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歴史 第七巻 ポリムニアの巻 ヘロドトス著
The History BOOK VII POLYMNIA Herodotus


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邦訳者(前田滋)の序

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歴史 第七巻 ポリムニアの巻 ヘロドトス著
The History BOOK VII POLYMNIA Herodotus

底本(英訳文)
*The History Herodotus
 A.D.Godley
 Cambridge.Harvard University Press.1921
*The History Herodotus
 G.C.Macaulay
 Macmillan, London and NY 1890
*The History Herodotus
 George Rawlinson
 J.M.Dent,London 1858
*Inquiries Herodotus
 Shlomo Felberbaum
 work in progress 2003

邦訳:前田滋 (カイロプラクター、大阪・梅田)
( http://www.asahi-net.or.jp/~xf6s-med/jherodotus-7.html )

掲載日 2017.04.25

〜〜〜目 次〜〜〜

1-4   ダリウスの死
5-19  ペルシアの御前会議;クセルクセスと重臣アルタバノス
20-25  ペルシア;アトスの運河開墾
26-53  ペルシア軍出発;サルディスからヘレスボントスへ
54-100 ペルシア軍;ヘレスポントスを渡ってドリスコスへ
        陸海軍の各部隊紹介
101-137 クセルクセス、デマラトスに接見後
        トラキア、マケドニア、テルマ、ペネオス河口へ
138-171 ギリシアの同盟交渉
172-200 ペルシア軍、テッサリアに進撃
201-239 テルモピュレー(熱き門)の戦い



1.マラトンの戦いの知らせがヒスタスペスの子ダリウスのもとへ届くと、それ以前にもアテネがサルディスを攻撃したことで大いに怒りを募らせていた大王は、それに輪をかけて怒り、ギリシャに向けて遠征軍を派遣しようと気を逸らせた。

王は直ちに全ての属国に使者を送り、以前よりも多くの船、馬、食糧、輸送船を供出するよう命じた。その後の三年は(1)、アジア諸国はこの指令に振り回され、ギリシャ征討の準備を調えたり、優秀な人民を徴兵したり、大わらわとなった。
(1)BC.489-487

そしてまたカンビュセス王に征服されていたエジプト人が、四年目にペルシアに反旗を翻したので、ダリウスはさらに気負い立ち、両方に遠征軍を派遣することとなった。

2.ところがダリウスがエジプトとアテネに遠征準備をしている最中、王子たちの間で大きな国内の勢力争いが起きた。王子たちは、ペルシアの法に則り、王が進軍を開始する前に後継者を指名するよう、主張した。

ダリウスには、王位につく前、ゴブリアスの娘との間に三人の息子が生まれている。そして王位についたあと、キュロスの娘アトッサとの間に四人の子供が生まれている。最初の夫人との間に生まれた長子はアルトバザネスで、後の夫人との間に生まれた長子はクセルクセスであった。そして腹違いの息子たちは敵対していたのである。

アルトバザネスは、ダリウスの子供全員の中で、自分が最年長であるゆえ、その者が王位を継承するのが、世の慣習であると主張した。対するクセルクセスは、自分はキュロスの娘アトッサの息子であり、ペルシア人の自由を勝ち取ったのは誰あろうキュロスであると主張した。

3.ダリウスが後継を決めかねているところへ、ちょうどアリストンの子デマラトスが、スパルタの王位を剥奪されたあと亡命してスーサにやって来た。

ダリウスの王子たちのもめ事を知ったデマラトスは、伝えられているところでは、クセルクセスのもとへ行き、自分の言うことを付け加えて主張するべしと助言したそうである。すなわち、自分はダリウスが王となり、ペルシアの支配者となってから生まれたのであって、アルトバザネスはダリウスがまだ臣下の時に生まれたのだ。従って自分の前には誰一人として王位継承の優先権を有する者はいない、と

デマラトスはこうも示唆した。スパルタにおいても、父が王につく前に生まれた息子たちと、父が王についた後に生まれた息子たちがいる場合には、王位継承権は後に生まれた方にある、と。

クセルクセスはデマラトスの助言に従って主張した結果、ダリウスはその言を入れ、かれを次の王に指名した。しかし私の考えでは、デマラトスの助言がなくともクセルクセスは王位についたであろう。実母のアトッサが絶大な力を誇っていたので。

4.クセルクセスを次の王に指名してから、ダリウスは遠征軍の出発に専心した。しかしこのあとエジプトの反乱が始まった翌年、出発準備の最中にダリウスに死が訪れた。在位三十六年(2)、反乱したエジプト、アテネを討伐することは叶わなかった。
(2)BC.521-BC.485

5.ダリウスの死後、王位は息子のクセルクセスが継いだ。当初、かれはギリシャ遠征には乗り気ではなく、エジプトに進軍するつもりで軍を招集していた。ところがゴブリアスの子でダリウスの姉妹の子、すなわちクセルクセスの従兄弟に当たるマルドニオスが王のそばに仕えており、この者がペルシア人の中で最も強い影響を王に与えていた。そして王に進言すること次のごとし。

「お上、アテネ人の所行、とりわけペルシア人に対する悪行に罰を下されぬのは不当でござりまするぞ。いまは取りかかっておられることをなさるがよろしかろう。しかしエジプトの謀反を平定なされたあとは、アテネに進軍なさるべきかと。そうすればお上の名声も高まり、以後、他国の者どもは、お上の領土を侵略するのを控えるようになりましょう。」

この進言はかれの復讐心から発せられたものであるが(3)、それに加えて、ヨーロッパが極めて美しい国であること、あらゆる種類の果実が実ること、ごく肥沃な土地であること、その土地を支配するにふさわしい者は、王以外にいないこと、などを進言し続けた。マルドニオスは冒険心に富んでいて、それにギリシャの総督になりたいこともあって、このように進言したのだった。
(3)「この進言が参考になった」という意味に解する人もいるが、この一文はかなり曖昧である。

6.最終的にかれはクセルクセスを説き伏せ、アテネ遠征を納得させたが、他の事情もクセルクセス説得に預かって力があった。

それはテッサリアの王子アレウアスから伝令が来て、王をギリシャに招きたいと丁重に伝えて来たのである。そのほか、スーサに来ていたペイシストラトス家の者たちも、アレウアダイ家と同じ願いを言上し、それ以上のことをクセルクセスに申し出たのである。

彼らはアテネの占い師(4)オノマクリトスを随伴していて、これはムサイオスの託宣集を編纂した者であった。また彼らは以前の敵対関係を解消していた。オノマクリトスはムサイオスの託宣集を改竄し、レムノス付近の島々は海中に沈むであろうという神託を書き加えたことを、ヘルミオネのラソス(5)によって発見され、ペイシストラトスの息子ヒッパルコスによってアテネから追放されていたのである。
(4)この語は「占い師」を指すが、ここではおそらく託宣集の「編纂者」あるいは朗唱者のことだろう。
(5)詩人にして音楽家。抒情詩人ピンダロスの師

このような事情でヒッパルコスはかれを追放したのであるが、それ以前は、この二人は親密な友人だった。さてかれはペイシストラトス一門と共にスーサにやって来たが、王の面前では、両家一門が常に高貴な言葉でかれを賞賛し、彼は彼で託宣を朗唱した。ただしペルシアの災悪を予兆するものは省き、縁起の良いものを選んで朗唱した。そしていかにしてペルシア人がヘレスポントスに橋を架けるべきかを語り、進軍の様子を詳しく語った。

こうしてオノマクリトスはクセルクセスを焚きつけ、一方でペイシストラトスー門とアレウアス一門の者たちは、進軍の意見を具申してクセルクセスの決意を促したのである。

7.ギリシャへの遠征を説得されたクセルクセスは、ダリウスの死の翌年にまず反乱者たちに向けて軍を進めた。それを制圧したのち、エジプトを攻略し、ダリウスの時以上に過酷な苦役を課した。そしてその統治をダリウスの息子すなわち自分の弟であるアカエメネスに任せた。エジプトを統治していたアカエメネスは、その後プサメティコスの子イナロスというリビア人に殺害された(6)。
(6)BC.460、第三巻15節参照

8.エジプトを征服したあと、アテネに向けて遠征するつもりのクセルクセスは、特別にペルシア人の重臣会議を開いて彼らの意見を聞き、また一同の前でみずからの考えを披瀝した。

「ペルシアのお歴々よ、予は新たなしきたりを具申するつもりも、制定するつもりもない。ただ継承したものに従うだけじゃ。長老たちから聞くところでは、サイラスがアスティアゲスを退け、我らがメディアから覇権を獲得してからというもの、平穏な時期はなかったということである。とはいえ、神の御心によって、我らが幾多の事業はうまく運んでおる。サイラス、カンビュセス、そしてわが父ダリウスが征服し、わが領土に加えた国々のことは、事情を十分承知の臣らには言うまでもないことじゃ。」

「予が王位についてからというもの、予は如何にすれば先王たちに後れを取ることなく、この栄誉ある地位を保てるか、またペルシアの勢力を殺がずに済むかを考え抜いてきた。その結果、名声を高めるばかりではなく、現今の領土に劣る広さ、荒廃地ではなく、それ以上の肥沃な領土をも勝ち取るべきであると考えるに至った。またこれが報復と復讐にもなるのだ。この考えから、いま臣らを一堂に呼び集め、予のなさんと欲することを宣言する。」

「予の意向は、ヘレスポントスに橋を架け、軍をヨーロッパからギリシャに進めることにある。そしてアテネがペルシアと我が父になしたことを鑑み、これを討伐するつもりである。」

「知っての通り、我が父ダリウスは、この国に向けて遠征軍を派遣しようとしていた。しかしその死によって、その討伐は叶わぬこととなった。父とすべてのペルシア人のためにも、予は決して安逸をむさぼることなく、アテネを征服し、焼き尽くすつもりである。ギリシャが我が父と予になした、言われなき悪行のゆえに。」

「第一にアテネ人どもは我らが捕虜ミレトスのアリスタゴラスと共にサルディスに侵略し、森や神殿を焼き払った。次に、ダティスとアルタフェルネスの二将軍が、かの地の海岸に上陸したときの、ギリシャの所行が如何なるものであったか、一同衆知のことであろう。」

「以上のことから、予はかの国に軍を進めると決めた。そしてこれにはつぎに挙げる利得も期待できるであろう。アテネと、その隣りでフリギア人ペロプスの治める領土(*)を征服すれば、ペルシアの領土はゼウスの支配する天空の国と境界を接することになろう。」
(*)古代アナトリア-現トルコ領;前田注

「予が全ヨーロッパを席捲し一国にまとめるなら、日の光の当たるところ、我らが国に接する国はなくなるであろう。先に挙げた国々を麾下に従えるなら、人の住む街、人の国で我らと干戈を交えることのできる国は残されておらぬことは知っておる。我らに仇なす国もふれ伏す国も、すべて隷従のくびきに繋がれるであろう。」

「そこで、予が集合の時を宣したなら、各人は何をおいても参上せよ。そして最も完璧な装備の軍には、わが国で最も誉れ高き褒賞を授けることにしよう。以上、滞りなく事を運んで貰いたい。しかしながら、予が一人勝手に事を運んでいると思われたくないゆえ、結論を一同に任せることにする。考えのある者は述べるがよい。」こう言ってクセルクセスは黙した。

9.次にマルドニオスが口を開いた。「お上、そなたは過去および未来の全ペルシアびとを超越なさる存在にあられる。その上、ただいまのお言葉、万事が見事でまことをついておられ、かつまたヨーロッパのイオニア人(7)が身の程知らずにも我らを嘲るのを誅される方針であられる。」
(7)アジア人にとってはギリシャ人は「イオニア人」と同義だった。

「サカイ(*)、インド、エチオピア、アッシリアその他、多くの広大な諸国については、ペルシアに災悪をなしておらぬにもかかわらず、単にわが勢力を拡大するために、これらを平定しておりますが、言われなき悪逆をなしたギリシャには報復しないというのは、じつに不可解にございます。」
(*)イラン高原北部;前田注

「何を怖れることがありましょうか? 彼らの寄せ集め兵力は多大でありましょうや、富は豊富でありましょうや? 彼奴等(きゃつら)の戦い振りは承知、その国力がいかに弱いかも承知しております。そして我らはその子孫を征服し、彼らはイオニア人、アエオリア人、ドーリア人と呼ばれてわが国に定住しております。」

「私自身もかつて父君に命じられてかの地に進軍し、はるばるマケドニアやアテネのごく近くまで軍を進めましたが、一兵たりとも反撃して来る者はおりませんでした。」

「ギリシャ人は戦慣れしておるのは知っております、とはいえ彼らは頑迷、愚劣ゆえにその戦法は極めて無分別であります。彼らが互いに宣戦布告をしたなれば、できるだけ見晴らしがきき、戦いやすい平原を選び、そこを戦場とします。従って勝者といえども軍を退く時には、大きな損害を被っておるのです。敗者に至っては言うまでもなく、完璧に抹殺されます。」

「しかしながら、彼らは同じ言葉を用いますゆえ、使者または伝令、あるいは戦闘以外の方法を用いて戦闘を避けようとします。そしていよいよ戦わねばならぬとなった時には、それぞれが最も優位に立てる配置を探し、そこを戦場にしようとするのです。このようにギリシャの慣習は愚劣なのであります。私がはるばるマケドニアまで進軍した時には、彼らは戦う気すら起こさなかったのです。」

「しかしお上、お上がアジアから大軍と全船隊を率られるならば、誰がお上に向けて戦を仕掛けましょうや? ギリシャはそのような無謀な挙を起こさぬと愚考いたしますが、この考えが間違いで、彼らが無謀にも戦を仕掛けてくることになりましたならば、我らが世界中で最強の戦士であることを、ギリシャは知ることになりましょう。手をこまねき遊ばすな、何事もみずからは起きませぬゆえ。世の成果というものは、思い切って飛ばざれば授かりませぬぞ。」

10.このようにマルドニオスはクセルクセスの決意をなぞらえて語り終えた。居並ぶ重臣たちは沈黙を守り、あえて提案に反対する意見を言おうとしなかった。そこで、イスタスペスの子でアルタバノスという王の叔父が、自分の地位を後ろ盾にして語った。

「お上、反対の考えが出されずば、よりよき案を選ぶことは不可能となり、出された案を呑むしかありませぬ。種々の考えが提案されてこそ、よりよい案を選べるというもの。金の純度はそれのみでは判断できず、金同士をこすり合わせることで(8)、どちらがより良いか判るのでござる。」
(8) 試金石に擦り合わせること。

「そこでわが輩は、お上の父君ダリウス、すなわち我が兄に進言して申し上げたことがある。スキタイに進軍してはなりませぬ。彼らは街を持たず、どこにでも暮らしますゆえ、と。しかし父君は遊牧のスキタイ人を征服することを望まれ、わが意に従おうとなされませんでした。そして遠征なされ、軍勢から多数の勇者を失って帰還なされました。」

「そなた、いやお上は、そのスキタイ人よりは遥かに優れた民族、海でも陸でも優秀な戦士と見なされている民族に軍を向けようと企てておられる。されば、その企てに潜む危険をお上にお示し申すのが正しい方策と心得まする。」

「お上はヘレスポントスに橋を架け、ヨーロッパに入ってギリシャに進軍なさると仰る。では、海軍または陸軍あるいは両方とも敗れた時のことを想起なされよ。ギリシャ兵は勇猛と言われておりますし、ダティスとアリストファネスがアッティカに率いた大軍を、アテネ単独で打ち負かしたことからも、そのことは充分察せられます。」

「万一ギリシャが陸・海ともに敗れたとしても、海戦で優勢を極め、船団をヘレスポントスに進めて橋を破壊することになれば、憂慮すべき事態となりますぞ。」

「このような推量をするのは私自身の知恵からではなく、かつて見舞われた惨事を経験しておるゆえにございます。それは父君が以前トラキアへ渡るボスポラスに橋を架け、またドナウ河にも橋を架けてスキタイに侵攻なされた時のことであります。スキタイ人はドナウ河の橋を守っていたイオニア人に、それを破壊するよう、あらゆる手を尽くして頼んでおりました(9)。」
(9)第四巻136節参照

「ミレトスの僭主ヒスティアイオスが他の僭主たちの意見に同調し、それに異を唱えずんば、ペルシア軍は壊滅していたことでありましょう。言うもおぞましきことながら、王の運命はかの男一人の手に委ねられていたのであります。」

「どうしても必要でなければ、そのような危険な企てに手を染めてはなりませぬ。私の意見をお聞き入れ下され、まずはこの会議を解散なされよ。お上みずから、この件をとくお考え遊ばされ、充分得心なされてから、最善と思われる策を布告なされるがよい。」

「と申しますのも、充分に練られた策が最大の利をもたらすものと愚考いたすためであります。たとえ上策が挫折したとしても、それは運が悪かっただけのことで、下策であるとはいえませぬ。そして幸運に恵まれ下策が成就したとしても、それは偶然の賜で、上策というわけではありませぬ(*)。」
(*)この部分、何度読んでも「勝負は時の運」としか解しようがない。これでは諫言になっていない。訳者の誤読なのか?;前田注

「お上もご存じの通り、神は大なる被造物に雷電を打ち下ろされ、傲慢な者を許されず、卑小な者には怒りを覚えられませぬ。すなわち雷光を打ち下ろされるのは常に高い建築物や木々であること、ご承知のはず。抜きん出て大なるものは全て小さくなさるのが、神のお好みであるゆえ。多勢が無勢に破れるのはこの伝でございます。そして嫉妬深き神が多勢に向けて恐慌をもたらされたり、雷電を落とされて、彼らは無残にも壊滅してしまうのであります。神はご自身以外の者には傲慢は許されませぬゆえ。」

「急いてはことをし損じますぞ。急ぐと多大な損失も生じましょう。待てば海路の日和ありとも申します。いまは不確かでも、待つことで明らかになることもございます。」

「お上、これがわが輩の助言にございます。ところでゴブリアスの子マルドニオスよ、ギリシャ人に向けての戯れ言は止めよ。彼らは誹謗してよい愚劣な民族ではない。お主は、ギリシャ人を中傷することで王に遠征をそそのかしておる。それをなさんがためにえらく執心しておるようじゃが、そうはさせぬぞ。」

「誹謗・中傷はおぞましきことじゃ。ここには悪事を働く者が二人、被害を被る者が一人存在する。中傷者は陰で人を非難するという悪行を行なっておる。もう一人は、真実を知る前に信じ込むという間違いを犯すのだ。不在のまま中傷された者は、自分が何を言われているか判らぬゆえ、その人間に悪口を言われ、もう一人から非難されることになる。」

「さて、なんとしても軍をギリシャに進めなさるのであれば、わが輩の説をお聞きあれ。お上はペルシア本土に残られるがよい。そしてお上とわが輩の二人が、息子たちの命をそれに賭けましょう。お上はお望みの兵士を選び、望まれるだけの軍勢を進められるがよろしかろう。」

「お上の仰る通り、お上が幸運に恵まれましたなら、わが輩の息子たちに死を賜り、わが輩もそれに倣いましょう。しかしわが輩の申し上げた通りの結果になりますれば、お上の王子たちに同じ処置をなされ、お上も同様になさるのですぞ。それもこれも無事に帰還できればの話ですがな。」

「この提案に不承知で、かつ何としても軍をギリシャに進めるつもりであられるなら、この地に残っている者たちは、マルドニオスがペルシアに酷い害悪をもたらしたという知らせを聞くことになるでありましょう。そして彼はアテネあるいはスパルタの地において、犬や鳥に身を裂かれることになりましょう。もっとも、その地に至る以前に、そのような目に遭わねばよいのじゃが。その時になってマルドニオスはようやく、王をそそのかして攻撃させた相手が、どのような民族であるかを知ることになろう。」アルタバノスは、かくの如く説いた。

11.クセルクセスは怒りを露わにして言った。「アルタバノス、我が父の弟よ、それに免じてそちの愚言に対する罰は下さずにおこう。しかしお主には、ギリシャに向かう我と我が軍に同行させず、臆病ゆえに女どもと共に、この地に残るという恥辱を与えることにする。予はみずから先に述べたことを完遂するつもりじゃ。お主の手は借りぬ。」

「予がアテネに報復をせぬなら、アケメネス、タイスペス、カンビュセス、キロス、タイスペス、アリアラムネス、アルサメス、ヒスタスペス、ダリウス、(10)の系譜に、予は繋がることにならぬ。我らが戦を仕掛けずとも、ギリシャはおとなしくしていないことは、明々白々である。ギリシャの方が先にサルディスを焼き払い、アジアに侵略したという、これまでの所行から察するに、彼らは間違いなく我らの領土に侵略して来るであろう。」
(10)後ろから七人の名前はアケメネスの子タイスペス以下の二系列を示している。ヘロドトスは明らかにこれを混同している。キュロスの娘アトッサを母として、クセルクセスは双方の系統を主張したかもしれないが、おそらく混同している。

「従って双方ともに後には引けぬ。事ここに至っては、やるかやられるか、じゃ。我らの領土がギリシャのものになるか、ギリシャの領土が我らのものになるか、両者の確執に中間はあり得ぬ。」

「そして今こそ、先に被害を被った我らが報復に出るのが順当である。かの民族を攻撃すると痛い目に遭うというおぞましきことが何であるかも判るであろう。その民族というのは、我らが祖先の奴隷だったフリギア人のペロプスが征服し、今に至るまで民族も領地も、征服者の名前で呼ばれておるのだ。」

12.会議はその後も延々と続いたが、夜が来てクセルクセスはアルタバノスの助言が気にかかった。一晩考えた上で、クセルクセスはギリシャに向けての進軍は自分自身の関心事ではないことに、はっきり思い至った。そしてある決心を固め、眠りに落ちた。ペルシア人の伝えるところでは、その夜かれは次の夢を見た。長身で眉目秀麗な男がかれを覗き込み、告げたという。

「ペルシア人よ、軍を招集すると公言しておきながら、翻意してギリシャ遠征を止めるのか? 考えを変えるのは、お主にとって良くはない。ここにいるわが輩とて、それを許さぬぞ。昨日決心した通りに事を進めるのじゃ。」

13.幻はこう告げ、クセルクセスの前から消えた。夜が明けた頃、クセルクセスはこの夢を無視し、昨日招集したペルシアの重臣たちを一堂に集め、次のように宣言した。

「ペルシアの者どもよ、予の早急な心変わりを許せ。予は未だ考えが足りておらなんだ。予が告げたことを強く勧める者どもが、決して予を自由にしてくれなんだでな。アルタバノスの意見を聞いた時、予は若気の至りで即座に興奮し、見苦しくも怒りを爆発させ、目上の者に向かって不埒な返答をしてしまった。しかし今、予はみずからの過ちを認め、かれの判断に従うつもりである。ギリシャへの進軍は中止といたすゆえ、心安んじてよいぞ。」

14.ペルシアの重臣たちはこれを聞き、喜びの声を上げ、深く頭(こうべ)を垂れた。ところが夜が来てクセルクセスが眠りにつくと、同じ幻が再び枕元に立って言った。「ダリウスの子よ、お前は進軍を中止するとペルシアの者どもに明言したな。あたかも誰からも意見を聞かなかった如く、ワシの言葉を無視しおってからに。覚えておくがよい、直ちに軍を進めぬと、こうなるぞ。お前はあっという間に頂点を極めたが、再び転げ落ちるのも早かろう。」

15.その幻に恐れおののいたクセルクセスはベッドから飛び起き、使いをやってアルタバノスを呼び寄せた。当人が来るとクセルクセスは言った。「アルタバノスよ、予の精神は暫くの間、常軌を逸していたようじゃ。そのためお主の誠実な諫言に愚言を呈してしまった。しかしながら後悔した後は直ちに、そちの忠告に従うのが正しいと判った。」

「ところがじゃ、そうしたいのは山々なれど、それができぬのだ。考えを翻し、後悔してからというもの、幻が予の前にしばしば現れ、そちの忠告に従ってはならぬと言うのだ。たった今も、予を恐怖に陥れて去って行きおった。」

「神がその幻を使わされたのであれば、そして今回の遠征が神のご意志に沿うのであるなら、同じ夢がそなたにもつきまとい、予に下されたものと同じ指令がそなたにも下されるであろう。そなたが予の衣装をそっくり纏って玉座に座り、また予のベッドで眠るのが、そなたが幻を見るのに一等良い方策と思う。」

16.クセルクセスはこう言ったが、アルタバノスは最初の命令には従おうとしなかった。というのも玉座に座るというのはあまりにも恐れ多いことであるから。しかしついに無理強いされて命令通りに行ない、まず口を開いた。

「王よ、英邁であることと上策の忠告に従うことは同じことと考えまする。お上はそれを二つながらお持ちにございます。ところが邪悪な一党が、お上を躓(つまづ)かせるのでござる。あたかも海は全てのものの中で最も役立つものでありながら、吹きつける強風が、その有用性の妨げとなるように。」

「しかしながら、お上から辛辣な言葉を賜りましたとき、心が痛んだのはその言葉ではなく、むしろ次のことであります。それは、ペルシアには二つの道があり、一つは傲慢を助長するものであり、もう一つはそれを諫め、今もてる物以上の物を要求し続けよと心に植えつけることが、如何に邪悪なことであるかを示す道であります。そしてこの二つのうち、お上はご自身にもペルシア人にも大なる危険を孕む道を選ばれたことにございます。」

「今、お上は上策に舵を切られ、ギリシャへの遠征を中止すると宣下なされたが、どこかの神から使わされた夢に脅され、遠征中止を禁じられたとの由。」

「しかしこれは天のなせる業ではありませぬぞ、若君。さまよい現れる夢というものがどのようなものか、若君よりはずっと年経るわが輩ゆえにお教えいたしましょう。さまよい現われる夢というものは、日中の考えが大部分を占めるものでござる。実際、この数日は遠征騒ぎで極めて忙しくしておりましたゆえに。」

「万一、これがわが輩の申すようなものでなく、若君の仰る通り、ある種神のお告げであるなら、若君に現れた夢がわが輩にも現われるよう、またその命を告げさせてみようではありませぬか。それが真に現われたがっておりますなら、若君とわが輩の衣装を取り替えたり、ベッドを代えたりせずとも、わが輩にも現われるはず。」

「若君の眠りの中に現れたものが何であれ、わが輩が若君の衣装を着ているのを幻が見て、それと見間違えるほど愚かとは思えませぬ。そしてわが輩が若君の衣装を着ようが、自分の衣装を着ようが、わが輩を無視して現われず、若君には現われるかどうかを確かめねばなりませぬ。そして出現が続くのであれば、それは何らかの神のお告げと申せましょう。」

「若君の決心が固く、今のやり方を変えることはならぬ、ご自分のベッドで寝よと仰るなら、その通りにいたしましょう。そして幻がわが輩にも現われるようにさせましょう。ただし、その時まではわが輩は今の考えを変えるつもりはありませぬ。」

17.このようにアルタバノスは語り、クセルクセスの言説が無意味であると明らかになることを願いつつ、命じられた通りにした。かれはクセルクセスのローブを纏い、玉座に座した。その後、王のベッドで眠りについたが、クセルクセスを恐懼させた同じ幻が現われた。幻はかれの枕元に立ち、こう言った。

