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那覇と沖縄南部
Naha and South Okinawa

 玉陵を出て金城町の石畳に向かうと、このような景色が飛び込んできます。
のんびりがなにより

 南部の観光となれば、首里城、ひめゆりの塔、平和祈念公園などですが、我々は着いた足で玉泉洞、海軍司令部壕、翌日は首里城、玉陵などを回りました。

玉泉洞 26 08 24.87,127 44 58.50
 子供たちがあまり鍾乳洞に行ったことがなかったので、ここまで来たので行ってみました。昔は鍾乳洞だけだった気がするけれど、今はおきなわワールドというテーマパークが出来、そこに入ってから鍾乳洞に行くようになっていました。いよいよ観光地化しているのですが、地下に行けばそうした俗世間も気にならず、ひんやりとした中を楽しむことが出来ました。
典型的な鍾乳洞は、なかなか見事です。 延長は2kmもあるとか。見応えがありました。

 海軍司令部壕 26 11 10.45,127 40 36.07
 沖縄戦の悲劇の跡は、ここ南部ではあちこちに残り、それが結果として観光地となっています。地上戦を経験せざるをえなかったこの島の歴史が、重くのしかかる南部。ひめゆりは動員看護婦でしたが、こちらは軍司令部という中枢です。

 那覇港を見渡せる場所に構え、全体を指揮しますが、圧倒的なアメリカ軍の前に孤立し(陸軍は首里城下に壕を構えたとかで、やはり連携してませんね。)、太田司令官をはじめ多くの人間が自決しました。というか、一体ここにいた人間の中で何人が生き残ったのでしょうか。重苦しい地下の空間が更に重くなる内部でした。
司令官室。手榴弾の跡もあるとか。この中では広い空間ですが、重たるい空気です。
殆ど人力で掘ったのでしょう。その跡がよく分かります。

首里城 26 13 01.41,127 43 10.16
 本土の城も大政奉還や第二次大戦で様々な運命を経験しましたが、この首里城はそれ以上に数奇な運命を辿っています。日本と中国の間でバランスを取って独立を守っていたのに、島津氏に攻め込まれて(島津侵入事件)薩摩藩の支配下になったのが江戸初期。それでも琉球はしぶとく王国を立て直し、約400年前の蔡温の時代に隆盛を極めました。でも明治になり明治政府が各藩主に要求したのとと同じように首里城の明け渡しを要求し、これに屈服し琉球王国は終焉を迎えます。

 主のいなくなった城は、本土でも様々な運命が待ち受けており、天守閣が残った城は極僅かだったのですが、ここ首里は特に解体するまでもなく放っておかれたようです。それでも大正期に入ると老朽化が著しくなり、解体寸前の時に伊東忠太(こんなところに登場するのか)らの働きかけにより解体を免れ、国宝に指定という栄誉を受けました。

 そうした首里城も、太平洋戦争での米軍猛攻の前に当然すべて焼き尽くされ、戦後を迎えます。跡地には首里大学が1950年に建設されてしまいました。城跡に様々な施設を造るというのは、ままある話で、天守閣の跡地に県庁を節操なく造ってしまったのが福井県。静岡県庁はお堀の外に県庁が、また姫路も濠の外の武家地に複数の中学、高校や美術館が林立しているなど、いろいろ調べていくと面白いものがあります。金沢も大学が戦前に城趾に出来たのを近年移転してお城を復活させたりしています。
 
 ここ首里もかなり節操なく大学を造ってしまったのは戦後のよくあることだったのでしょうか。でも守礼の門だけはいち早く1958年に再建され、米軍占領時代の切手などに必ず登場するなど、沖縄のシンボルになっていました。

 そして時代が大きく動くのが本土復帰です。その前後から大学の移転、跡地での首里城復元が構想されていたようですが、具体になるのが昭和の終わり。そして平成に入って着工、1992年に一部完成をみています。

 ここも、そして沖縄観光のもう一つの目玉になったちゅら海水族館も、国が率先して実施しているところに沖縄復興の姿勢をみることができます。海、自然だけでない観光の拠点を作ることに成功した事例と言えるでしょう。とにかく国がほぼ丸抱えで復元したいうことは、沖縄以外では考えられません。

 前書きが長くなりましたが、現地の印象は内地の城とはかなり異なるものでした。行政の府なのに山城に近い立地はどうしてなのだろう。濠はその分必要ないとしたのだろうか。石垣の作り方は、沖縄独特の曲線があちこちに入っている積み方が妙に柔らかい。さらに本殿を見れば日本というよりはやはり中国の影響の方が大きいと思ってしまう(そうだ中国の領土だなんて言う輩がいるかも)。この島のポジションを痛感せざるを得ません。中国ではない。そして本土ともちょっと違う。その微妙なバランスをこの城は見せてくれます。

瑞専門を通り越し、次に現れる漏刻門。どんどん登っていきます。
守礼の門の次に現れる歓会門。本土復帰前に復元されているようです。城壁の尖りがいいですね。
正殿の写真は模型で失礼します。こういう使い方だとラストエンペラーのシーンを思い出します。 正殿内部の御坐床(玉座)。どんどん中国風になっていきます。これは木造で復元し、左右の南殿、北殿は鉄筋での復元です。
石垣。石を複雑に組み合わせているのが分かります。これなら足をかける隙間など無い。 久慶門付近から正殿方面を見ています。

 玉陵 26 13 05.66,127 42 52.98
 どの文明でも、国王の墓はその権威や正統性を証明する上で重要であり、仁徳天皇陵(最近はこう言わない?)からピラミッド(これも墓でないとの説もあるけれど)、清の始皇帝陵墓など、見せつけるものはあちこちにあります。

 首里にあるものは玉陵(たまうどぅん)と呼ばれ、1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれたのが始まりとか。改葬というのは、遺骸を洞窟などに置いて、白骨化してからそれを奇麗に洗い蔵骨器に収める「洗骨葬」のことを指すのだそうです。いやいや色々な方法があるのですね。

 首里城へのメインアプローチが正式に何処だったのかはっきりしませんが、ここの立地は首里城の直ぐ隣、那覇からの旧道50号線の脇にあるからほぼメインアプローチと見ていいでしょう。代々の王は日々この陵を眺めていたのでしょうか。またここを訪れる使節もここに立ち寄ったのでしょうか。

 ここも戦争の被害を多大に受け、屋根が崩れ落ちていたそうですが、ようやく70年代になってから修復工事が行われ、ほぼ戦前の姿に戻されました。
気品あるアプローチでした。この先右側にあります。

全景。左から東室、中室、西室で、東室がメインで王と王妃、西室がサブで限られた家族が葬られ、中室は洗骨前の遺骸を収容するとのことです。
殆ど尾根に作られており、半分岩をくり抜き、半分石を積み上げ、部屋を作っています。そう、沖縄の特徴ある墓のルーツなのでしょうね

金城町の石畳で見かけた樹の根。どっちが先でこうなったのでしょうか。

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