オイフェとシャナンは始めから親しかったわけではない。
オイフェはいつも本を抱えて走り回っていたし、アイラのところに入り浸っていたシャナンとでは接点も少なかった。比較的年齢が近いとはいえ六歳も離れていては共通の話題があるはずもない。
彼らの距離が近づいたのは、シレジアに入ってからだった。結婚して子供ができたアイラに今までどおりにくっついているわけにも行かなくなったシャナンが所在をもてあましていたところへオイフェが一緒に学問をしないかと声をかけたのだ。
「クロード様はとても博識なんだ。君もきっと退屈しないよ」
シャナンにしてみれば、乗り気だったとは言いがたい。活発な彼はおとなしく座っているのが苦手だったし、勉強よりも剣を教えてもらう方が好きだったから。それでも引き受けざるをえなかったのは、アイラとシグルドの強い勧めがあったからだった。
「おまえはいずれ兄上の跡を継いでイザークの王になる身。今からいろいろ学んでおくのはいいことだ」
などとアイラに言われてしまえば、逆らえるわけがない。
確かに、先生役のクロード神父の話は面白かった。それでも、何時間もじっと座ったままの体勢は時々耐えがたい苦痛をシャナンに与えた。
実際シャナンは耐えかねて何度も逃げ出した。そんなとき、決まってオイフェが彼を探しにやってきた。不思議なことに、オイフェはシャナンがどこに隠れていても必ず見つけ出した。彼はシャナンを強引に連れ戻そうとはせず、そのままいろいろなことを語り合った。
お互いの生い立ちのこと。今までのこと。話しているうちに、自分たちがとても似た境遇にあることがわかってきた。それからだ、彼らが急速に親しくなっていったのは。
リューベック城でシグルドたちと離れてイザークへ向かうことになったときも、不安はなかった。
本当に……子供だったのだ。「守る」ということの本当の意味も知らずにいたのだから。
その日、シャナンはむくれていた。
「……ねえ、オイフェってば!」
何度めかの呼びかけに、御者台の少年がはっと振り返る。
「……え、何?シャナン」
「何、じゃないよ!さっきから何回も呼んでるのにちっとも返事しないんだもん!」
眉を吊り上げるシャナンに、オイフェは困ったように頭を下げた。
「ごめん、考え事をしてたんだ。それで、何?」
「エーディンがそろそろ休憩の時間じゃないか、ってさ」
声に棘が含まれるのは仕方がない。シャナンの周囲は大人ばかりでこまめに相手をしてくれる人間が多かったから、無視されることには慣れていないのだ。それに、不機嫌の理由はもうひとつある。
「大丈夫?オイフェ。少し疲れているのではなくて?」
シャナンの後ろから顔を覗かせたエーディンが心配そうに尋ねる。オイフェは、小さく笑って答えた。
「いえ、私は大丈夫ですから……ご心配をおかけしてすみません、エーディン様」
「大丈夫なもんか、昨日もおとといもほとんど眠ってないくせに」
口をさしはさんだシャナンに、エーディンが軽く目を見張る。
「オイフェ、本当なの?」
「シャナン」
オイフェは口を閉じるよう目配せしたが、シャナンはそれを完全に無視して続けた。
「本当だよ。昨日やおとといだけじゃない。ここんところずっとだ。オイフェは隠してるつもりだったかもしれないけど、僕はちゃんと気づいてたんだからね」
「シャナン」
「オイフェはいっつもそうなんだ。心配事や不安があっても僕たちには絶対言わない。どうしてさ?そんなに僕たちが信用できないの?」
「……そういうわけじゃ……」
はっきり答えないオイフェに、シャナンの苛立ちは募る。
「確かに僕はオイフェよりずっと年下だし全然子供で頼りにならないかもしれないけど……でも、僕だってシグルドにセリスたちのことを頼まれてるんだからね」
もっと頼って欲しい。信じて欲しい。そう思っているのに。
なのに彼は困ったような、哀しそうな顔で黙り込んでしまう。
「オイフェ!」
苛立って叫んだシャナンを、エーディンがやんわりと制した。
「およしなさい、シャナン。……オイフェ、馬車を止めて。少し休憩しましょう」
あなたも少し休むべきよ。
そう告げられて、オイフェもしぶしぶ頷いた。
やり場のない思いを抱えて、シャナンはきつく拳を握った。……と、その拳にそっと何かが触れる。
