小倉百人一首/公(大臣) 10人



河原左大臣
014 みちのくの忍ふ文字すり誰ゆへに 乱れ初にしわれならなくに

菅家
024 この度はぬさも取あへす手向山 もみちのにしき神のまにゝゝ

三条右大臣
025 なにしおははあふ坂山のさねかつら 人にしられて来るよしも哉

貞信公
026 をくら山嶺のもみち葉心あらは 今一度のみゆきまたなん

謙徳公
045 哀ともいふへき人はおもほえて 身の徒になりぬへき哉

法性寺入道前関白太政大臣
076 和田の原こき出てみれは久方の 雲井にまかふおきつしら波

後徳大寺左大臣
081 ほとゝきす鳴つる方を眺むれは 唯有明の月そのこれる

後京極摂政前太政大臣
091 きりゝゝす鳴やしもよのさむしろに ころもかたしきひとりかもねん

鎌倉右大臣
093 世中は常にもかもな渚こく 海人のをふねの綱手かなしも

入道前太政大臣
096 花さそふあらしの庭の雪ならて ふり行ものはわか身成けり


[メモ] 勅撰集では、大臣の地位にのぼった人の歌は(作品の質には多少目をつぶっても)優先して撰入するのが慣わしであった。百人一首に選ばれた大臣たちの多くは、文句の付けようがない優れた歌人であったと言えるが、河原左大臣(源融)・三条右大臣(藤原定方)・貞信公(藤原忠平)の三名は、残した歌自体が少なく、古くから歌人としての名声が高かったわけではない。
たとえば貞信公の「をぐら山」の歌が百人一首に採られた理由として、石田吉貞博士は、色紙和歌を求めた宇都宮頼綱の山荘や定家自身の別荘が小倉山にあったことと関係づけて論じている。もっとも、この歌を定家は「定家八代抄」にも「八代集秀逸」にも撰んでおり、歌自体として高く評価していたことは間違いない。
撰に漏れた主な大臣歌人としては、実頼(清慎公)道長頼宗(堀河右大臣)有仁(花園左大臣)兼実(後法性寺入道関白)通親(土御門内大臣)などの名が思い浮かぶ。



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