後村上天皇 ごむらかみてんのう 嘉暦三〜正平二十三(1328-1368) 諱:義良(のりよし)

後醍醐天皇の第八皇子(第七皇子とも)。母は阿野廉子。初名は憲良(のりよし)。子には寛成親王(長慶天皇)・熙成親王(後亀山天皇)・惟成親王・師成親王・泰成親王・説成親王・良成親王・新宣陽門院ほかがいる。
元弘三年(1333)、北畠親房・顕家父子に奉じられて東北鎮定のため奥州へ下向。翌年の建武元年(1334)、親王宣下。建武新政が瓦解した後、延元三年(1338)秋、東国経営のため再び親房ほかと共に船団を組んで出航したが、暴風に遭って義良親王の船は伊勢に漂着、その後吉野に帰還した。同四年(1339)三月、父帝の皇太子となる。同年八月十五日、践祚。時に十二歳。正平三年(1348)正月、高師直らに吉野行宮を攻められて賀名生(あのう)に遷居。同六年、足利氏の内訌により尊氏が南朝に和議を申し入れると、翌年、南朝軍は京都を占拠。後村上天皇は男山(八幡山)に出陣して光厳院・光明院・崇光院を捕えたが、入京を目前にして事態は急変、足利軍に京都を奪回され、結局賀名生に還幸となった。同九年十月、河内天野山に遷幸し、金剛寺を行宮とする。同十四年十二月、天野行宮を侵され、観心寺(大阪府河内長野市寺元)に遷御。翌年九月、さらに摂津住吉の行宮に遷った。正平二十三年(1368)三月十一日、住吉行宮に崩御。四十一歳。在位は三十年に及んだ。河内観心寺に葬られ、陵墓は同時境内の檜尾陵である。
正平八年(1353)の賀名生宮での千首歌、延文二年(1357)頃と推測される二条為定に贈った百首歌などを詠む。勅撰入集は無い。新葉集に百首(最多入集歌人)。

  3首  1首  1首  1首  7首 計13首

立春の心をよませ給ひける

いづる日に春のひかりはあらはれて年たちかへるあまのかぐ山(新葉1)

【通釈】昇る太陽に春の光は現れて、年が改まる天の香具山よ。

【補記】新葉集巻頭歌。後鳥羽院の「ほのぼのと春こそ空にきにけらし天のかぐ山霞たなびく」、後京極摂政の「ひさかたの雲居に春のたちぬれば空にぞかすむ天のかぐ山」など、香具山に春の到来を言祝ぐ歌は少なくないが、通例の霞を詠まず「春のひかり」を謳ったのが新鮮の感を与える。「たちかへる」には、王権が強盛だった上代への復古の願いを込めるか。天の香具山は大和三山の一。言うまでもなく記紀万葉以来の歌枕である。

百首歌よませ給うけるに、春雪を

かつきえて庭には跡もなかりけり空にみだるる春のあは雪(新葉9)

【通釈】落ちて来るはしから消えて、庭には跡も残らないことよ。空に降り乱れる春の淡雪――。

【補記】「百首歌」は不詳。

【参考歌】藤原蔭基「後撰集」
かつきえて空にみだるるあは雪は物思ふ人の心なりけり
  花山院師継「続拾遺集」
庭のおもはつもりもやらずかつ消えて空にのみふる春のあは雪

おなじ行宮にてよませ給うける御歌の中に

おのづから故郷人のことづてもありけるものを花のさかりは(新葉110)

【通釈】遠い吉野の行宮へも、さすがに桜の盛りの季節ともなれば、自然と故郷の人が音信を寄越してくれたのだ。

かもめ工房フリー素材 吉野山
春の吉野山

【語釈】◇故郷人(ふるさとびと) 京都の人。北朝に残った人々。◇ありけるものを 「ものを」を逆接の接続助詞と見れば「音信はあったものだが、今はすっかり絶えてしまった」と歎いていることになるが、それでは「花の盛り」の歌にしては寂しすぎる風情となってしまう。「ものを」は詠嘆の終助詞と考えたい。

【補記】詞書の「おなじ行宮」は吉野行宮。桜の盛りの季節、花の名所である吉野へ、京都から頼りをもらった感慨を詠む。

【参考歌】惟喬親王「古今集」
桜花散らばちらなむ散らずとてふるさと人の来ても見なくに

水辺蛍をよませ給うける

夏草のしげみが下のむもれ水ありとしらせて行く蛍かな(新葉233)

【通釈】夏草の繁みの下に隠れた水の流れがあると知らせるように、蛍はその上を飛んでゆく。

【参考歌】頓阿「草庵集」
草ふかみみえぬ野沢の埋水ありとやここにとぶ蛍かな

中務卿宗良親王あづまに侍りし比、住吉の行宮より給はせ侍りし

年をふる(ひな)のすまひの秋はあれど月は都を思ひやらなん(新葉321)

【通釈】長年馴染んだ東国のお住まいも秋はさぞかし深い情趣があるでしょうけれど、月を眺める時はやはり都に限ると、こちらを思いやって下さい。

【補記】李花集には「正平十七年秋、住吉の行宮より『ことしの八月十五夜こそ月もおもしろかりしか。いかがみつらん』などおほせられて」この歌を贈られた、とある。親王の返歌は「いかがせむ月もみやこと光そふ君すみのえの秋のゆかしさ」。