「……しゃなーぁ?」
ようやく言葉を覚え始めたばかりのセリスが小さな両手で拳を包んで見上げている。
「セリス……」
「あのねえ、おこっちゃだめなーよ……しゃなーは、げんきらの……」
おぼつかない言葉で、それでも必死に思いを伝えようとする幼児の姿に、シャナンはくしゃりと表情をゆがめた。
「……うん、ごめんね。もう怒ってないから……ね?」
握りしめた拳を解いてそっと頭を撫でてやると、にこおっと笑い返してきた。たまらなくなって、その小さな身体をぎゅっと抱きしめる。
「しゃなー?」
「……顔を洗ってきます」
小さな声でそう言ったオイフェが席をはずした。
「だあ……うー」
小さな声と共に、小さな双子たちが足元に這いよってきた。エーディンに抱かれていたレスターとデルムッドも手を伸ばしている。
「あらあら……みんな起きちゃったみたいね。悪いお兄ちゃまたちでちゅねー」
微笑みながらそう言ったエーディンが抱えていた二人に頬を摺り寄せる。二人はキャッキャッと喜んだ。それを見て、まだハイハイしかできない双子たちが自分たちも、とばかりに手を伸ばす。
「あうー」
「はいはい、こっちへいらっしゃい、スカサハ、ラクチェ」
白い腕に抱え上げられた二人は小さな手を伸ばしてエーディンの黄金の髪に触れた。
「おいたはダメよ、二人とも」
その姿に微笑して、シャナンはセリスを抱き上げ立ち上がった。
「僕、オイフェのところに行ってくる。……セリス、協力してくれるよね?」
返事の代わりににこお、と笑ったセリスに微笑み返して、シャナンは馬車を降りた。
下草を踏みしめて、ゆっくりと歩く。木陰の向こうに見覚えのある茶色の頭を見つけて、シャナンはセリスをそっと下におろした。
「ほら、セリス。行っておいで」
こくり、と頷いたセリスがパタパタと駆けてゆく。そして、足音に気づいて振り返ったオイフェの首に飛びついた。
「おいえー♪」(子供なのでオイフェ、と呼べない)
「セリス様?……シャナン……」
「さっきはごめん。ちょっと言い過ぎた」
素直にそう言って頭を下げたシャナンに、セリスを抱き上げてオイフェが微笑する。その姿はどことなくシグルドに似ていて、シャナンはどきりとした。
「いいよ、気にしてない。……ここ、座る?」
「あ……うん」
促されて、腰を下ろす。
二人はしばらく無言だった。セリスは自分を抱えているオイフェの髪にじゃれついて遊んでいる。
やがて、オイフェがぽつりと言った。
「ずっと……考えていたんだ。私に何ができるんだろう、って」
「……オイフェ?」
「私には地位も何もない。軍師といっても実戦の経験はほとんどないし、シャナンみたいな力があるわけでもない。聖戦士バルドの血をひいているといってもほんのちょっとだ。こんな、何の力もない私がどうしたらみんなを……セリス様を守れるんだろう」
思いがけない言葉にシャナンは目を見張った。
「僕だって力があるわけじゃ」
「シャナンには力がある。君の言葉ひとつで元気になれる人がたくさんいるんだ。でも、私は……」
「変なこと言うなよ!」
少し声を高めて遮った。オイフェの肩にしがみついていたセリスがその声に驚いて手を離す。
「オイフェはがんばってるよ。エーディンや僕にまで気を使って時間が空いたらセリスたちの相手もして、夜にはこっそり剣の稽古までして……すごいと思うよ。僕じゃ絶対できない」
「シャナン……」
「力がないなんてことないよ!それに……他人と比べて自分を卑下するのはよくないことだってクロード神父も言ってたじゃないか」
言いたいことは、たくさんあった。
自分がどれだけオイフェに支えられているか。助けられているか。すごく感謝している。同じだけ支えたい。助けたい。
だけど、すべてを言葉にするには自分は子供過ぎて。伝えきれない思いにもどかしさを覚えてもどうすることもできない。
「……ずっと言いたかったんだ。ありがとう、って……でも、まだ終わってないから……」
悔しさで滲んできた涙を見せまいとうつむく。
ぽんぽん、とその頭を撫でられた。優しく、暖かい手。
「それは……私が言いたいよ。シャナンがいなきゃここまでこられなかったんだから」
「そんなこと……」
