中臣朝臣清麻呂
なかとみのあそみきよまろ
- 生没年 702(大宝2)〜788(延暦7)
- 系譜など 意美麻呂の七男。母は多治比真人嶋の女阿伎良(あきら)。兄に東人がおり、子に諸人・子老・淵魚・諸魚らがいる。正室は多治比子姉(古奈禰)。768(神護景雲2)年、大中臣朝臣を賜姓される。なお大伴家持の母を多治比氏の郎女(嶋の孫)と推測する説があり、だとすれば清麻呂は家持の母の従兄弟にあたる。
- 略伝 738(天平10)年、参河掾の任にあった(大日本古文書)。740(天平12)年10月、神祇大祐に任じられ、式部大丞を兼ねる。天平14年6月、神祇少副に転じ、引き続き式部大丞を兼任(以上、中臣氏系図)。743(天平15)年、造弘福寺判官正六位上神祇少副兼式部大丞(大日本古文書)。同年5月、従五位下。同年6月、神祇大副。747(天平19)年5月、尾張守に転出。この時元正天皇が病気となり、左大臣橘諸兄が大神宮祭主清麻呂を外国に遷任したためであると奏し、この結果、神祇大副中臣益人を相模守に転出させたという(中臣氏系図)。751(天平勝宝3)年1月、従五位上。753(天平勝宝5)年、大伴家持・大伴池主と高円山に登り歌を詠む(20/4295〜4297)。758(天平宝字2)年2月、「式部大輔中臣清麻呂朝臣の宅に宴する歌十五首」(20/4496〜4510)があり、家持・市原王・甘南備真人伊香・大原今城らが参集。759(天平宝字3)年6月、正五位上。762(天平宝字6)年1月、従四位下。同年8月、中宮院に勅旨を宣。この時文部(式部)大輔。同年12月、参議。763(天平宝字7)年1月、左大弁。同年4月、摂津大夫。翌年1月、従四位上。9月、さらに正四位下。765(天平神護1)年1月、勲四等。同年10月、紀伊行幸の際、御後次第司長官。同年11月、大嘗祭に神祇伯として供奉。この際、称徳天皇は清麻呂の「清慎自守」を嘉して特に従三位に昇叙する。768(神護景雲2)年2月、中納言。翌年6月、大中臣朝臣賜姓。770(宝亀1)年10月、正三位。771(宝亀2)年1月、大納言兼皇太子傅。同年3月、右大臣従二位。同年11月、大嘗会に際し神寿詞を奏す。772(宝亀3)年2月、正二位。774(宝亀5)年12月、骸骨を乞うが、許されず。778(宝亀9)年4月、光仁天皇、清麻呂の私邸に行幸。781(天応1)年6月、致仕。この時右大臣正二位。788(延暦7)年7月28日、薨去。87歳。死去の際の住居は右京二条(中臣氏系図)。続紀薨伝には「清麻呂は数朝に歴事して国の旧老と為り。朝儀国典、諳練する所多し。位に在りて事を視ること、年老いたりと雖も、精勤にして怠るに匪ず」云々とある。
万葉に歌は5首(20/4296・4497・4499・4504・4508)。没年の知られる万葉歌人のうち最後まで生き残った人である。
関連サイト:高円山(大伴家持の世界)
系図へ|表紙へ