懐良親王 かねよししんのう(かねなが-) 生年未詳〜弘和三(1383) 通称:征西将軍宮

後醍醐天皇の皇子。母は二条為道の娘、大納言三位局かという。
延元三年(1338)九月、わずか十歳の頃、征西将軍に任じられ、五条頼元らに守られ西下。伊予に数年滞在の後、九州に上陸する。薩摩に滞留後、肥後の菊池武光らと結んで九州各地を転戦。正平十六年(1361)、ついに大宰府を掌握し、以後十余年、筑紫をほぼ制圧した。しかし建徳二年(1371)、鎮西探題として下向した今川了俊は九州経略を積極的に推進し、翌文中元年(1372)、南朝方は大宰府を攻められて退却、懐良親王は三井郡高良山に陣した。この間、菊池一族の将を相次いで失い、やがて肥後の菊池に撤退を余儀なくされた。天授元年(1375)、甥で養子の良成親王に征西将軍を譲り、弘和三年(1383)三月二十七日、筑後八女郡矢部で薨去。五十余歳か。明治に至り肥後八代郡宮地村(熊本県八代市西松江城町)を墓地と認定され、同地に創建された八代宮に祀られた。
歌は新葉集に一首、李花集に二首見える。

建徳二年秋の比、中務卿宗良親王もとへ申し送り侍りし

日にそへてのがれんとのみ思ふ身にいとどうき世のことしげきかな(新葉1276)

【通釈】日増しに世を遁れようとばかり思う我が身に、ますます俗事が押し寄せてくることです。

【補記】建徳二年(1371)、足利方の今川了俊が鎮西探題として九州に入り、南朝軍は次第に追い込まれていった。形勢悪化する一方であった頃、出家を願う思いを、信濃にあった兄宗良親王に書き送った歌である。兄宮は「とにかくに道ある君が御世ならばことしげくとも誰かまどはむ」と激励し、懐良親王は出家を思い留まるが、翌年には了俊のために大宰府を攻められ、ついに陥落に至る。

建徳二年九月廿日、鎮西より便宜に

しるやいかによを秋風の吹くからに露もとまらぬわが心かな(李花集)

【通釈】知っておられますかどうか。憂き世に秋風が吹くにつけ、私の心にも世を厭う思いが募り、露が草木からたやすく落ちるように、いささかも執着なく現世を離れようとする我が心ですことよ。

【補記】李花集に前歌「日にそへて…」に次いで掲載。「よを秋風の」に「世を飽き」を、「露も」に「いささかも」の意を掛けている。宗良親王の返歌は「草も木もなびくとぞ聞くこの比のよを秋かぜとなげかざらなん」。


最終更新日:平成15年05月18日