「ありがとう。それと……これからもよろしくね」
そう言って微笑んだ顔を見たら、涙が止まらなくなってしまった。
しゃくりあげるシャナンの頭を、オイフェは静かに撫でていた。やがてようやく落ち着いたシャナンが顔を上げる。
「でもさ、オイフェ……ほんとにどうしたの?」
「え?」
「最近のオイフェ、おかしいよ。……この間の村で何かあったの?」
あてずっぽうだった。でも、オイフェの表情が凍りついたことでそれがある程度の真実をついていたことを悟る。
「エーディンが心配してる。……ねえ、僕にも言えない?」
苦しげに目を伏せて。彼は、呟いた。
「……まだ……言えない」
「オイフェ」
「もう少し……落ち着いたら、ちゃんと話すから……」
問い詰めることはできた。でも、そうすると苦しんでいるオイフェをさらに傷つけてしまいそうな気がした。
言葉を探して、押し黙ったその時だった。
離れたところで子供の悲鳴が上がったのは。
「!セリス様!?」
さっと顔色を変えてオイフェが立ち上がる。
うかつだった。目を離した隙にセリスがどこかへ行ってしまった。
血の気がひく思いで、シャナンはオイフェの後に続いた。
草むらを掻き分ける。そこにあった光景は……
「へへ、いい服着てんじゃねえか……売りとばしゃ高くつくかもなあ」
下卑た笑いを浮かべて泣き叫ぶセリスの襟首を捕まえている男。その手に握られている鈍い光を放つ斧に、シャナンは一瞬立ちすくんだ。
「セリス様を放せぇっ!」
オイフェが叫んだ。一瞬の躊躇もなく飛び出し、男に体当たりを食らわせる。
「うおっ!?」
放り出されたセリスを見て、やっと我に返った。慌てて飛び出し、泣き叫ぶセリスを抱き上げる。
「やりやがったな、ガキが!」
その背後で、白刃がきらめいた。
「危ないっ!」
切羽詰った声と同時に、抱きしめられた。鈍い衝撃が伝わる。
「オイフェ!?」
頬に滴り落ちてきた生ぬるい液体に気づいてシャナンは叫んだ。悲鳴を呑み込んで、オイフェは振り向きざまに抜き放った短剣を突き上げた。
「ぐあっ!」
鈍い音と共に刃は男の腹にめり込んだ。血に濡れた斧がその手から滑り落ちる。オイフェは二人を抱きかかえるようにして倒れこんでくる男の下から転がり出た。
「オイフェ、しっかりして!!」
シャナンは半狂乱で叫んだ。いやだ。いやだ。もう誰も失いたくないのに!
セリスも火がついたように泣き叫ぶ。男の血に濡れて硬直しかけていた手が震える小さな手をしっかりとつかんだ。
「心配……しないで、たいしたことないから……」
「何言ってるんだよ!そうだ、すぐエーディンに……」
「それより、急いで馬車に戻ろう。ここを、離れなきゃ」
そう言って、オイフェは傷ついた身体を引きずり起こした。背の傷からどくり、と濁った血が溢れる。
「オイフェ!動いたりしたら……」
「急いで!こいつの仲間がこないうちに……!」
目の前で突然起きた惨劇に動転し混乱した頭ではオイフェの言い分は半分も理解できなかった。それでも足だけが本能的に動いて、オイフェの後に従う。
右上から左下へ斜めに走る生々しい傷。裂けたシャツに毒々しい深紅の染みが広がっていく。不思議とオイフェの足取りはしっかりしていて、それほどの重傷を負っているようにはとても見えなかった。
小走りに馬車に駆け寄ったオイフェは、セリスを抱えたシャナンが馬車に飛び乗るのを確認して馬にムチを入れた。
「オイフェ?急にどうし…… っ!?」
突然走り出した馬車に驚いたらしいエーディンが顔をのぞかせ、呼吸をつまらせた。
「その傷は!?」
「エーディン様、説明は後です。追っ手に見つかりました。少し飛ばしますから、しっかりつかまっていてください!」
「追っ手?!」
「斧を所持していましたから恐らくドズル家の兵士でしょう。国境まで一気に駆け抜けます!」
さらにムチを入れる。馬は高く嘶いて、さらにスピードを上げた。
森を抜ける瞬間、視界の隅に斧を持った集団が掠めた。彼らは何か叫んでいたが、まるで聞こえない。しばらくして、後方に土煙を発見したシャナンが叫んだ。
「オイフェ、追って来るよ!」
「つかまってて!!」
叫び返しながら、オイフェは背筋が冷たくなるのを感じていた。だめだ、追いつかれる……!
