夜半。
出立を明朝に控えて寝付けずにいたオイフェの下に客が現れたのは、臥待月が空に顔を覗かせた頃のことだった。
「……シャナン様?」
酒瓶を手にした仏頂面の青年を闇の中に見出して、オイフェは驚いた。彼がこんな深夜に現れることも珍しいが、持っているものはもっと驚きだ。二人とも酒を嗜む年齢には当に達していたが、誘うのはいつもオイフェからでシャナンが言い出すことはめったになかった。
「珍しいですね」
「どうせ眠れんのだろう。少しくらい付き合え」
声まで不機嫌にそう言って、シャナンはずかずかと部屋に上がりこんだ。床にあった出立の荷物を脇によけてどっかりと座り込む彼を見て、オイフェは小さく笑った。
「何だ、オイフェ」
「いいえ……人間とは年はとっても本質的には変わらないものだ、と思っただけですよ」
丁寧な口調にシャナンが眉をしかめて注釈をつける。
「二人きりの時に他人行儀な言葉遣いはよせと言ったはずだぞ。貴様、何が言いたい?」
「……いや、やめておきましょう。出立前に刀の錆にされてはかないませんから」
「……ぐだぐだ言うとやらんぞ」
ぶすっとして酒瓶を持ち上げるシャナンに再び苦笑して、オイフェは彼の正面に座りなおした。
無言のままグラスに酒を注いで突き出され、ありがたく受け取る。ぐい、とあおると果実酒の甘い香りが喉の奥に広がった。
「いい酒だな。何年ものだ?」
言葉遣いが直ったことに気をよくしたか、シャナンが素直に答える。
「ラベルがはがれていてわからんが年代ものらしいな。保存も悪くない。街を歩いていたら酒屋の主人がくれたんだ。売り物にならんから、とな」
「ただ酒か?悪党だな」
にやり、と笑う。端正な貌がわずかにしかめられた。
「人聞きの悪いことを言うな。善行の結果だぞ」
「何をしたんだ?」
「店をうろついてた酔っ払いをたたき出してやった」
今度こそ堪えきれずに吹き出したオイフェをじろりと見やる。
「……やらんぞ」
「いや、すまん。あまりにもらしくて……っくくっ……」
なおも笑いを堪えられないオイフェにシャナンはむすっとする。
「力が余っているとでも言いたいんだろう、どうせ」
「違うのか?」
目を細めて見つめる。グラスを見つめながら、シャナンは静かに答えた。
「……違わないな。ずっとこの時を待っていたんだ。張り切らない方がどうかしている」
「そうだな」
静かに頷いて、オイフェはグラスをあおった。
「……長かったな」
「ああ。みんな大人になった……」
「どんどん親に似てくる。セリスの奴、男のくせに面影はディアドラにそっくりだ」
少しだけ陰の滲んだ声には気づかなかったふりをして、苦笑する。
「あまり言うなよ。気にしておられるようだからな。それに……あの方のご気性はシグルド様にそっくりだよ」
「……そうだな」
沈黙が降りる。そのまま二人はしばし過去を懐かしんだ。
やがて、グラスを手の中でもてあそびながらシャナンが呟いた。
「今だから言えることだが……俺は、おまえをずいぶん恨んだんだぞ」
「だろうな」
首肯したオイフェに、シャナンが眉を上げる。
「……気づいていたのか?」
「目を見ればな。おまえは正直だからわかりやすかった」
すまして答えると、彼は苦笑した。
「……若かったからな。隠すことを知らなかったのさ」
「子供とはそういうものだ」
「ああ。……あの頃は焦っていたからな……役に立ちたいのに何もさせてくれないおまえが逆恨みとわかっていても憎くて仕方がなかった」
逃亡の日々。オイフェはシャナンが戦場に出ることをなかなか許さなかった。このオードの後継者は剣の力はとうに自分を超えていた。それがわかっていても、なかなか踏ん切りをつけることができなかった。怒りに突き動かされ限界を忘れることの恐ろしさが身にしみていたからだ。彼は時折絞め殺しそうな表情で自分を睨んでいた。
