島根県の玩具 |
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いよいよ本州も島根県で最後となった。この国の郷土玩具を語るには、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を忘れてはならないだろう。明治期に英語教師として松江中学へ赴任したハーンは、当時の松江の姿を生き生きと描いている。彼は祭りの縁日で売られる玩具にもたいへん興味を持ったようで、「杵築雑記」(1)のなかでは、竹とんぼ、巫女の錫鈴や神主の冠の雛形、小さな太鼓、おたふくの面、尾を引くと紐を駆け登る猿、弾き猿、狐や狸の目捲り出し、知恵の板、鋸を手にした木挽き人形、力士の起き上がり、頭をたたくとキャンキャン鳴く狆、竹に張った糸にぶら下がる軽業師、底を押すと小鳥が啼く鳥籠、笛を吹くと回る風車など、実にさまざまな小物玩具を値段とともに詳しく描写した。そして、「こういう玩具の中でわたしが最も美しいと思ったのは、“おひなさん”あるいは“べっぴん”ともいう小さな人形であった」と述べて松江の姉様人形を礼賛し、のちに故国の大英博物館へも寄贈している。現在ではお下げ(おかっぱ)、桃割れ、島田の三体一組で市販されている。高さ13p。(H27.6.28)
ハーンはまた、「安かろう悪かろうで、じきに壊れるような玩具であるが、中にはなかなか美しい暗示性に富んだものがある。(中略)いやしくも日本を愛し、日本を知っている人なら、パリの玩具製造者が頭をひねってこしらえた高価な玩具などよりも、こうした安玩具の方に、遥かに汲めども尽きない面白味を覚えるだろう」とも述べる(1)。ヘギ板で作るお宮もまたハーンの興味を引いた玩具の一つであった。扉は観音開きになり、子供たちは小さな土天神を入れて遊んだ。しかし、女の子の姉様遊び、男の子の天神遊びもせいぜい明治期までであったという。ここでは内に福徳人形(富山04)の天神を飾ってみた。高さ14p。(H27.6.28)
ラフカディオ・ハーンの来日百年を記念し、松江市の小泉八雲記念館が複製し販売した立版古(たてはんこ)。ハーンの孫である小泉時が、祖母や父から聞いた話が栞になっている。それによると「明治から大正初期、東京西大久保の家にはよく絵草紙屋が出入りしており、売り物の中にはこのような子供向け組み立て玩具もあった。ハーンはこのお化け行燈がいたく気に入り、いつも書斎に飾っていた」という。紙で出来た行燈には、怪しい化け物が物陰から現れるように仕掛けがしてある。立版古(立版行、たてばんこ)とは、浮世絵版画のおもちゃ絵の一種で、予め人物や家屋などが描かれた錦絵を切り抜き、糊で張り合わせて立体的な風景や舞台を組み立てるもの。正しくは切組灯籠や組上げ灯籠と呼び、もともとはお盆の供養に作られる灯籠が玩具化したものである(2)。現代でいえば、差し詰めペーパークラフトか飛び出す絵本だろう。高さ15p。(H27.6.28)
もともと安来節と泥鰌掬い(どじょうすくい)は関係がなかったらしい。唄と踊りのリズムがうまくマッチして、いつの間にか座興で付きものになったという。安来節の前身は“出雲節”で、一地方の俗謡にすぎなかったが、大正年間に渡辺佐兵衛とその娘が安来節と称し、浅草で唄ってから全国的に大流行した。一方の泥鰌掬いだが、座敷舞である“雑魚掬い”同様、豊漁を祈る祈祷舞に由来するという説や、笊(ざる)を使って砂鉄を選別する“土壌掬い”を起源とする説がある。因みに、安来は古代から鉄の精錬が盛んであった。泥鰌掬い人形は、細い篠竹の管(くだ)の中を通した糸を引くと両腕が動く“管人形”(愛知05、京都13)。ヨゴレ役のヒョットコが「あら、エッサッサ〜」と笊で泥鰌を捕まえる仕草をする。高さ28p。(H27.6.28)
中国地方では雛の節句に、初節句を迎えた男の子には天神人形(雛天神)を贈る風習があった。特に出雲から伯耆(鳥取県)、丹波(兵庫県北)、美作(岡山県北)にかけては生泥製の天神が多く、泥天神と呼ばれる(岡山18)。また、天神の胸には三階松が描かれ、白仕立ての“白天神”であることが多いのも共通した特徴である(3)。出雲土天神は立派な島台(台座)に据えられ、大型で風格のある出来映えから天神人形の白眉とされたが、雛天神の風習が廃れるとともに製作されなくなり、今ではこのような観光土産用の土天神があるのみである。高さ8〜9p。(H27.6.28)