その時、だった。
どすん、と横殴りの衝撃と共に馬車が傾いだ。誰かが横から強引に飛び乗ってきたのだ。何とか体勢は立て直したが、がくんとスピードが落ちる。後ろの幌がばさりと跳ね上げられて、エーディンが悲鳴をあげた。
「エーディン様!」
思わず叫んだオイフェの耳に、その声は届いた。
「失礼!シャナン殿下はおわしまするか!?」
女性の声だった。セリスを背にかばっていたシャナンが用心深く答える。
「……おまえは誰だ?」
オイフェとさほど年の変わらないその女性は、シャナンを見て相好を崩した。
「おお、殿下……!確かに、マリクル陛下によく似ておいでです。失礼、私はイザークの者にて、この国境の地で殿下をお待ち申し上げておりました」
「僕を……?」
「はい。イザークの民は貴方さまのご帰還を待ちわびております。ここはすでにイザークの領内、あなた方を害する者はおりません。グランベルの追っ手どもは配下の者が蹴散らしております」
にわかには信じがたい話だった。だが、オイフェは手綱をひいて馬車を止めた。
後方を振り返る。風にのって遠く喧騒が聞こえてきた。何者かが交戦中のようだ。
追ってくる気配はない。確認して、オイフェはシャナンに小さく頷いた。
「……わかった。貴女を信用する。確かに、僕がシャナンだ」
「よくぞご無事で……!」
女性が目を潤ませる。我に返ったエーディンが杖を手にオイフェに近寄った。
「オイフェ、傷の手当てを……」
「……すみません、エーディン様」
傷ついた背を癒しの光が包む。ほっと力を抜いたオイフェに女性が向き直り、深く頭を下げた。
「シャナン様をここまでお守りいただきありがとうございます。イザークの民すべてはシグルド様とあなた方に感謝の思いを抱いております」
「いいえ、私は……」
何もしていない、と続けるはずだった。
だが、彼女が続けた言葉にそれは行き場を失って凍りついた。
「バーハラの件は……すでにお聞き及びかとは存じますが、なにとぞ気を落とされませぬよう……」
「……え?」
オイフェは遮ろうとした。だが声が出ない。その間に、何も知らない彼女は続けてしまった。
「過日グランベル王都バーハラ近くの平原にてアルヴィス卿率いる国王親衛隊とシグルド様の一軍とが交戦された由にございます。その実は交戦とは名ばかりの虐殺……シグルド様以下主だった将のほとんどがだまし討ちに近い形で討ち取られたと……まさか、ご存じなかったのですか?」
―――死にも等しい沈黙だった。
蒼白になったエーディンの手から杖が音を立てて落下した。
「エーディン様っ!」
声もなく崩れ落ちるエーディンをオイフェがとっさに抱きとめる。
「……嘘だ……」
「シャナン様」
女性が差し伸べた手を、シャナンは払いのけた。
「……嘘だ。シグルドが……アイラが、し、……死んだなんて……嘘だっ!嘘に決まってるっ!」
「シャナン」
「だって、約束したんだ!迎えに来るって言ったんだ!そうだよね!?……ねえオイフェ、何とか言ってよ!!」
すがるように目を向ける。悲痛な声に答える術を持たず、オイフェがうつむく。大きく見開かれた黒い瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「……嘘だぁ―――っ!」
絶叫に呼応するように子供たちが泣き叫び始めた。
絶望の慟哭が馬車を揺るがした。