「無鉄砲はオードの血筋だな。アイラ殿もそうだったが、おまえは輪をかけてひどい」
「そう言ってくれるな。私は……守りたかったんだ。自分の手で、すべてを」
守りたいものは、たくさんあった。
自分のために傷つきつづけた叔母。落ち着く場所を求めさ迷っていた自分たちを穏やかな笑顔で救い上げてくれた青い髪の指揮官。その人の隣にいつも寄り添っていた銀の髪の儚げな佳人。二人が残した大切な一粒種……
でも、時の流れは残酷だった。自分が強くなるのを待ってなどくれなかった。大切なものを奪い去るたびにこの心に深い爪あとを残していった。
無力な自分を何度呪ったことだろう。神器継承者の証だという聖痕を抉り取りたくなったことも一再ではない。神器を持たぬ継承者に何の意味があるのか、と。
バルムンクがあれば。そう、思っていた。あの頃は。
「……悪かったとは思っているよ」
そう呟いたオイフェに、シャナンは小さく笑って言った。
「いや、今ならわかる。おまえが正しかったんだ。……憎しみのままに剣を握っていれば、俺は力に溺れて悪鬼と化していただろう」
酒を注ぎなおし、また笑う。
「あの子らに剣を教えているとよくわかる。おまえはやっぱりすごいな」
つられて笑い返したオイフェは、うつむいて呟いた。
「そんなたいそうなものじゃない……おまえは私と同じだったんだ」
「……オイフェ?」
「私もシグルド様の役に立ちたかった。いつまでたっても戦場に出してくださらないあの方を恨みもした。同じ年のフィンやデューはとうに戦っていると言うのに、何もできない自分が悔しくて……私は、未熟だったんだ。シグルド様の想いにも、この手で人の命を奪う意味にも、気がつかなかった……」
「おまえ……」
「同じ思いをさせたくなかった。おまえにも……彼らにも」
初めて他人の命を奪った夜のことは記憶に埋もれてしまった。
同時に味わった喪失の痛みが大きすぎて。気がつけば、他者の命を奪うことにためらいや痛痒を覚えない自分がそこにいた。
血まみれの手に気づいてぞっとした。誰にも、同じ轍を踏ませたくはない。他人の痛みを知らぬ者に新しい世を作ることなどできないのだから。
「だから……私のようにはなるなよ」
そう言って酒をあおるオイフェを、シャナンはじっと見ていた。
「……似合わんな」
「?」
眉を寄せるオイフェに、シャナンは肩をすくめて見せる。
「偽悪ぶってもおまえには似合わん。やめておけ。レヴィン殿にも言われただろう」
反乱の下準備のために世界を飛び回っているシレジアの王はこのティルナノグにもよく顔を出す。彼はオイフェを称してよく「シグルドそっくりの善人肌」だと言った。それについてはシャナンも同感である。記憶にある限りこのオイフェという男は実にまじめで責任感が強く、約を違えたことはもちろん人に恥じる行為など一つもないと断言できるほどに篤実な人柄であったから。悪ぶったところでそうは見えないんだから無駄なことはやめておけ、とまで言われて渋い顔をしたものだった。
オイフェは苦笑した。
「他に適任はおらん。戦争に影の部分はつきものだし、表に立つ人間が手をつけるべきことじゃない。それに……レヴィン王もおまえも、一つ勘違いをしている」
「勘違い?」
「そうだ。私は善人などではない。自分の望みのためには何でも犠牲にできる人間だ」
苦く、苦笑する。
「オイフェ……それは」
「おまえも知っているだろう。私は……仕えるべきお方からすべてを奪ったんだ。ぬくもりも、優しい思い出も、何もかもを……ただ復讐のためだけに」
違う、と言いたかった。だが、有無を言わせぬ力がその声にはあった。
「……私は、許されざる者なのだよ」
痛みに麻痺した記憶を探れば、その日は今も鮮やかに脳裏に甦る。