「クセルクセスを案じているかの如く装い、ギリシャへの進軍を諫止したのはお前だな? 今といわず未来といわず、なさねばならぬことをねじ曲げようとした罪から、お前は逃れることはできぬぞ。クセルクセスには、命に従わぬ時に何が降りかかるか、すでに宣告しておる。」

18.このようにアルタバノスは脅かされ、幻は熱した鉄でかれの両目を焼こうとした。かれは大声で叫びながら飛び起き、クセルクセスのもとへ行って自分が見た夢をすっかり話したあと、こう告げた。

「お上、わが輩は、これまで、あまたの強国が弱小国に敗北してきたのを見ております。それゆえ、お上が若気の至りでことをお進めになるのをお諫めして参りました。大欲は災いの元であることを知っておりますゆえ。また、キュロス王のマッサゲタイ遠征や、カンビュセス王のエチオピア討伐、さらにはダリウス王に随ってスキタイに進軍した、わが輩自身の結果を覚えておりますゆえに。」

「右の経験から、お上が軍を動かさぬことこそ、全ての者がお上の幸運を寿ぐものと考えておりました。ところが、ある種の神の啓示があり、それはギリシャを壊滅させよという神意のようであります。ここにおいてわが輩は考えを変え、修正することにいたします。まず神のご意向をペルシア人に布告なされよ。そして先の進軍準備令を再開する布令をお出しなされ、また、神の使命を成就なさるのに遺漏なきようになされよ。」

幻影に脅かされて二人はこのように語り合った。そして夜が明けてから、クセルクセスは全てを重臣たちに打ち明けた。アルタバノスは、以前は一人公然と進軍に反対していたのが、いまや公然とそれを奨励するようになった。

19.これでクセルクセスは遠征に向けて意を強くしたが、眠りに落ちてから三度目の幻が現われた。それを知ったマギ(東方の賢者)たちは、その夢が全ての大地に関することで、しかも全人類がクセルクセスに隷属する証しと見なした。その夢の内容は以下に。

クセルクセスはオリーブの枝の冠をかぶっていたが、その枝先が延びて大地全体に拡がり、その後、自分の頭からその冠が消え去るように見えた。

マギ(東方の賢者)たちはこの夢を右のように解釈したので、集まっていたペルシアの重臣たちは、それぞれの領地に馳せ戻り、褒賞目当てに王の命令を果さんものと躍起になった。かくしてクセルクセスは全領土を調べ上げ、軍を招集したのである。

20.エジプト攻略に丸四年(11)を費やした後、クセルクセスはギリシャ遠征に要する軍その他必要な全てを調えた。丸五年を迎えようとする頃、いよいよ王は夥しい軍を進発させた。
(11)BC484-BC481

この時の軍勢は、我らが知る限り最も大なるものだった。ダリウスがスキタイに進軍した時のそれは言うに及ばず、スキタイがキンメリア人(*1)を追ってメディアに侵略し(12)、北アジアの殆どを制圧した時の軍勢も同列だった(その後、ダリウスは彼らの討伐を試みた)。伝えられるところでは、アトレウスの子によるトロイ遠征も、ましてや、トロイ戦争の前に始まった、ボスポラス海峡を越えてヨーロッパに侵入し(13)、トラキア全土を征服した後、はるばるペネオス川(*3)まで南下し、イオニア海に至ったミュシア人(*2)やトロイ人の遠征も、これに及ばないと言われている。
(12)第一巻103節、第四巻1節を参照
(13)大陸間の移動には数種あることは明白。ヘロドトスはアジアからヨーロッパに移動したと書いているが、史実からは他の経路だったようだ。
(*1)紀元前千三百年頃から北コーカサスやアゾフ海近辺に定住していた民族;前田注
(*2)古代小アジア(トルコのアナトリア半島)北西部の定住民族;前田注
(*3)ギリシャのテッサリア地方を流れる川;前田注

21.右に挙げた全ての遠征および過去に行われたものを全て合算しても、今回の遠征軍の兵力には遠く及ばなかっただろう。アジアからギリシャへ向かうのに、クセルクセスが連れて行かなかった民族があるだろうか? 大河は別として、軍が飲み干して涸れずに済んだ川があるだろうか?

船を供出する国もあれば、歩兵を差し出す国、騎手の提供を約束する国、従軍して馬の輸送船を供出する国、橋に用いる大船を供出する国、食糧や船を供出する国があった。

22.まず手始めに、以前に船団がアトス岬を回ったときに難破した経験から、ここは約三年かけて準備を行なった。三層櫂ガレー船団をケルソネソスのエライウスに碇泊させ、そこを司令部とした。そして軍の全兵士を交代させながら運河の掘削に従事させた。またアトスの近くに居住する住民もこの工事に従事させた。

メガバゾスの子ブバレスとアルタイオスの子アルタカイエスのペルシア人が、工事を監督した。アトス(*1)は高く聳える有名な山で、海に突き出るようにして岬の先端にあり、人も住んでいる。山から内陸に向けては半島を形成し、およそ十二スタディア(*2)幅の地峡部になっている。アカントス付近の海から反対側のトロネにかけては、この地域は平地や低い丘が混在している。
(*1)標高2033m。第六巻44節参照;前田注
(*2)180m×12≒2.2Km;前田注

アトス岬つけ根の地峡部にはギリシャ植民地のサメという街があるが、この街から海の方向に向かってアトス山との間にもいくつかの街がある。いまペルシア人は、ここを本土から切り離して島にしようとしているのである。その街というのは、ディオン、オロヒクソス、アクロトウン、ティソス、クレオナイである。

23.ペルシア人は次のやり方で運河を掘った(14)。まず地表を民族別に別けた。そしてサメの近くで地峡部を横断する方向に彼らを直線に並べ、ある程度の深さの溝を掘る。そしてその底にいる人夫が掘り出した土を、高い足場にいる他の人夫に渡す。そして彼らはまた次の高さの足場にいる人夫に渡す。これを最上位に届くまで続ける。このようにして土を外に運び出し、投棄するのである。
(14)太古のことゆえ信じがたいが、実際に掘削されて用いられたのは間違いない。その痕跡が残っているようだ。

フェニキア人を除く全ての民族が、水路の急な崖が崩壊するため、二倍の作業量を強いられた。彼らは水路の上辺と下辺を同じ幅にしたため、このようなことが起きたのである。

しかしフェニキア人だけは、何事につけてもそうであるように、この時も手際の良さを発揮した。受け持ち区域の工事に取りかかるに当たり、彼らは地表では運河の幅を二倍にして掘り進め、下に行くに従って徐々に幅を狭くしてゆき、最下辺では他国のそれと同じになるように掘削したのである。

また、そのあたりには牧草地が拡がっていたので、そこに売り買いできる市場を作った。そしてアジアからの穀物が大量に、しかも頻繁に送られてきた。

24.察するに、クセルクセスは自分の力を誇示し、後世に記念を残したいという自尊心から、運河の掘削を命じたと思われる。というのも、船を曳いて地峡部を横断するのは手間をかけずにできたはずであるのに、三層櫂ガレー船が二隻横に並んで航行できる幅を有する運河の掘削を命じたのであるから。そして、運河の掘削に従事した人夫たちは、ストリモン川に架ける橋の工事にも従事させられた。運河の開墾に関しては以上。

25.一方で、フェニキア人とエジプト人には、パピルスと白亜麻(15)を用いて、橋を架けるための綱を作らせた。また彼らには食糧貯蔵の任務に当たらせ、ギリシャへの行軍中に兵士も荷役獣も飢えないようにした。
(15)ギリシャ語の「λευκολινον」は明らかに亜麻ではないが、アフリカハネガヤはフェニキア人によってスペインから輸入されていた。

クセルクセスはさまざまな場所を調査させ、アジア全土から輸送船や渡し船で運ばれてきた食糧を最適な場所に貯蔵させた。彼らはその殆どをトラキアのレウケ・アクテ、いわゆる白岬という場所に運び込んが、一部はペリントス領のティロディザへ、一部はドリスコスへ、一部はストリモン河畔のエイオンへ、あるいはマケドニアヘ送り込んだ。

26.これらの民族が指示された任務を果たしている一方で、集結し終えた全陸軍が、クセルクセスと共にサルディスへ向けて行軍していた。かれはカッパドキアのクリタラを全軍の集結地に指定し、ここから陸上を出発した。

最も秀でた武装の兵士たちを集めたとして、どこの属州長官が王から褒賞を賜ったのか、私は知らない。そもそもそのような判定が下されたかどうかさえ判らないのだ。

軍はハリス川を越えてフリギアに入り、そこを通ってケライナイ(16)(*)に達した。ここはメナンドロス川の源流地で、この川に劣らぬ水量のカタラクテ川の源流地でもある。この川はちょうどケライナイの市場から発し、メナンドロス川に合流している。この街にはシレノスというマルシアスの皮が吊されている。フリギア人の伝説によれば、マルシアスはアポロによって皮をはがれ、吊されたとされている。
(16)ここは「皇帝の道」から南に別れる分岐点である。クセルクセスはヘルメスの谷を通る困難を避けて道を南に取る。第五巻52節参照。
(*)現トルコ中部の街;前田注
(17)笛吹きマルシアスとリュート弾きアポロの競争伝説は国歌の変遷を暗示しているようだ。その重大さは我らよりはギリシャ人の方が判りやすい。

27.この街では、リディア人でアティスの子ピティウスが待ち受けていて、クセルクセスはもとより、その配下の全軍を最高のもてなしで歓待した。そして喜んで軍資金を献上すると申し出た。

ピティウスが戦費献上を申し出ると、クセルクセスは配下のペルシア人に、このピティウスは何者か、そして軍資金を提供するなら、かれはどれほどの富を有しているのかを下問した。配下の者が答えるに、「この者は、かつて父君ダリウス様に黄金製のプラタナスの木とブドウの木を献上した者にございます。我らが知る限り、この者は今やお上に次ぐ富裕者にございます。」

28.クセルクセスは最後の言葉に驚き、ピティウスに向けて直々に下問した。どれほどの富を所有しているのかと。ピティウスが答える。「お上、みどもはわが資産をお上に隠すつもりも、知らぬふりするつもりも、毛頭ありませぬゆえ、承知しておりますことを正直に申し上げます。」

「お上がギリシャの海に下って来られると知りまして、みどもは直ちに軍資金を献上したく思い、わが資産を調べました。そこでわが勘定方が示すところでは、銀で二千タラントン(*)、ダリック金貨(18)にして四百万に七千少ない金を所有しております。」
(18)ダリック金貨は現在のおよそ1ポンド2シリングに相当する。
(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)〜約37Kg(アイギーナ単位);前田注

「これら全てを喜んでお上に献上いたします。みども自身のことは、わが奴隷と領地から充分な活計(たつき)が得られますゆえ。」

29.このようにピティウスが言うと、クセルクセスはその言葉に喜び、こう返した。「わがリディアの友よ、ペルシアを出発してからというもの、わが軍を喜んで歓待してくれた者に、ついぞ会ったことがない。ましてや呼ばれもせぬのに予の前に参上し、しかも軍資金を差し出すなどと言上する者などおらなんだわ。お主のほかには。」

「そちはわが軍を手厚くもてなしてくれた上に、巨額の資金を提供してくれた。その返礼として次の特権をそちに与えよう。以後そちを予の客分として遇することにする。そして予の資産から金貨七千枚を与えよう。そうすればそちの持つ金貨は四百万に七千枚が欠けることなく、予の注ぎ足しによって、きっちりした額になるではないか。」

「今そちが有している資産はそのまま持っておくがよい。そして今の気持ちを決して忘れるでないぞ。今のそちの行ないは、今も、これからも、そちに悔いることはさせぬであろう。」

30.クセルクセスはこう言ってその約束を果たした後、さらに軍を進めた。フリギアのアナウアという街を通り、塩の採れる湖を過ぎ、軍はフリギアのコロッサイという大きな街に到着した。ここではリコス川が大地の裂け目に落ち込んで姿を消し(19)、およそ五スタディア(*)離れた地点で、再び地上に姿を現し、その後はメナンドロス川に合流する。
(19)ここではリコス川は狭隘な峡谷を流れているが、数ヤードを除き、地下を流れる徴はない。
(*)180m×5≒900m;前田注

軍はコロッサイからフリギアとリディアとの国境に沿って進み、シドララの街に着いた。ここにはクロイソス(*)によって立てられた碑があり、碑文が刻まれて国境の目印となっている。
(*)リディア王国の最後の王(BC595-547頃?)。莫大な富を保有していることで有名を馳せたが最後はペルシアに敗北:前田注

31.その後、軍はフリギアからリディアに入り、道の分岐点に到着した。左の道をたどればカリアに至り、右の道はサルディスに至る。後者の道はメナンドロス川を渡り、カラテボスを通らねばならない。この街には小麦と御柳から密を搾りだす職人が住んでいる。クセルクセスは、この道をたどったが、一本のプラタナスの木を見つけると、その枝振りが見事だったので、それを黄金で飾らせた。そして「不死身部隊」の一人に守番を命じた。そして翌日にはリディアの首都(サルディス)に到着した。

32.サルディスに到着後、クセルクセスは最初に使者をギリシャに送って土地と水を要求し、王をもてなす準備も命令した。かれは、全てのギリシャ諸国に土地を要求したが、アテネとスパルタは除いた。再び土地と水を要求した理由は次の通り。ダリウスが以前要求した時には誰も応じなかったが、今回は恐怖に駆られて応じるだろうと、クセルクセスは確信していたからである。このことを確かめるために、かれは要求を突きつけたのである。

33.このあと王はアビドスに向かう準備をさせた。一方、配下の者たちはアジアからヨーロッパに渡るヘレスポントスの架橋工事をしていた。ヘレスポントスのケルソネソスには、セストスとマディトスの間で、アビドスの対岸にあたる場所で、海に突き出ている広大な岬(20)がある。この後、しばらく年を経てからアリフトンの子クサンチッポスを将軍とするアテネ軍が、ペルシア人のセストス長官アルタユクテスを捕らえ、生きたまま張付の刑に処したのが、まさにこの場所だった。こやつはエライオスにあるプロテシラオスの聖廟にしばしば女を連れ込み、不埒な行ないに及んでいたのである。
(20)現在のゼメニク(セストス)とキリア間の湾にあり、およそ四マイルの幅がある。

34.架橋工事に携わっていた者たちはアビドスからこの岬に向けて橋を架けていた。フェニキア人は亜麻製の綱を用いて、エジプト人はパピルス製の綱で、それぞれの橋を作っていた。アビドスから対岸までの距離は七スタディア(21)(*)である。ところが海峡に架けられたこの橋は、完成するやいなや激しい嵐によって破壊され、全て粉々になってしまった。
(21)現在では、最も狭い箇所は、ほぼ1.5倍の幅がある。おそらく、セストスからアビドスに跳ね返る潮流によって海岸が浸食されたためであろう。
(*)180m×7≒1.3Km;前田注

35.これを知ったクセルクセスは激怒し、ヘレスポントスに三百の鞭打ちを下すよう命じ、足枷一対を海に投じさせた。さらにかれは焼印工を派遣して、ヘレスポントスに焼印を押させたとも、私は聞いている。

クセルクセスは鞭打ちの際に、次のような野卑な罵倒の言葉を投げつけさせた。「憎々しげな海よ、われらが王は貴様をこうやって罰するのじゃ。わが王はお主に何も害をなしておらぬのに、お前はわが王に災悪をなしたゆえに。貴様が望もうが拒もうが、クセルクセス王はお前を渡って行かれるのじゃ。当然のこと、お前に生贄など誰も供えるものか。塩辛く濁れる流れのお前などに。」

クセルクセスはヘレスポントスの海に対して、この処罰を下すように命じ、また架橋工事の監督者の首をはねるよう命じた。

36.このおぞましい任務は、それに指名された者によって執行され、また新規の監督官が架橋工事を開始した。架橋工事の模様は次の通り。綱の緊張を緩めるために、五十本櫂船と三層櫂ガレー船を互いに横づけして配置した。黒海側に三百六十隻、その対岸に三百十四隻を並べて橋を支えた。全ての船はポントスの街に対して斜めに、ヘレスポントスの潮流に平行に並べた(22)。
(22)シュタインの考察する如く、北東または上位の橋の船団は「επικαρσιαι」とも読めるし、南西または下位の橋の船団は「κατα ροον」とも読める。

このように船を配置してから、船の両端から巨大な錨を降ろした。ポントス側では、海からの風に抗して船を安定させるため、対岸で西のエーゲ海側の船団は南西の風に抗して船を安定をさせるためである。

また五十本櫂船と三層櫂ガレー船の列には少しの隙間を空けておき、小舟ならポントスへの出入りが自由にできるようにした。

この後、綱を陸から延ばし、木製の巻き上げ機で張りつめた。また前回のように二種の綱を別々にせず、それぞれの橋に亜麻製の綱を二本、パピルス製の綱を四本用いた。

これら二種の綱は同じ太さで、見栄えも同じくよかったが、亜麻製の綱はパピルス製に比して重かった。亜麻製は一キュービット(*)あたり一タラントン(23)の重量があった。
(23)およそ36Kg(26Kg〜37Kg;前田注)
(*)45〜56Cm。56Cmとして、この長さの綱が26Kgというのは重すぎるように思われる。36Kgなら、なおさら;前田注

かくして海峡には綱が張り渡された。次にこれを支えている船(24)の全長と同じ長さの丸木を切り出し、それを張りつめた綱の上に並べ、固定した。その後、粗朶(そだ)を橋の上全体に敷き詰め、その上に土をかぶせて踏み固めた。最後に橋の両側に柵を取りつけ、荷役獣や馬が足下の海を見て怖がらないようにした。

24 すなわち、綱を支えている船の列

37.架橋工事が完了し、アトスでは上げ潮による波の侵入を防ぐための運河両端の土堤も完成し、運河それ自体も完成したという知らせを受けたところで、軍はサルディスで冬を過ごした。

翌年の早春(25)、準備を終えた軍はサルディスを発してアビドスに向けて出発した。まさに出発しようとする時、太陽の位置は変わらぬままに、その姿が見えなくなった。空には雲もなく、晴れ渡っているにもかかわらず、昼が夜のようになった(*)。クセルクセスはこれに強い関心を示し、マギ(東方の賢者)たちに、これは何の前兆かと下問した。
(25)おそらくBC.480四月中旬
(*)天文学者による考察では、サルディス付近で皆既日食(金環食)が観測されたのは紀元前478年2月だったという。本文の記述に2年のずれがある;前田注

賢者たち曰く、ギリシャ人たちは自国を放棄すると神が示されたのだと。太陽はギリシャ人にとっては予言者であり、月は我らの予言者であるゆえ。これを聞いてクセルクセスは欣喜し、行軍を続けた。

38.ところで、この行軍中、リディア人のピティウスが空の異変に恐れおののき、また下賜された褒賞に気をよくしたのか、クセルクセスのもとへ行き、言上した。「お上、お願いしたき儀がございます。お上にとっては容易きことなれど、みどもには大切なことにございます。」

クセルクセスは、ピティウスの要望が思いがけないことであるとはつゆ知らず、それを叶えてやろるから申して見よと返答した。これを聞いたピティウスは勇を鼓して言った。「お上、みどもには息子が五名おりまして、それが全てギリシャに向けてお上に随行するよう命じられております。」

「そこでどうかお願いでございます、お上。みどもの老齢を哀れみ給わり、わが長子を従軍の任務から免じていただき、わが身の世話と資産管理をさせていただきますよう、お願い申し上げます。そして他の四名の息子をお連れいただき、お上の企てが全て完遂されてご帰還なさることをお祈り申し上げます。」

39.クセルクセスは大いに怒って返答した。「この無礼者。予がみずからギリシャに向けて進軍し、またわが息子たち、同胞、親類縁者を随行させておるのを、お主は知っておろう。お前、わが従僕よ。一族郎党および汝の妻女も引き連れて予に従うべき者が、汝の息子のことを口にするか? よいか、これから申すことをよく聞け。耳の中には人の心が宿っておる。そこで耳に心地よきことを聞くと総身は喜びで満たされるが、その逆を聞いた時には、身は怒りで膨れあがるのだ。」

「お主が予に見せた好意あふれる配慮や約定を申し出た時、おぬしは決して善行に関しては予を凌いだなどと誇りはしないであろう。しかし今、お主が破廉恥漢となりはてたからには、受けるべき懲罰より軽い罰をお主に与えることにする。お主の手厚いもてなしに免じて、お主と四人の息子たちの命は保全しよう。しかしお主が一等守りたいと願っておった命をもって、お主は罰を受けねばならぬのだ。」

クセルクセスはこのように返答し、すぐさま配下の者に命じ、ピティウスの長男を探し出させ、かれの身体を二つに切断させ、道の両側に各半身を置かせた。そして軍がその半身の間を通過するようにした(*)。
(*)これには何らかの因習上の意味がありそうだ;前田注

40.こうして軍はその半身の間を通って進んだ。先頭は輜重隊と荷役獣、そのうしろにさまざまな民族からばらばらに編成された混成部隊が続いた。軍の半分以上過ぎたあたりで隙間が空けてあり、この部隊が王と離れるようにしてあった。

この部隊の後ろには全ペルシア人から選抜された一千の騎馬隊が続き、その後ろに同じく選抜された千人の槍隊が穂先を下に向けて持って続いた。次にはネサイアンと呼ばれる十頭の種馬が、目を見張るほど美々しく飾られて続く。

ネサイアンと呼ばれるのは、同じ名前の大平原がペルシアにあり、ここで体躯の秀れた馬が産しているからである。

これら十頭の馬に続き、八頭の白馬に牽かれたゼウスの聖戦車(26)が徒歩の馭者に手綱を引かれて続いた。これは神の車には人間は何人も乗ってはいけないためである。この後ろにネサイアン馬に牽かれた戦車にクセルクセス自身が鎮座して続いた。王の横にはパティランフェスという名の馭者が乗っていたが、これはペルシア人オタネスの子であった。
(26)ゾロアスター教のアフラマズダ

41.このような陣容でクセルクセスはサルディスを出発したが、この王は気が向けば戦車から馬車に乗り換えた。王の後ろにはペルシア人の貴族で高貴な血筋の槍隊が千名、これは通常通り穂先を上に向けて持って続いた。この後ろには選抜された千人の騎馬隊、続いて残ったペルシア人から選抜された一万の歩兵が従った。

歩兵のうち一千は槍の石突きの代わりに黄金のザクロをつけ、部隊を囲むように配置された。内側の九千の兵は銀のザクロをつけた槍を持っていた。槍の穂先を下向けている部隊も黄金のザクロを装着し、クセルクセスに最も近くに従っている部隊は黄金のリンゴをつけた槍を持っていた。一万の歩兵の後には一万のペルシア人騎兵が整列して続いた。この後ろには2スタディア(*)の隙間を空けて残りの兵が混成されて続いた。
(*)180m×2≒360m;前田注

42.軍はリディアからミシア地方のカイコス川に向かう経路を進んだ。カイコスを後にした彼らはアタルネウスを経て、カネ山(27)を左に見ながらカレネの街に着いた。ここからテーベの平原を抜け、アドラミテウムとペラスゴイ人の街アンタンドロスを通過した。
(27)現代のカズ山

その後、軍はイダ山を左に折れてトロイの領土に入った。そしてイダ山の麓で野営したとき、稲光を伴う嵐が襲い、多数の兵が死亡した。

43.軍はスカマンドロス川に到着したが、この川はサルディスを発って以来、兵士や牛馬の飲用を満たせなかった最初の川だった。この時、クセルクセスはかつてのプリアモス王(*)の砦を見たくなったので、そこに登った。
(*)トロイの最後の王;前田注

砦を見学し、これにまつわることをさまざまな訊ねたあと、クセルクセスはトロイのアテナ神に牛千頭を献げた。マギたちはその英雄たちの霊に神酒を献げた。このあと、夜になって陣営は恐慌に襲われたが、夜が明けてからここを発ち、ロイテイオン、オフィリネイオン、アビドスの隣のダルダノスの街(28)を左に見つつ、トロイのゲルギテスを右に見つつ進んだ。
(28)アビドスからおよそ9マイル離れている。

44.アビドスに到着してから、クセルクセスは軍の閲兵を要望した。このために丘の上(29)に白石製の玉座が設置されたが、これは王の命によってアビドス人たちが作成したものである。
(29)おそらくナガラ岬にあるマルテペといわれている場所

王がそこに座って海岸を見下ろし、陸軍と海軍を眺めているうちに船の競争を見たくなった。そうやって競争させるとシドンのフェニキア人たちが勝利をおさめ、クセルクセスはそれに満足し、軍勢の偉容にも満足した。

45.ヘレスポントスの海が船で埋め尽くされているのを見、またアビドスの海岸や平地が兵士で満杯になっているのを見て、クセルクセスは初めて自分自身を祝福する声を上げ、すすり泣きを始めた。

46.これに気づいた王の叔父アルタバノスは、最初は自分の考えを忌憚なく話し、ギリシャへの進軍を諫止していたのであるが、クセルクセスのすすり泣きの様子に注意しつつ、王に語りかけた。「お上、今のなさりようと、この少し以前と、何という隔たりでありましょうや! ご自身を祝福なされた直後に落涙なさるとは。」

クセルクセス曰く、「人間の命の短さに思いを馳せると、その哀れさに心が動揺したのだ。この夥しい軍勢が、これから百年後には誰一人として生きてはおらぬゆえに。」

アルタバノスが答える。「人の人生にはそれ以上に深い悲哀があるものでございます。人生は短きものゆえ、一度のみならず幾度となく、生きることより死を望むことのないような幸運な者など、どこにもおりませぬ。不幸や病が我らに降りかかると、それが短い人生を長いようにも思わせるのでござる。」

「人生は哀れ深きものゆえ、人間にとって死が最も好ましき逃げ道となるのでございます。神はこれをねたましく思われ、我らに生きることの甘美のみを下されたのでございます。」

47.クセルクセスがまた返答した。「アルタバノスよ、人生というものはお主の申す通りじゃ。これについて議論するのも、いまの我らの栄耀栄華にひそむ不吉な影を思い起こすことも止めにしよう。ただこれだけは言っておく。もしお主が夢で幻を見なかったとしたら、以前からのギリシャ侵攻に反対する考えをずっと持ちつづけていたであろうか、あるいはその考えが変わったであろうか? 真実を教えてくれぬか。」

アルタバノスが答える。「お上、夢に現れた幻が、我ら二人が望んだ結末をもたらしますように! ただ、みどもは今もなおひどく怖れております。というのは、さまざま顧みまするに、とりわけこの世で最も大なる二つのことが王に敵対しておりますことを怖れております。」

48.クセルクセス曰く。「奇妙なことよ。そちの言う予の最大の二つの敵とは何のことじゃ? 陸の軍勢に不足ありと申すか? ギリシャの軍勢が我らのそれより何倍も上回るように思えると? あるいは船団の数がギリシャより少ないというのか? それともこの二つとも劣ると? お主の見るところ我らの勢力に何か欠けているというなら、直ちに別の軍勢を招集するのが最善の策であろう。」

