花園院 はなぞののいん 永仁五〜(1297-1348) 諱:富仁

伏見院の第三皇子。母は顕親門院藤原季子(洞院実雄女)。後伏見院の異母弟、尊円親王の異母兄。正親町実子(宣光門院)との間に、源性親王・直仁親王・寿子内親王(光厳院妃、徽安門院)・儀子内親王をもうける。また後伏見院女房一条との間に覚誉親王を、典侍の葉室頼子との間には祝子内親王をもうけた。
永仁五年七月二十五日、誕生。正安三年(1301)八月、両統迭立により後二条天皇の皇太子に立てられる。退位した後伏見天皇にはまだ皇子がなかったため、兄帝の猶子となっての立坊であった。この時五歳。徳治三年(1308)八月二十五日、後二条天皇が崩じたため、翌日、十二歳にして践祚。御宇多院の意向により尊治親王(のちの後醍醐天皇)が皇太子となった。摂政は鷹司冬平。院政は伏見院が執った。延慶四年(1311)正月、元服。正和二年(1313)十月、伏見院は出家し、後伏見院が院政を嗣ぐ。文保二年(1318)二月、鎌倉幕府の要請により後醍醐天皇に譲位。院政は御宇多院が執った。以後は後伏見院と共に持明院殿に住む(後伏見院を本院、花園院を新院と呼び慣わした)。正中二年(1325)、本院の皇子量仁親王のために学問所を置き、自ら親王の教育にあたった。翌年三月、猶子となった量仁親王が立太子。元弘元年(1331)、後醍醐天皇が笠置寺に遷幸すると、幕府の支持のもと量仁親王が即位(光厳天皇)。この時も本院が院政を執り、結局花園院は生涯治天の君となる機会を得なかった。同三年、足利高氏らの兵が京に攻め入ったため、本院・光厳天皇と共に東国方面へ脱出。しかし近江国番場宿で敵方に襲われ、捕えられて帰京、再び持明院殿に住んだ。建武二年(1335)十一月、落飾。法名は遍行。暦応年間(1338-1342)以後は洛西花園の萩原殿に住む(このため萩原院法皇と称された)。康永元年(1342)正月、御所を僧関山慧玄に賜与し、管領させる(のちの妙心寺)。貞和四年(1348)十一月十一日、崩御。五十二歳。花園院と追号された。墓所は京都市東山区粟田口、青蓮院に隣接する十楽院上陵である。
学問を好み、内外の書物に通暁。道心厚く、禅宗に傾倒した。絵画の才能にも恵まれ、幼年より好んで絵筆を執った(妙心寺には自筆の肖像画が伝わる)。和歌は京極為兼永福門院の指導を受け、後期京極派の中心人物となる。風雅集を監修し、仮名真名の序文を執筆した。宸記にもすぐれた歌論が見られる。貞和百首の作者。玉葉集初出。勅撰入集計百十八首。日記『花園天皇宸記』四十七巻が伝わる。ほかに『法華品釈』などの著作がある。

以下には勅撰集と藤葉集より二十四首を抄出した。

十楽院上陵 京都市東山区

  2首  3首  6首  2首  4首  7首 計24首

春御歌の中に、霞

わがこころ春にむかへる夕ぐれのながめの末も山ぞかすめる(風雅7)

【通釈】新年のうららかな夕暮、私の心はおのずと春へ向かうが、つくづくと眺めやるその末も、山がほのぼのと霞んでいかにも春めいている。

【参考歌】伏見院「御集」
思ひなすほかには春の暮もなしかすめる空にむかふ心は

百首御歌の中に

梢よりおちくる花ものどかにて霞におもき入相の声(風雅250)

【通釈】梢から落ちてくる花もゆったりとして、立ちこめる霞の為くぐもったように重く響く、入相の鐘の音よ。

【補記】貞和百首。

【参考歌】伏見院「御集」
春雨のゆふぐれしほる花のうへにひびきもおもき入相の鐘

夏歌の中に

夕立の雲とびわくる白鷺のつばさにかけて晴るる日のかげ(風雅413)

