一図書館員から見た日本

知の自由の問題

知りたい事柄がある本に載っている。が、その本が絶版で古本屋を何軒回っても見つからない。だがどうしても読みたい。こういう場合どうすれば読めるか。図書館へ行けば良い、と言い切りたいところである。図書館でなんとかしなければこういった本を普通の人が読む手段はまるでないのであり、その為に図書館はあるのだ、と断言できなければいけないはずなのである。絶版の図書のリクエストを受け、それが自館にない場合、県立図書館や他市の大きな図書館などに所蔵調査を依頼し、それでもなければ、国立国会図書館から借りる。郵送料の規定は、片道負担、往復負担、館によってまちまちである。この郵送料の予算を沢山とれない館が少なからずある。愛知県図書館は相互貸借用の交換箱を県の予算でまわしてくれるので問題がないのだが、国立国会図書館からの借受の場合、往復の書留料金を負担することになる。なかには利用者から徴収している館もある。予算査定などで、「よそから本を借りてまで利用者に貸さないといけないのか。ほかの図書館も皆そうしているのか。サービスのしすぎではないのか」と質問されることがある。ほかの図書館が皆している、と言い切れないあたりが困ったことである。なんと貧しい文化状況であろうか。

他館から借りない館というのはないかもしれない。だが、利用者から、「この本はありませんか」と訊かれ、「ありません」とだけ答える館は多いのではあるまいか。「ここにはありませんが、他館から借りることができます」と言うと、「いえ、そこまでしていただいては申し訳ない」とおっしゃる利用者のなんと多いことか。相互貸借は一般利用者にまだほとんど浸透していない。「読みたい本を読むことができる」「知りたいことを知ることができる」それだけのことが多くの図書館でまだ保証されていない、と私は思う。私の勤務している図書館はなんとかこの水準までは来た。ここからしかことははじまらないと思う。が、しかし、油断はまったくできない。上層部がもしも滅茶苦茶な人だらけになったら、「サービスのしすぎだ」と通信費を削られ、知の自由の保証など簡単に吹き飛ぶのである。

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