、アテネの解放に貢献したのは、ハルモディウスやアリストゲイトンよりアルクメオン家の方がはるかに大である。というのは、この両人はヒッパルコスを暗殺することでペイシストラトスの残党を憤激させただけであり、僭主制の廃止には何の貢献もしなかった。ところが以前述べたごとく、アテネを解放せよという神託を、スパルタ人に向けて下すよう巫女を説き伏せたのが真に彼らであるなら、アルクメオン家は明らかに母国の開放に貢献しているのだ。

124.おそらくアテネの人々に対する怨恨から彼らは母国を裏切ったのであろう、と言われるかもしれない。しかしアテネでは、この一族ほど尊敬され、誉れ高い家柄はないのだ。

従って、彼らがそのようなことで盾を掲げて合図したかもしれないということを信じる理由は何もない。しかし、盾を掲げて合図したという事実は否定できない。誰の仕業かということに関しては、これ以上何も言えない。

125.アテネでは、アルクメオン家は昔から高名な家柄だったが、アルクオン(51)とメガクレスの時代に、その名声が高まったのである。
(51)アルクメオンの最盛期はBC.590、クロイソスの在世はBC560-546。このアルクメオンはアルクメオンの子メガクレスのことで、クロイソスと同時代のアルクメオンではない

クロイソス(*)によって命じられ、サルディスからリディア人一行がデルフォイの神託を求めてやって来たとき、メガクレスの子アルクメオンが熱心に彼らに尽くして働いたことがある。そのことを一行から聞いたクロイソスは、かれをサルディスに招待した。そして一時に一人で運べるだけの金を贈呈しようと言った。
(*)リディア王国の最後の王(BC595-547頃?)。莫大な富を保有していることで有名を馳せたが最後はペルシアに敗北:前田注

贈呈品の特徴を熟慮したあとで、アルクメオンは次の手を使った。大きな衣服(チュニック)をまとい、それに深い折り目を作った。そして身の回りにある中で最も大きなブーツを履き、導かれて宝物庫に入った。

かれは砂金の山に倒れ込み、最初にブーツの隙間に入れられる限りの砂金を詰め込んだ。それからチュニックの折り目に砂金を満たし、頭髪も砂金まみれにし、口の中にも砂金を含んだ。宝物庫から出てきた時には、重いブーツを引きずりながら歩くのがやっとの体で、口を一杯に膨らませ、全身が膨れあがっているので、人間というより何か別の生き物のように見えた。

それを見たクロイソスは爆笑し、アルクメオンが身につけている金をそのまま与えた上、さらにそれ以上を贈り物として与えた。かくしてこの一家は大変な資産家となり、アルクメオンは四頭立て馬車を保有するに至り、オリンピアで優勝したのである。

126.次の世代となるシキオンの僭主クレイステネス(52)が、さらに家名を高め、その一族は以前にも増してギリシャで有名になった。アリストニモスを父に、ミュロンを祖父に、アンドレアスを曾祖父に持つクレイステネスにはアガリステという娘がいたが、かれはこの娘をギリシャ中で最高の男に嫁がせたいと思っていた。
(52)かれはアルクメオンの同時代人。

ちょうどオリンピア競技の開催中だった。かれは四頭立て戦車競技で優勝したときに、次の布告を掲げた。「ギリシャ人の中で、我こそはクレイステネスの婿にふさわしいと思う者は、本日より六十日以内にシキオンに来たれ、さればその六十日後から一年以内にクレイステネスは我が娘との婚儀を執り行なうであろう」

その後、我こそはと思う者や、その出自に誇りを持つギリシャ人が求婚者として陸続とやって来た。そこで、彼らの力量を試すために、クレイステネスは陸上競技場と闘技場まで用意した。

