船王
ふねのおおきみ
- 生没年 未詳
- 系譜など 舎人親王の子。兄に三原王・三島王、弟に池田王・守部王・大炊王がいる。子に葦田王、孫に他田王・津守王・豊浦王・宮子王がいる。
- 略伝 727(神亀4)年1.27、無位より従四位下に初叙される。734(天平6)年3月、難波宮行幸の時、阿波の山の歌を詠む(06/998)。743(天平15)年5.5、皇太子阿倍内親王の五節奏舞に臨み、従四位上に昇叙される。746(天平18)年1月、元正上皇の御在所での肆宴に応詔歌を詠むが、記録されず(万葉巻17)。同年4月、弾正尹に任じられる。751(天平勝宝3)年10.22、左大弁紀飯麻呂の家の宴で恭仁京時代の歌を伝誦する(19/4257)。この時治部卿とある。なおこの宴には中臣清麻呂・大伴家持らも参席して歌を詠んでいる。752(天平勝宝4)年4月の大仏開眼供養会においては伎楽頭を務める。この時も治部卿(『東大寺要録』)。同年11.27、林王宅に但馬按察使橘奈良麻呂を餞する宴に参席、歌を詠む(19/4279)。この時も治部卿とあり、左注より左大臣橘諸兄や家持が同席したことが知れる。755(天平勝宝7)年5.18、諸兄が奈良麻呂宅で催した宴に臨み、歌を詠む(20/4449)。757(天平勝宝9)年3月、道祖王廃太子に際し立太子が群臣に問われたが、この時孝謙天皇の勅に「船王は閨房修まらず」とある。同年7月、橘奈良麻呂の謀反計画が未遂に終わった後、百済王敬福と共に獄囚の拷問にあたり、黄文王・道祖王・大伴古麻呂らを杖死に至らしめる。この時大宰帥とある。同年8.4、正四位上に昇叙。758(天平宝字2)年8.1、弟大炊王の即位に伴い、従三位に昇る。同年12月、朝廷は渤海使小野田守がもたらした安史の乱の情報に基づき、大宰府に安禄山の動向への対応策を命ずる。この時の勅で大宰帥船王と大弐吉備真備を当代の碩学と呼ぶ。759(天平宝字3)年6.16、舎人親王に「崇道尽敬皇帝」の尊号が追贈された日、天皇の兄弟として親王に叙せられ、弟の池田王とともに三品を賜わる。760(天平宝字4)年1月、信部卿。762(天平宝字6)年1月、二品。764(天平宝字8)年9月、藤原仲麻呂の乱に与して捕えられ、同年10月、諸王に下されて隠岐国に流される。この時、子孫も丹後国に配流に処せられたが、771(宝亀2)年7月、属籍に復された。『日本霊異記』には熱心な仏教信者として登場する。
関連サイト:船王の歌(やまとうた)
表紙へ