イザークでの生活は逃亡の日々でもあった。
この地を支配するドズル家の追及は執拗で、二、三ヶ月に一度は拠点を変えねば追跡の手を交わすのは容易ではなかった。そのたびに自分たちをかばい倒れてゆくイザークの人々の姿は彼らの心を深く抉った。何より、物心ついたばかりの子供たちにそんな残酷な光景を見せねばならないことがつらかった。
北方の小さな寒村に一時的に落ち着いていた彼らのもとに客人が現れたのは、逃亡生活が三年目を迎えたある日のことだった。
「オイフェ、シャナン、久しぶり!」
変わらない元気な挨拶と共に現れたその人物に、二人はひどく驚いた。
「デュー!?」
「おまえ、生きて……!」
「やだな、幽霊じゃないよ。ほら、ちゃんと足もあるしさ。元気だった?」
濃い蜂蜜色の頭髪にどう見ても十代にしか見えない童顔。おちゃらけた物言いまでもが懐かしい。二人は駆けより、かつての仲間と固い握手を交わした。
「ほんとに……よく生き延びたな。バーハラの件は……」
「うん……おいらは途中で軍を離れたから無事だったんだ。今はレヴィンさんに言われていろいろ動いてるとこ」
「レヴィン?シレジアのレヴィン王子か?あの方も無事だったのか!」
「詳しくはあとで話すよ。今日は届け物を持ってきたんだ。……エーディンさんは?」
「奥の間におられるよ。ラナがまた熱を出していてな……」
「ラナ、って……あの時お腹にいた赤ん坊かい?」
「ああ。ミデェール殿の忘れ形見だ」
夫や同朋の死に衝撃を受けたエーディンは、ひどい難産の末に八ヶ月に満たぬままに第二子を産み落とした。流産寸前の状況からやっと生まれ出た子は五体が満足であった代わりにひどい虚弱体質で、これまでも何度も生命の危機を迎えている。ラナと名づけたその娘を、彼女は失った夫の代わりに大切に守り育てていた。
デューの面を一瞬苦渋の色がよぎる。それを押し隠すように、彼は小さく笑った。
「……じゃあ、早く渡してあげないとね」
その横顔にはかつては見られなかった大人びた影があった。
そのデューも、エーディンの姿を一目見た時はさすがに凍りついた。あの見事な黄金の髪がくすんだ灰色に染まっていたのだ。無理もない。
「エーディン……さん……?」
震える声に振り返ったエーディンが、久しぶりに華やいだ笑顔を見せた。
「まあ、デュー!?本当にあなたなの?よく無事で……!」
駆け寄るなり、我が子にするように両手を広げて抱きしめる。そのしぐさにデューはてれたように頭を掻いた。
「エーディンさん、おいらのことまだ子供だと思ってるでしょ」
「あら……ふふ、ごめんなさいね。つい昔のクセで……ああ、でも本当によく……」
声を震わせて、エーディンが涙ぐむ。もらい泣きしかけたデューが慌てて荷物を探った。
「あ……今日は届け物をしに来たんだ。まだちょっと見るのはつらいかも知んないけど……手元にあったほうがいいと思って」
少しのためらいのあと。デューは、引っ張り出したそれをエーディンに差し出した。
「これは……!」
一目見るなり、彼女は目を見張った。覗き込んだオイフェとシャナンも息を呑む。
それは、弓だった。黒ずんで所々に染みが残ってはいるが、元は凝った造作だったことが窺い知れる。変わり果てたそれは、確かに彼女がシレジアで夫に贈ったものに間違いなかった。
「……バーハラで見つけてきたんだ。優しい人だったから……きっと最期まで手放さなかったんだよ」
「……ミデェール……!」
震える手で弓を受け取ったエーディンが泣き崩れる。その悲痛な姿に、かける言葉がない。声を失ったように黙り込んだ彼らは無言のまま部屋を出た。
「……少しは慣れたつもりだったけど……やっぱたまんないなあ、こういうのはさ」