【通釈】夕立雲を分けるように飛ぶ白鷺――その翼まで光を届かせながら、広がってゆく晴天よ。

【補記】暗い雨雲と、日に輝く白い翼の対比。

【参考歌】藤原定家「玉葉集」
夕立の雲間の日かげ晴れそめて山のこなたをわたる白鷺
  西行「新古今集」
白雲をつばさにかけて行く雁の門田のおもの友したふなり

百首御歌の中に

空はれて梢色こき月の夜の風におどろく蝉のひと声(風雅421)

【通釈】空が晴れて、茂った梢が色濃く見える月の夜、風に驚いて蝉が短く一声鳴いた。

【補記】貞和百首。

【主な派生歌】
風わたる梢の露やかかるらん月におどろく蝉の一声(正徹)
照る月に夏を忘れし木間よりおどろかしける蝉の一声(香川景樹)

六月祓をよませ給うける

みそぎ河ながれてはやく過ぐる日のけふみなづきは夜も更けにけり(続後拾遺239)

【通釈】禊ぎ川の流れのように日々はすばやく過ぎてゆき、一年の半分が終わる今日六月晦日は夜も吹けてしまったことだ。

【補記】六月祓(みなづきばらへ)は、毎年六月晦日に賀茂川などで行なわれた禊ぎの行事。流れ行く水さながらのなめらかな調べ。

【参考歌】春道列樹「古今集」
昨日といひ今日とくらして明日香川ながれてはやき月日なりけり

秋の歌あまたよませ給ひける中に

むら雨のなかば晴れゆく雲霧に秋の日きよき松ばらの山(風雅507)

【通釈】俄雨が半ば止み、次第に晴れてゆく雲と霧に、秋の陽が射して――清らかな姿をあらわす松林の山よ。

【補記】「松ばらの山」は松林に覆われた山のこと。

【参考歌】寂蓮「新古今集」
村雨の露もまだひぬ槙の葉に霧たちのぼる秋の夕暮

百首御歌に

雲とほき夕日のあとの山ぎはにゆくともみえぬ雁の一行(ひとつら)(風雅539)

【通釈】雲が遠く浮び、沈んだ夕日の余光が残る山際に、あまりにゆっくりとして、飛んでゆくとも見えない雁の一列よ。

【補記】横たわる遥かな距離が、雁の飛行をスローモーションのように見せる。貞和百首。

百首御歌に

暮れもあへずいまさしのぼる山のはの月のこなたの松のひともと(風雅587)

【通釈】すっかり暮れ切ることもないまま、今さしのぼった山の端の月――その光のこちら側の、松の一本よ。

見月といふ事を

わが心すめるばかりにふけはてて月を忘れてむかふ夜の月(風雅611)

【通釈】夜空を眺めるうち、私の心も澄み切るほどに更け果てて、もはや月の存在を忘れて月と向き合っている。

【補記】「月を忘れ」るのは、自我が消滅し、己が月と一体になっているからである。禅宗に傾倒した院ならではの哲学的な詠。

月前草花を

風になびく尾花が末にかげろひて月とほくなる有明の庭(風雅634)

【通釈】明け方の庭を眺めれば、風に靡く薄の穂の先に月の光がほのめいて、やがて有明の月は遠ざかり沈んでゆくのだ。

【補記】薄の穂が風に靡いたことによって、沈みかけていた月が一瞬ほのめいた。「月とほくなる」は、空が明るくなるにつれて月の光が薄くなり、やがて山の端に沈んでしまうことを言う。

【参考歌】前大納言経顕「風雅集」
月はなほ中空たかくのこれどもかげうすくなる有明の庭

秋の御歌に

きりぎりす声かすかなる暁のかべにすくなき有明のかげ(新拾遺1617)