49.アルタバノスが答える。「お上、正しき判断を下す者が見れば、この軍勢や船団の数に不足があるはずはござりませぬ。それに、これ以上軍を集められますと、みどもの申します二つの敵がさらにお上に向かってきますぞ。その二つの敵というのは大地と海のことでござる。」

「察するに、嵐の際に、この大船団を受け入れ、守ってくれる港はないでありましょう。守るなら、一つといわず、航行する陸沿いに多くの港が必要になりましょう。」

「この船団を受け入れることのできる港はありませぬゆえ、不測の事態においては人間はなすがままとなり、もはやそれを克服できるものではないことを知っておかれますように。これが一つ目の敵、もう一つはこれから申し上げる。」

「大地も同様にお上の敵となり申す。お上の進まれる道に、邪魔したり妨げとなる物が何もなければ、進むに従って、先に何が待ち受けているか、ずっと気づくことなく、さらに大地はお上に刃向かって参ります。うまく事が運べば、さらに先に進もうとするのは人の常にございます。」

「お上に敵対する者がいなければ、領土の拡大と、それを獲得するに要する時間によって飢餓を招くことになり申す。しかしながら、ことを企てる際には、あらゆる障碍を想定しつつ臆病であっても、いざことを行なうに当たっては大胆に実行に移すのが、最上の人間でございます。」

50.クセルクセスが答える。「アルタバノス、もっともな言い分じゃ。しかし何事も恐るるに足らず、ましてや何もかも同様に忖度することもあるまい。全てをあらゆる場合に当てはめて等しく勘案しておると、何もできはせぬ。何事も思い切りよく実行し、怖れていたことの半分の不利益を被る方が、怯えて何もなさず、何も苦難を受けないことよりも上策というものだ。」

「言挙げされる全てのことに異を唱えるなかで、何が正しいかを示せないのであれば、お主に異を唱える者と同じく、お主の主張も誤りであることになるぞ。これでは、どちらも同じことだ。人の身で、何が正しいかなど、どうして知り得よう? そのようなことは、できぬことと予は考える。行動を起こす意思を最も強く有する者が、褒賞を勝ち取るのだ。ためらって全ての場合を忖度する者に勝利はない。」

「ペルシアがどれほどの勢力を築きあげてきたか、お主は知っておろう。先代の王たちがお主の如き考えだったなら、あるいはそのような考えを持たずとも、お主の如き軍師を持っておったなら、今の栄耀栄華を、お主は見ることは叶わなかったであろう。先王たちが危険を顧みず事を進められたればこそ、この高みにまで国威を発揚なされたのじゃ。」

「大なる成功に大なる危険はつきもの。そして我らも先王たちと同じ道をたどるのだ。我らはいま一年中で最も良い季候の中で行軍しておるからには、全ヨーロッパを征服した暁には、食糧不足そのほか何の障碍もなく母国に帰還することになろう。まず我らは豊富な食糧を備えておるし、次に征服した国々で食糧をまかなうことになる。我らが向かうのは、遊牧民ではなく農耕民であるゆえ。」

51.アルタバノス曰く。「お上、いかなる危険も恐るるに足らずとの由、承りましてございます。ただ、これだけはお聞きくだされますように。我らの企ては大なるゆえに語るべきことも多くを要しますゆえ。」

「カンビュセス王の子キロス王がアテネを除き全てのイオニア諸国を征服し、ペルシアに貢献なされましたが、これらイオニア諸国の兵を、決してその父祖の地に進軍させてはなりませぬ。彼らの助けがなくとも、敵に打ち勝つことができますゆえに。またイオニア兵がわが軍に加わりますれば、彼らの母国を征服するという極めて理不尽な行ないを取るか、母国を開放するというごく当然の行動を取るか、どちらかをせざるをえませぬゆえ。」

「彼らがごく理不尽な行ないに走ったとしても、我らにはそれほど大きな利はもたらしませぬ。しかし彼らがごく当然の行動を取れば、お上の軍に多大な害悪をもたらしますぞ。結末は、始まりからは判らぬ、という古人の言葉に含まれる真理を、心に留めおかれませ。」

52.クセルクセスが答える。「アルタバノスよ、お主の述べた種々の意見の中で、イオニア人の忠誠を疑うお主の怯えた意見が、最大の誤りだ。彼らの忠誠を確かなものとする確証はあるのだ。ダリウス王と共にスキタイに侵攻したお主や他の者どもなら、それを証言できるであろう。彼らが全ペルシア軍の明暗を左右する立場に立ったとき、何ら悪意を持たずに正義と忠誠を示したのはイオニア人ではなかったか。」

「その上、彼らはその妻や子、資産を我が国に残しておるゆえ、彼らが無謀な変心を起こすかもしれぬということさえ、顧慮する必要はない。されば、そのような怖れは無用じゃ。心を強く持ち、わが家産と領土を守ってもらいたい。お主一人に、わが王権の象徴たる王笏を預けるのであるから。」

53.こう言ってクセルクセスはアルタバノスをスーサに送り返した。次にペルシア人の中で最も高貴な者たちを呼び出し、彼らが揃ったところで切り出した。「ペルシアの者ども、予は次の命を与える。諸君みずから勇敢に振る舞い、ペルシアがこれまでに築き上げた偉大で栄光に満ちた偉業を決して汚してはならぬ。各人また全員が熱意を持ってことにあたろうではないか。我らが追究する偉業は、我ら全てのものであるゆえ。」

「以上のことから、奮闘して戦に取りかかってもらいたい。我らが勇敢な民族に向かっていることは承知しておる。彼らに勝利すれば、我らに対抗する軍勢は、この世になくなることは確かである。王国を支配するペルシアの神々に祈りを献げたあとは、いざ、海を渡ろうぞ。」

54.その日は一日中、渡海の準備に費やされた。そして翌日は、橋の上であらゆる種類の香木を焚き続け、神木の枝を路上に敷きつめ、日の出を待った。

日の出と共にクセルクセスは黄金の酒杯から神酒を海に注ぎ、道中の無事を太陽に祈り、またヨーロッパの最果てに到達する前に、この征服を阻むような事態の起きないことを祈った。祈り終えたあと、王は酒杯と共に黄金の水盤、アキナケス(30)と呼ばれるペルシアの剣をヘレスポントスの海に投じた、
(30)「三日月刀(scimitar)」ともいう。これは彎曲ナイフのこと。一方で「 ακινακη? 」は真直ぐな短剣のことと思われる。

ただ、王がそれらを海に投じたのは、太陽に献げるためか、ヘレスポントスの海を鞭打ったことを後悔して贖罪のために献げたのか、正しく判断できない。

55.以上のことを終えてから、軍は海を渡り始めた。歩兵と騎馬の全軍は黒海側の橋をゆき、荷役獣と従者たちはエーゲ海側の橋を使った。

先導したのは、花飾りを頭に戴いた一万のペルシア兵で、つぎにさまざまな民族から編成された混成部隊が続いた。その日はこれらの部隊がずっと渡海した。翌日は、騎馬隊と穂先を下に向けた部隊が渡ったが、彼らも花冠を被っていた

そのあとには、聖馬と聖戦車が続き、クセルクセス自身と槍隊、千頭の騎馬隊、その後ろに残りの軍勢が続いた。その間、船団も出航して対岸に向かった。ただし、王が最後尾で渡ったとも聞いている。

56.クセルクセスがヨーロッパに渡ると、麾下の軍勢が鞭でせかされて渡るのを視察した。また軍勢が一時も休むことなく渡海するのに、七昼夜を要した。

クセルクセスが渡り終えたとき、一人のヘレスポントス人が叫んだ。「ゼウスさま、なにゆえにあなた様はペルシア人のような風貌をなさり、御名もクセルクセスと変えられ、世界中の人間を従えてギリシャを滅ぼそうとなさるのでしょうや? このようなことをなさらずとも、あなた様ならおできになるでしょうに。」

57.全軍が渡海し、陸路出発の準備が整ったとき、ひどく不吉な前兆が現れた。クセルクセスはそれを意に介さなかったが、示していることは容易に判るものだった。それは雌馬が兎を産んだことである。その意味はごく明らかで、クセルクセスは威風堂々と進軍するが、命からがら同じ場所に帰ってくる、と解される。

ところで、王がサルディスにいたときにも別の前兆が現れていた。ラバが両性具有のラバを産み、しかも雄の性器が雌の性器の上についていたのだが、クセルクセスはどちらの前兆も無視し、陸軍を従えて進軍したのである。

58.さて、海軍は陸沿いに航行してヘレスポントスの出口に向かったが、これは陸軍とは逆の方向であった。

船団は西のサルペドン岬に向けて進路を取った。というのも、クセルクセスがこの地でかれを待つように命じていたからである。一方、本土を進む軍は東に向かい(31)、日の出の方向に向かってケルソネソスを通過したが、その途次はアタマスの娘ヘレの墳墓を右に見、カルディアの街を左に見て、アゴラの街の中を行軍した。
(31)正確には北東方向。陸軍はガリポリ岬を通過した。

そこから陸軍はメラス湾(いわゆる黒い湾)沿いに進み、メラス川を渡った。この川は、その名を湾の名前に由来しているが、その時の軍の需要を満たすほどの流れではなかった。そのあと軍は進路を西に取り、アイオリア人の街アイノス、ステントル湖を過ぎてドリスコスに到着した。

59.ドリスコスはトラキアにある海に近く広い平原で、そこにへブロスという大河が流れている。ここに王立の要塞都市として建設されたのがドリスコスなのである。かつてダリウスがスキタイに遠征して以来、ここにはペルシアの守備隊が配置されていた。

クセルクセスは、ここを麾下の軍を閲兵、点呼する適地と見なし、それを執行した。いまや船団も全てドリスコスに到着し、クセルクセスの命で船長たちはドリスコス付近の海岸に船を集結させた。ここにはサモトラケ人の建設したサネとゾネという街があり、その先端は有名なセレイオン岬がある。この地はかつてキコネス人が支配していたのである。

海軍はこの海岸に船を着け、陸に揚げて休息をとった。一方でクセルクセスはドリスコスで軍の点呼を行なった。

60.各民族の正確な員数をここには書けない。誰もそれを語っていないからであるが、陸軍の総数は百七十万とされている(*)。
(*)ペルシア軍の兵力に関してはさまざま議論されているが、実際の兵力はざっと10分の1程度だったろう、というのが大方の見方である。本巻184〜187節を参照。なお、塩野七生氏は、この時のペルシア陸軍の勢力をおよそ20万人と推定している(ギリシャ人の物語I)。リンク先も参照されたし;前田注。 テルモピュレーの戦いプラタイアの戦い

計数作業は次のようにして行なわれた。一箇所に一万人を集め(*)、彼らをできるだけ隙間なく整列させ、その周りを囲むように線を引く。その後、兵士を移動させてから、線に沿って石壁を臍の高さまで積み上げる。

この作業が終わってから、他の兵士を壁の中に整列させる。これを最後まで繰り返して数えるのであった。計数が済んだところで、民族ごとに整列させた。
(*)1万人をぎっしり詰め込んで一直線に並べると、どれほどの距離になるだろうか? 仮に1メートルの間に兵士を4人詰め込んだとすると、2千5百メートルの計算になるのだが。千人の間違いではなかろうかと首を傾げたくなる;前田注

61.軍に召集された兵士の様子は次の通り。まずペルシア人の武装。頭にはティアラというフェルト製の丸帽子をかぶり、身には、さまざまな色の袖をつけ、魚に似せた鱗のような鉄片を多数取りつけたチュニック。脚にはズボン。木の枝で編んだ盾と、これに提げた矢筒。短い槍と長い弓、アシ製の矢。右の太股のベルトには短剣。

この部隊の司令官はアメストリスの子オタネスといい、クセルクセス妃の父だった。彼らは以前、ギリシャ人からケフェネスと呼ばれていたが、自身また近隣諸国はアルタイオイと呼んでいた。

ダナエとゼウスの子ペルセウスがベロスの子ケフェウスの許へゆき、その娘アンドロメダを娶った後、男児が生まれペルセスと名づけたが、かれはこの息子をその地に残していった。ケフェウスには跡継ぎの男子がいなかったからであるが、ペルシア人の呼称は、このペルセスに由来する(32)。

(32)ヘロドトスはギリシャ伝説に民俗学上の由来を求める傾向にある。名称の類似性においても同様。ゆえに次節ではメディアがメディア人の由来になっている。しかしペルセウスがヘラクレスと共通する祖祖父となっているのは、おかしい。かれはベロスの孫娘を娶っていた。第一巻7節ではベロスはヘラクレスの孫となっている。

62.メディア人の軍装はペルシア人のそれと同じ。実はもともと軍装はメディア人のもので、ペルシア人のものではなかった。その司令官はアケメネス家のティグラネスである。メディア人は、以前は誰からもアリオイ人(33)と呼ばれていたが、コルキスの女メデイアがアテネからアリオイ人の許へきてから、この民族もその名を変えたのである。これはメディア人が自身について伝えていることである。
(33)現代の文献学上は「アリヤン」となっていて、非常に広い意味に取れる。これはストラボンの時代にまで遡る。

キシア人の軍装はペルシア人と同様だったが、帽子の代わりにターバンを巻いていた。司令官はオタネスの子アナフェス。ヒルカニア人(34)部隊もペルシア人と同様。司令官はメガパノス、これは後にバビロン総督となった。
(34)第三巻のダリウスの征服国リストにはない。カスピ海東南部沿岸の民族

63.アッシリア人は頭に青銅で編んだ兜をかぶっているが、これは風変わりで説明しがたい。盾と槍、エジプト様式の短剣を持つ。また鉄鋲をつけた木の棍棒を持ち、亜麻の胸当てを着ている。ギリシャ人は彼らをシリア人と呼んでいるが、異国人はアッシリア人と呼んだ。彼らにはカルディア人も従っていた。司令官はアルタカイエスの子オタスペス。

64.バクトリア人はメディア人の帽子によく似たものをかぶっていた。携行しているのは自国の葦で作った弓と短槍。

スキタイから来たサカイ人は先の尖った固くて長い帽子をかぶり、ズボンを履き、自国製の弓と短剣、サガリスと呼んでいる斧を持っていた。彼らはスキタイのアミルギオン族だったが、ペルシア人はスキタイ人の総称としてサカイと呼んでいた。バクトリア人とサカイ人の司令官は、ダリウスとキュロスの娘アトッサとの息子であるヒスタスペス。

65.インド人は木製ウール(35)の服を着、葦の弓と鉄の鏃をつけた矢を持っていた。司令官はアルタバテスの子ファルナザトレス。
(35)木綿のこと。

66.アリオイ人はメディアの弓を装備していたが、そのほかはバクトリア人と同じ。司令官はヒルダネスの子シサムネス。パルティア人、コラスミオイ人、ソグディア人、ガンダリ人、ダディカイ人は、バクトリア人と同じ装備だった。

パルティア人とコラスミオイ人の司令官はファルナケスの子アルタバゾス。ソグディア人の司令官はアルタウオスの子アザネス、ガンダリ人とダディカイ人の司令官はアルタバノスの子アルティフィウスだった。

67.カスピア人は外套をまとい、自国製の葦弓と短剣を携行していた。その司令官はアルティフィウスの兄弟アリオマルドス。サランガイ人は色染めされた派手な外套を着、膝までの長靴を履き、メディア風の弓と槍を携行していた。司令官はメガバゾスの子フェレンダテス。

パクティエス人は革の外套を着、自国製の弓と短剣を持っていた。司令官はイタミトレスの子アルタインテス。

68.ウティオイ人、ミシア人、パリカニオイ人はパクティエス人と同様の装備をつけていた。ウティオイ人とミシア人の司令官はダリウスの子アルサメネスで、パリカニオイ人の司令官はオイオバゾスの子シロミトレスだった。

69.アラビア人はゼイラという帯つきの外套を着込み、右手には後ろに反っている長弓(36)を携えていた。エチオピア人はヒョウとライオンの毛皮をまとい、椰子の木片から作った弓を持っていた。この弓は四キューピット(*)足らずの長さで、鏃には鉄の代わりに印判を彫るのに用いる尖った石を取りつけていた。さらには槍の穂先には尖らせたカモシカの角をつけ、鋲を打ちつけた棍棒を持っていた。
(36)弦を張っていない時には弓の端が通常の彎曲方向と逆に反っていて、これによって矢の威力が増す。
(*)45〜56Cm×4≒180〜224Cm;前田注

彼らが出陣する時には身体の半分を石膏で白く塗り、残りの半分を朱に染めていた。エジプトの上手に居住するアラビア人とエチオピア人の司令官はダリウスとキュロスの娘アリストンとの間に生まれたアルサメスだった。ダリウスは后の中でもこのアリストンを最も愛しんでいたので、金の延べ板に彼女の像を刻ませていた。

70.エチオピア人は二箇所から来ており、東方からきたエチオピア人は(37)インド人部隊に配属されていたが、外見は他国人と変わらず、ただ、言葉と頭髪だけが違っていた。東方のエチオピア人は直毛だったが、リビアからきたエチオピア人は全軍の中でも最も強い縮れ毛だった。
(37)第三巻94節参照。東のエチオピア人は明らかにバルキスタン(パキスタン)またはその付近の民族。

アジアから来たこのエチオピア人の装備は、ほとんどがインド人のそれと同じだったが、耳とたてがみを剥いだ馬の頭部の革を頭にかぶっていた。たてがみを鶏冠のように立て、馬の耳は固めてピンと立てた。盾には鶴の革を使っていた。

71.リビア人は革の上着をはおり、焼き固めた木の投げ槍を持っていた。司令官はオアリゾスの子マッサゲス。

72.パファラゴニア人は織物の兜をかぶり、小ぶりな盾と短弓、投げ槍と短剣を携行していた。履物は膝の半ばまでの自国風だった。リギエス人とマティエネ人、マリエンディニ人、シリア人はパファラゴニア人の同様の装備だった。このシリア人はペルシア人からはカッパドキア人と呼ばれていた。

メガシドロスの子ドトスがパファラゴニア人とマティエネ人の司令官で、ダリウスとアリストンとの子ゴブリアスが、マリエンディニ人、リギエス人、シリア人の司令官だった。

73.フリギア人の装備はパファラゴニア人のそれと非常によく似ていて、その違いはごく僅かだった。マケドニア人が言うように、彼らはマケドニアの隣でヨーロッパに居住している間はブリゲス人と呼ばれていた。ところが彼らがアジアに移住したときに、その名もフリギア人と変えたのである(38)。アルメニア人はフリギアからの移住民であるゆえ、その装備もフリギア人と同様だった。この二つの民族はダリウスの娘を娶ったアルトクメスを司令官としていた。
(38)これは第七巻20節に記されているヘロドトスの民族移動に関する記述の逆。その項のノートを参照

74.リディア人の武器はギリシャ人のそれに似ている。リディア人は、以前メイオネス人と呼ばれていたが、アティスの子リドスの名を踏襲して名を変えられたのである。ミシア人は自国風の兜をかぶり、小さな盾と焼き固めた木の投げ槍を携行していた。

彼らはリディアから移住したのであるが、オリンポスの名を取ってオリンピエノイ人と呼ばれた。リディア人とミシア人の司令官はアルタフレネスの子アルタフレネスで、ダティスと共にマラトンに進攻した将軍である。

75.トラキア人は狐革の帽子を頭にかぶり、チュニックを着た上にさまざまな色で染めた外套をまとっていた。足と脛には子鹿革の靴を履き、投げ槍、小さな盾、短剣を携行していた。

彼らはアジアに渡ったあと、ビティニア人と呼ばれたが、彼ら自身の伝えるところでは、それ以前はストリモン河畔に住んでいたことから、ストリモニア人と呼ばれていた。彼らが言うには、テウクリア人とミシア人によって国を追われたということである。アジアのトラキア人の司令官はアルタバノスの子バサッケス。

76.<ピシディア人>は牛の生皮を張った小盾を持ち、それぞれがリキア製の狩猟槍二本を持ち、青銅の兜をかぶっていた。この兜には青銅で作った雄牛の耳と角がつけられ、鶏冠もついていた。脚には紫の脚絆を巻いていた。彼らの国には軍神アレスの託宣所がある。

77.カバレエス人(39)はマイオネス人のことで、ラソニオイ人とも呼ばれているが、キリキア人と同じ装備を持っていた。キリキア人に関しては然るべき所で、その様子を説明するつもりである。ミリアイ人は短槍を持ち、ピンで留めた上着を着ていた。彼らの中にはリキア弓を持ち、頭に革の兜をかぶっている者がいた。これら全ての司令官はヒスタネスの子バドレス。
(39)カリア、フリギア、ピシディア、リキアに接する地域から来ている。

78.モスコイ人は木の兜をかぶり、盾と長い穂先の小槍を持っていた。ティバレノイ、マクロネス、モシノイコイの諸族はモスコイ人と同じ装備。モスコイ人とティバレノイ人の司令官は、ダリウスと、キュロスの息子でスメルディスの娘であるパルミスとの間に生まれたアリオマルドス。マクロネス人とモシノイコイ人の司令官はケラスミスの子アルタユクテス。かれはヘレスポントスのセストス総督だった。

79.マレス人は編み上げ兜をかぶり、投げ槍と小さな革の盾を持っていた。コルキス人は木の兜をかぶり、生の牛革を張った盾を持ち、短槍と短剣を持っていた。これらの部族の司令官はテアスピスの子ファランダテス。アラロディオイ人とサスピレス人はコルキス人と同じ装備で、その司令官はシロミトレスの子マシスティオス。

80.紅い海から参加した島嶼の部族と、追放者として王が住まわせた島嶼から参加した部族の衣服と武器は、メディア人とごく同様だった。これら島嶼の部族の司令官はバガイオスの子マルドンテスだったが、この人物は翌年(40)にはミケーレの戦いに将軍として臨み、戦死した。
(40)BC.479

81.以上が陸上を行軍し、歩兵に編入された諸民族である。この軍の司令官たちはすでに述べた通りで、彼らが配下の部隊を編成点呼し、千人隊、一万人隊の隊長を任命した。そして一万人隊の隊長が百人隊、千人隊の隊長を任命した。ほかに部族や民族の統率者がいた(41)。
(41)すなわち出身国の統率者で、軍の公式指揮官ではない。

82.以上が各民族の司令官たちであるが、その全陸軍と司令官たちを統べる将軍がゴブリアスの子マルドニオス、ギリシャ遠征に反対の立場を取ったアルタバノスの子トリタンタイクメス、オタネスの子スメルドメネス(後者二人はダリウスの兄弟の子であるからクセルクセスの従兄弟になる)、ダリウスとアトッサの間に生まれたマシステス、アリアゾスの子ゲルギス、ゾピロスの子メガピゾスだった。

83.全歩兵の将軍たちは以上である。ただし一万人隊を除く。その選抜されたペルシア人一万人隊の将軍がヒルダネスの子ヒルダネスだった。彼らは次の理由から「不死身隊」と呼ばれた。すなわち、彼らのうち誰かが病や死によって余儀なく脱落した時には、別の兵士が抜擢されるので、一万人からは決して増えもせず、減りもしないのである。

ペルシア人が全民族の中で最も豪華な装束をまとっており、また軍の中で最強だった。彼らの装備はこれまでに述べた通りであるが、それに加えて多量の黄金を身につけていたので、際立っていた。その上、馬車にはきらびやかな衣装をまとった妻妾や奴婢をのせて連れてきていた。また他の部隊とは別にペルシア人のための食糧を駱駝や荷役獣に運ばせていた。

84.以上の民族には騎兵もいたが、全てが騎兵を提供したわけではなく、提供したのは次の民族だけである。ペルシア人は歩兵と同じ装備をしていたが、中には青銅や鉄で鍛造した兜をかぶっている兵士がいた。

85.サガルティオイ人という遊牧民族も参加していたが、彼らはペルシア語を話し、装備はペルシアとパクティエの中間風のものだった。この民族は八千人の騎兵を提供したが、短剣以外は鉄や青銅の武器を持つ習慣がなく、革紐を撚り合わせた綱を持っていた(42)。
(42)投げ縄のこと

これらの武器を頼りにして彼らは戦場に向かったが、その戦い方は次の通り。敵に接近すると引き結びにした綱を投げ、馬でも人でも捕らえたものを手前に引き寄せ、綱に巻きつけて絡ませ、斃すのである。以上が彼らの戦い方で、ペルシャ人部隊に編入された。

86.メディア人騎兵の装備はその歩兵と同じで、キシア人も同じだった。インド人騎兵の装備もその歩兵と同じだったが、駿馬に乗り、馬や野生のロバに曳かせた戦車を操った。バクトリア人騎兵はその歩兵と同じ装備で、カスピア人騎兵も同様だった。

リビア人騎兵も同じく歩兵と同じ装備で、彼らは全員が戦車も操った。カスピア人もパリカニオイ人も、装備はその歩兵と同じ。アラビア人も歩兵と同じ装備で、全員が馬に引けを取らない俊足の駱駝に乗っていた。

87.以上の民族だけが騎兵を提供し、その人数は八万騎を数えたが、駱駝や戦車は入っていない。騎兵はその部族別の部隊に配属されたが、アラビア人騎兵だけは最後尾に配置された。馬が駱駝に怯えるので、後ろに配置することで馬が怯えずに済むからである。

88.騎兵の司令官はダティスの子ハルマミトレスとティタイオス。三人目にファルヌケスがいたが、かれは病のためにサルディスに残った。というのも、サルディスを出発する時、かれは不幸な事故に遭遇したのである。一匹の犬がかれが乗っている馬の脚下を駆け抜け、それに驚きおののいた馬が後ろ脚立ちになってかれを振り落としてしまったのである。落馬後にかれは吐血したが、その後、労咳になったのである。

その馬はすぐにファルヌケスの命に従い、従僕によってかれを振り落とした場所に連れてゆかれ、膝を切断された。かくしてファルヌケスは任務を免ぜられたのである。

89.三層櫂ガレー船の数は千二百七隻だったが、提供したのは以下の諸国だった。パレスチナのシリア人と共にフェニキア人は三百隻。その装備は頭には、ほとんどギリシャ風の兜。亜麻製の胸甲、縁なし盾、投げ槍。

このフェニキア人は、彼ら自身が伝えるところでは、以前は紅い海のそばに住んでいたが、そこから移動して今はシリア沿岸に住むようになったという。シリアのこの地域から遥かエジプト一帯はパレスチナと呼ばれている。

エジプト人は二百隻を提供した。彼らは編み上げ兜をかぶり、広縁で凹みのある盾と海戦用の槍、大きな戦闘斧を持っていた。彼らの多くは胸甲を着込み、大型の短剣を帯びていた。

90.キプロス人は百五十隻を提供。領主たちは頭にターバンを巻き、一般人はチュニックを着ているが、そのほかはギリシャ人と同様の身なりだった。キプロス人の部族は次の通り(43)。サラミスとアテネ出身、アルカディア出身、キュトノス出身、フェニキア出身、エチオピア出身がいるとは、キプロス人自身の伝えるところ。
(43)これら各地域に分散して居住していた。各地域に別れていたわけではない。

