船王 ふねのおおきみ 生没年未詳 略伝

舎人親王の子。三原王の弟。大炊王(淳仁天皇)の兄。
神亀元年(727)、従四位下に初叙される。天平十五年(743)、皇太子阿倍内親王の五節奏舞に臨み、従四位上に昇叙される。その後、弾正尹・治部卿などを歴任。天平勝宝九年(757)三月、道祖王廃太子に際し皇太子候補に擬せられたが、孝謙天皇の勅に「船王は閨房修まらず」とある。同年七月、橘奈良麻呂の謀反計画が未遂に終わった後、百済王敬福と共に獄囚の拷問にあたり、黄文王・道祖王・大伴古麻呂らを杖死に至らしめた。この時大宰帥とある。同年八月、正四位上に昇叙。天平宝字二年(758)八月、弟大炊王の即位に伴い、従三位に昇る。同三年六月、舎人親王に「崇道尽敬皇帝」の尊号が追贈された日、天皇の兄弟として親王に叙せられ、三品を賜わる。同六年正月、二品。同八年九月、藤原仲麻呂の乱に与して捕えられ、同年十月、諸王に下されて隠岐国に流された。
万葉集に4首の歌を残す。

春三月(やよひ)、難波の宮に(いでま)す時の歌

(まよ)のごと雲居に見ゆる阿波の山かけて榜ぐ舟(とまり)知らずも(万6-998)

右の一首は、船王の作。

【通釈】眉のように遥かに見える阿波の山、その山を目指して漕ぐ船――停泊する港はどことも知れないのだ。

【補記】「阿波の山」は徳島県徳島市の眉山(びざん)であろう。天平六年(734)三月、聖武天皇の難波行幸に従駕しての作らしい。

十八日、左大臣の、兵部卿橘奈良麿朝臣が宅に宴する歌

撫子が花取り持ちてうつらうつら見まくの欲しき君にもあるかも(万20-4449)

右の一首は、治部卿船王。

【通釈】撫子の花を手に持ってまじまじと見つめるように、いつもお側近くにいてお目にかかりたいあなたでありますよ。

【語釈】◇十八日 天平勝宝四年十一月。◇うつらうつら まざまざと。ウツラのウツは現(うつつ)のウツに同じ。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日