127.イタリアからは、ヒポクラテスの子スミンディリデスがシバリスの街からやって来た。かれは当時シバリスでは最も富裕な一族に属していて、またシバリスというのは最も繁栄している街だった。またシリスからは賢者と尊称されていたアミリスの子ダマソスがやって来た。以上がイタリアからの参加者。

イオニア沿岸からは、エミストロファスの子アミフィネストスがエピダムノスの街からやって来た。アエトリアからは、ギリシャ中で最も剛力と謳われながら、世間との接触を断つためにアエトリアの最も遠い僻地に隠棲していたティトルムスの兄弟で、マレスという者が来た。

ペロポネソスからは、アルゴスの僭主フェイドンの子レオケデスが来た。このフェイドンというのは、ペロポネソス諸国の度量衡(53)を制定した人物であるが、ギリシャ人の中では最も傲慢不遜なことしでかしている。こ奴はエリス人の競技審判を追放し、みずからオリンピア競技を開催したのである。こんな男の息子も来ている。アルカディアからはリクルゴスの子アミアントスがトラペゾスの街から来た。アゼニア地方のパイオスの町からは、エウフォリオンの子ラファネスが来た。アルカディア地方の伝説では、エウフォリオンというのはディオスクロイ(*)を客として屋敷に迎えたことがあり、それ以来どんな人にも自分の屋敷を開放したと伝えられている。エリスからはアガイオスの子オノマストスが来た。以上、ペロポネソスからの参加者。
(53)「アイギーナの度量衡」のこと。かれに関する記述には年代に無理がある。
(*)ゼウスとレダに生まれた双子の息子カストルとポラックス;前田注

アテネからは、クロイソスに行ったアルクメオンの子メガクレスと、ティサンドロスの子で、アテネでは並ぶ者なき富と美貌の持ち主ヒポクレイデス。その当時は繁栄していたエレトリアからはリサニアス。かれはエウボエアからは唯一の参加者。テッサリアからはクランノンのスコパダイ家のディアクトリデス。モロッシア地方からはアルコン。以上が求婚者の面々であった。

128.指定された日に彼らがやってくると、クレイステネスはまずそれぞれの生国と家系を質した。その後は彼らを傍におき、一年かけてその凛々しさ、気性、躾、生活態度を観察したのである。かれは個別に接したり、集団で交わったりし、また若年の参加者は競技場に連れて行ったりもしたが、特に注意してみたのが会食時の品行だった。そして彼らが傍にいる間はずっと、あらゆることを試し、また盛大にもてなしたのである。

最も気に入った求婚者はアテネ出身でティサンドロスの子ヒポクレイデスだった。その凛々しさと、祖先がコリントのキプセロス家に繋がっているというのが理由である。

129.婚儀の期日が迫り、クレイステネスが選んだ人物を発表する日が迫ってくると、かれは百頭の牡牛を生贄に捧げ、求婚者たちとシキオンの全市民を招いて宴を開いた。

宴の後は求婚者たちが競い合って音楽に興じたり、面白い話を披露した。酒が進んだところで、ヒポクレイデスはすでに他の者たちよりも目立っていたが、笛吹きに舞踊曲を吹くよう命じた。そしてかれは曲に合わせて踊り始めた。おそらく本人は自分の踊りに満足していたのであろうが、クレイステネスは興ざめの体でこれを眺めていた。

それからヒポクレイデスは踊りをしばらく中断し、テーブルを持ってくるよう命じた。そしてテーブルが来ると、最初にその上でラコニア風に踊り、次にアッティカ風に踊った。最後にテーブルに頭をつけて逆立ちし、両脚を宙に振り回して踊った。

クレイステネスは最初と二番目の踊りを見て、この若者は娘婿にふさわしくないと思った。ヒポクレイデスの踊りと、はしたなさに失望したのである。しかしクレイステネスはヒポクレイデスに怒りを爆発させることなく我慢していた。そして両脚の踊りを見るにおよび、ついに黙っていられなくなって叫んだ。「ティサンドロスの息子よ、君は婚儀も蹴り飛ばしたぞ。」相手は返して言う。「ヒポクレイデスの知ったことか!」それ以後、このセリフは流行語になった。