91.キリキア人は百隻を提供。頭にはキリキア風の兜。生の牛革を張った盾。羊毛のチュニックを着用し、各自二本の投げ槍とエジプトの短剣によく似た剣を持っていた。以前この民族はヒパカイオイと呼ばれていたが、フェニキア人でアゲノールの子キリクスからその名を取ったのである(44)。パンフィリア人は三十隻(*)の船を出し、ギリシア風の装備だった。彼らは、トロイ戦争後の離散に際して、アンピロコスとカルコスに随行した者たちの末裔である。
(44)アゲノールはフェニキアの神を示しているようだ。
(*)Godleyは百隻と書いているが、他の三者は三十隻としているので、多数決に従った;前田注

92.リキア人は五十隻を提供。胸甲と脛当をつけ、ヤマボウシの木で作った弓と羽なしの矢、投げ槍を持っていた。肩には山羊皮をかけ、頭には羽つきの帽子。短剣と三日月刀を携行。リキア人はクレタ島から出た民族で、かつてはテルミライ人と呼ばれていたが、アテネ人パンディオンの子リコスからその名をつけられた。

93.アジアから来たドーリア人は三十隻を提供。その武器はギリシャ式。もとはペロポネソスにいた。カリア人は七十隻。武器は三日月刀と短剣。その他はギリシャ式。彼らの以前の呼び名は本書の冒頭に記している(45)。
(45)レレゲス人と呼ばれていた。第一巻171節参照。

94.イオニア人は百隻を提供。装備はギリシャ様式。彼らがペロポネソスのアカイアと今は呼んでいる地域に住み、ダナオスとクストスがペロポネソスにやって来るまでは、アエギアリア・ペラスゴイ人または「海辺のペラスゴイ人」(46)と呼ばれていたと、ギリシャ人は伝えている。彼らの名はクストスの子イオンからきている。
(46)ヘロドトスは、全般にギリシャ最古の住民に対して「ペラスゴイ人」という名称を用いている。第一巻146節、第二巻171節を参照

95.島嶼からは十七隻が参加し、武器はギリシャ様式。彼らもペラスゴイ人の系統だったが、アテネから移住した十二都市(47)のイオニア人と同じ理由で、その名をつけられたのである。アエオリア人は六十隻を提供し、装備はギリシャ式。ギリシャ人の伝承では、彼らも以前ペラスゴイ人と呼ばれていたという。
(47)ミレトス、ミウス、プリエネ、エペソス、コロポン、レベドス、テオス、クラゾメナイ、ポカイア、サモス、キオス、エリトライの都市。第一巻142節を参照。

ヘレスポントスの住民、すなわちアビドス人は国に残って橋を守るよう王に命ぜられた。ほかのポントスから従軍した住民は百隻を提供し、武装はギリシャ式だった。彼らはイオニア地方とドーリア地方からの移住民だった。

96.さて全ての船にはペルシア人、メディア入、サカイ人の兵士が乗り組んでいた。最高の性能を有する船を提供したのはフェニキア入だったが、中でもシドン人の船が最も秀でていた。歩兵隊に編入された兵士の場合と同じく、すべての部隊に同国人の隊長がいたが、私の探究目的には必要ないので、その者たちの名は記さずにおく。

各民族の隊長たち全員が名を記すに値するというわけでもなく、各民族の各都市には、それぞれの隊長もいたからである。彼らはもともと司令官としてではなく奴隷として従軍しているのであって、これは他の遠征軍でも同じだった。最高権力者たる将軍の名前と、各民族を統べるペルシャ人司令官は、すでに述べた通りである。

97.海軍の司令官は次の通り。ダリウスの子アリアビグネス、アスパシネスの子プレクサスペス、メガバテスの子メガバゾス、ダレイオスの子アカイメネス。ダリウスとゴブリアスの間に生まれたアリアビグネスはイオニア人とカリア人の船隊を指揮し、エジプト人船隊はクセルクセスと両親を同じくする兄弟のアカイメネスが指揮をとり、残りの船隊は他の二人が指揮をとった。三十櫂船と五十櫂船、小型ガレー船、馬の輸送船を合わせると、総計で三千隻に達した。

98.船隊に同乗した高名な将軍は次の通り。シドン人ではアニソスの子テトラムネストス、テュロス人ではシロモスの子マッテン、アラドス人ではアゲバロスの子メルバロス、キリキア人ではオロメドンの子シュエンネシス、リキア人ではシカスの子キベルニスコス、キプロス人ではケルシスの子ゴルゴスとティマゴラスの子ティモナクス、カリア人ではテュムネスの子ヒスティアイオスとヒセルドモスの子ピグレスおよびカンダウレスの子ダマシティモスであった。

99.そのほかの将軍については、アルテミシアを除き、名を記す必要が見当たらない。ギリシャ遠征軍に女が加わることは大いなる驚異であると私は見る。彼女は夫の死後、成人に達した息子がいたにも拘わらず、その支配権を握り、余儀ない事情があるわけでもないのに、生来の若々しい気迫と剛胆な気性から遠征に加わったのである。

その名はアルテミシア、リグダミスの娘だった。その父の系譜をたどると、彼女はハリカリナッソスの出自となるが、母の系譜からではクレタの出自となる。そして彼女はハリカルナッソス島、コス島、ニシロス島およびカリドナ島を支配していて、五隻の船を提供した。

彼女の船団はシドン人のそれに次ぎ、全船団中で最も高い評判を勝ち取った。また彼女は王の全連合軍について最も優れた助言を提案した。先に記した彼女の支配する諸都市については、ハリカルナッソス人はトロイゼン系で、その他はエピダウロス系であるゆえ、全てドーリア系である。船団に関しては以上。

100.軍の点呼と編成を終えると、クセルクセスは車上から軍を巡り、閲兵したくなった。戦車に乗って各民族の兵士たちを閲兵しつつ、かれが兵士に問いかけたことは祐筆が全て書き留めた。そうやって騎馬隊と歩兵の全軍を端から端まで閲兵した。

閲兵を終えたあとは、船団が引き出されて海に浮かべられた。クセルクセスは戦車を降りてシドン人の船に乗り込み、黄金の天蓋つき玉座に座した。そして船団の船首を経巡り、陸軍を視察したときと同様に兵士に下問し、問答を記録させた。

船長たちは海岸から四百フィート離れた位置で船首を陸に向けて一列に整列させ、兵士は戦闘用の武装をしていた。クセルクセスはそれらの船首と陸の間を船で通り抜けて視察したのである。

101.全船隊を視察し終え、下船すると、クセルクセスはアリストンの子デラマトス(48)を呼び寄せた。かれはギリシャ遠征に随行していたのである。王はかれを侍らせて下問した。「さてデマラトス、お主から知りたいことを聞けることは、予の喜びとするところだ。お主はギリシャ人、しかもお主からも他のギリシャ人からも聞いておる通り、ギリシャにおいてお主の国は、それほど小さくもなく、弱くもないという。」
(48)亡命していたスパルタの王。第六巻70節、第七巻3節を参照.

「しからば申せ、ギリシャは予に刃向い、戦を仕掛けてこようか? 予の考えでは、全てのギリシャ諸国はたまた全西洋諸国の人民が群がり集ったところで、彼らが団結せぬ限りは、予の攻撃に対抗できるほど充分な力にはならぬはずだ。これについて、お主の見るところを是非とも聞きたいものだ。」

デマラトスは返答した。「お上に申し上げる。みどもは真実を申しあぐべきか、それともお上のお気に召すようなことを申しあぐべきか、どちらでありましょうや?」クセルクセスは真実を語るように命じ、またかれの言うことを聞いても以前ほどには不興を振りまくこともなかろうと言った。

102.これを聞いてデマラトスは言上した。「お上、真実を申せとのお言葉、また虚言を労したとて何人も後々咎めを受けぬことを申せとのお達しゆえ、申し上げます。ギリシャでは貧窮に甘んじることが一般的な風土でござるが、英知と法の力によって勇猛を我が物としたのでござる。そしてこの勇猛さによって、ギリシャは貧窮をものともせず、専制からも免れたのでございます。」

「みどもはドーリア地方に住む全てのギリシャ人を賞賛するものでありますが、今から申し上げますことは彼らのことではなく、スパルタのことのみにございます。まず彼らは、お上がギリシャを隷属することを決して潔しとしないでありましょう。次に、他のギリシャ諸国がすべてペルシアについたとしても、彼らは戦いを挑んでくるでありましょう。」

「兵士の数はどれほどかなど、問われますな。たまたま兵員が千人であっても、彼らは戦いに臨むでありましょうし、それ以下でもそれ以上でも同じことでござる。」

103.これを聞いてクセルクセスは笑って言った。「何とおかしなことを言うものよ、デマラトス。わずか千人でも敵の大群に向かうと申すか! かの者たちの王であったとお主は言うが、ではそちは今から十人の相手と戦うつもりはあるか? かの国が全くお主の言う通りであるなら、彼らの王として、その国法上からは(49)、お主は二倍の敵に向かわねばならぬ。」
(49)饗宴時にはスパルタ王に二倍の量が供されることを示唆している。第六巻57節参照.

「彼らのそれぞれが我が軍の十人に匹敵するというなら、お主は二十人を相手にせねばならぬのだ。それを実行すれば、お主のいうことが真実であると証明することになる。しかしお主たちギリシャ人が皆そのような大口を叩き、それがお主や予のもとに面会に来るギリシャ人と背丈も全く同じであるなら、お主の言ったことが単なる戯れ言であると一蹴することもできぬな。」

「では、理によってそれを調べてみようではないか。ギリシャ人が千人あるいは一万人さらには五万人として、一人の指揮官に支配されず全て勝手気ままで、どうして予の軍の如き大軍に立ち向かえることができようか? かりにギリシャ人が五千とすれば、我が軍は依然その千倍以上ということになるぞ。」

「我らの慣習通り、彼らが一人の指揮官に従うのであれば、かれを怖れる恐怖心から普段以上の力を発揮するかもしれず、少兵であっても鞭で急かされ大群に立ち向かうこともあろう。しかし勝手に動くことを許されているなら、このどちらもできぬ相談じゃ。予自身の見るところでは、かりにギリシャ人が同数であっても、ペルシア人だけに対しても対抗するのは難しかろう。」

「お主が言うことは我らの側にこそ例がある。とはいえ、よくある例ではなく、まれではあるが。というのも、ペルシア人には一度に三人のギリシャ人を進んで相手にする槍兵もいるのだ。こんなことも知らずに、お主は蕩々と馬鹿げたことをまくし立ておったわ。」

104.これに対してデマラトスが返答する。「お上、真実を言上することは気に召さぬことと、初手から判っておりました。できる限り真実を話せと強いてお命じになりましたゆえ、スパルタ人に関してありのままを申したまででござる。」

「みどもが如何にギリシャ人に愛着を持っているか、お上が一等良くご存じのはず。彼らはみどもから地位と先祖から受け継いだ特権を奪い、寄る辺なき国外追放者としたのでござる。そしてお上の父君がみどもを引き受けて下さり、屋敷と活計(たつき)の道を授けてくだされた。好意を前にして、それを拒むのは思慮ある人間の所行ではござりませぬ。むしろ大いに感謝して、それを受けるのが思慮深き人間でありましょう。」

「みども自身は十人を相手に戦うとも、二人を相手に戦うとも公言しませぬ。ましてや一人を相手に進んで戦うことさえも、したくはありませぬ。しかしながら、必要とあらば、あるいは何らかの抗争によって余儀なき仕儀となりますれば、三人のギリシャ人を相手にするという兵士と、欣然、戦いに臨む心意気は持っておりますぞ。」

「スパルタ人も同じことで、単独では誰にも負けぬ勇猛さで戦い、集団となると地上で最強の戦士となりましょう。彼らは自由ではありますが、完全に自由というわけではありませぬ。法が彼らの支配者であります。お上の臣民がお上を怖れるよりずっと強く、彼らは法を怖れるのでござる。」

「法の命じることなら、彼らは何であれ実行いたす。そして法が命じることは常に同じ。すなわち、敵がどんなに多くとも、決して逃げ出してはならぬのです。そしてその位置で敵を打ち負かすか、斃されるまで、留まらねばならぬのです。これが戯れ言と思われるならば、以後は口を閉ざすことをお許しくだされ。ただいま申し上げたことは、お上のたってのご下命によるものでござるゆえ。ただこれが、どうかお上の御意に適っておりますように。」

105.このようにデマラトスは返答した。クセルクセスは怒りを見せずに笑い飛ばし、優しくかれを引き下がらせた。さて、デマラトスとの会談後は、ダリウスによって任命されていたドリスコスの総督を罷免し、メガドステスの子マスカメスをそれに任命した。そして軍をトラキアからギリシャに向けて進めた。

106.クセルクセスが後に残したこのマスカメスは、クセルクセスが常に褒賞を与えた唯一の人物で、ダリウスやクセルクセスが任命した総督たちの中でこの上なく剛毅だった。しかもクセルクセスは毎年褒賞を下賜していたのである。またクセルクセスの子アルタクセルクセスもマスカメスの子孫に同じことをした。

というのも、この遠征が始まる前に、トラキアとヘレスポントスの全都市に総督が任命されていたのだが、遠征のあと、ドリスコス総督を除き、これら全ての総督たちがギリシャ人に捕らわれてしまった。一人マスカメスだけが、誰が試みても、何としても排撃できなかったのである。このことがあって、後継のペルシア王から褒賞が与えられていたのだ。

107.ギリシャ人から排撃された総督のうちで、クセルクセスが唯一剛毅の者と認めたのが、エイオンの総督だったボゲスである。王はこの者を絶えず褒め称え、ペルシアに残っていたかれの息子たちに格別の栄誉を与えた。実際のところ、ボゲスは大きな賞賛に匹敵することをみずから示していた。かれは、ミリティアデスの子キモンに攻囲されていた時、和平を結んでエイオンからアジアに帰還できたのに、それを拒み、臆病風に吹かされて命を惜しんだと王に思われたくないために、最後まで抗戦したのである。

城内の食糧が底をついた時、かれは自分の子や妻妾、家僕たちを殺害した後、大量の薪を積み上げて火をつけ、その中に投げ入れた。その後、町中からすべての黄金と銀をかき集め、城壁からそれらをストリモン川の中にまき散らした。そして火中に身を投じたのである。このことがあって、かれは今日までペルシア人から賞賛を浴びているのだ。

108.さてクセルクセスはギリシャに向けてドリスコスを出発し、通過する途中の諸都市は軍によって隷属させつつ進んだ。当初記したとおり、遠くテッサリア地方の諸国は、マガバゾスと次のマルドニスによってすでに征圧され属国となっていた

ドリスコスを出発後、最初に通過したのはサモトラケ人の諸要塞(50)だったが、それらのうち最西端にあるものはメサンブリアと呼ばれていた。その次にあるのがタソス人のストライムで、この二つの要塞の間をリソス川が流れていた。この川はクセルクセス軍の需要を充分に満たすほどの水量はなく、涸れてしまった。
(50)本土にある資産を守るためにサモトラケ人が築いたものに違いない。

この地域全体はかつてガライケと呼ばれていたが、今はブリアンティケと呼ばれている。しかし厳密にはキコニス人の領土に属している。

109.軍は干上がったリソス川を越えた後、マロニア、ディケイア、アブデラのギリシャの街を通過し、その近くの有名な湖に沿って進んだ。すなわちイスマリド湖はマロニアとストライムの間にあり、ディケイアの近くにはビストニア湖。この湖にはトラボス川とコンプサントス川が注いでいる。そしてクセルクセスはアブデラの近くでは名のある湖を通過しなかったが、海に注いでいるネストス川を渡った。

この地域から彼は本土の諸都市の近くを通過した。そのうちのある街の近くには周囲およそ30スタディア(*)の湖があり、魚が豊富で塩気がごく強かったが、荷役獣に給水しただけで干上がってしまった。この街の名はピストロスといった。
(*)185m×30≒5.6Km;前田注

110.クセルクセスは、これらギリシャの沿岸諸都市を左に見つつ通過した。軍が通過したトラキアの諸部族は、パイトイ、キコネス、ビストネス、サパイオイ、デルサイオイ、エドノイ、サトライなどであった(51)。これらの部族のうち、海辺に住む者たちは海軍に従軍し、右に挙げた内陸諸都市に住む者たちは陸軍に従軍することを強制された。ただしサトライ人だけは例外だった。
(51)これら全ての部族はネストス渓谷とストリモン渓谷あるいはその間にある丘陵地帯の国である。

111.我らが知る限りでは、サトライ人はかつて誰にも征服されたことはなかった。トラキア人の中で彼らだけが現在まで自由を謳歌して住み続けていたのである。彼らはあらゆる種類の木と雪に覆われた高い山々に住み、しかも勇猛な戦士であったためである。

ディオニソスの託宣所を専有しているのが、この民族だった。この託宣所は山頂にあり、サトライ族のベッシ家は神託の代弁者で、デルフォイと同様に神託を口添えする巫女もいたが、デルフォイ以上に複雑なところはない(52)。
(52)ヘロドトスは、ここでの神託手法はデルフォイと同じで「通常」のものと見なしているようだ。ベッシ家は仰々しく神秘的な儀式を行なっていると思われる。

112.右の地域を通過して、クセルクセスは次にピエリア人の砦を過ぎた。その一つはパグレス、一つはペルガモスと呼ばれていた。この砦の直下を通過する時、高くて巨大なパンガイオン山脈を右に見て進んだが、この山はピエリア人、オドマントイ人、中でもサトライ人が金銀の鉱山を所有していた。

113.その後、軍はパンガイオン山脈を越えてその北側に住むパエオニア、ドベレス、パイオプライの諸族の街を通過し(53)、西に向かった。そしてストリモン川まで来てエイオンに到着した。ここの総督は少し前に述べたボゲスで、その時にはまだ存命だった。
(53)本巻112節ではクセルクセスは沿岸沿いに行進しているが、ここでははるか内陸を進んでいる。明らかに軍は三系統で並進している(本巻121節参照)

パンガイオン山脈の周囲全体はフィリスと呼ばれ、西はストリモン川に合流するアンギテス川に至り、南はストリモン川それ自体に至る。マギ僧たちは良き予兆を求めて数頭の白馬を生贄とし、ストリモン川に投じた。

114.右の儀式やほかに多くのまじないを川に執り行なった後、軍はエドニア地方の九本道で(54)、すでにストリモン川に架かっていた数本の橋を通って渡河した。九本道が地名であることを知り、軍はその土地の少年少女を同じ数だけ生き埋めにした。
(54)ストリモン河畔のエイオンからおよそ3マイル。

人を生き埋めにするのはペルシアの風習で、このことは私が聞きただしたことであるが、クセルクセス妃のアメストリスが老齢に達してから。自分の身代わりとして高貴なペルシア人の息子たちを十四人生き埋めにしたことがあり、それは地下にいるという伝説の神へ感謝を捧げるためであった。

115.ストリモンを発ってから軍は、西に海岸の拡がっているところにあるギリシャ人の街アルギロスを通過した。この街の領土と内陸の地域はビサルティアと呼ばれている。

ここから軍はポセイデイオン湾を左に見つつ、シレウスと呼んでいる平原を横断し、ギリシャ人の街スタギロスを過ぎてアカントスに着いた。これまで述べたのと同様、軍は通過した地域の部族やパンガイオン山脈周辺の住民を全て徴兵し、沿岸地域の者は海軍に、内陸の者は陸軍に加えた。

クセルクセス王が進行した道は、その全てをトラキア人は耕起せず種もまくことなく、強い敬意を払って今日まで保存している。

116.クセルクセスがアカントスに到着すると、アカントス人が遠征に進んで協力し、運河の掘削も熱心に行なったのを見聞きして、王は以後アカントス人を客分として遇する旨を宣言し。褒賞としてメディア風の衣装を彼らに与えた。

117.クセルクセスがアカントスに滞在中、運河開墾を指揮監督していたアルタカイエスが病死してしまった。かれはクセルクセスが特に目をかけているお気に入りで、アケメネス家の血筋を引いていて、身長が五王キューピッド(55)に四本指の幅だけ欠ける高さで、ペルシア中でこの上なく長身だった。しかも世界に比類なき大音声だった。クセルクセスはかれの死を深く悼み、全軍あげて壮麗な墳墓を作らせ、丁重に葬儀を行なった。
(55)およそ8フィートの身長。

神託に基づき、アカントス人はアルタカイエスを神人として崇め、その名と共に生贄を捧げている。かくしてクセルクセスはアルタカイエスの死を嘆き悲しんだ。

118.ところでクセルクセスの軍と王自身を受け入れ、もてなしたギリシャ人は悲惨を極め、家屋敷を手放さねばならないほどだった。その例としてタソス人の場合を挙げると、本土にある諸都市のためにクセルクセスの軍を受け入れて饗応したオルゲウスの子アンティパトロスは、かの国では比類なき高貴な家柄で、この接待のために選ばれたのだが、銀で四百タラントン(*)も饗応に支出したという。
(*)1タラントン=約26Kg(アッティカ単位)〜約37Kg(アイギーナ単位);前田注

119.同様の金額が、ほかの諸都市においても担当者たちから報告されている。饗応に関しては、その準備をかなり早くから指示されるので、大騒動となるのだが、以下のように進められた。

使者から伝令を受け取ると、すぐに彼らは街が所有する穀類を全員に分配し、何ヶ月もかけて小麦粉と大麦粉に挽くのである。次には高価で良質の家畜を買って飼育し、家禽や水鳥を籠や池で飼い、軍のもてなしに供した。最後に金銀の酒杯や水盤を用意し、食卓に要するあらゆる什器を揃えた。

これらは王自身とその側近たちだけに用意されたものである。残りの軍には食糧だけが供された。軍がやってくると、クセルクセスが休息するために常に天幕が準備されたが、兵士たちは露営した。

食餌の時間が来ると接待役は大忙しとなるが、兵士たちは存分に食べたあと一夜を過ごし、夜が明けると天幕をたたみ、運べる物は全て持ち去り、あとには何も残さず発って行くのである。

120.さてアブドラのメガクレオンが頻りに口にしていたことであるが、かれは同国の者たちに次のように助言していた。男女共々自分たちの神殿に集い、これから起きる災難の半分でも除き給えと懇願するがよい、と。続けて、クセルクセスが日に二度の食餌を摂る習慣がなかったことから、これまでの神の恩恵には心から感謝すべきとも助言した。というのも、晩餐と同じような朝食も用意せよと命じられていたなら、アブドラの住民は、クセルクセスがやって来る前に逃げ出すか、かりに待ち受けていれば、惨めに破滅するしかなかっただろう、というのだった。このように、街の住民たちは虐げられながらも命じられたことをやり遂げたのであった。

121.クセルクセスはアカントスを発つにあたり、海軍を別の航路に進ませ、将軍たちに命じてテルマで王を待つようにさせた。テルマはテルマ湾に臨む街で、この湾の名前は街の名に由来している。クセルクセスはテルマに進むことが最短の道であることを知っていたのである。

ドリスコスからアカントスに至るまでの行軍編成は次の通り。まず陸軍を三つの部隊にわけ、第一隊は海軍に従って沿岸の道を取らせた。マルドニオスとマシステスが、この隊の司令官だった。

第二隊はずっと内陸を進み、トリタンタイクメスとゲルギスが指揮を執った。第三隊はクセルクセス自身と共に行軍した隊だったが、先の二隊の間を進み、司令官はスメルドメネスとメガビゾスだった。

122.さて、クセルクセスの命令下、出航した海軍はアトス運河を通過し、アッサ、ピロロス、シンゴス、サルテの街がある湾に出た。船隊は通過してきた諸都市から徴発した兵員を乗せ、テルマ湾に向かった。その後はトロネのアンペロス岬を迂回し、ギリシャの街であるトロネ、ガレプソス、セルミーレ、メシベルナ、オリントスを通過した。そしてこれら全ての都市は船と兵員を提供した。なお、この地域はシトニアと呼ぶ。

123.海軍はアンペロス岬からパレネ半島の最先端にあるカナストロン岬へ真っ直ぐ進み、今はパレネと呼んでいるが以前はフレグラという名だった地域の諸都市、すなわちポティダイア、アフィティス、ネオポリス、アイゲ、テランボス、スキオネ、メンデ、サネから船と兵員を徴発した。

これら諸都市の沿岸を進みつつ、海軍はパレネ近くの都市やテルマ湾岸沿いの都市から軍勢を徴発しつつ、指定された地点を目指した。その都市とは、リパクソス、コンブレア、アイサ、ギゴノス、カンプサ、スミラ、アイニアだったが、これらの地域は今に至るまでクロサイアと呼ばれている。

最後に挙げたアイニアの街から先はテルマ湾とミグドニア地方になり、その先は指定されたテルマやシンドス、アキオス河畔のカレストラに至る。この街はミグドニア地方とボティアイア地方の境にあり、その狭い沿岸にはイクナイとペラの街がある。

124.船隊はアキオス川とテルマ、およびその間の諸都市に碇泊し、王の到来を待った。一方、クセルクセスと麾下の軍はアカントスから内陸の経路を近道してテルマを目指した。その経路にはパエオニア地方とクレストニア地方を経てケイドロス川があった。この川はクレストニアから発祥してミグドニア地方を貫流し、アキシオス川の湿地帯のそばを流れている。

125.クセルクセスが右の経路を進んでいるとき、ライオンが食糧を運搬している駱駝を襲ったことがある。夜になるとライオンはねぐらを抜け出してくるのだが、人間や荷役獣は襲わず、駱駝だけを狙ったものである。ライオンはその時まで駱駝など見たこともなく、触れたこともなかったのに、なぜほかには目もくれず駱駝だけを狙ったのか、ふしぎなことではある。

126.この地域にはライオンや野牛が多く棲息しており、野牛の角の長いものはギリシャにも流通していた。ライオンの棲息域の境界はアブドラを貫流しているネストス川とアカルナニアを貫流しているアケロオス川である。ネストス川以東でヨーロッパ寄りの地域やアケロオス川以西の大陸ではライオンは棲息せず、この川に挟まれる地域にだけ姿を現す。

127.クセルクセスがテルマに到着すると、かれは軍を一旦駐留させた。その陣営はテルマとメグドニア地方からリディアス川、ハリアクモン川に至る一帯をすべて占拠した。なお、この二つの川は合流してボティアイア地方とマケドニア地方(56)の境界になっている。
(56)マケドニア全体ではなく、テメノス朝によって支配されていた地域で、ハリアクモン川、アクシオス川の二つの川とベルミウス山麓に挟まれる地域。エデッサが中心都市。

この地域一帯に遠征軍が野営することになった。今述べた川のうち、クレストニアから発しているケイドロス川のみが軍の飲用をまかなうことができず、すっかり干上がってしまった。

128.テルマからテッサリアのオリンポスやオッサの高い山々を眺め、またその間の狭い渓谷をペネオス川が流れていて、テッサリアに通じる道があることを知ったクセルクセスは、ペネオス川の河口を海から視察することを望んだ。というのも、かれはマケドニアの高原地帯を経てペルハイビやゴンノス地方(57)に向かうつもりだったが、こちらの道の方が安全であると聞かされたからである。
(57)クセルクセスの軍はオリンポス山と海の間を進んでテッサリアに入り、その後ペネオス渓谷(テンペの道)を遡上してゴンノスに至ったはずである。山脈を越える道を避けたのだ。それはおそらくオリンポスの南麓斜面を横断してゴンノスに至るルートと、さらに内陸よりでオリンポスとベルミオスの間を走るペトラの道である。ただヘロドトスは「 ανω οδο? 」だけがゴンノスに至るという間違いを犯している。テンペの道もゴンノスに通じていたはずだ。