今市では本格的な出雲土天神こそ途絶えたが、五色天神や立ち天神、各種風俗人形の製作を通し、土人形の伝統は生き続けている。人形は土焼きで、全体にわたって丁寧に胡粉を掛け、磨き出しを繰り返して、きめ細かな美しい地肌に仕上げるのが特徴である。この立ち天神(高さ43p)は、とりわけ本磨きの顔に気品があり、赤い束帯に身を包み、手に笏を持ち、腰には太刀を佩いて威儀を正す颯爽とした姿は、絶頂期の道真公は斯くあらんと思わせる出来である。今市土人形の作者も、現在では出雲張子虎(虎02)を制作する高橋家のみとなった。同家の天神人形には、ほかに土人形から型を取った張子の牛乗り天神(牛08)がある。(H27.6.28)
高橋家の初代は伏見で修業したので、今市土人形にはその影響が見られる一方、古博多人形などの類型もあり、合わせて30種ほどが作られている。しかし、最近は張子の製作に忙しいためか、土人形のほうは寡作である。このように丁寧な作りは今や貴重であり、いつまでも続いて欲しい土人形だ。馬曳き武者の高さ30p、羽子板持ち娘は26p。(H27.6.28)
出雲大社の祭神・大国主命(わが国では大黒天とされる)は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)から何度も無理難題を言われ、そのたびに須勢理姫(すせりひめ)や鼠の助けで難を逃れる。神話でお馴染みの話だが、出雲では大黒天の使者である鼠(鼠05)を子(ね)と結び付け、甲子(きのえね)の日に甲子(かっし)祭を執り行い、大国主命に五穀豊穣を祈願する。写真左は出雲張子の福鼠。高橋家の干支張子は、年賀切手として真っ先に選ばれた虎(虎02)をはじめ、全種類が首振りである(牛06、蛇04)。右は桜江のおろち(龍09)同様、授産施設「四ツ葉福祉会」出身者が製作する首振りの牛と鶏。新作ではあるがユニークなデザインと丁寧な作りで、これからが期待される。福鼠の高さ7p。(H27.7.16)
出雲大社の禰宜(ねぎ)・千家国麿氏と高円宮家典子様のご結婚は、まだ耳に新しい。「鶴」と「亀」の字を象った縁起のよい凧の起源は、出雲大社の宮司職を千家、北島の両家が交互に務めていた明治以前にまでさかのぼる。「本殿の背後には中央に八重山、左に鶴山、右に亀山の三山があり、鶴山は千家家、亀山は北島家に属した。両家の縁者に男子が誕生すると、祝いに字紋の凧が揚げられたのが始まり。大きさには畳半畳から五畳ほどまであり、いくつも揚げて喧嘩もさせた」という(4)。祝凧の模様のなかにはいろいろな絵が隠されている。たとえば、右の亀凧には鳥居や鶴山、亀山、米二俵などが、左の鶴凧には八重山や木、翼を広げた鶴などが見て取れる。さらに目を凝らせば、右手に小槌を握り、左手で大袋を背負った大黒様まで隠れているというのだが、さてどうだろう。高さ42p。(H27.7.16)
盆とは、ご先祖様を“迎え火”で家にお迎えし、“送り火”であの世にお送りする行事であるが、どちらも灯りが重要な役目を果たしている。送り火の一形態として、蝋燭を灯した灯籠や供物を乗せた小舟を川や海へ流し、ご先祖を見送る“灯籠送り”や“精霊流し”の風習も各地でみられる。しかし、灯籠や舟を流す適当な川や海が無い土地では、代わりに灯籠や船に車を付けて町中を曳き回すこともある(灯玩01・02)。ここ大社でも車の付いた蒸気船(灯玩04)や鯛車が作られ、夏の風物詩となっている。現作者はかつて和傘作りを本業としていたが、洋傘に押されて、蒸気船や鯛車の製作や祝凧の復元のほうに手を染めるようになったとのこと(5)。竹ヒゴや細木で枠を作り、和紙を貼る仕事はお手の物だろう。高さ40p。(H27.7.16)