【通釈】蟋蟀の声が幽かに聞こえる暁――壁にはわずかに映るばかりの有明の月の光よ。

【参考歌】永福門院「風雅集」
ま萩ちる庭の秋風身にしみて夕日のかげぞかべに消え行く

冬風を

おきてみる朝けの軒ば霜しろし音せぬ風は身にさむくして(藤葉集)

【通釈】起きて見る早朝の軒端は霜が置いて真っ白だ。音もなく吹く風は身に沁みるように寒くて。

【補記】「おきて」は「起きて」だが、「霜」との縁で「置きて」の意も兼ねる。初出は康永二年(1343)の院六首歌合、二十四番左勝。『藤葉集』は康永三、四年頃小倉実教が撰した私撰集。勅撰集には採られなかった歌だが、今川了俊『落書露顕』には「只今眼前におぼえたる御歌」として引き、「まことに今朝風の面にしみたる心地し侍り」と賞讃している。

【先蹤歌】伏見院「御集」
おきてみる軒端の霜のしろたへにこずゑもさむき冬の朝あけ

冬夕の心をよませ給ひける

暮れやらぬ庭のひかりは雪にして奥くらくなる埋火のもと(風雅878)

【通釈】暮れきらない庭の明るさは、夕日を反射している雪の光であって、いっぽう私のいる室内の奥の方は暗くなってゆく――埋火(うづみび)のもとで。

【補記】「埋火」は灰の中に埋めた炭火。「埋火のもと」は新古今時代頃から盛んに用いられた結句。

【参考歌】伏見院「御集」
庭の雪はすだれへだつるねやのうちにまた奥深き埋火のもと

寄雲恋

恋ひあまるながめを人はしりもせじ我とそめなす雲の夕ぐれ(風雅1236)

【通釈】溢れる思いに耐えきれず、じっと眺める空のけしき――あの人は知りもしないだろう。私が自分の心から恋の色を深く染み込ませてしまった、そんな雲がたなびく夕暮を。

九月十三夜、寄月恋といふことを人々によませさせ給うけるついでに

てる月はわが思ふ人のなになれやかげをしみれば物のかなしき(玉葉1657)

【通釈】空に照る月は、私の恋しい人と何の関係があるというのか。その光を見ただけで、無性に切なくてならない。

【補記】初々しい詠み口。それもそのはず、玉葉集撰進時花園院はわずか十六歳。

恋余波といふ事をよませ給ひける

人こそあれ我さへしひてわすれなば名残なからんそれもかなしき(風雅1274)

【通釈】人は忘れても仕方ない、しかし私までもが無理して忘れたならば、この恋は思い出の名残さえなくなってしまうだろう。それもまた悲しい。

康永二年歌合に、恋終を

人しれず我のみよわきあはれかなこのひとふしぞかぎりと思ふに(風雅1275)

【通釈】人には知られぬまま、自分ばかりほのかな悲しみが残るなあ。このたびの逢瀬が最後と思えば。

【補記】康永二年(1343)、院六首歌合。五十九番左勝。第三句を「こころかな」とする本もある。

暦応二年の春、花につけてたてまつらせ給ひける    永福門院

時しらぬ宿の軒ばの花ざかり君だにとへな又たれをかは

【通釈】動乱の世も知らずに、我が家の軒端の花は盛りになりました。せめて貴方だけでも訪ねてください。ほかに誰を待つというのでしょう。

御返し

春うときみ山がくれのながめゆゑとふべき花のころもわすれて(風雅1479)

【通釈】花やかな春とは縁遠い山奥に隠れ住み、物思いに耽って過ごす私ゆえ、お訪ねすべき桜の季節もすっかり忘失しておりました。

【補記】暦応二年(1339)、北山を御所にしていた永福門院と、既に出家して萩原殿(今の妙心寺)に隠棲していた花園院との贈答。当時、後醍醐天皇は吉野にあり、南北朝の対立による戦乱が各地で続いていた。

百首御歌の中に

羽音してわたるからすのひと声に軒ばの空は雲あけぬなり(風雅1634)