そこでクセルクセスは、何かあるときには常に用命するシドン人の船に乗り込み、陸軍はそのまま残し、ほかの艦船も海に繰り出す合図の旗を揚げさせた。ペネオス川の河口についてそれを眺めたとき、かれは強い感嘆の思いにとらわれたが、案内人たちを呼び、この川の流れを変えて、別の道筋から海に流すことはできるかと下問した。

129.テッサリア地方にはその昔、高い山々に囲まれた湖があった。その東側はペリオンとオッサの山麓に面しており、北はオリンポス山、西はピンドス山、南はオトリス山に囲まれていた。その中央部で山々の輪の中にあるのがテッサリアの盆地である。

この盆地には多くの川が流れ込んでいるが、一等注目すべきがペネオス川、アピダノス川、オノコノス川、エニピオス川である。これら五本の川は、それぞれの山から流れ出して合流地点に至るまではテッサリア地方を囲みつつ、それぞれの名で流れ、最後にはすべて一つに合流し、狭い渓谷から海に注いでいる。

合流した直後から、その名はペネオスとなり、ほかの名は消える。伝えられるところでは、古代には、この渓谷と河口はまだ存在せず、これらの川と、当時は無名だったボイビア湖(58)が今と同じ水量があったので、テッサリア地方はすべて海になっていた、という。
(58)ペリオン山の西すなわちテッサリア東部にある。元来、この地方一帯は海面だったので、湖が単独で存在することはあり得ない。

さて、テッサリア人の伝承によれば、ポセイドンがペネオスの流れを作ったというが、これは肯ける話である。ポセイドンというのは大地を揺るがし、地震を起こして大地に割れ目を作り、これがこの神の仕業であると信じている者は、この渓谷はポセイドンが作ったものだというだろう。山を割ったのは地震に違いないと、私は確信している(59)。
(59)割れ目の両側(片側は突起部で、対側は凹み)では、かつて一体だったものが激烈に分割された痕跡がある。

130.さてクセルクセスが、案内人たちにペネオス川をほかの河口から海に注ぐ道筋はないかと質したことについて、彼らは地元の事情に明るいことから次のように返答した。「王に申し上げます。この川には今の道以外、海に注ぐ別の道はございませぬ。テッサリア全体が山々に取り囲まれておりますゆえ。」これを聞いてクセルクセスは、「テッサリア人は賢明よ」とつぶやいた。

「彼らが神妙に服従したのは、これを随分前から警戒していたことが主な理由であろう(60)。この土地を征服するのはたやすく、しかも手早いことを彼ら自身が見越しておったからじゃ。山に囲まれたテッサリア全体を水浸しにするには、流れを堰きとめていまの流れを変え、テッサリアに流すだけでよいのだから。」
(60)実際のところ、テッサリア人が国の方針を決定したのは、その直前だった。しかしクセルクセスは彼らが服従を決心したのは最初からだったと考えていた。

クセルクセスがこう語ったのは、最初に王に下ったギリシャ人でテッサリア人アレオイス一族のことを念頭においていたからである。彼らが友好を申し出た時、その国全体の考えを代表していったものと、かれは察したのである。さて、この言葉を発したのち、視察も終えたので、クセルクセスは船でテルマに戻った。

131.クセルクセスはかなりの日数をピエリア地方に留まっていたが、その間、第三軍はマケドニアの山越えの道を整備し、全軍がペライビア地方に進軍できるようにした。さてギリシャに土地を提供するように向かった使者たちであるが、空しく帰還する者あり、土地と水を確保して帰還した者もあった。

132.要求に応じた民族は以下の通り。テッサリア人(61)、ドロペス人、エニアネス人、フェライビア人、ロクリス人、マグネシア人、マリス人、プティオティスのアカイア人、テーベ人、テスピアイ、プラタイアの街を除くボイオティア人だった。
(61)テッサリアの全住民ではない。ペネオス渓谷とその周辺の住民だけ。

異邦人に対して抗戦を宣言したギリシア人たちは、これらの民族に対して次の誓いを立てた。すなわち、戦いに勝利した暁には、みずからペルシアに下ったすべてのギリシア人の全財産(*)をデルフォイの神に献納させるというのである。これがギリシャ人の宣誓だった。
(*)Goley以外の訳者は「全財産」ではなく、「10分の1税」としているが、全財産を没収することに変わりないようだ;前田注

133.アテネとスパルタに対しては、クセルクセスは土地を要求する使者を立てなかった。それは次の理由による。かつてダリウスが同じ目的で使者たちを送ったとき、アテネは牢獄用の坑(62)に使者を送り込み、スパルタは井戸の中に使者を投げ込み、そこから土地と水を持ち帰れと命じた。これがあったために、クセルクセスは使者をこれらの街に送らなかったのである。
(62)死刑を宣告された犯罪人が投獄される場所

使者をこのように扱い、アテネにどんな苦難が降りかかったかなど、彼らの領土や街が荒廃したこと以外は書けないが、私はこの事件が原因であるとは考えない。ほかに何か別の原因(63)があると考える。
(63)おそらくサルディスの神殿焼き討ちを指す。第五巻102節参照.

134.一方、スパルタ人は、アガメムノンの使者タルティビオスの怒りを被ることになった。スパルタにはタルティビオスの神殿があり、その末裔であるタルティビアダイ一族が、スパルタの使者を務める特権を握っていたのである。

右の事件のあと、スパルタは長い間、生贄儀式による吉兆を手にすることができずにいた。そのためスパルタ人たちは悲嘆に暮れて意気消沈したのだが、何度も市民集会を開き、スパルタのために命を捧げる者を募る公布を掲げた。すると高名な家系で、しかも富裕な二人のスパルタ人が、ダリウスの使者を殺害した罪をクセルクセスへ償うことを、みずからの意思で名乗り出、引き受けたのである。その二人とは、アネリストスの子スペルティアスとニコラウスの子ブリスだった。

そこでスパルタはこの二人をメディアに送り出した。死を承知の上で。

135.賞賛すべきはこの二人の大胆不敵な行ないと、彼らの言葉である。スーサへ向かう途次、彼らはアジア沿岸一帯の総督であるペルシア人のヒルダネスのもとへ行った。ヒルダネスは彼らを客分としてもてなし、饗応したが、その席でヒルダネスは訊ねた。

「スパルタの客人たちよ、そなたらがわが王と友好を築こうとせぬのは、なにゆえであるか? われとわが立場を見ればお判りであろう、有能な者にはどれほどの栄誉を、わが王が供されるかを。そなたらがみずから王の懐に飛び込めば、王はすでにそなたらの有能をご存じであるゆえ、二人ともに王の命によってギリシャの支配者となれるやもしれぬぞ。」

これに対してスパルタ人は答える。「ヒルダネス様、御身のご助言は片面だけのものにござる。いかにも片面はご存じであるが、残りの片面を無視しておられまする。奴隷の身がどれほどのものか、御身はよくご存じであるが、自由の身を味わってはおられませぬ。それが如何に甘美であるか否かも。その自由を体験しておられたなら、そのためには槍といわず斧といわず、自由のためには手にして戦えとおっしゃるはず。」

136.スパルタ人は右のごとく返答してその地を発ち、王のいるスーサにやって来た。最初に王のもとへ進み出たとき、護衛の者たちは、彼らに王の前ではひざまづき、平伏せよと強く命じたが、彼らはそれを断固拒否した。たとえ頭を強く抑えつけられても、そんなことをするつもりはないと彼らは言った。貴人の前で平伏する慣習はギリシャにはないし、そんなことするために我らはやって来たのではないとも言った。そして平伏をせぬまま、話を続けた。

「メディアの国王に申し上げる。スパルタは、王の使者を殺害した償いをさせるために我らを使わした次第にござる。」これに対してクセルクセスは極めて寛大に、ギリシャ人と同じことはせぬつもりであると返答した。「汝らは人の世の秩序をかき乱してしまったのだぞ、使者を殺害することで。しかし予は汝らを咎め立てするつもりはなく、まして汝らを死に追いやってスパルタの罪を帳消しにするつもりもない。」

137.この行ないによって、スパルタは暫くの間、タルティビオスの怒りを静めるのに成功した。スペルティアスとブリスがスパルタに生きて帰還したにも拘わらずである。しかし、このあと長い年月のあと、スパルタ人が言うには、ペロポネソス諸国とアテネとの間の戦の最中に、再びこの怒りが爆発したという。このことは、この上なく明らかな神の啓示であると、私には思われる。

タルティビオスの怒りが使者たちに降りかかり、それが満たされるまで静まらなかったというのは至極当然である。しかし怒りの矛先がペルシア王を宥めに向かった使者の息子たち、すなわちブリスの子ニコラスとスペルティアスの子アネリストスに向けられたのは、明らかにタルティビオスの怒りの神事であると私は理解している。なお、アネストリスは、ティリンス人が築いたハリアの街を、一隻の商船に兵士を乗せ、これを攻略した人物である(64)。
(64)ハリアはアルゴリスの港。これはおそらくアテネとアルゴスがスパルタに対抗して同盟を結んでいたBC.461からBC.450の間の出来事である。

この二人はスパルタから使者としてアジアに派遣されたのだが、テレオスの子シタルケスというトラキア王と、アブデラ人でピテイオスの子ニンフォドロスに裏切られ、ヘレスポントのビサンテにおいて捕らえられ、アッティカに送られてアテネ人によって殺害されたのである。またこの時、アデイマントスの子アリステアスというコリント人も彼らと共に殺害された(65)。
(65)BC.430。ツキジデス「歴史」第二巻67節参照

以上はペルシア王の遠征後はるか後年に起きた出来事である。とまれ話を本題に戻すことにしよう。

138.ペルシア王遠征の名目上の目的はアテネに対する攻撃だったが、実際には全ギリシャ征服が目的だった。このことはギリシャ人なら遥か以前より知っていたが、すべてが一様に受け取っていたわけではなかった。

彼らのうちで土地と水をペルシアに提供した者たちは、異邦人は自分たちに危害を加えることはないだろうと高をくくっていたし、それを拒否した者は、侵略者と戦うだけの船数がギリシャには足りないことを心配した。その上、彼らのほとんどは戦いを仕掛けるだけの気概のある者はおらず、急ぎペルシア側につこうとしていたのである。

139.ここにおいて私は、大方の不興を買うであろう意見を強いて述べることにする。私にとって真実と思えることを述べずにいることはできないからである(*)。
(*)ヘロドトスは、アテネの海軍がギリシャの命運を決すると力説したいようだ。スパルタは重装歩兵は最強だが、海軍は持っていない;前田注

かりにアテネ人たちが差し迫った危機に恐慌をきたし、母国を後にするか、逃げ出さずとも留まってクセルクセスに隷従するかしたなら、だれも海上でペルシア王に対抗しようとしなかったであろう。その場合には、陸で起きることは次のようなことになるだろう。

ペロポネソス人たちはイスマス(地峡部)に何重もの防護壁を築いていたが(66)、異国の船隊が諸都市を次々に攻略するのを見るにつけ、ペロポネソス諸国は否応なく同盟を破棄せざるをえず、最後にはスパルタは孤立するだろう。それでも彼らは敢然と立ち向かい、気高い死を迎えるだろう。それがスパルタの運命かもしれないのだが。
(66)第一巻181節参照

しかしおそらく、他のギリシャ諸国が敵側につくのを見ると、彼らはクセルクセスと和議を結ぶだろう。どちらにせよギリシャはペルシアに征服されることになる。ペルシア王が海を支配してしまえば、地峡部の防護壁がどれほどの効果があったかなど知るべくもない。

右の通りであれば、アテネ人がギリシャの救世主であるというのは真実をついていることになる。均衡の鍵を握っているのはアテネ人だった。彼らが味方についた側が優勢となる。そしてアテネ人はギリシャの自由を守る方を選択し、いまだペルシアに服従していないギリシャ諸国を奮起させて戦いに向かわせ、神々に従ってペルシア王を排斥する結果をもたらしたのである。

また、次節に述べるデルフォイから寄せられた怖ろしい神託を聞いても、彼らはギリシャを見捨てず、全く怖じ気づくことはなかった。自国に留まり、毅然として侵略者に立ち向かったのである。

140.これより以前、アテネ人はデルフォイに伝令使を送り、神託を依頼した。伝令使が神殿で然るべき儀式を行なった後、内殿に座すと、アリストニケという巫女が次のごとき神託を語った。

 「なにゆえここに座しておるか、哀れな者たちよ。
 汝らの屋敷を出で、街を囲む円環城壁の高みより
 地の果てに飛びゆけ! 頭と言わず身体と言わず無事では済まぬ。
 ましてやその下にある両足、両手、
 その間の身体各部は、すべて破壊されよう。
 火と、シリアの戦車を走らせる荒々しき戦の神が 破滅をもたらすのじゃ。」

 「ひとり汝らにあらず、あまたの巨大な砦もまた壊滅されよう。
 数ある神殿は怖れおののき、恐怖の汗をしたたらせる。
 黒き血は天井より流れ落つ。
 こは避けうべからざる陰惨たる災いの兆し。
 汝、神殿より出で、魂を悲嘆に浸すべし(67)。」
(67)または「汝の災いに勇気を奮い立たせよ」となる。多くの訳者は「汝の魂を悲嘆に浸せ」と解している。

141.アテネの伝令使はこれを聞くと愕然とし、神託の告げる災いを思って茫然自失した。これを見たデルフォイ人で、その名も高きアンドロボロスの子ティモンが助言するに、哀願者の身なりをし、懇願の徴(しるし)オリーブの枝を持ち、再び神託を求めよ、と彼らに言った。

アテネ人たちは、その通りにして言った。「神よ、我らの献げ祀る懇願の枝を慈悲深く受け給え。そして我らの国に、より良き啓示を与え給え。さもなくば我ら御身の神殿から離れませぬぞ。命絶えるまで留まる所存にござる。」巫女が下した二度目の神託が次にある。

 「パラス(女神アテナ)は、オリンポス神ゼウスを
 懐柔する力は持たぬぞ。
 多言を労し、抜け目なき謀議を持って懇願したとしてもじゃ。
 しからば、再びの言葉は不動のものと心得よ。
 ケクロプスの境と、聖なるキタイロンの谷に至る全てを
 攻略された暁には、彼方よりお見通しのゼウスは
 トリトゲネス(アテナ神)に木塁を下されよう。
 そは不抜にして、今より子々孫々を救う砦となろう。」

 「アジアからの騎馬、歩兵の大軍の到来を待ってはならぬ。
 沈黙し、引き返すべし、敵前より。
 やがて直面し対決する日が来るであろう。
 聖なるサラミスにて、汝、女たちの息子に死をもたらす。
 大地神デメテルが種を蒔き給う頃、あるいは刈り入れの頃に。」

142.今回の託宣は最初のものより慈愛に溢れていたので、伝令使たちはそれを書き留め、アテネに向けて発った。彼らがデルフォイを後にし、神託を市民に差し出すと、その意味するところを質す意見が殺到したが、多くの意見の中で、二つの対立する考えが特に注目された。ある老人が言うには、神の返答はアクロポリスは救われるはずだ。昔アクロポリスはイバラの生垣で囲われていたので。これを言い換えれば木塁のことになる、というのである。

しかし他の者たちが読み解くに、神は自分たちの船のことを指しておられるゆえ、船を準備するしかない、という。ただ、船が木塁のことであると解した者たちは神託の最後の二行を解しかねた。

「聖なるサラミス、汝、女たちの息子に死をもたらす。大地神デメテルが種を蒔き給う頃、あるいは刈り入れの頃に。」これらの詩句は船が木塁のことであると言った者たちを困惑させた。神託の宣者たちは、その詩句をサラミス近海で戦いを挑み、そこで敗北を喫すると解したからである。

143.ここで、ネオクレスの子テミストクレスという一人のアテネ人が登場する。かれはのちにアテネの指導者の一人となったのだが、かれは、神託の宣者たちはその全体を誤って解釈していると主張し、その理由として、かりに件の詩句が真にアテネのことを指し、その住民が息絶えるという意味なら、かくの如き穏やかな表現でなく、「無慈悲なサラミス」とでも言ったはずで、「神聖なサラミス」とは言わぬはず、と解いた。

正しく理解すれば、神の神託はアテネ人に向けたものではなく、敵方に向けられたものである。そこでかれは木塁は船のことを指しているので、海戦の準備をすべきだと建言した。

テミストクレスがこのように解釈すると、アテネ人たちは、神託の宣者が海戦の準備を言わず、端的に言えば、全く抵抗せず、アッティカを離れて他国に移住するべしとした解釈よりも、かれの方が正しいと判断した。

144.テミストクレスの建言は以前にも取り上げられたことがあった。それは、ラウリウム鉱山(68)からの収益はアテネの国庫に莫大な富をもたらしていたので、市民一人につき十ドラクマを分配しようとしたのだが、テミストクレスはその分配を中止し、収益を二百隻の戦艦建造費用(*)に充当することを説き伏せたのである。それはアイギーナとの戦いに備えてのことであった。
(68)銀、鉛、おそらく銅の鉱脈もアッティカにあり、ここから国は歳入を得ていた。平均収益を超えた分は公共の福祉に充当されていた。アテネの人口が三万人としても(第五巻97節参照)、一人頭十ドラクマなら五十タラントンにしかならない。二百隻の建造費用にはとても及ばない額である。これでは、ラウリウムの収益が戦艦建造費用をまかなったとは言えない。
(*)三層櫂ガレー船の建造費は一隻あたり一タラントン(六千ドラクマ)。アテネの労働者階級(手工業者)の兵士に支給された月収は十五ドラクマ(徴兵時のみ、年収換算で百八十ドラクマ)。ちなみにアテネの年間国庫収入は約三千タラントン。これは塩野七生著「ギリシャ人の物語 II」による;前田注
(*)1タラントン=金にして約26Kg(アッティカ単位)〜約37Kg(アイギーナ単位);前田注

事実、この戦いによってアテネ人は海の戦士とならざるを得ず、それによってギリシャは救われたのである。もっとも、船は本来の目的で使用されなかったが、後にはギリシャの役に立った。これらの船はアテネ人の生活維持のために建造されてきて、すでに完成していたのだが、今や追加建造せねばならなくなった。

そして神託が降りた後の協議の結果、彼らは神の命ずる通り、進んでアテネに協力するギリシャ人と一致団結し、その全海軍力をもって、異国の侵略者を迎え撃つと決めたのである。アテネ人への神託は以上の通り。

145.さて、ギリシャ全体の安寧を心配している全てのギリシャ人たちは一堂に会して評議を開き、誓約を交わした。すなわち、如何なる理由であれ、お互い反目し合うことと、戦を中断することを決議した。その当時進行中で最も大きな紛争は、アテネとアイギーナとの間に起きているものであった。

その後、クセルクセスが軍と共にサルディスにいることを知ったギリシャ側は、ペルシャ王の動向を探る間諜をアジアに送り出すことを決め、またアルゴスへはペルシアに対抗する同盟を結ぶ使者を派遣すること、ギリシャへの援軍を求めてシシリーにいるディオメネスの子ゲロンとコルシラ、クレタへも使者を派遣すると決めた。それはギリシャ全体に脅威が迫っており、ギリシャ民族が連合して運命を共にする必要があったからである。また、ゲロンの勢力は、ほかのギリシャ諸国のどこよりも大きいと言われていたからである。

146.ギリシャは右の通りに決議し、お互いの諍いも鎮め、まず三人の間諜をアジアに送った。この三名はサルディスについてからペルシャ軍の情勢を探っていたが、間もなく身元がばれて陸軍の将軍の査問を受けた後、死刑執行に送られようとしていた。

彼らは死刑を宣告されたのだが、クセルクセスがこれを知り、配下の将軍たちを咎めた上で、自分の親衛隊のうちから幾人かを派遣し、間諜が生きているのが判れば、王のもとへ連れてくるよう命じた。

そしてまだ生きていたので、彼らは王のもとへ引き出されたが、クセルクセスは彼らがやって来た目的を質した上で親衛隊に命じ、ペルシャ軍全体を彼らに見学させた。間諜たちが存分に見て回ったあとは、どこでも望む国へゆけと無傷で追放された。

147.クセルクセスは右の通りに命じ、つけ加えて言った。間諜を殺してしまうと、自分の軍勢の言葉にできないほどの巨大さを、ギリシャは早期に知ることができず、また三人の間諜を殺したところでギリシャに多大な損害を与えるわけではない。またこうも言った。彼らが帰国すれば、ギリシャ人はペルシャ軍の勢力の巨大さを知り、遠征を開始する前に彼ら特有の自由を放棄し、結果としてギリシャに向けて進軍する必要がなくなるかもしれない、と。

これに似たようなことは、クセルクセスがアビドスにいるとき、穀物輸送船団がアイギーナとペロポネソスに向かうためにポントス(黒海)を出てヘレスポントスを通過しているのを見たときにも語っていた。参謀たちは、それが敵の船団であることを知ると、捕獲しようとして王の命令が下るのを注視していた。

ところがクセルクセスは今航行しているのはどこの船かと参謀たちに訊ね、「あれは穀物を輸送している敵の船団にございます。」という返答を聞くと、それに返答して言った。「では、我らと同じ場所を目指しているわけじゃな、穀物その他あらゆる物資を搭載して。食糧を輸送しているのに、彼らがどんな悪行を我らになしているというのか?」

148.こうして間諜たちは全てを見て回った後送り返され、ヨーロッパに帰って行った。ペルシアに対して同盟を誓ったギリシャ人たちは、次にアルゴスに使者を送った。

以下に述べることはアルゴス人自身が語っているアルゴスの情勢である。異国人がギリシャに向けて戦を仕掛けようとしていることは、彼らは早くから知らされていた。ペルシャに対抗する助けをギリシャが求めてくることを知り、彼らはデルフォイに伝令使を送り、どのような方針が最善か、神に伺いを立てた。というのも、この直前、アナクサンドリデスの子クレオメネス率いるスパルタ軍によって六千人が戦死していたからである(69)。彼らが言うには、このために伝令使を送ったという。デルフォイの巫女は、次の神託を下した。
(69)BC.494、ティリンスにおける戦い。第六巻77節参照。

 「汝、隣人に嫌われ、神に愛でらるるか。
 槍もて屈み、動かざるべし、鎧まといし強者(つわもの)の如く。
 一撃から頭(こうべ)を守れば(70)、頭(こうべ)は身体を守るであろう。」
(70)すなわち指導者たちのこと。

この託宣は、ギリシャからの使者たちがアルゴスに到着し、議事堂に入ってその使命を宣言しようとしたときには、すでに巫女から下されていた。

そこでアルゴス人の返答は次に。まずスパルタとの間に三十年の和平を築けるか、次に同盟の半ばの権利を掌握できるかと使者に訊ねた。彼らにしてみれば全面的な主導権を握るのが当然の権利であるが、半分で良いというのである。

149.彼らの言うには、以上が評議会の返答だった。神託がギリシャ人との同盟を禁じたにも拘わらずのことだった。神託の恐怖にも拘わらず、三十年間の和平協約を切望したのは、その間に自分たちの子供が成人することを期待してのことであった。このような協約が成立せずば、と彼らは推論するが、すでに被っていた災いのあと、さらにペルシャから攻撃を受けると、スパルタの情けにすがる立場になることを嫌ったのである。

使者たちのうち、スパルタからの使者は評議会の要求に応えて曰く、休戦協定に関しては自国の評議会に持ち帰って評議にかけると返答した。しかし主導権に関しては自分たちに委任されていると答えた。そしてスパルタには二人の王がいるが、アルゴスでは王は一人。スパルタ王の一人の指導権を剥奪することは不可能だが、アルゴス王がスパルタの二人の王と同じ票決権を持つことには何の問題もない、と答えたのである。

これに対してアルゴス人が言うには、スパルタ人の頑固な利己主義に我慢できず、スパルタの風下に立つよりは異国人に支配される方を良しとした。そして彼らはスパルタの使者たちに向けて、アルゴスの領内から日没までに立ち去らねば敵と見なすと宣告したのである。

150.以上はアルゴス人が伝えるところだが、ギリシャでは別の話が伝わっている。すなわち、クセルクセスがギリシャに進軍を開始する以前、アルゴスに使者を送り、その者がアルゴスに到着して語ったことが伝えられている.

