第一章      第二章      第三章      第四章      あとがき
 願いは、たったひとつだった。
 それが叶えられることは永久にないと、知らされたあの日に心は死んだ。
 生ける屍と化したこの身を突き動かすのは、ただ復讐の一念のみ。
 それが罪だというのなら、昂然と胸を張って受けてみせよう。
 罪など―――救うべき人を救い賜わぬ天に示されたとて何の咎があるだろう。
 だから、天には祈らない。祈るべきはただ天に召された敬愛すべき人々のみ。
 裁きを乞うべきは、自分の怨念に巻き込まれた人々と光の子供たちのみ。









―――許されざる者―――









「こちらでお待ちください」
 通された小部屋は薄暗く簡素で、そしてとてつもなく陰気だった。予想に違わぬその光景に、オイフェは思わず敷居の前で足を止めた。
「どうかなさいましたか?」
 見習らしき若い修道女が小首を傾げて尋ねる。ただそれだけで我を取り戻し、彼は小さく笑んで答えた。
「……いえ。予想以上に暗いものだな、と」
 適当に返した答えに、修道女は微笑して言った。
「適度に明かりを落とした方が人は心をさらけ出しやすいものです。迷える子羊には溢れる光よりも一筋の光明こそがありがたいもの……自身を見つめなおすにはよい環境と思いますが」
 では自分はその迷える子羊とやらの一人というわけか。声に幾ばくかの皮肉の成分が含まれる。
「確かにおっしゃるとおりですね……納得しました。ではこちらで待たせていただきます」
 表向きは誠実なその態度に、修道女は一礼して去っていった。
 このイザーク辺境の地ティルナノグに身を潜めて十七年。神と名のつくものは悉く避けつづけてきた自分が今ここにいることにわずかばかりの違和感を覚える。それでも、これは自分にとって必要な儀式なのだ。そう、言い聞かせる。他ならぬ自分自身に。
 迷いを振り切るように顔を上げたところで、ドアが重い音を立てて開いた。
「まあ、オイフェ?ずいぶん久しぶりね」
 涼やかな声。この声だけは記憶とほとんど変わらない。久しぶりに姿を現した元ユングヴィ公女に、オイフェは深く一礼を返した。
「すみません。ご無沙汰しておりました、エーディン様」
 エーディンは木漏れ日のような微笑で答える。
「気にしないで。だいたいのことはレスターから聞いています。そのいでたちは……いよいよ出るのね?」
 かねてより、諸国に潜伏する同志たちの間では来るべき決起の日へ向けての準備が進められている。ここイザークでもそれはシャナン王子を中心に行われていたが、辺境の地であるがゆえに情報に乏しいことは否めない。先日この地を訪れたシレジア王レヴィンとも相談の上、諸国の見聞が必要だとの結論に達したのだった。
 白いマント。銀色に輝く甲冑。いでたちは歴戦の風格を持つ聖騎士のそれで、彼の身にわずかに流れる聖戦士バルドの血を思わせる。ひげをたくわえた口元に表情を押し隠し、オイフェは小さく頷いた。
「はい。決起の日はまもなくということになりましょう」
「そう……」
「エーディン様は……ご決意は変わらないのですね」
 口調は決断を責めるものではなかったと思う。それでも彼女は一瞬痛みを堪えるような表情を見せた。小さく微笑んで、エーディンは答えた。
「今の私では足手まといになるだけ……私はもう疲れました。ここであなたたちの無事をお祈りさせてちょうだい」
 さらり、と揺れる髪はかつての黄金の輝きを失って久しい。十七年前のあの日の絶望が与えた衝撃は彼女から生きる気力を根こそぎ奪ってしまった。かつて母国ユングヴィの城を訪れた詩人に「黄金の太陽にて染めし錦糸を重ねた如く」と謳われた美しい金髪は数日のうちに輝きを失い、くすんだ灰色に塗りつぶされた。ただし、それはわずかなりとも彼女本来の美しさを損なうものではなかったが。
 優しい幼なじみも、愛する夫も、大切な仲間たちも何もかもが炎に飲み込まれ消えてしまった。それでも彼女が生きてこられたのは、未来への希望を託した子供たちがいたからだ。
 オイフェは、穏やかに微笑を浮かべて言った。
「ご助力いただけないのは残念ですが……エーディン様のお心はきっとみなにも伝わりましょう」
「そう言ってもらえると少し気が楽なのだけど……そういえば、他に用事があったのではなくて?」
 尋ねたエーディンに、オイフェの微笑が深くなる。
「はい。実は……出発の前に懺悔をさせていただきたく思いまして」
「……懺悔……?」
 思いがけない言葉に、エーディンは小首を傾げた。


「本当に私でいいの?今ならまだシスター様をお呼びすることもできるのだけど……」
 戸惑いを隠せない様子で再度確認するエーディンに、オイフェは表情を変えることなく答えた。
「貴女でなければならないのです、エーディン様。この十七年間、この地で我々を見守ってくださった貴女に聞いていただきたいのです」
 そうだ。自分は神に懺悔しに来たわけではない。神が自分にとって遠い存在となってからすでに相当の年月が過ぎ去った。これは懺悔という形をとった事実の報告だ。
 そんな自分の思いは彼女には伝わっていないのだろう。なおも戸惑う気配がする。
 しばしの沈黙ののち、エーディンは小さくため息をついた。
「……わかりました。では、ここで少しお待ちなさい」
 頷きを返すと、彼女は小さく頷いて小部屋を退出した。
 小部屋には壁際に小さな窓が一つと、その窓に面した小さな机と椅子があるきりだ。懺悔者は席につき、格子つきの窓越しに罪を告白する。懺悔を聞き神の教えを説く者以外はそれを耳にすることはない。
 窓の前に座り、オイフェは静かに待った。ややあって、エーディンの声が玲瓏と響いた。
「……ここは道に迷いし子羊が救いを求め集う場所。汝の罪を告白なさい」
 一呼吸分の空白ののち、彼ははっきりと告げた。
「―――私は主君となるべき方を孤独に貶めました。あの方が本来受けるべき恵みを奪い、未来を狭めてまで復讐の道を選択しました……最大の罪はこれを改める気のない我が身の傲慢です」
 小さく息を呑む気配がした。