【参考歌】「業平集」「伊勢物語」
雁なきて菊の花さく秋はあれど春の海べにすみよしの浜

百首御歌中に

きくたびにおどろかされてねぬる夜の夢をはかなみふる時雨かな(新葉423)

【通釈】時雨の音を聞くたびに夢を破られ、目覚めてはまた寝入ってみる夢――その余りのはかなさに、私の袖にも時雨のように涙を注ぐことだ。

【補記】時雨(しぐれ)は晩秋から初冬にかけての通り雨。パラパラ降っては止み、降っては止みする。

【本歌】在原業平「古今集」
ねぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな

百首歌よませたまひける中に、寄社祝を

行末を思ふもひさし(あま)(やしろ)くにつ(やしろ)のあらんかぎりは(新葉612)

【通釈】将来を思いやれば遥々と限りないことだ。天つ神の社と、国つ神の社がわが国にある限りは。

【補記】神祇歌。神々の御守護により国の永遠であることを祝う。

【参考歌】藤原俊成「長秋詠藻」
行末を思ふもひさし君が代はいはねの山の峰の若松
  後宇多院「風雅集」
あまつ神くにつ社をいはひてぞわが葦原の国はをさまる

年中行事を題にて人々百首歌つかうまつりける次に、朝拝の心を

高御座(たかみくら)とばりかかげて橿原(かしはら)の宮の昔もしるき春かな(新葉1006)

【通釈】高御座の帳(とばり)を高く上げて、群臣の朝拝を受ければ、橿原の御代の昔もはっきりと偲ばれる新春であることよ。

【補記】「朝拝」は元日群臣が参集して玉座の天皇を拝し、万歳を唱えるなどの儀式。「橿原の宮」は初代天皇神武天皇の皇居。

建武の比、花山院を内裏になされて侍りける時、御元服有りしことなどおぼしめし出でてよませ給ける

花山のはつもとゆひの春の庭わがたちまひし昔恋ひつつ(新葉1033)

【通釈】加冠の式を行なった春の花山院の庭で、自ら舞を舞った昔が恋しく思い出されてならない。

【補記】「花山院」は延元元年(1336)に後醍醐天皇が仮の皇居とし、建武の頃も内裏とした。東一条第とも言う。「はつもとゆひ」は元服のこと。賀名生の皇居にあって、華やかなりし京での少年時代を懐かしく思い出して詠んだ歌。

題しらず

鳥の()におどろかされて暁の寝覚しづかに世を思ふかな(新葉1141)

【通釈】鳥の鳴き声に目を覚まされて、暁の寝覚に心静かに世を思いやることよ。

【補記】「世を思ふ」は天皇の立場として世を思うこと。

名所山といふことをよませ給ける

年ふれば思ひぞ出づる吉野山またふるさとの名や残るらん(新葉1167)

【通釈】吉野にいた頃は京都が我が故郷であった。今こうして賀名生に移って年を経てみれば、吉野山が懐かしく思い出される。今度は吉野山を故郷の名で呼ぶことになるのだろうか。

【補記】正平三年(1348)、吉野を攻められた南朝は、さらに山奥の賀名生に遷居した。由緒ある土地ゆえに和歌などで「ふるさと」と呼ばれる吉野であるが、自身にとっては住み馴れた故郷ともなった、との感慨。

百首歌よませ給うて前大納言為定もとへつかはされける中に

あはれはや浪をさまりて和歌の浦にみがける玉をひろふ世もがな(新葉1197)

【通釈】ああ、早く荒波がおさまって、和歌の浦で磨かれた玉を拾う時が来てほしい。世の乱れがおさまって、秀歌を選んで勅撰集を編むような平和な世となってほしいものだ。

【補記】この百首歌はおそらく新千載集の撰者に任命された二条為定のもとに入集を望んで贈ったものか。しかし北朝に仕えていた為定は南朝歌人の作を選び入れることはしなかった。

【参考歌】藤原良経「続古今集」
しきしまややまとことばの海にしてひろひし玉はみがかれにけり
  藤原為氏「続千載集」
和歌の浦にみがける玉をひろひ置きていにしへいまの数をみるかな

題しらず

四つの海波もをさまるしるしとて三つの宝を身にぞつたふる(新葉1425)

【通釈】四海の波も治まり、天下はやがて太平となるだろう。その確かな前兆として、皇位継承のしるしである三種の神器を我が身に伝えるのである。

【補記】「四(よ)つの海」は四海の訓読語で、四方の海、ひいては天下を意味する。「三(み)つの宝」は、歴代の天皇が皇位のしるしとして受け継いで来た三つの宝物。すなわち八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊曲玉。「四」「三」と数を対応させ、「しるし」には前兆・神璽の両意を掛けた、簡素ゆえに力強い技巧は帝王調を具現している。後村上天皇の践祚は南北朝が激しく争っていた延元三年(1338)八月であるが、その時の年齢は僅か十二歳であるから、受禅当時の作とは思えない。新葉集に続いて載せる一首は「九重にいまもますみの鏡こそなほ世をてらす光なりけれ」。


最終更新日:平成15年06月01日