「アルゴスの方々よ、クセルクセス王からの伝言でござる。我らの始祖ペルセウスは、われらが伝承によれば、ダナエを父とし、ケフェウスの娘アンドロメダを母となさる。これが事実であるなら、我らもそなたらの民族の末裔ということになる。しからば、あらゆる道理や理由から、我らはその父祖の地に進軍すべきにあらず。またお手前方も自重なされ、他国を助けて我らの敵に回るべきではござらぬ。事態が予の思い通りに進む事になれば、お手前方をどこよりも厚く優遇いたしましょうぞ。」

これを聞いてアルゴス人たちは強く心を動かされたこともあり、ギリシャがアルゴスに救援を求めに来た時、すぐさま盟約を結んだり、見返りを要求したりせず、戦争に加担しなくて済むように、右の言い訳を述べ立てたのである。スパルタが自分たちの要求を受け入れるはずがないことを承知の上で。

151.一部のギリシャ人が言うには、以上のことは、何年も後に起きた事件によって明らかになったという。それは、アテネの使者、ヒポニコスの子カリアス以下の者たちが、別の用件でメムノンの街スーサ(71)に出向いていた時のことであった(72)。偶然にも同じ時にアルゴスもスーサに使者を送り、クセルクセスの子アルタクセルクセスに対して、クセルクセスと結んだ友好の盟約が、アルゴスの希望通り、依然続いているかどうか、あるいはアルゴスを敵と見なしているかどうかを確認したのだった。そこでアルタクセルクセスは、友好関係は続いており、アルゴスをさしおき、それ以上の友好国はないと返答したということである。
(71)第五巻53節参照
(72)BC.448

152.さて、クセルクセスがそのような伝言をアルゴスに送ったかどうか、またアルゴスの使者がスーサに出向いてアルタクセルクセスに友好関係を確認したかどうか、正確なところは判らないし、アルゴス人自身が伝えていることの他、いかなる意見も今は述べることができない。。

しかし、これは十分承知の上でいうのだが、人々が自分の苦悩を隣人の苦悩と交換しようとして持ち寄り、他人の苦悩をよくよく吟味してみると、誰もが喜んで自分の苦悩を再び持ち帰りたいと思うことだろう(73)。
(73)一般常識。表現はかなり曖昧。

そういうわけで、アルゴス人の行為が全く破廉恥であるとは言い切れない。私自身に関しては、自分が聞き知ったことを書き留めるのが自分の仕事ではあるが、それを全て信じる義務が私にあるわけではない。このことは、本書全体に当てはまることを読者にお願いするものである。というのも、右の伝承をもとに、スパルタとの戦況が不利となり、その窮地から脱するためなら、彼らは何でもそちらを優先するだろう、という理由から、ペルシアをギリシャに招いたのはアルゴス人であるという別の話が流布しているからである。以上、アルゴス人に関して。

153.さてシシリーには、ゲロンと協議するために同盟諸国から使者が派遣されていたが、その中にはスパルタのシアグロスも入っていた。ゲロンの祖先はゲラに定住したが、トリオピウム岬の沖合に浮かぶテロス島(*)から移住していた。アンティフェモス率いるロードス島のリディア人がゲラを築いた時、彼はそれについてきたのである。
(*)ロードス島の北東部に浮かぶ島;前田注

かれの子孫はやがて地下の女神(74)の司祭となって今に続いており、やがて述べるだろうが、その地位は、彼らの父祖の一人であるテリネスが掴んだものである。それには以下の事情がある。かつてゲロン一族の一部が内紛に負けてゲラより内陸にあるマクトリウムの街に逃げ込んだことがある。その者たちを、テリネスは全く武力に頼らず、地下の女神の神器によって街に連れ戻したのである。そのような神器をかれがどこで手に入れたのか、またそれがかれ自身の考案によるのか否か、私には判らない。しかしかれが逃亡者たちを復帰させたのは、かれの子孫が女神たちの司祭を務めるという条件で、その神器を頼みとして実行したのであろう。
(74)デメテルとペルセフォン

テリネスがそのような功績を挙げたことは、私には驚異である。というのは、そのような驚異的業績は強靱な精神力と肉体を有する人間にしか成就できないと常に思っているからである。しかしテリネスは、シシリー住民の言うには、穏やかで繊細な気性の持ち主であったという。

154.さてパンタレスの子クレアンドロスはゲラの僭主の座に七年間ついたのち、同じ街のサビロスという男に殺害されたが(75)、統治権はクレアンドロスの弟ヒポクラテスが継いだ。ヒポクラテスが僭主でいる間は、司祭テリネスの子孫であるゲロンも、パタイコスの子アイネシデモスやその他の者たちに混じってヒポクラテスも護衛兵の一人だった。
(75)BC.498

間もなくかれはその有能さを認められ、騎兵隊長に任ぜられた。というのもカリポリス、ナクソス、ザンクレ、レオンティニ、シラクサ、その他多くの異国人の街を攻略した時、めざましい活躍を見せたからであった。シラクサを除く右の全都市は、ヒポクラテスによって隷属の憂き目を見たが、ひとりシラクサだけはエロロス河畔の戦いによって敗北を喫したものの、コリント人とコルシカ人によって救われた。この二国は、以前ゲラのものだったカマリナの街を、シラクサがヒポクラテスに明け渡すという条件で、和議を成立させたのである。

155.ヒポクラテスもまた兄のクレアンドロスと同じ年数だけ統治した後、シシリー人との戦闘中、ヒブラの近くでその最期を迎えた。後を継いだヒポクラテスの二人の息子エウクリデスとクレアンドロスの統治に、市民はもはや我慢できなくなってしまったこともあり、ゲロンはこの二人を支援する振りをしつつもゲラの住民を制圧し、ヒポクラテスの息子たちを退け、みずからが支配者となったのである。

この幸運な事件の後、ゲロンは、一般市民とキュリリアンと呼ばれる奴隷によって追放されていたシラクサの、いわゆる紳士階級に属す市民をカスメナの街からシラクサに連れ戻した。そしてシラクサの住民はゲロンが到来すると、みずから街を明け渡したので、かれはこの町も手中に収めたのである。

156.シラクサを手にしたゲロンはゲラの統治に興味を失ったこともあって、弟のヒエロンにそれを任せた。そしてシラクサの統治に全精力を傾けた。

間もなくこの街は発展し、繁栄した。というのも、ゲロンがカマリナの街を徹底的に破壊した上で、カマリナの市民をシラクサに戻し、彼らに市民権を与えただけでなく、ゲラの市民の半数以上に対しても同じ待遇を与え、その上、シシリーのメガラ(76)を攻囲して制圧した時、死刑を下すべき指導者たちにも、市民権を与えたりしたからである。メガラの一般住民に関しては、戦に加担していなくて罪を問われないと思っていた者も同じくシラクサに連れ帰り、奴隷として売り、シシリーから追放した。
(76)シラクサの北方でシシリー島の東岸にある。現在のアウグスタ

シシリー在住のエウボエア人(77)にも、同様の区別をして同じ処置を執った。これら二つの都市の住民に右の処置を執った理由は、一般住民というものは国にとって不都合な存在であると、かれが思っていたからである。かくしてゲロンは偉大な僭主となった。
(77)エウボエア島カルキス(現ハルキス)からの植民都市であるレオンティーニ(メガラの北東部)の住民

157.さて、ギリシャからの使者がシラクサに到来し、ゲロンに謁見して告げた。「 我らがスパルタとその同盟国からここへ派遣されたのは、異国人に対抗するためにお手前の支援を求めるためでござる。お手前はペルシア人がギリシャに侵略しようとしていることをすでにご存じのはず。ペルシア王がヘレスポントスに橋を架け、我らに向けて東方の大軍をアジアから進めております。表向きはアテネ攻略に向かうと宣言しておりますが、その実、全ギリシャの征服を目論んでいるのが真意でござる。」

「今お手前は絶大なる力をお持ちで、シシリー王としてギリシャの中でも小さからぬ領地を支配しておられる。そこでお願いでござる、ギリシャの自由のために戦おうとする者たちに支援をお送り下され。ギリシャの全部族が力を結集して大軍勢を結成すれば、侵略軍に拮抗する力となり申す。しかし我らのうち一部が裏切ったり、また支援に来なかったりして、まともな者がギリシャで僅少となる事態となれば、ギリシャ全土が破壊される怖れがござる。」

「ペルシアが我らを戦で打倒して征服したとして、お手前方を手つかずのまま放置するなど、一時たりともお考えになりませぬように。むしろそのような日が来ぬようご用心を。我らに救いの手を。さすればお手前も救われましょう。熟慮の策が善き結果をもたらすものにござる。」

158.これを聞いたゲロンは激烈な調子で返答した。「ギリシャの方々、これはまた身勝手な願いであることよ。厚かましくもここへ出向き、異国に対抗するために、そなたらの盟約に加われと申すか。そなたら自身のことを棚に上げて。」

「かつてわが輩がカルタゴ(78)と諍いを起こし、異国の軍勢に向けて加勢を頼んだ時も、エゲスタ人たちの手によるアナクサマンドロスの子ドリオイス(79)殺害の報復をしてもらいたいと要望した時も、そなたらも多大な利を得ている数々の交易港を開放しようと言った時も、いずれもわが輩のために助太刀をよこさなかったばかりか、ドリエウス殺害の報復にも力になろうとしなかった。これらのことを慮れば、かの諸港は全て異国人が支配していることになるのだ。」
(78)カルタゴはシシリーの西部を支配し、ゲロンは東部を支配していた。ギリシャ人とセム人は常に商圏拡大を張り合っていた。
(79)第五巻42〜46節参照

「その後、事態が好転し、我らの国は発展したが、今度はそなたらに戦雲が巡って来、ゲロンを思い出したというわけだな。」

「そなたらは、わが輩を軽んじたが、わが輩はそなたらの真似をするつもりはない。わが輩には、二百隻の三層櫂ガレー船と二万の重装歩兵、二千の騎兵、二千の弓兵、二千の投石兵、騎兵について走る二千の軽装歩兵(80)を派遣する用意がある。これに加え、この戦いが終わるまで、全ギリシャ人に供する食糧を用意することを確約しよう。」
(80)おそらく騎兵隊に追従できる軽快な歩兵隊。

「しかし、それには一つ条件がある。それはわが輩がギリシャ軍の総司令官を努めるということだ。これ以外の条件では、わが輩も含め、誰一人送るつもりはない。」

159.これを聞いたシアグロスは黙っていられずに話し出した。「スパルタ人がゲロンとその配下のシラクサ人に軍の指揮権を奪われたなどと聞けば、ペプロスの末裔アガメムノンは、大音声で嘆き悲しまれることであろう。我らは指揮権をそちらに譲渡するつもりはないと、心得られよ。ギリシャを助けるおつもりなら、スパルタ人に従ってもらわねばなりませぬ。しかし身どもが思うに、お手前は風下に立つには気位が高すぎるようでござるゆえ、助太刀はご無用になされよ。」

160.ゲロンはシアグロスの言葉に敵意さえ感じたので、すかさず最終提案を打ち出した。「わがスパルタの同士よ、耳に厳しい言葉を聞けば怒りが湧いてくるものだが、お手前の横柄で無礼な口説を聞いても、不穏当な返答をする気には、まだならぬぞ。」

「そなたらがそれほど指揮権にこだわるのであれば、そなたらの軍の何倍もの軍と、はるかに多くの船を率いるわが輩にとっても、それは依然重大事であることは当然の理というもの。しかしわが輩の言葉に対するお主の不遜な返答を聞くにつけ、幾ばくかの譲歩をしようではないか。いかにもそなたらは陸軍を指揮し、わが輩が海軍を指揮するのだ。あるいはそなたらが海軍を指揮したいなら、わが輩が陸軍を指揮してもよいぞ。いざ、この条件をのむか、さもなくば、これほどの同盟軍を放棄してここから立ち去るか、いずれかであるな。」

161.以上がゲロンの提案。これに対してスパルタの使者が応じる前にアテネの使者がすかさず答えた。「シラクサの王に申し上げる。ギリシャは軍勢を求めて我らを派遣したのであって、司令官を求めているのではござらぬ。しかしながら、ギリシャの司令官となる条件でなければ、お手前は軍を派遣しないと仰せられ、ただひたすら司令官を望んでおられる。」

「お手前が全軍の掌握を望んでおられる限りは、スパルタ人使者がスパルタのみならず我が国のためにも弁じてくれると判っておりましたゆえ、我らアテネとしては沈黙を守るつもりでござった。しかるに全軍を掌握できぬとなると、次には進んで海軍を指揮するとの仰せゆえ、我らとしては、お手前に事情をご理解いただかねばなりませぬ。スパルタが海軍の指揮権をお手前に委ねることを認めたとしても、我らは断固承伏いたしかねまする。海軍の指揮権は我らのもので、そもそもスパルタは欲しがっておりませぬ。もしスパルタが海軍権を欲しがるなら、我らはそれに異を唱えるつもりはありませぬが、それ以外の何人たりとも海軍権を委ねるつもりはござらぬ。」

「我らアテネがその指揮権をシラクサに譲る事態になれば、ギリシャ中で他の追随を許さぬ水軍を擁していることが水泡に帰してしまいまする。最古の血統を誇り、また唯一居住地を変えずにきた(81)我らは、叙事詩人ホーマーの言う、かつてイリオンに集結した人物中、最も傑出して軍を進め指揮した人物(82)の血筋を引いておりまする。されば我らが今の言説には、何のやましきことはありませぬ。」
(81)ほとんどのギリシャ人は他の地方から現在地へ移住している。アテネ人のみが移住せずにきたので、アテネ人史家はこの事実をしばしば誇らしげに書き留めている。
(82)メネステウスのこと。ホメロス作「イーリアス」第二巻552行目

162.ゲロンが答える。「アテネの同士よ、どうやら船頭多くして水兵おらず、となりそうであるな。何一つ譲歩せず、全てを手中にしようとするなら、そなたら、家路を急ぎ、ギリシャの面々に言うがよい、ギリシャの春は失われたと。」

この言葉の意味は、一年中で春が最良の季節であるように、ゲロンの軍はギリシャ軍中で最も重要な位置を占めていることを指している。ゲロンがギリシャ同盟から欠けたことを、一年から春が失せたことになぞらえたのだ(83)。
(83)アリストテレス作「弁論術(修辞学)」第一巻7節、第三巻10節によれば、ペリクレスも、ある青年の死に際し、国の損失に言及したとき、同じ比喩を告別の辞に用いている。

163.以上の如き交渉の後、ギリシャの使節は海上を去って行った。しかしゲロンは、ギリシャ人は蛮族に勝てないのではないかと心配しつつも、シシリーの僭主としての自分がペロポネソスへ行き、スパルタの指揮下に入るなどはおぞましく、とても耐えられないことであった。このため、かれはこの方針を取りやめ、別の計画を練った。

ペルシア軍がヘレスポントスを渡海したという知らせを聞くや否や、ゲロンはコス島出のスキテスの子カドモスという人物(84)を三隻の五十櫂船でデルフォイに派遣し、多額の金と友好の伝言を託した。
(84)おそらくザンクレから追放された僭主。次節および第六巻23節参照

カドモスは戦闘の結末を確かめるために派遣され、蛮族が勝利したときにはゲロンの領地の代理として、異国の王に金と土地と水を献上することになっていた。そしてギリシャが勝利したときには、全てを持ち帰るよう命じられていた。

164.このカドモスという人物は、コス島の僭主を父から引き継ぎ、その政体は揺るぎないものであった。しかし、政権の危機に瀕したわけでもなく、自身の正義感から、かれは政権をコス島市民に譲り渡したあとシシリーに渡り、サモス人からザンクレという街を奪取して植民都市を築き、後に名をメッセネ(メッシーナ)に変えていた。

右の事情でかれはシシリーに来たのだが、その正義感の強さを見込んでゲロンはかれを使者に立てたのであった。これから述べることは、カドモスの人生における数々の高潔な行ないのなかでも、忘れてならないものである。かれはゲロンから多大な資金を預かっていたが、それを自分の懐に入れることもできた。しかしかれはそんなことせず、ギリシャが海戦で勝ち、クセルクセスが祖国に向かうと、全ての資金を持ってシシリーに帰ったのだ。

165.しかしシシリー人による別の話が伝わっている。ヒメラの僭主でクリニポスの子テリロスが絡んで来なければ、たとえスパルタ人の支配を受けたとしても、ゲロンは依然ギリシャを助けたであろう、ということである。このテリロスという人物は、アクラガスの統治者であるアイネシデモスの子テロンによってヒメラ(*)から追放されていたのだが、ちょうどその頃、カルタゴ王アノンの子アミルカスによって派遣された、フェニキア、リビア、イベリア、リグリア、エリスキ、サルディニア、コルシカ(85)の連合軍三十万がゲロン討伐に向かっていたのである。この企ては、一部はカルタゴ王と親しい仲だったテリロスの教唆によるものであったが、主にレギオンの僭主クレティネスの子アナクシラオスの意向によるものだった。かれは自分の子供たちを人質としてアミルカスに預け、かれと共に自分の義父を補佐するためにシシリーに乗り込んだ。というのも、アナクシラオスはキディッペというテリロスの娘を娶っていたからである。当然ながらゲロンはギリシャ人の救援に向かえないので、デルフォイに資金を送ったということである。
(85)カルタゴ人はアフリカから軍を率いてシシリーと地中海西部一帯を侵略していた。エリスキはピレネーからローヌ間の沿岸に住むイベリア人。歴史家エフォロスによれば、この時のカルタゴによる遠征は連合活動によるもので、ギリシャ世界をカルタゴが西から攻撃し、東からペルシアが同時に攻撃するというものだった。
(*)シシリー島北部沿岸の都市;前田注

166.なお、以下のこともシシリー人は伝えている。ゲロンとテロンがシシリーでアミルカスを破った日は、ちょうどサラミスでギリシャがペルシアを倒した日と同じだった。アミルカスの父方はカルタゴ出身で、母方はシラクサの出であったが、かれはその人徳によってカルタゴの王となっていた。そして両軍が交戦して敗れると、かれはその姿を消したと、私は聞いている。ゲロンはかれをあちこち探させたが、地上のどこにも見つけることができず、生死も判らなかったという。

167.カルタゴ人の言い伝えも一部真実をついているようだ。シシリーでの蛮族とギリシャ人との戦闘は夜明けから夜更けまで続き(戦闘は長時間にわたり、延々と続いたと伝えられている)、その間アミルカスは自軍の陣営に留まり、燃え上がる大量の薪に生贄を捧げ、それを丸焼きにして吉兆を得ようと懸命になっていた。そして自軍が総崩れになったと知るや、生贄に神酒を注いでいたかれは、火中にわが身を投じたのである。これによってかれの身体は焼き尽くされたので、どこにも見当たらなかったのだ。

アミルカスが姿を消した事情が、フェニキア人の伝える通りであろうと、カルタゴ人やシシリー人の伝える通りであろうと、カルタゴ人は現在もかれに生贄を捧げており、その全植民都市に顕彰碑が建造されている。最大のものはやはりカルタゴにある。シシリーに関する盟約活動は以上ですべて。

168.コルシカにおける、使者に対する返答と行動は以下に。シシリーを後にした使者は、その後コルシカに行き、ゲロンに向けた言辞と同じことを言って助けを求めた。コルシカはすぐに援軍を送ることを約束し、ギリシャを壊滅させるわけにはゆかぬと言明した。ギリシャが陥落すると、まさに翌日には確実に自分たちも征服されるからであった。そして可能な限りの援軍を送ることにした。

このような体のよい返事をしたものの、いざ援軍を送る段になって、彼らは気が変わってしまった。彼らは六十隻の船に兵員を乗せて出航し、ペロポネソスの沿岸に到着したが、スパルタ領内のピロスとタイナロンに錨を降ろし、他国と同様に戦闘の帰趨を静観する態度に出た。彼らはギリシャの勝利を望んでいるわけではなく、ペルシアが大勝利を収め、ギリシャの盟主になるだろうと予想していたのだ。

従って彼らの行動は予定通りのことで、ペルシアに次のような言辞を労するためだった。「王に申し上げる。我らの軍勢はどこよりも多く、しかもアテネを別として、どの国よりも多くの船を有しております。このたびの戦においてギリシャが我らに援軍を求めてきた時も、我らはペルシアに対抗するつもりもなく、王の不興を買うようなことは何一ついたさぬつもりでおりました。」この弁解が他の諸国より幾ばくかの有利をもたらすことを、彼らは期待していたのだ。そして実際そうなったと私は見ている。

しかしながら彼らはギリシャに対しても言い訳を用意していた。結果としてそれを用いたのだが。援軍を送らなかったとギリシャに非難された時、彼らは、兵員を乗せた六十隻の三層櫂ガレー船団を送ったものの、エーゲ海の季節風(*)に阻まれてマレア岬(*2)を回り込めなかったために、サラミスにたどり着けなかっただけで、海戦に遅れたのは臆病風に吹かれたためではないと言い張った。このような弁解をして、彼らはギリシャを言い負かしたのである。
(*1)夏に吹く乾燥した強い北風。第六巻44節、本巻22節参照
(*2)ペロポネソス半島の南に浮かぶキティラ島の岬

169.クレタでは、ギリシャからの使者が来て支援を要請すると、次のような行動を取った。すなわちデルフォイに託宣使を送り、ギリシャを支援することに利があるかどうかを訊ねたのだ。

巫女の返答はこうだ。「愚か者め、嘆き悲しむのがまだ足りぬと申すか。かつてメネラウスに救いの手を差しのべた時、ミノスの怒りを買ったことを忘れたか? スパルタから蛮族に連れ去られた婦人の復讐のために、汝ら手を貸したというのに、カミコスでかれが死んだ仇討ちを企てた時、ギリシャ人は誰一人(86)助けようとしなかったのだ。」クレタ人たちはこの神託を聞き、ギリシャへの支援を取りやめることにした。
(86)ギリシャ人はミノスの死の報復に手を貸さなかったのだが、後にクレタ人はヘレネ誘拐の報復を助けたことを指している。

170.さてミノスはダイダロスを探して、現在シシリーと呼んでいるシカニアへゆき、そこで非業の死を遂げた。やがてポリクネとプライソスをのぞくクレタの全住民は神のお告げに従い、大挙してシカニアに移ったのである。そして今はアクラガス人が住んでいるカミコスの街を五年にわたって攻囲した。

ところが食糧不足に苛まれたことで、彼らはそこを攻略できず、また留まることもできず、退去したのである。そしてイパギアの沖合で大嵐に見舞われ、彼らは岸に打ち上げられてしまった。船が難破したため、クレタに帰る方策がなくなり、やむなくヒリアの街を建設してそこに定住したのだ。その結果、自分たちの名をクレタ人からイパギアのメサピア人と変え、島嶼人から本土の住人と変えたという。

ヒリアを建設し、これを足がかりとして彼らはほかの諸都市も建設したが、それはずっと後になって、タラス人が征服しようとしたものの、大敗を喫している。その時のギリシャ人の死者数は、過去最大のものとなった。タラス人のほかにも、コイロスの子ミキトスによって無理矢理タラス人救援に連れてこられた三千人のレギア人も殺戮されている。タラス人の死者数は残されていない。

ミキトスはアナクシラウスの従僕だったが、レギア人の統治を任されていた。その後、かれはレギアから追放されてアルカディア地方のテゲアに移住し、オリンピアに多数の彫像を奉納している。

171.レギア人とタラス人に関する話は、本来の探求の流れからは枝葉である。 さてプライソス人の伝えるところでは、クレタが荒廃した後に多くの民族が移ってきたが中でもギリシャ人が多く移住したという。その後ミノスの三代目にトロイ戦争が起き、この時メネラウスを支援した民族の中でも、クレタ人は卑しからぬ働きを見せたという。ところが彼らがトロイから国に帰ってからというもの、人も家畜も飢饉と疫病に苛まれ、ついにクレタ島は二度目の無人島となりはてたが、三代目のクレタ人と、その時の生き残りの住民が、共にこの地に住んでいるという。

デルフォイの巫女はクレタ人にこのことを思い出させ、彼らがギリシアを支援したがっていたにも拘わらず、それを制止したのだ。

172.ところでテッサリア人は当初、背に腹は代えられず、しぶしぶペルシャ側についた。この動きが露わになったのは、アレウアダイ人の策略が気に入らなかったためである。ペルシア軍がヨーロッパに渡ってくることを知った時、彼らは直ちに使者をコリントのイスマス(地峡部)に派遣した。ここにはギリシャの行く末を案じる諸都市の代表者たちが集結していた。

テッサリア人の使者は彼らに向かって語った。「ギリシャ人ご一同に申し上げる。テッサリアとギリシャ全土が戦火から免れるためには、オリンポスの隘路を防禦せねばなりませぬ。我らは共にこれを守る準備ができておりますが、諸君もまた大群を派遣せねばなりません。諸君がそれを怠ったときには、我らはペルシアと手を組むものと承知なされよ。諸君のために我らだけが防禦に当たり、破滅するというのは理不尽でござるゆえ。援軍を派遣しないのであれば、諸君は何事も我らに無理強いはできませぬ。できぬことを無理強いするという道理は通らぬものでござる。我らは我らで、みずからの生き延びる方策を探るつもりでござる。」以上がテッサリア人の弁明。

173.そこでギリシャ側は進入路を防禦するための陸軍を海上から送ることに決めた。軍が結集すると、エウリポス海峡を抜けてアカイア地方のアロスに向かい、ここで下船して船をおいたまま陸上をテッサリアに向けて進んだ。そしてテンペの隘路に到着した。なお、この隘路はオリンポス山とオッサ山の間を流れるペネオス川に沿ってマケドニア南部(87)からテッサリアに通じる道である。
(87)さらに内陸部にある山地の反対側

およそ一万のギリシア軍重装歩兵がここに集結して陣を張り、そこに騎兵隊も加わった。スパルタの司令官はカレノスの子エウアイネトスで、この人物は王家の血筋ではないが、軍事委員の中から選ばれていた。それとネオクレスの子テミストクレスが、アテネの司令官だった。

彼らは僅か数日しかそこに駐留しなかった。というのもマケドニア人でアミントスの子アレキサンドロスからの伝令を受け取ったからである。それには、敵軍の規模とおびただしい船団の数が指摘されており、ここに留まって巨大な敵軍に蹂躙されないよう、撤退せよという助言があったのだ。伝令の伝える助言は適切で、このマケドニア人はギリシャに友好的であると見なしたので、ギリシャ人はこの助言に従うことにした。

私の見るところ、ギリシャ軍を動かしたのは恐怖心だったろう。彼らはマケドニアの山地からペライビア地方を抜け、ゴンノス付近に達してテッサリアに通じる別の道を知っていたからである。この道は実のところ、クセルクセスの軍がテッサリアに向かった道なのである。それゆえ、ギリシャ軍は自軍の船に戻り、イスマス(地峡部)へと帰還した。

174.このギリシャ軍がテッサリアに遠征していた時、ペルシア王はアビドスに居て、アジアからヨーロッパに渡る準備をしていた頃であった。さてテッサリア人はギリシャ同盟からはずされたことで、迷うことなく積極的にペルシア側に着いた。その後、自身の行動によって彼らは、ペルシア王にとってこの上なく有用であることを示したのである。

175.ギリシャの遠征軍がイスマス(地峡部)に着いてから、アレキサンドロスの言説を参考にしつつ、ギリシャ人は戦闘の場所と方法を協議した。そしてテッサリアよりも狭くかつ唯一で、母国にも近いという理由で、テルモピュレーの隘路を防禦すべきという結論に達した。

しかし、その後ギリシャ人が敵の手に落ちる原因となる抜け道があることは、彼らがテルモピュレーに行き、トラキア人から知らされるまでは、全くその存在を知らなかったのである。彼らは、この隘路を守って蛮族のギリシャ侵入を防ぎ、他方で海軍をヒスティアイア領のアルテミシオンに派遣すると決めた。この二つの場所はお互いに近いため、海陸両軍の状況をすぐに知ることができる。この二箇所の地形は次に述べる。

176.アルテミシオンは、広いトラキア海が、スキアトス島と本土のマグネシア地方の間で狭くなっているところにある。この海峡はエウボイア島のアルテミシオン海岸に至り、ここにはアルテミス神殿がある。

トラキスを経てギリシャに入る道(88)は、最狭部の幅が五十フィートである。しかし、最も狭い道はここではなく他にある。すなわちテルモピュレーの前後(89)にある道がそれである。後方のアルペニでは幅員は僅かに荷車一台分の幅であるし、前方のアンテレの街に近いフォイニクス川においても同様である。
(88)ギリシャに関してのことで、テッサリアは含まない。

テルモピュレーの西には登攀困難な断崖絶壁の高山が屹立し、これはオイテ山の尾根に連なっている。この道の東側には何もなく、ただ低湿地と海になっている。またこの隘路には沐浴に適した温泉が湧いており、地元の住民はこれを「土鍋」と呼んでいる。その近くにはヘラクレスの祭壇もある。この進入路には、これを横切って防御壁が築造されていて、以前は関門があった。
(89)テルモピュレーに関する記述全体において、ヘロドトスの方向表記は間違っている。道が通じている方向はかれのいう南北方向ではなく、東西方向である。以下「西」は「南」で、「東」は「北」、「前面」と「後面」はそれぞれ「西」と「東」である。

これを築造したのはテッサリア人を怖れたフェニキア人(90)で、テッサリア人がテスプロティア地方からアイオリス人の土地に移住し、そこをわが物とした時のことであった。テッサリア人は彼らを征服しようとしていたので、フェニキア人は防禦のためにこれを築き、さらにテッサリア人の侵略を防ぐためのあらゆる方策を探った結果、あの温泉の水をこの隘路に流し、水路となるようにしたのである。
(90)BC.480の時点では、テルモピュレーの隘路はもはやフェニキア人の領土ではなくなっていた。

