三形王
みかたのおおきみ
- 生没年 未詳
- 系譜など 未詳。おそらく大炊王(淳仁天皇)と縁戚にあったと推測される(略伝参照)。妻に弓削女王がいる(続紀延暦元年3月26日条)。名は御方王(万葉集)・三方王(続日本紀)にもつくる。
- 略伝 749(天平感宝1)年4.14、無位より従五位下に初叙される。757(天平勝宝9)年6.23、自宅で宴を催し、兵部大輔大伴家持が歌を詠む。この時大監物とある(20/4483)。同年、天平宝字に改元後の12.18、再び自宅で宴を催し、大蔵大輔甘南備伊香・右中弁家持らが参席、歌を詠む(20/4488〜4490)。758(天平宝字2)年2月、中臣清麻呂邸の宴に参席し歌を詠む(20/4511)。この時は御方王とある。759(天平宝字3)年6.16、淳仁天皇の父舎人親王に「崇道尽敬皇帝」の尊号を追贈する際、従五位下より従四位下に越階昇叙される。四階級の異例な昇進は、淳仁天皇若しくは舎人親王との深い関係を推測させる。同日、妻の弓削女王(『皇胤紹運録』によれば舎人親王の孫で三原王の女)も同様に従五位下から従四位下に昇叙されている。772(宝亀3)年1.3、無位より従五位下に叙せられる(この時以後『続日本紀』には三方王とあり、三形王とは別人物とみる説もある)。これ以前に何らかの咎を受けて(おそらく恵美押勝の乱に連座したか)官位を奪われ、この時復権したものと思われる。同年8.18、淡路に派遣され、淳仁廃帝の改葬、行道・読経などを行う。妻の弓削女王は遅れて774(宝亀5)年1.4、無位より従五位下に復される。同年1.7、従五位上。3.5、備前守。777(宝亀8)年1.7、正五位下。779(宝亀10)年1.23、従四位下(2階昇進)。782(天応2)年閏1月、氷上川継の乱に連座した藤原浜成(娘は川継の妻)が参議・侍従を解任されたのと同じ日、日向介に左遷される。同年3.26、桓武天皇を呪い殺す呪法を行った罪で、妻弓削女王と共に日向国に任国配流に処せられる。以後の消息は不明。
関連サイト:三形王の歌(やまとうた)
表紙へ