【通釈】羽ばたきの音をたてて飛ぶ烏の一声にふと気づいた――軒端の空は雲が去って夜はもう明けてゆくようだ。

【補記】軒の上空を塞いでいた雲が去って、あたりが明るくなってゆく様子を、鴉の鳴き声の明瞭な響きによって感じ取っている。

【先蹤歌】伏見院「風雅集」
時鳥なごりしばしのながめより鳴きつる峰は雲あけぬなり

題しらず

跡もなきしづが家ゐの竹のかき犬のこゑのみ奥ふかくして(風雅1774)

【通釈】人の通った跡もなく荒れ果てた、民の住まいの庭の竹垣――犬の吠える声ばかりが奥深くから聞こえてくる。

【参考歌】藤原定家「玉葉集」
さとびたる犬のこゑにぞしられける竹よりおくの人の家ゐは

百首御歌の中に

世をてらす光をいかでかかげまし()なばけぬべき(のり)のともし火(風雅2083)

【通釈】世を照らす光をどのようにして掲げようか。今にも消えてしまいそうな仏法の灯火よ。

【補記】貞和百首。「法のともし火」は、仏の教えを、世の闇を照らす灯火に喩えて言う。

【参考歌】覚忠「千載集」
世をてらす仏のしるしありければまだともし火もきえぬなりけり
  慈円「新古今集」
ねがはくはしばし闇路にやすらひてかかげやせまし法のともし火

題しらず

今はわれむなしき舟のつながれぬ心にのする一こともなし(新千載2011)

【通釈】今はもう私はどこの岸辺にも繋がれていない空舟(からぶね)のようなもので、心にのしかかる事とて一つもありはしない。

【補記】「むなしき舟」は人の乗っていない舟ということだが、官界を引退した人などの譬えにも用いられる(本朝文粋巻五)。俗世を捨て、自由な捕われない心境を、繋留されていない空舟に譬えたのである。「のする」は舟の縁語。作歌事情は不明だが、譲位の時か剃髪の時か。

【参考】菅原道真「閑適」
風松颯々閑無事、請見虚舟浪不干(風松颯々、閑にして無事。請ふ見よ、虚舟浪も干(おか)さざるを)
  羅維「和漢朗詠集」
観身岸額離根草、論命江頭不繋舟(身を観ずれば岸の額に根を離れたる草、命を論ずれば江の頭(ほとり)に繋がれざる舟)

寄国祝を

あし原やみだれし国の風をかへてたみの草葉もいまなびくなり(風雅2198)

【通釈】乱れた葦原のように混乱していたこの国の風向きを変えて、民衆の心も今は我が朝廷に靡いていることよ。

【補記】北朝が栄えて国が平和になったことを祝う。後醍醐天皇が笠置落ちして光厳天皇が即位した元徳三年(1331)頃、または光明天皇が即位し後醍醐天皇が吉野に逃れた建武三年(1336)頃の作か。「草葉」は「葦」の縁語。

貞和百首御歌中に

あし原やただしき国の風としてやまとことばの末もみだれず(新千載2356)

【通釈】葦の茂る豊かな国よ。わが国の正しい風儀として、和歌の道は将来も乱れることはない。

【語釈】◇あし原 古く日本の国土を「葦原中国」と呼んだことから、わが国を指し示す。葦が盛んに茂る豊饒な国土を褒める詞である。◇国の風(かぜ) 「古来伝わってきた国の有りさま・ならわし」ほどの意。また、詩経の「国風」を想起させ、国ぶりを伝える歌をも意味する。◇やまとことばの末 「葉の末」を掛け、葦の縁語となる。

【補記】新千載集に載る歌であるが、もとは風雅集編纂の資料として詠じた貞和百首の一首であり、風雅集に託した思いを詠んだものと考えられる。花園院執筆の『風雅集』仮名序には「正しき風、古の道、末の世に絶えずして、人のまどひをすくはんが為」云々とある。


最終更新日:平成15年06月29日