一図書館員から見た日本

専門職の問題

このところ続けて専門職としての司書の悪行についてのメールをいただき、あれこれ考え、これを書くことにした。

多くの自治体は五年に一度くらいで職員を異動させている。希望を尋ねたりもしているが、ずっと同じ部署にいたい、そこが私に向いている、と言っても異動はある。同じ所に長いこといると沢山ある役所のほかの仕事を覚えられないから、とか、新しい空気が入らないから、といったようなことらしい。私が市民課日記の冒頭に激しいことを書いているためか、お前にはそんなに専門性があるのか、といったたぐいの質問をいただいたりする。高い専門性を維持しようと思わねば、別にどんな生活をしていたっていいのであるが、目指そうとするところがより高次であれば、大きな理由もなく専門性を奪われることに憤るのは当然である。最近はそうした熱が醒めつつあるのだが、6年前には、私が図書館で働けば、世の中を少しはましにできるのではないか、と考えていた。市民課へ異動したとき、図書館で同じ仕事をしていると楽だろ、と言われたり、飽きないのか、と言われたりした。ちっとも楽ではないし、飽きもしなかった。司書の仕事に関して言えば、本は一冊ずつ全部違っていて、それは人間と同じようなものであり、やってくる利用者もすべて一人ずつ違っていて、日に何百人という人、何百冊という本と接するのであるから退屈する暇などなかったのだ。専門職のなかにはルーティンの仕事ばかりで、人と接することもなく、身につけてしまえば楽で、いずれ飽きてしまうといった種類のものもあるようである。司書の仕事はそうではない。楽をしたいがために、とか、位置を守るためだけに内容もないくせに「私は専門職である。専門職でないお前に何がわかる」と威張る司書、というのも存在するだろう。専門職であることにあぐらをかくのはいいはずがないし、楽だから同じ仕事にずっと就いていたい、と考えるひとをそこから引き離すのは悪いことではない、と私も思う。でも、図書館に限らず、その課の、ひいては町の質を高めてゆきたいと考え、実績も作り、ずっと変わらずそこで働きたい、と思ってるひとを動かすのは自治体にとって良いことなのだろうか。楽をしたくて異動は厭だ、と言ってるひとと、熱心に働いて、より高い内容の仕事をしたいと考えているひとを同一に扱って良いのだろうか。外国では本人が異動を希望をするか、そこでの仕事に向いていない、と判断された場合以外部署を動かないケースが多いと聞く。日本では役所だけでなく、会社でも異動が定期的に行われている。

市民にとってどっちが良いのであろう。どっちでもいい場合も多々あろう。けれども例えば市民課職員がいちどきに沢山異動しちゃったとしたら、四月、ややこしい戸籍をもらいたいひとが十人やってきた場合、簡単に戸籍が出てこなければ間違いなく迷惑であるが、そうした事例もあり得ないとは言えない。職場の雰囲気を変えるため、空気を入れ換えるため、といった異動はどうなのだろう。異動は定期的に大がかりに毎年行われるものだ。だって、それは昔から決まってるし、どこの町だってそうだから、との理由でずっとされてきて、なかにいるひともそれが当然、と考えているから続いているのだけれど、それは果たして正しいのだろうか。

だから司書だって学芸員だって医師だって異動が必要、と、それだけが理由で異動しているとしたら、つまらない話である。逆に、本当に図書館活動が停滞しているから司書を動かすべきであるが、専門職制を敷いているから簡単に異動させることができない、という町もあるだろう。また、司書のなかにも、トータルな自治体の状況を学びたいから一度ほかの課で働きたい、と望む司書だっている。そうした場合、システムの問題だからと異動させないでいることには問題がある。

○○は××である。それはそうに決まっている。といった話ほど宛てにならぬことはない、と思う。「司書は専門バカで役所の仕事を知らないし、知ろうともしない」とか「一般行政職は司書の仕事はわかろうとしないし、わかりもしない」とか。先入観が邪魔をしているのはどうかと思う。と、書くのは、先入観だらけのメールを時折いただくのである。世の中にはいろいろな町があり、いろいろな人がいる。出鱈目な図書館はいっぱいあるし、どうにもならない「司書」と名乗る人も確かに存在する。でも、それはその「司書」であり、世の中の司書すべてではない。「石頭の一般行政職」というのも多分いるが、一般行政職すべてが石頭ではない。「役人」はみな税金泥棒である、と考えるひとも多いが、税金泥棒でない役人のほうがずっと多い。ひとつのことを見ただけではすべてはわからないし、たくさん見たって見えないひとには見えない。などと書いても、それは私のことではない、私の勤める図書館ではない、と考えたあなた、それはどうかな。もちろん、そう書いている私も怪しいし、私の働く職場についても常に疑っていないといけないのではあるが。 いぬふぐり庵日乗の 2004年10月3日に「司書」と名乗るだけの司書について書いたところ、「よく書いてくれた」と言ったひとがいた。専門職ばかりがいるためにまずい状態になっているケースをご存知なであろう。自覚して正すか、誰かが直す必要がある図書館は存在する。良い図書館が増え、立派な市民がいっぱいになるのは決して悪いことではない。そのために何を為すべきか、たまには立ち止まって考えるのも良いのではなかろうか。

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