130.クレイステネスは静粛を命じ、全員に話しかけた。

「求婚者諸君、君たち全員に感謝する。できることなら諸君全員の願いをかなえてやりたいものだ。諸君の中から一人を選ぶことも、それ以外の者を失望させることもせずに。」

「とはいえ、私の娘は一人しかいないゆえ、諸君全員を満足させることはできぬ相談だ。そこで選から漏れた者には、それぞれに銀一タラントン(*)を進呈しよう。わが家系から伴侶をえようと望み、母国から離れて逗留してくれた代償としてな。それからアルクメオンの子メガクレスを、アテネの法に従ってわが娘アガリステの婚約者とする。」そしてメガクレスは婚約を承諾し、クレイステネスは婚儀を荘重に執り行なった。
(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)〜約37Kg(アイギーナ単位);前田注

131.以上が求婚者選別のいきさつである。そしてこれによりアルクメオン家の名声はギリシャ中に鳴り響くこととなった。またこの結婚によってクレイステネスが生まれたが、その名はキシオン人である母方の祖父の名を継いでいる。このクレイステネスは、アテネにトリブスという行政区と民主制を確立した人物である。

メガクレスにはクレイステネスのほかにヒポクラテスという息子がいた。このヒポクラテスには別のメガクレスと別のアガリステという子がいたが、娘の方はクレイステネスの娘の名を継いでいる。この娘はアリフロンの子クサンチッポスに嫁ぎ、妊娠した時にライオンを産む夢を見た。その数日後にクサンチッポスの息子ペリクレスが生まれたのである。

132.マラトンでペルシア戦に圧勝したあと、アテネでのミルティアデスの名声は以前にも増して高まるばかりだった。そしてかれは七十隻の船と軍隊、それと軍資金を要求した。ただしどこの国を攻めるかは明かさず、自分に従ってくれるならアテネに富を持たらすと言って。かれは大量の金を運びやすい国に進軍するつもりだったが、ミルティアデスの言説でその気になったアテネ市民は、彼の要求を受けたのである。

133.ミルティアデスは軍を受け取るとパロスに向かった。その訳は、この国がマラトンに向かうペルシア軍に三層櫂ガレー船で加わり、最初にアテネを攻撃したから、というものだった。しかしかれはパロス人に怨恨を抱いており、それはパロス出身でティシアスの子リサゴラスがペルシアのヒダルネス将軍に彼のことを讒訴(ざんそ)していたからである。

さて目的地に着くと、ミルティアデス麾下の軍はパロス人を城壁内に追いやり、城壁を包囲した。かれは使者を送って百タラントン(*)を要求し、この支払いに応じなければ、街を破壊し尽くすまで軍を帰国させるつもりはない、と伝えさせた。
(*)1タラントン=金にして約26Kg(アッティカ単位)〜約37Kg(アイギーナ単位);前田注

パロス側はミルティアデスに一銭も払うつもりはなかったので、街の防御策を練った。そして攻撃を受けやすい城壁の箇所は、夜のうちに以前の二倍の高さにしたり、その他さまざまな方策を用いた。

134.ここまでは全てのギリシャ人が同工異曲のことを伝えているが、これ以降はパロス人自身による伝である。さてミルティアデスが攻撃の方途に暮れている時、捕らわれていた一人の女がかれに面会を求めた。この女はティモといい、パロス生まれで黄泉の国の女神に仕える準巫女だった。彼女は、パロス攻略がそれほど重要であるなら、自分の助言に従うがよい、と進言したのである。その助言に従い、かれは街の前の丘を通り抜け、立法者デメテルの聖廟へ行き、扉が閉まっていたので、柵を跳び越えて中に入った。そして聖堂に行き、何かをしようとした。動かしてはならぬ神器を盗ろうとしたのか、何か他のことをするつもりだったのか。扉に手をかけた刹那、かれは恐怖に襲われ、急ぎ同じ経路をたどって引き返した。そして壁から飛び降りたときに、太ももを捻ったとも、膝を強打したとも言われている。