ぐしゃぐしゃと頭を掻いてデューが呟く。シャナンも唇をかみしめてうつむいている。ただ一人黙視していたオイフェが、やがて口を開いた。
「……デュー。レヴィン殿は、なんと……?」
冷静に、一種冷たくも響いたその声に、デューはかすかに息を呑んだようだった。やがて、表情を改めて答える。
「雌伏せよ、と」
「それは、決起の時を待てという意味か?」
「そうだよ。反乱は、成功しなきゃ意味がない。準備はレヴィンさんがやる。連絡役はおいらに任せてくれればいい。オイフェたちは子供たちを守りながら時を待ってくれ」
「待てよ、じゃあそれまでドズル家の横暴を黙って見てろって言うのか!?」
語気も荒くシャナンが叫ぶ。イザークを蹂躙しつづけるドズル家への憎しみは恐らく彼が一番深いに違いなかった。オイフェは、静かに遮った。
「落ち着け、シャナン」
「オイフェ!!」
「レヴィン殿の言うとおりだ。今は……時を待とう。打って出ても無駄死にするなら意味はない。セリス様を……子供たちを守るのが先だ」
氷のように冷たく冷静な声だった。興奮に冷水を浴びせられたシャナンは黙り込んだ。
「連絡手段はどうする?我々は移動しつづけねばならんぞ」
「おいらが何とかするよ。盗賊の情報網はみんなが思ってるよりずっと確実なんだ」
「わかった、頼む。詳しくは向こうで……」
「ああ」
部屋を移動した彼らは、その日の深夜まで話し込んだのだった。
そして、セリスが10歳の誕生日を迎える前夜。オイフェは、たった一人でセリスの寝室を訪ねたのである。
「失礼いたします」
改まった声に何事かと扉を開けたセリスは、オイフェの姿を認めて首をかしげた。
「……オイフェ?どうしたの、その格好……」
セリスが訝るのも無理はない。その時のオイフェのいでたちは深夜にあるまじきものだった。
白銀の甲冑。白いマント。腰には銀の剣を下げ、表情を消した姿は昔語りに聞く騎士の姿そのままで。幼いセリスが知るはずもないが、これらはリューベック城を立つ前に正式に騎士の叙勲を受けた際に授けられたものだった。
「セリス様……大切なお話があります。聞いていただけますか?」
有無を言わせぬ調子に、幼い少年は押されるように頷いた。
部屋に入り、ベッドに座り込んだセリスの前にオイフェは静かに膝をついた。流れるような動作の中にかすかに金属音が響く。
「明日であなたも10歳……分別のつく年におなりです。私は、あなたにすべてをお話せねばなりません。あなたにお仕えする騎士として」
「え……?」
目を見開く少年に、オイフェは静かに告げた。まだ早すぎると知った上で、残酷な真実を。
「あなたはシアルフィ家公子シグルド様とその妻であるグランベル皇女ディアドラ様の間にお生まれになりました。その御身には聖戦士バルドと聖者ヘイムの血が流れておいでです」
「……!」
「あなたは、立ち上がらねばなりません。母君ディアドラ様を誑かし、父君シグルド様を逆賊に貶め謀殺したあの悪魔のような男を……皇帝アルヴィスを倒すために」
言葉を切り、顔を上げる。声もない少年の姿がそこにあった。無理もない。
残酷なことをしている。自覚はある。わずか10歳にならんとする少年を追いつめ一生を左右するであろう道を選ばせるなどそれこそ悪魔の所業だ。
それでも、やめる気はない。覚えるべき良心の痛みもとうに麻痺してしまった。
「私は……お父上の元で軍師をしておりました。お父上の戦いのすべてをこの目で見届けてまいりました。それらのすべてをあなたにお話することが使命と考えております」
セリスが小さく首を振る。聞きたくない、とでも言うように。それでも、やめない。
「お父上の下にはたくさんのすばらしい味方がおりました。それぞれに類稀な戦士であり、勇者でした。スカサハも、ラクチェも……レスターも、デルムッドも、ラナも、みながその味方の子供たちなのです。あなたは彼らの将となり、彼らを率いて戦うことになるでしょう」