古代の防御壁は築造されてから長い年月を経ているので、そのほとんどが崩壊している。ギリシャ人はこれを再建し、異国人がギリシャに進入するのを防ぐ手立てにするつもりだった。また、この道のすぐ近くにアルペニという街があり、ギリシャ人はこの街から食糧を調達するつもりだった。

177.以上のことから、ギリシャ人にとって、この地域は目的にかなった場所であることが判った。あらゆる事態を想定した結果、この地域なら蛮族は大軍の有利さを活用できないし、ましてや騎馬隊においてもしかり、である。。彼らはギリシャへの侵略軍をここで迎え撃つと決めた。ちょうどその頃、ペルシア軍がピエリアにいることを知ったギリシャはイスマス(地峡部)での集結を解き、一部は陸路をテルモピュレーに向かい、一部は海路をアルテミシオンに向けて出発した。

178.ギリシャ軍が敵に対峙すべく二手に別れて急遽進軍している頃、デルフォイ人たちは自身のこともギリシャのことも心配し、神に伺いを立てた。風がギリシャの隠れた味方となるであろうゆえ、風に祈りを捧げよという託宣を彼らは得た。

デルフォイ人は、まず最初にこの神託をギリシャの自由を望んでいる諸国に送った。蛮族を怖れている彼らは、この神託を知って後々まで感謝していた。続いて彼らは、ケフィソスの娘ティヒアの聖域があり、またその名にちなむティヒアという場所に風を祀る祭壇を作り、生贄を捧げた。これに因み、今に至るまで、デルフォイ人は風を宥める生贄の儀式を続けている。

179.さてクセルクセスの海軍はテルマの街を出航したが、最も船足の速い十隻の船がスキアトス島に向けて先行した。またこの地では、トロイゼン、アイギーナ、アッティカから来たギリシャの三隻の偵察船が停泊していたが、異国の船団を発見すると、逃走を図った。

180.ところが、プレキシノスの指揮するトロイゼンの船が追跡されて、たちまち捕らえられてしまった。蛮族は兵士の中で最も眉目秀麗な者を船首に連れて行き、その喉をかききったのだが、これは最初に捕らえたギリシャ人捕虜が美しいことが吉兆であると考え、生贄(91)に選んだのだ。犠牲になった男の名はレオン(*)といい、かれの悲運は、おそらくその名にも一因があるだろう。
(91)「διαδεξιον」は「吉兆」とも訳される。Steinは「διαδεξεσθαι」から「生贄の一部を生贄執行者たちに手渡しで回す儀式」と解している
(*)「ライオン」という意味

181.アソニデスが指揮するアイギーナの三層櫂ガレー船には手こずらされた。それは当日乗船していたイスケノオスの子ピテアスの華々しい働きによるものであった。船が捕らえられても、かれはズタズタに切り裂かれるまで戦闘を止めなかったのだ。

遂に倒れた時もまだかれに息はあったので、船に乗り込んでいたペルシア人兵士たちは、かれの武勇に感じ入り、傷口に軟膏を塗り、亜麻布の包帯(92)を巻いたりして、何とか助けようと八方手を尽くした。
(92)通常はエジプトでミイラをくるむのに用いられる。第二巻86節参照。

基地に戻ったペルシア軍は、全軍にかれを見せて回り、丁重かつ、いたわりを持ってかれを遇した。ただ、船に同乗していた他の者たちは奴隷として扱われた。

182.こうして二隻は捕らえられてしまった。アテネ人フォルモスの指揮する三隻目の三層櫂ガレー船は、ペネオス河口の浅瀬に船を乗り上げた。蛮族は船体を捕獲したものの、乗員の捕獲には失敗した。アテネ人たちは、船が浅瀬に乗り上げるやいなや船から飛び降りて逃走し、、テッサリアを抜けてアテネに逃げ帰ったからである。

183.アルテミシオンに駐留していたギリシャ人たちは、以上の変事をスキアトス島からの合図の狼煙(のろし)によって知った。これに震え上がった彼らは、エウボイア島の高台に見張りを残し、同島南部のエウリポス海峡を守るべく、アルテミシオンからカルキスへと移動した。

やがて十隻の蛮族高速船のうち三隻は、スキアトス島とマグネシアの間にある通称「蟻岩」の浅瀬に船を乗り上げ、用意していた石柱の標識を、その浅瀬に打ち立てた。これにて航路の障碍は取り除いたとして、海軍の本隊はテルマを発したが、それはちょうどペルシア王がテルマを出発してから十一日後のことであった。

なお、ペルシア艦隊の航路上に岩礁があることを彼らに教えたのは、スキロス人のパンモンという者だった。そして異国の船団は、丸一日かかってマグネシアのセピアス岬(*)とカスタナイアの街の間にある海岸に到着した。
(*)スキアトス島の対岸にあるマグネシアの岬;前田注

184.この地からテルモピュレーに至るまでは進軍に支障がなかったので、軍勢の数は以前と変わらず、以下の通りだった。アジアからの船は一千二百七隻。おびただしい国からの兵員総数は、一隻につき二百人の乗員(93)として計算すると、二十四万一千四百となる。これらの船には各国からの兵員に加え、ペルシア、メディア、サカイの武装兵が三十。これらの人数を合計すると三万六千二百十となる(*)
(93)二百というのはギリシャの三層櫂ガレー船における通常の定員数。百七十人の漕ぎ手と三十人の武装兵
(*)ペルシアの兵力に関する記述は本巻60節を参照。再び関係先をリンクしておくが、実際の兵力はざっと10分の1程度であったろう、というのが大方の見方である。リンク先も参照されたし;前田注。 テルモピュレーの戦いプラタイアの戦い

この数と、最初に挙げた数に、五十櫂船の乗組員を一隻につき八十人前後の人数として加算せねばならない。すでに述べている通り(94)、この型の船は三千隻が集結しているので、これらの船に乗っている人員は二十四万になるだろう。
(94)本巻97節において、五十櫂船は三千隻のうちの一部であるとヘロドトスは書いている。

以上がアジアからの海軍勢である。総数は五十一万七千六百十。陸軍の歩兵は百七十万。騎兵が八万。そしてアラビア人の駱駝隊とリビア人の戦車隊がいるので、これを見積もって二万を加算する。

海陸両軍の総数は二百三十一万七千六百十。アジアから来た軍勢は以上であるが、これには、随行している従僕および食糧輸送の車輌や船の乗員は含まれていない。

185.またこれにヨーロッパからの兵員を加えねばならない。以下はあくまで推定である。トラキアとその沖合の島々に住むギリシャ人からは百二十隻。この乗員として二万四千。

全民族からの陸軍、すなわちトラキア、パエオニア、エオルドイ、ボティアイア、カルキディア、ブリゴイ、ピエリア、マケドニア、ペライビ、エニエネス、ドロペス、マグネシア、アカイア、トラキア沿岸に居住する住民、これら全てを推定すると三十万になる。

この兵力とアジアからの兵力を合算すると、兵士の総数は二百六十四万千六百十となる。

186.以上は兵員数である。海軍に随行した従僕たちと、食糧運搬船その他の船の乗組員の総数は、兵員のそれを下回るのではなく、むしろ上回るのではないかと、私は考える。

かりにそれが兵員数と同数だとすれば、数百万という数になる。すなわち、ダリウスの子クセルクセスが、はるばるセピアス岬とテルモピュレーに引き連れてきた人数は、五百二十八万三千二百二十名となる。

187.以上がクセルクセスの全勢力である。ただ、女調理師、妾、去勢男子などの正確な人数は誰にも判らない。軍に従っている荷役獣やインド犬の頭数なども、多すぎて誰にも判らない。ゆえに、干上がった川もあると聞いても、私は驚かないが、何百万もの人間にまかなう充分な食糧をどうやって調達したのか、ふしぎである。

というのも、計算によれば、各人が一日に1コエニクス(*1)を超えない量の小麦を支給されたとすると、毎日十一万三百四十メディムスの小麦が必要になる(95)。この計算には、女や去勢男子、荷役獣、犬などの食糧は含まれていない。そしてこの大軍勢の中で、その容姿と威厳においてクセルクセスを凌ぎ、勢力を掌握するに足る人物は、当の本人をおいて他にいない。
(95)計算が間違っている。ヘロドトスは48コエニクスが1メディムスに相当すると仮定し、5,283,220を48で割っている。正しい答えは110,067.083である。すなわち5,280,000 ÷48=110,000となる。3220÷48は、最初の計算の端数としてよい。ヘロドトスが割り算の答えに340をつけ加えたのは不可解である。なお、メディムスという単位は主にアッティカで使用された単位で、1メディムスは12ガロン(52〜58リットル)に相当するという。
(*1)約一リットル;前田注

188.ペルシア海軍はマグネシア地方のカスタナイアとセピアス岬との間にある海岸に到着していた。先に到着した船の数々は陸に係留されたが、遅れて到着した船は錨を降ろして係留された。ただし、海岸が狭かったので八隻ずつ並べて海に留められた。

その日はこうして夜を過ごしたが、夜明けになって、晴れて無風だった空が一転して海が沸き立ち、地元の住民がヘレスポントス風と呼んでいる強い東風が吹き、大嵐が彼らを襲った。

強風が吹き始めたのに気づいた者や、都合よく陸に繋がれていた船は、嵐の来る前に船を岸に引き上げたので、船も人も共に難を逃れた。海上に碇泊していた船は強風によって、いわゆるペリオン山の竈(かまど)という海岸までながされたり、その海岸に打ち上げられたりした。中にはセピアス岬に打ち上げられたり、メリボイアの街やカスタナイアの街の岸に打ち上げられた船もあった。かほどに嵐は耐えがたいものであった。

189.さて、アテネ人が北風の神ボレアスに神託を祈願し、救いを求めたという話が伝わっている。というのも、義兄弟に助太刀を頼め、という別の神託が降りているからである(*)。ギリシャの伝説では、ボレアスの妻はエレクテウスの娘オリテイアというアッティカ人だった。そしてエレクテウスはアテネの王だった人物である。
(*)本巻40〜41節の神託を参照;前田注

伝説の伝えるように、この系譜によってアテネ人はボレアスを義兄弟と見なしていたのだ。それゆえ、彼らがエウボエア島のカルキスにいて嵐の到来に気づいた時、あるいはその前だったかもしれないが、ボレアスとオリテイアに生贄を捧げ、アトスの場合(*)と同じように蛮族の海軍を壊滅してアテネを助けるよう祈願したという。
(*)第六巻44節参照;前田注

この嵐が、蛮族が碇泊しているときにボレアスが起こしたものかどうかは、私にはわからないが、ボレアスは以前も今回も助けにやって来たのだと、アテネ人は言う。そして帰国してから、彼らはイリソス河畔にボレアスを祀る神殿を建立している。

190.この嵐によって、少なくとも四百隻が破壊され、無数の人間と夥しい資産も失われたという。ところで、難破船に価値があることに気づいたのは、マグネシア人でセピアス周辺を領土として支配していたクレティネスの子アメイノクレスである。後になって、かれは岸に打ち上げられた金銀の杯を回収したり、他にもペルシアの財宝を見つけ出し、莫大な富を獲得している。この拾い物のお陰でかれは大変な金持ちになったが、万事幸運というわけではなかった。我が子の死という大きな悲運が待っていたからである。

191.食糧輸送船その他の船がどれほど破壊されたかは判らない。海軍の将軍たちは、窮状に陥っている自分たちをテッサリア人が攻撃してくるかもしれないと懸念し、難破船の残骸を用いて周りに高い防護策を築いた。

嵐は三日間続き、ついにマギ僧たちは、海の精テティスとネレイデス(*)に生贄を捧げると共に、風に向かって呪文を唱えた。このようにしたお陰か、四日目には風がやんだ。あるいは自然にやんだのかもしれないが。彼らがテティスに生贄を捧げたのは、英雄ペレウスがテティスを連れて逃げたのが、まさにこの地であることと、セピア岬全体がテティスほかのネレイデスに従属していることを、イオニア人から教えられたからである。
(*)海神ネレウスの娘で、50人の海の精。テティスもそのうちの一人;前田注

192.さて、エウボイアの高台に留まっていた見張りたちは、嵐の起きた二日目にはギリシャ軍のもとへ駆け降り、敵船の遭難をつぶさに報告した。

これを聞いたギリシャ人は、彼らの救国主としてポセイドンに祈りを捧げ、神酒を注いだ。これを済ませた後、彼らは、向かってくる敵船はいないと見て、急ぎアルテミシオンにとって返した。彼らがアルテミシオンに来て駐留するのは二度目となったが、その時以来、今に至るまで、彼らはポセイドンのことを救国主と呼んでいる。

193.風がやみ波が静まると、蛮族は陸に揚げていた船を海に出し、沿岸沿いに航行してマグネシアの岬を廻り、湾に入るとパガサイに向けて真っ直ぐ進んだ。

マグネシア地方にあるこの湾には、かつてヘラクレスが水を求めて派遣されたが、アルゴー船に乗ったイアソンとその一行が黄金の羊皮を入手するためにコルキス地方のアエアに向けて出航した時(*)、この地に置き去りにされた場所があると伝えられている。ペルシャ海軍は給水するためにここへ来て、その後に出航するつもりだったのだが、その地がアフェタイ(出航)(96)と呼ばれてきたのは、これが理由である。そしてクセルクセス麾下の海軍はここに投錨した。
(96)おそらく、欺瞞の女神アパテー伝説に由来している。
(*)イアソンはテッサリアの王子。王位を叔父から奪還するために、黄金の羊皮を求めて仲間と共に巨大なアルゴー船に乗り、コルキスのアエアに向かったという伝説がある。;前田注

194.さて、ペルシア海軍の中で十五隻が大きく遅れていて、それが偶然にもアルテミシオンにいたギリシャ船団を見つけると、味方の海軍と勘違いし、ギリシャ海軍の中に紛れ込んでしまった。その司令官はアイオリア地方のキュメ提督でタマシオスの子サンドケスであった。

かつてかれはペルシア王の裁判官の一人だったが、賄賂を受けたとしてダリウスの誤った判断により、極刑に処せられるところだった。しかしサンドケスが磔柱に吊されたとき、ダリウスは気づいた、王家に対するかれの貢献は、その罪に勝ることに。理性をないがしろにし、性急に事を進めようとしていたことに気づいた王は、サンドケスを放免した。

かくしてかれはダリウスによる死を免れたのだが、今やギリシャ軍のまっただ中に入り込んでしまったので、再び逃れる術もなかった。ギリシャ軍はペルシア船が向かってきているのに気づくと、彼らが思い違いをしていると見て取り、船を進めて苦もなく捕らえてしまった。

195.捕らえられた船の中にはカリナ地方のアラバンダの僭主アリドリスがいて、別の船にはパポスの司令官でデモノオスの子ペンテュロスがいた。かれは他の十二隻を率いてパポスから来ていたが、セピアス岬沖で嵐に遭い、十一隻を失い、残った一隻に乗ってアルテミシオンを航行中に捕らえられたのだ。この者たちからクセルクセスの軍勢を聞き取ったギリシャ人は、彼らを捕縛したままコリントのイスマス(地峡部)へ連行した。

196.こうしてペルシア海軍は、サンドケス以下の十五隻を除いてアフェタイ(出航)にやって来た。クセルクセス以下の陸軍はテッサリア地方、アカイア地方を通過してマリス地方に入ってから三日が経過していた。テッサリアにいる時、クセルクセスは麾下の騎馬隊に競争を行なわせたが、これはギリシャで一番と聞いているテッサリアの騎馬兵を試すためでもあった。この競争では、ギリシャの馬はとてつもなく遅いことが判った。またテッサリアを流れる川の中では、唯一オノコノス川だけがクセルクセスの軍の飲料水をまかなえなかった。しかしアカイア地方では最大のアピダノス川(97)でさえ、辛うじて間に合う程度であった。
(97)アピダノス川とエニペウス川は合流してペネオス川の支流となっているが、アピダノスと呼ばれたり、エニペウスと呼ばれたりしている。

197.クセルクセスがアカイア地方のアロスに到着すると、配下の案内人たちは、この地方にまつわるゼウス・ラフィスティオス神殿の伝説について語った。すなわちアレオロスの子アタマスが、イノと共にフリクソスの殺害を企んだこと、その後、アカイア人が神託の命によってフリクソスの子孫に、ある種の罰を課したことなど、である。

アカイア人はかれの一族の長子に、街のレイトン(Leiton)(98)(アカイア人は公会堂をこう呼んでいた)への立ち入りを禁じ、それを監視していた。万一立ち入った時には、生贄にされる場合以外には外へは出られないとされた。さらには、生贄にされることを怖れた多くの者が他国に亡命したことや、後になって帰国して公会堂に入るところを捕らえられた話しも語った。また案内人たちは生贄が全身を花輪で覆われて行列して行くしきたりも語った。
(98)「λεω?」 または「ληο?」に由来する。

例えば、フリクソスの子キティソロスの子孫は、次のような目に遭っている。神託に従ってアカイア人がキティソロスの子アタマスを彼らの国の身代わりとして差し出し、生贄に供しようとした時、このキティソロスはコルキスのアイアからやって来て息子を救ったことが原因で、神の怒りがその子孫に降りかかるようになったという(99)。
(99)この伝説は民族の神「ゼウス・ラフィスティオス」崇拝に発している。これは旧約聖書中のエホバやフェニキア人の守護神モレク、メルカートと同様で、とりわけ司祭一族において、その長子に適用されている。やがて生贄は人間の代わりに雄羊が供されるようになったが、それでも最初に生まれた子供は国を去らねばならなかった。

これを聞いたクセルクセスは、神殿の森に来ると、自身はそこに入ることを遠慮し、全軍にも同様に立ち入りを禁じた。そしてアタマスの子孫の屋敷や聖域にも敬意を払った。

198.以上がテッサリア、アカイアにおけるクセルクセスの動向である。さてクセルクセスは、ここから湾岸沿いにマリスに到着したが、ここは毎日の潮の干満が激しい場所であった(100)。この湾のあたりには広い平地も狭い平地もあり、周囲にはよじ登るのが困難な高い山がマリス全体を囲んでいて、これは「トラキスの岩」と呼ばれている。
(100)潮の干満は地中海では珍しいが、マリスの湾からそれほど遠くないエウリポスでは激しい潮流が認められる。

アカイアから湾岸沿いに進んだ最初の街がアンティキラで、この近くをスペルケイオス川がエニアネス地方から流れ来て、海に注いでいる。この川からおよそ四キロメートル離れたところをディラス川が流れているが、この川は、火に焼かれたヘラクレスを助けるために地面から流れ出したと伝えられている川である。そしてこの川からまた四キロメートル離れたところを、「黒川」と呼ばれる川が流れている。

199.トラキスの街は、この「黒川」から一キロメートル離れている。この辺り一帯で、ここがトラキスの丘と海が最も離れている場所である。この平地は二万二千プレスロン(101)(*)の広がりがある。トラキス地方を囲む山々は、トラキスの南で割れて峡谷となり、アソポス川が山麓を流れている
(101)これは長さではなく面積に違いない。5千エーカーあまり(4Km×5Km)。仮に長さとすると420マイルとなる。
(*)plethron;長さを表す単位。都市によってまちまちであるが、1プレスロンはおよそ100フィート;前田注

200.アソポス川の南にはフォイニクス川という別の川があり、これはトラキスの山から流れ出てアソポス川に合流している細流である。この流れの近くに荷車一台通るのがやっとの細道があり、それがテルモピュレーで、フォイニクス川からは三キロメートル離れている。

ただ、フォイニクス川とテルモピュレーの間にはアンテレという村があり、アソポス川はこの村を通って海に注いでいる。そしてその周囲は広い平地となっていて、アンフィクティオンのデメテル神殿と近隣同盟諸国(アンフィクティオン)の評議場(102)が設けられており、アンフィクティオン自身の神殿もある。
(102)近隣民族は同盟を結成し、2年に一度開かれる評議会に代表を派遣していた

201.さてクセルクセスはマリス地域のトラキスに陣を張り、ギリシャ軍は隘路に陣を構えた(103)(*)。この場所はほとんどのギリシャ人がテルモピュレーと呼んでいるが、地元民や付近の住民はピュライ(104)と呼んでいる。クセルクセスはトラキスから北の全地方(105)を支配下に治め、対するギリシャ人は本土(106)の南を掌握していた。
(103)隘路の東西の間。
(104)「門」という意味。北からギリシャへに入るときの入り口になっているから。テルモピュレーは、温泉が湧いていることから「熱き門」という意味。
(105)正確には「西」。その下の「南」は「東」が正しい。
(106)すなわちギリシャ全土
(*)隘路は直線距離にして約5Km、実際には約10Km;「ギリシャ人の物語T」;塩野七生著

202.この場所でペルシア軍を待ち受けていたギリシャ人の構成は次の通り。スパルタの重装歩兵が三百、テゲアとマンティネイアからは同数で合計一千、アルカディアのオルコメノスから百二十、その他のアルカディアから一千。このアルカディア勢にはコリントの四百、プレイウスの二百、ミケーネの八十が含まれる。以上がペロポネソスからの兵数。ついでボイオテア地方からはテスピアイの七百、テーベの四百。

203.これに加えて、オポスのロクリス人は要請に応じて全兵力の一千を派遣し、ポキスも一千を派遣した。これは、ギリシャが使者を送り、次のように要請したからである。すなわち、我らは先遣隊で、残りの同盟軍は明日にもやって来るはずだ。海の監視はアテネ、アイギーナをはじめとする海上警備隊が担当しているゆえ、何ら心配には及ばない。

ギリシャに向かってくる侵略者は神ならぬ人間である。生まれついてから災いを受けずに済み、また死を免れる者などいないことは、過去も将来も変わらぬであろう。また高名な者ほど受ける災禍も大きいもの。いま進攻してくる者も不死身にあらざれば、必ずやその絶頂から転げ落ちるはず。

これを聞いたロクリス、ポキスの者たちはトラキスに援軍を進めたのであった。

204.ギリシャ諸国にはそれぞれ司令官がいたのだが、中でもこの上なく賞賛に値し、全軍を指揮していたのがスパルタのレオニダスだった。その系譜は、父のアナクサンドリデスから遡ってレオン、エウリクラティデス、アナクサンドロス、エウリクラテス、ポリドロス、アル力メネス、テレクロス、アルケラオス、ヘゲシラオス、ドリッソス、レオボテス、エケストラトス、アギス、エウリステネス、アリストデモス、アリストマコス、クレオダイオス、ヒュロス、ヘラクレスに至る。そしてレオニダスは、思いがけなくもスパルタの王位を手中に収めたのだった。

205.というのも、かれにはクレオメネスとドリエオスという二人の兄がいたので、王位継承に関しては埒外にあった。しかしクレオメネスは男子を作らずに死んでしまい、ドリエオスもシシリーで死亡し、もはやこの世の人ではなかった。レオニダスは、アレクサンドリデスの末子クレオンブロトスよりも年長であるし、クレオメネスの娘を娶っていることもあって、王位継承権がかれに巡ってきたという次第である。

さてレオニダスは法に従い、全員が息子のいる兵士三百人を(107)選び、テルモピュレーにやって来た。これと共に、先に記したテーベの兵士四百名も引き連れていた。その将はエウリマコスの子レオンティアデスという。
(107)300は王の親衛隊の正規人数で、いわゆる「騎士」。訳文はここに挙げたもの以外は考えられない。かりに「跡継ぎのいる者全て」と解して300に加えると、従来から言われているテルモピュレーで300人だけということと矛盾する。Dr.Marcanの説以外、これに関する説明は見当たらないようだ。当然ながら、「επιλεξαμενο?」を「〜から選抜した」と解すと問題は解決するが、小生は首肯しかねる。

レオニダスはギリシャの中でも特にテーベを連れてくることに意を尽くした。というのも、彼らはペルシア寄りの態度を非難されていたからである。かれがテーベ兵を招集したのは、果たして彼らが兵を送るのか、それとも公然とギリシャ同盟に反旗を翻すのかを確かめるためだった。そこでテーベとしては、二心を抱きながらも兵を送って来たのである。

206.スパルタがレオニダス以下の兵を真っ先に派遣したのは、この事実を他の同盟諸国に示すことで彼らに派兵を促すためで、スパルタの派兵が遅れると、それを知った他の国々が、ペルシア側につくのを阻止する狙いがあった。というのも、ちょうどこの時期、スパルタではカルネイア祭(108)の最中だったので、それが終わってから守備隊をスパルタに残し、全軍挙げて全速力で駆けつけるつもりだったからである。
(108)アポロ神を祀る国の祭り。9月に9日間開かれる

そして他の同盟諸国も同じような軍行動を取ることになった。それはオリンピア祭がこの事態に重なったためである。その結果、同盟諸国はテルモピュレーの戦闘がかくも早く始まるとは思いもよらず、先遣隊だけを派遣したのである。

207.ギリシャ同盟軍は右のごとき思惑を抱いていたが、テルモピュレーにいるギリシャ軍は、ペルシア軍がその隘路に押し寄せて来たのを知ると、恐慌をきたし、そこを撤退すべきかどうかを協議した。他のペロポネソス軍は自国に帰還し、イスマス(地峡部)を防衛すると主張したが、ポキスとロクリスの軍は、この案に激怒した。それを見たレオニダスは、その地に残る方に賛成し、同盟諸国に援軍を求める伝令を送ることにした。ペルシア軍を迎え撃つにはあまりに軍勢が少なすぎたのだ。

208.ギリシャ側がこのように議論している一方で、クセルクセスは偵察騎兵を出してギリシャ軍勢の多寡と、動向を探らせた。クセルクセスがまだテッサリアにいる時、そこに集結しているギリシャ軍は少数であること、またその司令官たちはスパルタ人で、その中にはヘラクレスの子孫であるレオニダスが含まれていることを聞き知っていた。

偵察騎兵はギリシャの陣に近づくと陣営をつぶさに盗み見たが、防禦のために再建された城壁の内側に陣が配置されていたので、その全体を眺めることは叶わなかった。騎兵が見たのは、城壁の前に布陣し、たまたま城壁外に配置されていたスパルタ兵だった。

そこには、裸で運動したり、髪を櫛で梳いている者がいた。偵察兵はそれ見てびっくりし、その人数を数えた。そして入念に偵察を終えた後、その騎兵は辺りに気を配ることもせず、気兼ねなく帰って行った。なにしろ自分を追跡しているや注意を払う者など誰もいなかったのだ。帰還後は、自分の見たこと全てをクセルクセスに報告した。

209.これを聞いたクセルクセスは、スパルタ人が生死を分ける戦いに備えて懸命の努力をしているとは、どうしても理解できなかった。むしろ馬鹿げたことと思われたので、自陣にいるアリストンの子デマラトスを呼び出した。

デマラトスが参上すると、かれは報告された個々の事柄を取り上げて下問し、スパルタ人の行動の意味するところを知りたがった。デマラトスは答える。「彼らのことに関しては、すでにお話申し上げてござる。それはギリシャに進軍する時のこと。みどもが事の成り行きの思惑を申し上げた時、お上は嘲笑なされました。しかれどもお上の面前にては、真実を申し上げることが、みどもの随一の役目にござるゆえ、今一度お聞き下されませ。」

