藤原道長 ふじわらのみちなが 康保三〜万寿四年(966-1027) 称号:御堂関白・法成寺入道前関白太政大臣など

摂政関白兼家の五男。母は時姫(藤原中正女)。道隆・道兼の同母弟。冷泉女御超子・円融女御詮子の同母兄。源倫子(左大臣雅信女)を正室とし、頼通(関白太政大臣)・教通(関白太政大臣)・彰子(一条天皇中宮)・妍子(三条天皇中宮)・威子(後一条天皇中宮)らをもうける。また左大臣源高明女の腹には頼宗(右大臣)・長家(権大納言)らをもうけた。
天元三年(980)正月、十五歳で従五位下。侍従・右兵衛権佐をへて、寛和二年(986)七月、蔵人・従五位上。以後、急速に昇進を重ね、永延二年(988)正月、二十三歳にして、参議を経ず権中納言に就任。正暦元年(990)正月、正三位。十月、定子立后の日、中宮大夫となる。同二年九月、権大納言。同三年四月、従二位。長徳元年(995)四月、左大将を兼ねる。同月から翌月にかけ、兄の関白道隆・右大臣道兼が相次いで死去したため、五月、内覧の宣旨を受け、六月、氏長者となる。同月、右大臣就任。同二年七月、さらに左大臣に転ずる。長保元年(999)十一月、娘の彰子を一条天皇の女御とする。寛弘元年(1004)三月、法興院に万燈会を挙行する。同二年(1005)十一月、賀四十算。長和元年(1012)二月、次女妍子を三条天皇の女御とする。長和五年(1016)、眼病を患っていた三条天皇に圧力をかけ、彰子の子敦成親王(九歳)を即位させ(後一条天皇)、自らは摂政となる。寛仁元年(1017)三月、摂政を辞退し、長子の頼通に譲る。従一位。同年十二月、太政大臣。同二年二月、太政大臣を辞退。同年十月、娘の威子を後一条天皇の中宮とする。寛仁三年(1019)三月、出家。法名は行観。のち行覚に改める。同四年三月、無量寿院落慶(二年後、法成寺と改称)。万寿四年(1027)十一月、病に臥し、十二日、天下非常大赦。二十六日、後一条天皇、法成寺に行幸し道長を見舞う。また南北西京の高僧一万人に供養させる。十二月四日、薨ず。六十二歳。
長保五年五月十五日、左大臣道長歌合を主催。家集『御堂関白集』、日記『御堂関白記』がある。拾遺集初出。勅撰入集四十三首。

前大納言公任、長谷(ながたに)といふところに籠りゐける時、つかはしける

谷の戸をとぢやはてつる鶯の待つに音せで春の暮れぬる(千載1061)

【通釈】鶯は谷の戸をすっかり閉じてしまったのだろうか。声を聞くのを楽しみに待っていたのに、音沙汰もなく春は暮れてしまったよ。

【語釈】◇ながたに 長谷。今の京都府左京区岩倉長谷町。公任晩年の隠棲地。◇谷の戸 鶯は春の終りと共に谷に帰るとされた。谷の戸を閉ざしてしまった「鶯」とは、官位の昇進に不満を持って自宅に籠ってしまった公任のことを言う。◇待つに音せで 公任からの音信がないことを言う。

【補記】同い歳で親交があった藤原公任が岩倉の長谷に隠棲していた時、贈ったという歌。

【他出】拾遺集(重出)、金葉集三奏本(重出)、玄々集、定家八代抄

世をのがれて後、四月一日、上東門院太皇太后宮と申しける時、衣がへの御装束奉るとて

唐衣(からころも)花のたもとにぬぎかへよ我こそ春の色はたちつれ(新古1483)

【通釈】私が贈った夏の美しい衣裳に着替えなさいよ。私の方といえば、花やかな春の色の服を着るのは、もうやめてしまったけれど。

【語釈】◇唐衣 「たもと」の枕詞◇花のたもと 美しい夏の衣裳。道長が彰子に贈ったのである。◇春の色はたちつれ 道長は出家したので、法衣を着ており、花やかな色の服を着るのは絶ってしまった、ということ。「たち」に「(服を)裁つ」意を掛ける。

【補記】道長が出家したのは寛仁三年(1019)三月。その翌月一日、娘の上東門院彰子に更衣の衣裳を贈った時に添えたという歌。彰子の返しは「唐衣たちかはりぬる春の夜にいかでか花の色を見るべき」。

【他出】和泉式部続集、栄花物語、定家八代抄、世継物語

今日、女御藤原威子を以て、皇后に立つるの日なり。(中略)太閤、下官を招き呼びて云はく、「和歌を読まんと欲す。必ず和すべし」てへり。答へて云はく、「何ぞ和し奉らざらんや」と。又云はく、「誇りたる歌になむ有る。但し宿構に非ず」てへり。

此の世をば我が世とぞ思ふ望月の(かけ)たる事も無しと思へば(小右記)

余申して云ふ、「御歌優美なり。酬答するに方なし。満座只だ此の御歌を誦すべし」。

【通釈】この世は、私の世だと思うよ。今宵の満月のように、欠けるところなく満ち足りていると思えば。

【語釈】◇女御藤原威子 道長の娘で、後一条天皇の女御。◇太閤 道長。◇下官 著者実資を指す。◇宿構 前以て詩文を用意すること。「宿構に非ず」とは、この歌が即興であるということ。◇酬答するに方なし (御歌が優美過ぎて)私には報和するすべもありません、の意。遜りつつ、道長の歌に和することを拒んだのである。

【補記】これは当時右大臣であった藤原実資の日記『小右記(しょうゆうき)』の寛仁二年十月十六日の記事。原文は和歌以外は漢文。なお当歌は『袋草紙』『続古事談』などにも道長の作として見える。

【主な派生歌】
吹く風も袖さむからで望月のかけたることもなき今宵かな(井上文雄)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年08月24日