駅鈴は大化の改新で新しく設けられた駅制の遺品で、官吏の公務出張の際に朝廷より支給された。官吏は駅でこの鈴を鳴らし、駅子(人足)と駅馬または駅舟を徴用・徴発した。平安中期には姿を消してしまった駅鈴だが、後世、江戸中期の国学者、本居宣長が松平周防守から拝領した隠岐国造家伝来の駅鈴(オリジナルは銅製)の模鋳品ように、駅鈴を写した金属鈴は多数作られていたようである(6)。一方、駅鈴型土鈴が作られるようになるのは昭和初期の土鈴ブームからで、今では出雲や隠岐など島根県内ばかりでなく、三重県の松坂や四日市など各地で焼かれている。土鈴の二面には「駅」と「鈴」の文字の浮き出しがある。大きい鈴の高さ7p。(H27.7.16)
同じ島根県でも、東部の出雲と西部の石見は地続きでありながら、風俗、習慣に大きな違いがあり、土人形にもそれが認められる。天神の場合、出雲のものは泥人形で手足は差し込み、木製の台座に乗り、胸の模様が三階松で、袍(ほう、上衣)の色が赤または白なのに対し、石見(長浜)では台座と本体が一体の土焼きで、胸は梅鉢紋、袍の色は黒が多いという具合である。長浜天神の跳ね上がった袖、磨き上げられた顔と細く吊り上った眼などは、中国山地を挟んだ三次人形の天神(広島11)にも強く影響している。それもそのはずで、昔から長浜と三次とは江の川(ごうのかわ)の船運で結ばれていたし、そもそも三次人形は、石見の瓦職人が三次の宮の峡で土人形を作り始めたのが起こりといわれている(3)。右の高さ18p。(H27.7.16)
江戸時代、石見長浜は北前船の寄港地であり、交易の拠点として大いに栄えた。また、良質の土を産することから焼き物が盛んであり、江戸中期には土人形の生産も始まっている。長浜人形の特徴としては、粘土が薄くて軽いこと、衣装に細かい浮模様があることなどがあげられる(雛27)。海運を利用して販路も広く、西は長崎、東は佐渡、さらには山形にまで運ばれた。写真は歌舞伎を題材とした作品。左は「京鹿子娘道成寺」の四段目で、白拍子(実は清姫の化身)が中啓(扇)を持って舞う姿を象っている(高さ32p)。ちなみに、娘道成寺は七段目が花笠踊り(鳥取12)、八段目が鞨鼓(福島04)である。右は「義経千本桜」の狐忠信(高さ28p)。静御前をお護りして義経のもとへ無事送り届けた狐忠信は、自らの正体を告白して元の姿になる。静への忠誠心と親を慕う孝心の褒美として、義経は狐に“初音の鼓”と“源九郎狐の名”を与えると、狐は鼓を持って嬉しそうに舞うのである(7)。(H27.7.16)
石見神楽も磐戸、日本武、大蛇(おろち)など神話を題材とした演目が多く、出雲神楽の影響は明らかである。一方で、衣裳を金糸銀糸の極彩色にしたり、蛇胴(大蛇の胴体)を提灯式にして伸縮自在に動くようにしたり、新しい趣向も随所にみられる。面を張子製にしたのも工夫の一つだろう。張子は軽いため、踊り手の負担を減らす利点がある。材料の石州三隅和紙は、コウゾだけで漉く純粋の手漉き紙。面の表面はきめ細やかで艶があり、彫の深い精緻な出来映えはとても張子とは思えない。高さ30p。(H27.7.16)
石見神楽面と同じ作者による張子面。高価な神楽面とは違い、こちらは子供の小遣いでも買える値段である。左上から時計回りに、石見面、天狗、般若、小面。16p〜22p。(H27.7.16)
同じく動物の張子面。種類の説明は不要だろう。オモチャとはいえ、簡潔な筆さばきと色使いに作者の熟練した手業を感じる。16p〜22p。(H27.7.16)
山口県との県境にある城下町・津和野。この町の弥栄(やさか)神社は古くは祇園社と呼ばれ、京都祇園の八坂神社を当地に勧請したものである。夏祭りには雌雄の鷺の造り物を着けた二人が優雅に舞う「鷺舞」が披露される。もともと京都の祇園会で舞われていたものを移した。その後京都では滅びていたが、津和野から逆輸入し復活している。二羽の白鷺が大きな半円形の白い翼を広げるたびにカサリ、カサリという乾いた音が響き、祭りを引き締める(8)。衣裳の羽根は薄い木製だが、鷺舞人形では細く削った竹をプレス機で薄く延ばし、一枚一枚ピンセットで糊付けしてある(5)。手の込んだ人形だけに壊れやすく、写真では羽根の一部が欠けている。高さ15p。(H27.7.16)
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