それはつまり、対等の立場に立つ者がいなくなるということだ。友が友でなくなる。恐ろしいほどの喪失感に、セリスの身体が震え始める。
「みなには明日エーディン様より伝えていただくことになっておりますが……その前に、あなたにだけは先に知っておいてほしかったのです……真実を」
涙をためたすがるような眼差しが突き刺さる。
一瞬目を閉じて。オイフェは、告げた。
「……私はあなたの騎士です。この身も、この命も、私のすべてはあなたと共にあります。歩む道がどれほど困難を極めようと、私があなたの下を離れることはありません。天地身命すべてを賭けてあなたに忠誠を誓います」
それは、心からの誓いだった。聖句を唱えずとも、今日この日に初めて自分は騎士となる。守るべき存在を得て。
腰に佩いていた銀の剣を取り上げ、刃にくちづけて。両手を差し伸べて捧げる。
「この剣を……お納めください。お父上が使っていたものです」
ぎくしゃくと伸びた小さな手が剣を受け取る。
「オイフェ……僕は……」
やっと発せられた声は、震えていた。
「泣くのは今夜限りになさいませ。私は、何も見なかったことにいたしますゆえ」
ふらり、と立ち上がった小さな身体が歩み寄ってくる。手を広げ、冷たい甲冑に覆われていない唯一の部分である頭を抱きしめる。
「僕は……っ」
言葉は嗚咽にまぎれて消えた。
首にすがり、声を殺して泣くセリスを、オイフェはそっと抱きしめた。
まだもっと幼かった頃。父母を求めて泣くセリスをよくこうして抱きしめあやしていた。さほど遠くもない過去が今こんなにも懐かしく思い出されるのは、それが二度と戻ってこないと知っているからだ。
何も知らずに一生を終えるほうがこの少年にとってどれほど幸せだったろう。二度と戻ってこない日々に思いをはせるオイフェの頬を、涙が一筋伝って落ちた。
その日、罪は涙と共に彼の心深くに刻まれたのだ。
「―――私は許されざる者なのだよ」
繰り返したオイフェを、シャナンはじっと見つめる。
彼自身はきっと気づくことはないのだろう。罪とは、自らの犯した所業に気づかぬことだ。自らのなしたことも、その功悪もすべてを呑み込み受け止める彼は、罪人などではない。だからこそ、天も彼を聖騎士として認めたもうたのだろうから。
だが、それがたとえ真実だったとしてもオイフェにとって意味のあることではないのだ。彼は自分を罪人だと言う。だが許しを乞うてはいない。すべてを背負い、それでもなお歩もうとしている。それがあたかも主君の最期を見とれなかったことへの罪滅ぼしであるかのように。
シャナンは自身を振り返る。自分は……どうだろう。セリスから母を奪った罪を、背負いつづけていけるだろうか。
答えを見つけられないまま、彼はまた酒盃をあおる。
しばらく二人は無言のままだった。やがて、窓の外を見やったオイフェが呟いた。
「……ああ、もう夜明けか」
東の空が明るくなり始めていた。かつては絶望の底で見つめた朝日を穏やかに眺める。
「朝がまた来る、か……」
「……そうだな。夜の闇がどれだけ深くても、朝は必ず来る」
小さく笑んで、シャナンがグラスを持ち上げる。
「―――ユグドラルに平和を」
「絶望の大地に希望の朝を」
オイフェが応じる。口元だけで笑みをかわし、二人はグラスをぶつけた。
オイフェたちの出立から半月後、「神剣バルムンクはイードにあり」との報を受けてシャナンもまたこの地を旅立つことになる。
このティルナノグがついにドズル軍に発見され、決戦の火蓋が切って落とされるのはそのさらに一月後のことだ。
運命の歯車は、音を立てて回り始めた。
時に、グラン歴777年――――