135.かくしてミルティアデスはアテネに金を持ち帰ることもせず、パロスを征服もせず、尾羽打ち枯らして帰還した。ただ二十六日間にわたり街を包囲し、パロスの島を荒らし回っただけであった。

一方、女神に仕える準巫女のティモが、ミルティアデスの道案内をしたことを知ったパロス人は、これを咎めて彼女を罰しようとした。街の包囲が解かれてから、デルフォイに使者を送り、母国を敵の手に落とす手助けをし、男が知るべきでない神儀をミルティアデスに明かした罪で準巫女を死刑に処すべきかどうかの伺いを立てた。

ところが巫女は彼らを制止して告げた。ティモに責任はない。ミルティアデスは破滅する運命なのじゃ。ティモはかれを破滅に導くために使わされたのだ、と。これがパロス人に向けた巫女の神託だった。

136.パロスから帰還したミルティアデスについては、アテネでさまざま話題になったが、特にアリフトンの子クサンティッポスは、ミルティアデスがアテネ人を欺いたという罪で市民集会にかれを告訴し、死罪を求めた。

ミルティアデスは出頭はしたが、太股の傷が化膿し始めていたために弁明できず、法廷に持ち込まれた寝台に横たわったままだった。代わりに彼の友人たちが弁明に立ち、入れ替わり立ち替わりマラトン戦やレムノス征服のことを持ち出し、かれがいかにしてペラスゴイ人を斃し、レムノスを攻略してアテネに従属させたかを取り上げて弁護した。

その結果、市民集会はかれに死刑の判決を下さないことには賛成したが、その罪に対しては五十タラントン(*)の罰金を科した。ミルティアデスは間もなく太股の壊疽と腐敗によって死んだので、五十タラントンは息子のキモンが支払った。
(*)1タラントン=金にして約26Kg(アッティカ単位)〜約37Kg(アイギーナ単位);前田注

137.右に出てきたミルティアデスによるレムノス攻略の話は、次の通り。ペラスゴイ人(54)がアテネによってアッティカ地方から追放されたとき、それの正邪については、伝えられていること以外、書けることはないが、ヘゲサンドロスの子ヘカタイオスによる歴史書では、これは不当なものだったと記している。
(54)トロイ戦争の六十年後に、ペラスゴイ人はボエオティア人によってアッティカ地方に追いやられたという伝説がある

それによれば、その昔アテネ人はアクロポリスを囲む城壁を築造した報償として、ヒメトスの麓の地をペラスゴイ人に居住地として与えたことがあった。その後アテネ人は、その地が以前は地味が悪く、役立たずだったのが、肥沃な土地に耕作されているのを見て、それを妬み、その地を横取りしようとした。そして何の理由もなく、この地からペラスゴイ人を放逐したのである。

しかしアテネ人自身は、ペラスゴイ人の追放は正当な理由によるものであると語っている。ペラスゴイ人はヒメトスの麓での定住に着手したが、アテネ人に次のような暴虐を働いたというのである。その当時、アテネにも他のギリシャ諸国にも奴隷はいなかったので、子女たちが九つの井戸と呼ばれているエネアクロノスの泉(55)に水汲みに行くのが習わしだった。ところが彼らはアテネ人に対する蔑視とうぬぼれから、水汲みに来た娘たちを暴行していたのだ。そして彼らはそれに満足することなく、ついにはアテネを攻撃することを目論んだのである。
(55)アテネの南東方でイリソスの近く