「彼らは隘路を守るためにやって来て、その準備をしておるのです。彼らが命をかける時には、髪を梳かすのが習いでござるゆえ。」

「この者たちを制圧し、スパルタに残っている者たちを征服すれば、この地上でお上に刃向かう者は皆無となりましょう。今まさに、お上はギリシャ中で最高位の王と最強の兵士たちと干戈を交えようとなさっておられるのでござる。」

これを聞いて、クセルクセスはとても信じられず、そんなに寡兵であるというのに、どうして彼らは刃向かうのか、と質した。「わが王に申し上げまする。見どもの申し上げた通りに事が運ばなかった暁には、みどもを嘘つきと罵り遊ばせ。」デマラトスはこうに言ったが、クセルクセスを説得するには至らなかった。

210.クセルクセスは、ギリシャ兵が今にも撤退するだろうと思って四日間待った。しかしギリシャ軍は撤退のそぶりすら見せず居座り続け、それはあたかも不遜とも愚かとも取れるように、王は思った。そして五日目には怒りを爆発させ、メディア人部隊とキシア人部隊を攻撃に向かわせ、敵を捕らえて自分の前に引き連れてくるよう、命じた。そこでメディア人部隊はギリシャ軍に襲いかかったが多数の兵士が斃されたので、それに代わって他の兵士が攻撃に加わった。しかし誰の目にも、とりわけ王自身には、多くの兵士の中で真の勇者は少ないことが明らかとなった。そして戦いは終日続いた。

211.メディア人部隊が惨敗し撤退したのに代わり、ヒルダネスの率いる「不死身隊」が攻撃を開始した。彼らなら容易く使命を果たすだろうと思われた。

ところが、ギリシャ軍との戦闘に加わったものの、彼らの働きはメディア軍のそれと五十歩百歩だった。彼らの槍はギリシャ軍のものより短い上に、狭い空間では大軍の利を生かせなかったからである。

一方で、スパルタ兵の戦いぶりは記憶に残るものであった。特に、戦い方を熟知している者と、未熟な者との違いを見せつけた。彼らは敗走すると見せかけ、敵に背を見せた。それを見た蛮族が大声で叫び、武器を打ち鳴らしながら追跡する。追いつかれたところでスパルタ兵は反転して攻撃に転じ、おびただしいペルシア兵を斃したのだ。一方で、この時のスパルタ兵の死者は僅かだった。ペルシア軍は次々と部隊を投入し、さまざまな手段を講じてみたが、進入路を奪取できず、やむなく撤退した。

212.この時の激戦を見ていた王は、自軍を心配するあまり、玉座から三度も飛び上がったという。戦いはこのような経過をたどったが、翌日の戦闘も蛮族は進展を得られなかった。ギリシャ軍は少数であるから、いまは負傷して戦闘不能に陥り、もはや抵抗できないだろうと考え、ペルシア軍は戦力投入を繰り返したのだ。

しかしギリシャ軍は民族ごとに隊列を整え、次々に交代して戦った。ただしポキス人だけは間道防衛のために山中に配置されていた(109)。そして前日以上の進展が見られないことが判ると、ペルシア軍はまた退いていった。
(109)本巻215、216節参照

213.ペルシア王は戦線の膠着状態をいかに打破すべきか考えあぐねていた。そこへマリス人でエウリデモスの子エピアルテスという者が王のもとに現われ、多大な褒賞を目当てに、テルモピュレーに通じる山越えの間道があることを進言した。これにより、かの地に陣取っているギリシャ人は壊滅することになったのだ。

この後、かれはスパルタ人を怖れてテッサリアに逃走するが、ピュライ(門)に近隣同盟(110)の評議員たちが集合した時、その評議会によってかれの首に賞金がかけられている。程なくしてかれはアンティキュラに戻ってきたが、トラキス人のアテナデスという者によって殺害されている。
(110)本巻200節参照

アテナデスがエピアルテスを亡き者にしたのは別の理由からであったが、そのことは後に譲るとして(111)、ともかくスパルタ人はかれのことを大きく賞賛している。かくしてエピアルテスは後に不慮の死を遂げたのである。
(111)ヘロドトスはBC.479以降も記述を続けるつもりであることを示唆しているが、実際には第九巻はこの年で終わっている。

214.これには別の話が伝わっている。すなわち、カリスタス人でファナゴラスの子オネテスとアンティキュラ人のコリダロスがペルシア王に間道のことを進言し、ペルシア軍のために山道を先導したというのである。しかしこれは全く信じられない。

近隣同盟はオネテスとコリダロスに賞金を懸けたのではなく、トラキス人のエピアルテスに懸けていること。そして評議員たちは事実を正確に掴んでいるに違いないと思われること。さらにエピアルテスがこのために逃亡したことを我らが知っていること。以上のことから事の正否は明らかである。

オネテスがマリス人でなくとも、この国に何度も来ていたなら、間道のことを知っていたかもしれない。しかし山越えの間道を実際に先導したのはエピアルテスなので、私はこの者を裏切り者として書き残すことにする。

215.クセルクセスはエピアルテスの建言を気に入って大喜びし、直ちにヒルダネスとその麾下の軍を日暮れに出発させた。この間道(112)は地元のマリス人が見つけていて、テッサリア人のポキス征伐を案内する時に使った道である。その当時、ポキス人はその道を塁壁で塞ぎ、戦を避けたのだ。それ以来長年にわたり、マリス人はこの道を全く無用のものと見ていた(113)。
(112)皇帝カトーの治世下で、プルタークは、カトー麾下の軍隊が、命令に追従しようとする際に遭遇した困難を述べている。
(113)この文はSteinの解釈。他の解釈では「致命的な」となる。

216.間道の経路は次の通り。まず峡谷を流れるアソポス川に沿って始まる。そしてその道は山と同じでアノパイアと呼ばれている。このアノパイアは峡谷がつきたところで山の尾根に沿って延び、マリスに最も近いロクリス地区のアルペノスの街に至る。ここは「黒尻岩」または一等狭いところにあるケルコペスの台座(114)の近くになる。以上が間道の様子。
(114)ケルコペスは二人の小人の盗賊でパサロスとアクモン。「黒尻」に気をつけよと母から教えられていた。ヘラクレスが彼らを捕らえ、肩に担いだ棒に逆さにぶら下げて歩いていたら、かれの黒い(毛深い)尻を見てからかったところ、ヘラクレスもおもしろがって彼らを放免したという。

217.さてペルシア軍はアソポス川を渡り、右にオイテの山々を見、左にトラキスの山々を見ながら、夜通し行軍した。そして夜明けに間道の頂点に達した。

先に記したごとく、この山頂には一千のポキス武装兵が間道の警戒に当たっていた。谷間の隘路は前記の通り確保されていたので、ポキス人はレオニダスに提言し、みずから進んで山越えの間道守備に当たっていたのである。

218.ペルシア軍が山を登ってくる時、その山は全山が深い樫の森に覆われていたので、ポキス兵に気づかれずに済んだのだが、風がなかったために、落葉を踏む足音が壮大な音を立てた。これを聞いたポキス兵は飛び上がって武器を構えようとしたが、その時には蛮族が目の前に来ていた。

一方のペルシア兵は目の前に武装兵が現れたのを見てびっくりした。敵がいるとは思いもしなかった所で武装兵に出会ったからである。ヒルダネスはポキス兵がスパルタ兵ではないかと疑い、エピアルテスに、あれはどこの国の兵かと質した。その返事を確かめた後、ヒルダネスは自軍の兵士に戦闘態勢を取らせた。

激しい弓矢の攻撃に晒されたポキス兵は山頂に向けて逃走したが、ペルシア軍が最初から自分たちを目がけて向かってきたものと思い、全滅を覚悟した。しかしヒルダネス麾下のペルシア軍とエピルアルテスは、ポキス兵には目もくれず一目散に山を下りていった。

219.ギリシャの予言者メギスティアスは生贄を占い、まずテルモピュレーのギリシャ兵には夜明けに死が訪れると告げた。そのつぎにペルシアの投降兵たちによって、敵が迂回路を進んでいることも判った。彼らは夜のうちにそれを知らせたのだが、夜明けになって高台から駆け下りてきた監視兵によって、三度目の情報がもたらされた。

ギリシャ軍は評議を開いたが、意見が割れた。撤退すべきにあらずと主張する者がいる一方で、それに反対する者もいた。そして結局、同盟軍は解散することになり、それぞれが帰国の途についたが、その他の者は、レオニダスと共に残留する準備を始めた。

220.レオニダスは、敗北を心配して同盟軍を帰したが、自身とスパルタ兵については、最初から防衛するためにやって来た場所から撤退するのは相応しくないと考えていた、と伝えられている。

私の見るところでは、同盟軍は戦意をなくしていて、レオニダスと共に危険を冒したくないと思っていることを見抜いていたがゆえに、レオニダスは彼らを国に帰したのだ。

しかしかれ自身が撤退することは沽券にかかわることであり、逆にここで踏みとどまれば、偉大な名声が後世に残り、スパルタの隆盛も汚されずに済むだろうと考えたのだ。

この戦争が始まった時、スパルタ人がこの戦いについて神託を求めたところ、デルフォイの巫女の予言では、蛮族によってスパルタが破滅するか、その王が死ぬか、どちらかだと出た。巫女は六歩格の韻文を用いて次の託宣を下した。

 広き国スパルタの住人よ、汝ら栄光の国は、
 ペルセウスの末裔によって壊滅の憂き目に遭うか、
 しからずんば、スパルタの国土は
 ヘラクレスの血を引く王の死を悼むことになろう。
 獅子、牡牛の力を持ってしても、
 立ち向かうこの男には勝てまい。
 ゼウスの力を有する男ゆえに。
 我は告ぐ、かの男は斃されまいぞ、
 そのいずれかを完膚なきまでに切り裂くまでは

レオニダスはこの神託を考えに入れ、ひとりスパルタの名声を勝ち取るために、同盟軍を帰還させることにしたのだ。彼らを残留させ、意見のまとまりを欠いて混乱を招くよりは。

221.このことに対する小さからぬ証拠を私は握っている。それはレオニダスが遠征に随行していた予言者を公然と帰国させたことである。これはかれが共に死ぬことを心配しての心配りであった。この予言者はアカルナニア出身のメギスティアスといい、メランプスを祖とすると伝えられ、生贄占いによってギリシャ軍の将来を予言したと言われていた。かれは帰れと言われても残り、ただし共に従軍していた一人息子を帰国させたのだった。

222.同盟諸国軍はレオニダスの命じるままに帰国したが、テスピアイ兵とテーベ兵だけはスパルタ軍と共に残った。テーベ兵はレオニダスが人質として留め置いていたので、そのつもりもなく残ったのである。テスピアイ兵はレオニダスとその部隊を見捨てて立ち去るつもりはなく、彼らと共に踏みとどまって死に向かうと言い、喜び勇んで残ったのである。その司令官はディアドロメスの子デモフィロスだった。

223.さてクセルクセスは日の出に神酒を献げ、市場が賑わう時刻(*)になるのを待って総攻撃を命じた。これはエピアルテスの進言に従ったからで、上り坂の回り道よりも、山下りは真っ直ぐで、ずっと近道になるからだ、
(*)午前10時頃;前田注

蛮族は攻撃を開始したが、死地に赴くつもりのレオニダスと麾下のギリシャ兵は、以前と違って隘路の拡がっている場所まではるか前方に進んでいた。これまでの何日かは防御壁を守るために狭い道まで退いて反撃していたのだ。

今回は狭い場所の外で戦ったのだが、それでも蛮族は大勢の兵士が死亡した。部隊長たちが後方から兵士を鞭打ち、前方に追い立てたので、その多くは後ろから押されて海に落ち、溺死した。それ以上に多くの兵士は、生きたまま踏みつぶされてしまい、死んだ者のことなど誰も見向きもしなかった。

ギリシャ人は、山道を廻ってきた敵軍のために死ぬものと覚悟していたので、死に物ぐるいで遮二無二蛮族に立ち向かい、力の限りの働きを見せた。

224.実は、この時すでに、ギリシャ兵のほとんどは槍が折れ、剣で戦っていた。レオニダスはすこぶる勇敢な戦いぶりを見せたが、ついにこの戦闘で討ち死にした。かれと共に戦死した名のあるスパルタ人については、勇猛だったとして、その名を聞いているが、三百名全員の名もまた知らされている(115)。
(115)レオニダスの遺体はその後スパルタに移送され、埋葬された。これは40年後のBC.440のこと。かれの墓には300人の兵士の名が刻まれた碑が建てられたので、ヘロドトスはおそらくこれを見たのだろう。

ここでは多くの有名なペルシア人も戦死している。中でも注目すべきはダリウスの二人の息子アブロコメスとヒペランテス。この二人はダリウスとアルタネスの娘ファラタゴネの間に生まれている。アルタネスはダリウス王の弟で、ヒスタスペスを父に、アルサメスを祖父に持つ。アルタネスが自分の娘をダリウスに嫁がせる時、子供はその娘しかいなかったので、自分の全財産を持参金にもたせたという。

225.さてレオニダスの遺体をめぐっては、ペルシアとスパルタの間で激闘が交わされ、ギリシャ軍は獅子奮迅の働きを見せて敵を潰走させること四度におよび、ついに遺体を回収した。そして戦闘はエピアルテスが先導する敵軍が到着するまで続いた。

敵の新手が来ると、形勢が変わったとみたギリシャ軍は隘路の狭い場所まで退き、防禦壁を抜けて丘の上に移動し、密集陣形を取った。ただしこの時テーベ兵は全員が従わなかった。この丘は隘路の入り口にあるが、今はレオニダスの栄誉を讃える獅子の石像がすえられている。

この場所で、まだ剣を持っている者はそれを振るい、剣のない者は手や口を使って自分の身を守った。蛮族は雨あられと矢を射かけ、彼らを覆い尽くすようにして攻めた。別の部隊は正面から攻撃して防禦壁を破壊し、また別働隊は迂回して取り囲み、あらゆる方向から攻め立てた。

226.スパルタ、テスピアイの兵士たちは右のごとき勇猛さであったが、とりわけスパルタ兵のディエネケスは最も勇敢に戦ったと伝えられている。メディア人との戦闘が始まる前に、かれは次のように話したという。あるトラキス人から、蛮族の軍はおびたたしい数の矢を射かけてくること、それはあたかも太陽を遮るほどであると、かれは聞いた。

これを聞いてもかれは少しもひるまず、またメディア軍の多さを意に介さず、トラキス人は良いことを教えてくれた、メディア人が太陽を遮ってくれたら、陽向でなく日陰で戦えるではないか、と言ったという。この言葉や、これに似た言葉がスパルタ人ディエネケスが後世に残した記念であると伝えられている。

227.かれに続いて二人のスパルタ人兄弟、オリシファントスの子アルフェオスとマロンの勇敢なことは、右に出る者がなかったという。テスピアイ兵の中で最も高名を挙げたのは、ハルマティデスの子ディティランボスだった。
(*)テルモピュレーにおける戦死者はペルシア側がおよそ2万人、ギリシャ側が千人以上と推定されている;前田注

228.戦死した場所で埋葬された者たち、またレオニダスによって任を解かれた国が撤退する前に戦死した者たちのために、次のような碑文が残されている。

「ペロポネソスの四千の兵士、かつて三百万の敵と、この地にて戦へり」
この碑文はギリシャ軍全体に向けたものであるが、スパルタ兵そのものに向けた碑文は次に。
「異国の者よ、スパルタ人に告げよ、我ら掟の命ずるままに退かず(*)、ここに伏す、と」
以上はスパルタ兵の碑文であるが、次は予言者のための碑文。
「こは名高きメジスティアスに捧げる記念の碑なり。そはスペルケイオス川を渡り来しメディア人に斃されし者。迫りし破滅のさだめを当てし予言者。されどスパルタの将を見捨てるを潔しとせざる者なり。」

予言者の碑を別とし、碑や石柱を建立して彼らの栄誉を讃えたのは、近隣同盟諸国であった。予言者メジスティアスの墓碑銘を起草したのは、かれと親密な交友があったレオプレペスの子シモニデスだった(116)。
(116)実際には三本の石碑を建立したのはシモニデスだった。ただ、メジスティアスの墓碑銘だけは彼の責任で起草した。
(*)スパルタ兵は「前進か、死か」をモットーにしており、退却ないし敵に背を見せることは絶対禁忌だった;前田注

229.実は三百人のうちでエウリトスとアリストデモスの二人は、重い眼病を患っていたため、レオニダスから放免され、陣を離れてアルペニで病床についていた。そこで互いに合意すればスパルタに無事帰還できたかもしれないか、あるいは帰国したくなければ、共に戦死していたかもしれない、と伝えられている。彼らはどちらでも選べたのだが、互いの考えが異なり、意見が合致しなかったのだ。エウリトスはペルシア軍が迂回路を進行していることを知ると、武具を身につけるよう求め、戦場に連れて行くようヘロット(奴隷)に命じた。ヘロットはかれを誘導したあと退散したが、かれ自身は乱闘の中に突入して戦死した。

一方のアリストデモスは気力が失せていたので、後方に残った。かりにかれ一人だけが病気だったとして、かれがスパルタに帰国した場合、あるいは二人ともが帰国した場合には、スパルタ人は彼らを咎めたりしなかっただろう。しかし、同じ事情で戦場から放免されていたのに、二人のうち一人が死に、他方が死ぬのを拒んだので、スパルタ人がアリストデモスに大きな怒りをぶつけたのも当然である。

230.ある者は、この放免があったればこそアリストデモスは無事スパルタに帰国した、という。またある者がいうには、かれは陣営からの伝令として放たれ、やがて戦場に引き返すこともできたのだが、それを嫌がって途中で留まって生き残り、仲間の伝令は戦場に戻って戦死した、と伝えている。

231.アリストデモスがスパルタに帰ると、尊敬もされず、さげすまれ、次のような恥辱を味わうことになった。スパルタ人は誰も火を分け与えず、話もせず、かれを腰抜けアリストデモスと呼んでののしった。ところがプラタイアの戦闘では、かれは自分に向けられていた恥辱をすべて雪(すす)ぐ働きを見せている。

232.この三百人のうち別の伝令もテッサリアに送られ、生き延びたと伝えられている。その伝令の名はパンティテスといい、スパルタに帰ると侮蔑を受けたため、みずから首を括って自殺したという。

233.さてレオティアデスを将とするテーベ兵は、ギリシャ軍と共にいてその強制下にあるときだけは王の軍と戦っていた。しかしペルシア側が優勢となり、レオニダスが軍を率いて丘に急行しているのを見て取ると、彼らはそこから離脱し、諸手を挙げて蛮族に近づいて行った。過去にないほどの真に迫った言葉で、自分たちはメディア側の者で、どこよりも先にペルシア王に土地と水を献上していたのであって、テルモピュレーには無理矢理連れて来られ、王が被った損害については彼らは何ら咎を受ける者ではない、と声を上げた。

テッサリア人が彼らの言葉の証人として立ったお陰で、彼らは命を救われたのだが、万事が幸運だったとは言えない。彼らが近づいてきて蛮族がそれを捕らえた時、幾人かは近づいてくる者を殺害している。そして彼らのほとんどが、司令官レオンティアデスを初めとして、クセルクセスの命によって王の印の入った烙印を押された。ずっと後になって(117)、かれの息子エウリマコスがテーベ兵四百の将としてプラタイアの街を占領した時、プラタイア人によって殺害されたのが、この息子だった。
(117)BC.431; ツキジデス「歴史第二巻2節」参照

234.テルモピュレーにおけるギリシャ人の戦いぶりはかくの如しであった。クセルクセスはデマラトスを呼びつけ、真っ先に声を上げて下問した。「デマラトス、お主の言葉が真実であると判ったゆえ、お主は誠実な男であると分かった。お主の予告と寸分違わず戦況が進んだことがその証拠じゃ。そこでじゃ、ギリシャ人はどれほど残っておるか? この戦場にいたような兵士はどれほどおるか? あるいは彼ら全てが、これほどの者であるか?」

デマラトスが答えて曰く。「ギリシャ人は大勢おります。またその都市も多数にのぼりまする。そこで、お上のお知りになりたいことを申し上げましょう。ギリシャの中にスパルタという街があり、八千の男子を抱え、彼らは全てここでの兵士と同等の能力を有しております。他のギリシャ人は、ここでの兵士には及びませぬが、勇猛さにおいては変わりませぬ。」

クセルクセスが続ける。「では、どのような策を用いれば、最小の損害で彼らに勝てようか? お主は彼らの王だったことでもあるし、評議の策や議事を承知しておることゆえ、さあ、教えてくれ。」

235.デマラトスの返答。「わが王に申し上げる。お上が心からみどもの助言をご下問であるなら、最善の策を申し上げるほかはございますまい。すなわち、王の海軍のうち、三百隻をラコニア地方(*)に進めるべきかと、」
(*)ペロポネソス半島の先端部で、スパルタのある地域;前田注

「その沖合にはキティラ島が浮かんでおり、我らのうちで大変な知恵者であるキロンの言うところによれば、キティラが海の底にある方が、浮かんでいるよりもスパルタにとっては有利であるということにござる。この男は、これからみどもが申し上げるような事態が、この島を足がかりにして起きることを常に予期しておりました。かれは王が攻め入ることを予め知っていたわけでなく、全ての敵を等しく怖れていたのでござる。」

「そこで、この島を基地として軍を進めなさり、ギリシャ人を恐怖に陥れておかれませ。彼らの国のすぐ傍で戦端が開かれることになりますれば、残りのギリシャ諸国が陸軍によって征服された時、スパルタが救援に向かう怖れはなくなりましょう。その上、残余のギリシャを攻略することで、ラコニアは孤立し、衰微するに違いありませぬ。」

「しかしながら、お上がこの策を取られぬ場合には、次のことを予想せねばなりませぬ。イスマスという、ペロポネソスに通じる狭い地峡部がござるが、全てのペロポネソス人は同盟を結んでおりますゆえ、彼らは一丸となり、ここで王を迎え撃つでありましょう。そうなれば、これまで以上に手こずる戦になること必定。そこで、先に申し上げた策をお進めになられますれば、お上は戦わずして、かのイスマスも全ての国々も手中に収められることでしょう。」

236.次にクセルクセスの弟で海軍総督のアカイメネスが口を開いた。かれはたまたま二人の会話に同席していて、王がデマラトスの助言に説き伏せられるのではないかと危惧したのだ。「王に申し上げる。みどもの見るところ、お上は、王の幸運を妬み、あるいは王の企てに反逆さえ考えているやもしれぬ者の言説に耳を傾けておられる。かくの如きやり方は、ギリシャ人の常套手段にござる。かれらは他人の成功を妬み、権力を嫌う性向があるによって。」

「王の配下の船団から四百隻が難破するという、ごく最近の惨事があったところへ、さらに三百隻をペロポネソスに回すとなると、王の敵は互角に戦うことになりましょう。一方で船隊を一体化しておけば、これは無敵となり、敵は太刀打ちできませぬ。その上、陸軍と海軍が共に進軍すれば、互いに助け合うこともできまする。ところが、船隊を分割すると、陸軍から海軍への支援も、その逆の支援も不可能となり申す。」

「みどもの進言は王ご自身の企てを思ってのこと。敵がどこの戦場を選ぶか、どのように戦うか、軍勢はどれほどかなど、敵国の事情にはお構い遊ばすな。あちらはあちら、こちらはこちらで考えればよいこと。スパルタ人に関しては、ペルシア軍と戦うことになろうとも、つい最前の戦力喪失を補うことはできますまい。」

237.クセルクセスが答える。「アカイメネスよ、そなたの言うこと、申し分なし。予はそなたの助言に従がおうぞ。デマラトスよりはそなたの方が上策ではあるが、かれは予のために最善と思う策を具申したのじゃ。」

「そなたは、この男が予の企てに悪意を持っておると言うが、予は毫(ごう)もそう思わぬ。それは、これまでのかれの言説と次の理屈から判ることじゃ。すなわち、ある街の人間が成功すると同じ街の別の人間はそれを妬み、沈黙することで憎しみを表すのだ。高潔な人間は限られるゆえ、それは別として、同じ街の者から助言を求められた時には、最善の助言をする者など皆無であるということじゃ。」

「ところが親密な交友のある他国人同士の場合、一方の成功者から求められると、他方は最善の助言を与えようとするもの。そこでじゃ、デマラトスを貶(おとし)める言説は以後すべて控えることを、そなたに命じておく。この男は異国人で、かつ予の客人であるゆえな。」

238.このようにクセルクセスは言い、ある遺体の横たわる場所に通りがかった。それがスパルタ王のレオニダスであり、ギリシャ軍の司令官であることを知らされるや、その首をはねてさらし首にせよと命じた。

あまたの根拠の中でも、私にはこの事実によって次のことがはっきり判る。すなわちクセルクセスは生前のレオニダスに対して他の誰よりも大きな怒りを抱いていたのだ。さもなければ、かれの遺体に暴虐の限りをつくすようなことはしなかったはずである。私の知る限り、全人類の中でもペルシア人は、戦場での勇者には最高の栄誉を持って遇する習いがあるのに。そして命ぜられた者は、その通りに実行したのであった。

239.さてここで、わが探求譚の前の方で書き残していた話題に戻ろう(118)。ペルシア王が、ギリシャ攻略に着手することを最初に知ったのは、スパルタ人だった。これを知って彼らはデルフォイに神託を求めたのだが、その託宣については本巻の少し前で述べている。ただ、その託宣を受けたときの様子がふしぎだった。
(118)本巻220節において、スパルタはクセルクセスのギリシャ進攻のことをいち早く知っていたとヘロドトスは書いている。本節はその話の完結部。

それにはこのような経緯(いきさつ)がある。私の見るところ、またこの考えを示唆する事実から察するに、ペルシアへの亡命者アリストンの子デマラトスは、ギリシャ人に悪意を抱いていたはずなのだが。次のようなかれの行動は、はたして善意によるものか、はたまた悪意のある勝ち誇りであろうか、と思いを巡らせてしまうのだ。それは、クセルクセスがギリシャへの進攻を決断したとき、当時スーサにいたデマラトスはこれを知り、スパルタにこのことを知らせる伝言を送ろうとしたことである。

しかしかれはことの発覚を怖れ、唯一次のような巧妙な手段をとった。まず折りたたみの書字板を用意し、表面の蝋を削りとり、木の面に王の企てを書きつけた。つぎに溶かした蝋をその上に塗りつけ、無地の書字板に見えるようした。こうして街道の監督官に怪しまれないようにしたのだ。

書字板がスパルタに届くと、スパルタ人はその意味を解しかねた。そして私が聞いたところでは、ついにレオニダス夫人でクレオメネスの娘ゴルゴが、みずからその仕掛けに気がつき、蝋を削りとるよう指図して、木の面に書かれた伝言を見つけた。この伝言を読んだスパルタ人は、すぐさま全てのギリシャ諸国にその伝言を送ったという。以上、かくのごとき話が伝えられている。

ヘロドトス:歴史へ、  Chiropractic in Japan:表紙へ
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