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's wonderful-act3-



結局のところ、僕はあんなことを言いながら、その夜指一本触れなかった。
無垢な魂を汚してしまうようなことは、いくら僕でもできなかったのだ。彼女、高宮美雪はかつて華族と呼ばれた一族に繋がる、いわゆるいいところのお嬢さんだった。しかも本物も本物。僕が冗談半分でばあやなんて言ったけど、このNYにもばあやが当然の如く付いてきていて、住んでいるのは高級住宅街の大きなフラット。

僕自身も子供の頃から音楽をやっているくらいだから、決してひどく貧乏だったわけではない。だけど、彼女のような本物の金持ちとはやはり世界が違う。



「氷室さん」
「何?」
「この部屋、ピアノはないんですね」
「置けないでしょ、壁も床も薄っぺらなんだから」
「じゃあ、いつどこで練習なさるんですか?」
「それはもちろん店で」
「そうなんですか」



薄汚れた窓ガラスの向こうには古ぼけた街並みが広がり、部屋の中にいても汗臭い生活臭が漂ってきそうだ。そんな外の風景を彼女は見るともなく眺めていた。

彼女の生活と僕の生活は全くの別物で、本来なら決して交わることのない二人のはずだ。それがどうしてこうやって出会ってしまったのだろう。出会うべきではない人物に出会い、一昨日よりも昨日よりも今日の方が好ましく思うようになるというのは、はっきり言って何かの間違いだと思う。
この先高宮美雪と僕の人生は絶対に一つになることなど有り得ないのだから。そんな恋に落ちる前から結末の見えた恋なら、最初から無かったことにした方が後が楽だ。



「氷室さん」
「何だい?」
「恋を……恋をしたことは、ありますか?」
「……?」
「わたしね、まだよくわからないけど、きっと恋をしたら世界が変わるのだろうなと思うんです」
「それは本の読み過ぎか映画の見過ぎだな」
「かもしれませんね。現実はもっといろいろと大変なのかも。一晩ありがとうございました」

ペコリと勢いをつけて頭を下げると、彼女は着の身着のままで小さなバッグを握り締めてドアに向かった。
こういう時、僕はどうするべきなのだろう。いつもの束の間の恋ならば、そのまま窓の外に目を向けたまま後ろ手にバイバイしてさようならだ。この間の彼女にも同じことをしてから、ひどく後悔した。

「高宮さん。ちょっと待って」
「はい?」
「君のピアノを聞いてみたい。だめかな」
「でもわたし今……うまく弾けません」
「そのままでいいよ。つまづいても構わない、今の君の音を聞きたい」
「いいんですか?」
「うん」



でも、どこで聞こう。まだ朝が早くて店は開いてないし、当然僕の家には何もない。自分で言っておきながらなんて鈍臭いのだろう、僕は。一瞬困った顔をした僕の気持ちを察したのか、彼女はにっこり笑うと学校へ行きましょうと言ってきた。学校……ね。かつて僕も通ったあの学校のこと、なんだろうな、きっと。仕方がない、行くとしよう。

途中のスタンドで珈琲とサンドウィッチを買って、ついでにいつものニュースペーパーもつけてそのまま例の学校のレッスン室へと忍び込む。

そして開け放った窓から差し込む朝日の中で、彼女はピアノの前に座った。



そしてすーっと背筋を伸ばすと、ゆっくりその細く繊細な指を鍵盤の上に乗せた。
僕は何もリクエストをしなかった。君が一番好きな曲を好きなだけ弾けばいいよ、とだけ言った。それがリクエストと言えばリクエストなのかもしれない。


一瞬静まり返った部屋の中で、彼女の手の下から溢れ出した音は、リストの『ため息』。------Un Sospiro。

僕もかつては弾いたことがある、リストのエチュード。ため息というタイトルだけが一人歩きして恐ろしくロマンティックな曲というイメージがある。だけど、リストはリストだ。例えエチュードでもそれなりにテクニックは必要だ。ましてや、譜面通りに滑らかに音をつないでいくには、かなりの技術が必要になる。



ほんの数分が永遠に続けばいい。

初めて僕は他人の演奏を聞きながらそう願った。それほど彼女の演奏は群を抜いていた。こんな美しい音色を出せる人が、少し考えすぎたくらいで辞めていいものではない。僕がピアノから遠ざかるのは何ら損失にはならないが、この人の音は大いなる損失だ。彼女の流麗な音を聞きながら、僕は本気でそう思っていた。

出会ってからまだ大して時間が経っていないというのに、彼女のこの音を守るためにはどうしたらいいのだろうなんて、バカなことまで考えている自分がそこにいた。



「氷室さん?」
「あ、ごめん。ぼーっとしてたみたいだ」
「やっぱりだめでしょう、わたしのピアノ」
「どうしてだめだと思うんだい?」
「どうしてって……それは先生が……」
「教授達が何を言おうと、それは批評するのが職業なんだから気にすることはないよ。それよりも僕みたいな素人の意見を聞いてほしいね」
「素人……じゃないでしょう、氷室さんは」
「君の音はまっすぐで澄んだ音色だ。ただまっすぐ過ぎて面白みには欠ける。今のところはとりあえず楽譜に忠実に一生懸命弾いているのは伝わってくる」
「はい」
「だけどね、君はピアノ弾きである前に一人の人間だ。これから色々なことを体験して、泣いたり笑ったりする内にどんどん良くなるんじゃないかな。まあ、これは素人の私見だけどね」
「……ありがとう……ございます」



わかったようなことばかり言っている僕。だけど、そんな上滑りな僕の言葉に、彼女は小さな声で感謝の言葉をつぶやくと、一筋の涙を零した。
やめてくれよ、僕の前でそんな風にきれいな涙を流さないでくれよ。困るじゃないか。





取るべき態度に戸惑った僕が思わずやってしまったこと。
それは座ったままの彼女の背中を抱きしめたこと。
そして、昨日の匂いが残る黒髪に口付けたこと。
そのまま上を向かせて唇を奪わなかっただけでも、僕としては上出来だろう。

髪に唇を押し当てた時、彼女の体が少しだけ揺れた。恋も知らない女の子だっていうのに、いきなり出会ったばかりの男からキスされたら普通は驚く。

だけど、僕はそうする以外に涙を止める術が思いつかなかったんだ。


「氷室さん。卒業できたらその時はまた会ってくれますか?」
「そうだね。その時はピンクの薔薇を100本でも200本でも君にあげるよ。だから行きなさい、高宮さん。そして……」
「そして……何でしょうか」
「いや、何でもない。じゃあ、僕は帰ってもう一度寝ることにするよ」






朝日の射し込むレッスン室を最後に、僕達はまた別々の道を歩き始めた……はずだった。そして、二度と僕達の人生は交わることはないと信じていた。

『そして』の次に僕はどんな言葉を続けようと思ったのだろう。たぶん、もう寄り道はしないように、とでも言うつもりだったのだろう。いや、違う。いつかまた会いましょう、だ。




とりあえず、昨日はよく眠れなかったんだ。もう一度寝直そう。
そのくらいの自由は十分に確保してある。


彼女はきっと僕のことなんてすぐに忘れる。僕もきっと彼女のことはすぐに忘れる。

さてと、元来た道を戻るとしますか。




さようなら、高宮さん。



もう二度と会わない。
君と僕の人生は、これから先絶対に交わることはありえないから。そこに奇跡でも起こらない限り。



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