祥子内親王 しょうしないしんのう(さちこ-) 生没年未詳

後醍醐天皇の皇女。母は阿野廉子後村上天皇の同母姉。
元弘三年(1323)十二月、伊勢斎宮に卜定されるが、延元元年(1336)、兵乱により野宮を退下。結局伊勢への群行は遂げられなかった。以後、斎王制が復活することは無く、祥子内親王が最後の斎宮となった。正平七年(1352)二月、吉野に至り、後醍醐天皇の塔尾陵に参拝。のち落飾して保安寺に住む。
勅撰入集は新千載集の一首のみ。新葉集には十六首。

「祥子内親王――斎宮の終焉」 山中智恵子『続斎宮志』
「祥子内親王」 山中智恵子『斎宮箚記』

後村上院芳野の行宮におましましける比、よみ侍りける歌の中に

名にしおふ花のたよりにことよせてたづねやせましみ吉野の山(新葉78)

【通釈】天下に知られる花の名所だからと口実をつけて、訪ねたいものです、あなたのおられる吉野の山に。

【補記】後村上天皇は作者の同母弟。延元四年(1339)、吉野行宮に践祚した。

野宮に久しく侍りける比、夢のつげありて大神宮へ百首歌よみて奉りける中に

いすず川たのむ心はにごらぬをなどわたる瀬の猶よどむらん(新葉580)

【通釈】五十鈴川に託した私の心に濁りなど無いのに、なぜ渡ろうとする瀬はそれでも淀むのだろうか。

【補記】「野宮」は斎王が伊勢に向かう前、潔斎のために籠った宮。通例、嵯峨野に設けられた。「いすず川」は伊勢神宮境内を流れる川。「いすず川たのむ」とは、天照大神に縋ること。川の縁語を用い、戦乱のため伊勢に群行し得ない境遇を歎く。詞書に伊勢神宮へ奉献した百首歌の一とあるが、この百首は掲出歌以外残っていない。

【参考歌】後鳥羽院「御集」
いすず川たのむ心しふかければあまてる神ぞ空にしるらむ

恋の歌の中に

面影ぞなほ忘られぬあだなりし契りは夢のうちになしても(新葉899)

【通釈】あの人の面影がそれでも忘れられない。かりそめだった契りは、はなかい夢の中の一つだと思いなしたところで…。

逢不遇恋を

ほのかにも見しは夢かとたどられてさめぬ思ひやうつつなるらん(新葉905)

【通釈】ほのかにでも逢えたのは夢であったかと、今になっては顧みられる。さていつまでも醒めないあの人への思い――こちらの方が現実なのだろうか。

【参考歌】よみ人しらず「金葉集」
たまさかにあふ夜は夢のここちして恋しもなどかうつつなるらん

題しらず

いかにせん後の世とだに契らねば恋ひ死ぬとても頼りなき身を(新葉752)

【通釈】どうしよう。せめて死後の世では思いを遂げたい――しかしそんな約束も交わしていないので、このまま恋い死にしてしまうとしても、頼みとするものなど無い我が身を。

【語釈】◇後(のち)の世 死後に生まれ変わる世。

野宮より退下の後雪をみて

わすれめや神のいがきの榊葉にゆふかけそへし雪の曙(新葉574)

【通釈】忘れることなどあろうか。御垣の榊葉に白木綿をかけ添えたようだった、野宮の雪の曙の情景を。

【補記】延元元年(1336)、南北朝の戦乱により、内親王は野宮を退下、斎宮の任を解かれた。以後再び斎宮が任命されることはなく、大来皇女以来六百六十余年続いた斎王の歴史はここに幕を閉じた。

【本歌】「拾遺集」神楽歌
さかき葉にゆふしでかけてたが世にか神のみまへにいはひそめけん


公開日:平成15年06月08日
最終更新日:平成18年08月14日