アテネ人はペラスゴイ人よりはずっと崇高だったので、策謀に加わった者たちを殺すこともできたのに、それをせず、国外追放に処しただけなのである。そしてペラスゴイ人は、かの地を離れてレムノス、その他の地に移り住んだのである。以上がアテネ人の伝えるところ。先の話がヘカタイオスの伝である。

138.レムノスに定住したペラスゴイ人は、アテネに報復することを願っていた。彼らはアテネの祝祭の時期を熟知していたので、五十本の櫂を備えた船を数隻入手し、ブラウロンのアルテミス女神の祝祭に出かけるアテネの女たちを捕らえるべく待ち伏せした。そして大勢の女たちを捕らえた後、船でレムノスに連れ帰り、妾とした。

その後、この女たちが産んだ子は徐々に増えていったが、彼女たちは息子たちにはアッティカ語とアテネの風習を教えた。そしてこの少年たちはペラスゴイ人の女から生まれた息子たちとは交わろうとしなかった。それに加えて、仲間の一人が相手側の誰かにぶたれた時には、全員が助太刀に行き、お互いを助け合った。そしてこの少年たちは相手側の少年たちを支配するのを当然と考えており、大いに幅をきかせていたのである。

この事態を見ていたペラスゴイ人は鳩首協議におよび、そのうちに次のことを考えついて恐怖に襲われた。というのは、この少年らが正妻の子に対して互いに助け合う気持ちを固めていて、早くも子供らに君臨しようとしているなら、大人になった時に何をしでかすだろうか、と。

そこでペラスゴイ人はアッティカ女の子供らを亡き者にすると決め、その通りに実行したあと、その母親たちをも殺害してしまった。この事件と、それ以前に起きたトアース神をはじめ、夫を殺した女たちの事件とを指して「レムノス事件」と呼ぶようになり、以後この言葉が、ギリシャでは悲惨な事件を称する時の慣用句となった。

139.ところがペラスゴイ人が自身の息子や女たちを殺害してからは、彼らの領土は荒廃して実りがなくなり、妻や、羊、牛も以前通りには子供ができなくなった。飢餓と不妊に苦しんだ末、今の苦境から抜け出す方法を伺うために、彼らはデルフォイに使者を立てた。

デルフォイの巫女は、アテネ人の要求する通りに報いを果たせ、と彼らに告げた。そこでペラスゴイ人らはアテネを訪れ、自身の暴虐に対する償いをしたいと申し出た。

アテネ人たちは公会堂に寝椅子(カウチ)を持ち込み、それを可能な限りきらびやかに飾り付け、その横にテーブルをおいて山海の珍味で山盛りにした。そしてペラスゴイ人に命じた。お前たちの領地をこれと同じ状態にして我らに譲り渡せ、と。

ペラスゴイ人が答えて曰く、「貴殿の国から北風に乗って我らの国まで船で一日で到達できるなら、わが地を譲り渡すことにしよう。」アッティカから南のレムノスまでははるか彼方であるので、そんなことは不可能であると彼らは知っていて、こんなことを言ったのだ。この時は、それで話は終わった。

140.それからはるか後年、ヘレスポントスのケルソネソスがアテネに征服されたとき、キモンの子ミルティアデスが北から吹く夏の季節風(56)に乗って、ケルソネソスのエラエウスからレムノスへ船でやって来た。そして、ペラスゴイ人が絶対に実現できないと思っていた神託を持ち出して、彼らにレムロスから退去せよと宣告した。
(56)7月から9月にかけて吹く北東の季節風

ヘファエスティア人はそれに従ったが、ミリナイ人は、ケルソネソスはアッティカの領土であると認めなかったので、それに従わなかった。しかし包囲され、攻撃された結果、最後にはこれも服従した。かくしてミルティアデスとアテネはレムノスを占領したのである。

ヘロドトス:歴史へ、  カイロプラクティック・アーカイブ:表紙へ
著作権所有(C)2013-:前田滋(Chiropractor;大阪・梅田)