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's wonderful-act2-



「今……なんて言った?」
「だから、ショパンの『黒鍵』をと言いました」
「別のに……してくれないかな、お嬢さん」
「じゃあ、ベートーベンなら弾けますか?」
「悪いけど、僕はもうクラシックは弾かないんだ。そういうものは君が自分で弾けばいいでしょう」
「ごめんなさい。でも、他には知らないんです」
「そ……か。ごめんよ」


頭を垂れてしゅんとした彼女は、まるで雨に濡れた子猫のようだった。確かに僕もかつてはクラシックしか知らず、それだけがピアノだと思って育ってきた。だから彼女の言いたいことがわからないでもない。

ショパンもベートーベンもリストも他の誰の曲でも、譜面さえあれば今でもたぶん……下手な学生より少しマシな程度には弾けると思う。だけど弾かない、いや弾けないんだよ、今の僕には。仮に君のために弾いてあげても、きっともう僕の弾くショパンもリストもクラシック音楽じゃない。


でも僕はうつむいたままの彼女のために鍵盤に指を滑らせた。
なるべく陽気に明るくなるように、『's wonderful』を弾くために。
ごめんよ、一生かかっても君のリクエストに答える気はないんだ。





僕はクラシックを捨てたから。
いや、むしろ捨てられた、の方が正しいかもしれないけど。





「氷室さん」
「何だい?」
「どうしたら氷室さんみたいなピアノが弾けるんですか?」
「おいおい冗談は止してくれないか。僕は君の音を聞いたことはないけど、君の奏でる音と僕の出す音は全く別物だと思うよ。人真似じゃなく自分でなんとかしたら」
「……弾けない……ん、です、わたし」
「ふーん、それで?」
「ふらふらしてたら音楽が聞こえてきて……そーっと覗いてみたらあなたがいたんです。それで……」
「で、そのままプロポーズしちゃったって訳か。僕がいい奴でよかったね。でなきゃ今頃襲われてひどいことになってたかも」
「ですね」





少し肩を落としたまま、彼女はか細い笑顔を見せた。

「『黒鍵』、でいいの?さわりだけだよ。もう全部覚えてないから」
「いい……んですか?」
「特別」


久しぶりすぎるショパンに僕の指は無意識に緊張していた。
学生時代は好きでよく弾いていたショパン。その昔課題曲でよく弾かされたリスト、ベートーベン、そしてモーツアルト。子供の頃は何も考えず、ただ先生に褒められるのが嬉しくて毎日飽きもせず弾いていた。高校生になってもまだ僕はピアノの前では無心になれた。
だけどいつからだったろう。ピアノに向かって考えてしまうようになったのは。曲の背景を考えて想像するのはいい、それは弾くために必要な過程だと思う。だけど、突き詰めて考えてしまうと、人間どうしようもなく自分の才能を信じることが難しくなっていく。
こんないい曲を、美しい旋律を、すばらしいハーモニーを自分はきちんと相手に伝えられているのか。
そう思い始めるともうだめだ。とてもじゃないが、冷静に譜面なんて読めやしない。
指先が震えて、背中にはうっすらと汗さえかいてしまう。
そんな自分が嫌になって、僕はあれほど大好きだったピアノを捨てる寸前だった。

そんな奴がこの希望に溢れてNYにやってきたお嬢さんに何を言える?
何も言う資格なんてない。





「あのね、高宮さん」

僕は黒鍵を叩きながら彼女の顔も見ずに言葉を発する。とてもじゃないけど、顔を見て、目を見て言えるようなことじゃないから。どうすれば押しつぶされそうになっている彼女をプレッシャーから遠ざけることが可能だろう。結局は自分を信じるしかないよ、お嬢さん。



「どうやったらいい音が出せるか考えてしまうんでしょう、君は。だから鍵盤を叩くのが少し怖い。違う?」
「……わかりません」
「僕はね、頭で考えて考えすぎてわからなくなったから逃げたんだ、巨匠と呼ばれる人達の作った美しい世界から。そんな奴の音を見習っても何も得るものはないと思う」

さわりだけと言っておきながら、僕は延々と黒い鍵盤だけを叩き続ける。全部覚えていないといいながら僕の指は確実にショパンを覚えていた。黒鍵だけで奏でる音は妙に軽快で、哀しくなるほど軽やかだ。




まいった。



クラシックなんて止めてもう何年にもなるのに、ここ数年一度も弾いたことすらなかったのに体はちゃんと覚えてるものなんだな。ああ、嫌だ嫌だ。


「氷室さんのピアノは……少し哀しくて少し優しくて……少し楽しそうなんです」
「そう。もうすぐ開店だ。君は帰りなさい。そしてもう2度と来ないように」
「どうして?」
「世界が違うよ」
「違いません」
「違う。僕は安酒を飲みながら適当にピアノを弾いて、そこらへんで引っ掛けた女の子と一晩過ごして、ある朝突然どっかの路上でひっくり返って眠ってるような人間だ。君とは違う。君は僕のような人間が珍しいだけだ。きちんと日の当たる大通りを歩きなさい」
「嫌です」
「わがままを言うんじゃない」
「わがままじゃありません。わたしの意志です」
「18やそこらで何を言ってるんだ。ばあやに迎えに来てもらいなさい」
「家出しました」
「はい?」
「一晩泊めてください。明日はなんとかします」
「……ったく」


僕はたぶんその時だらしなく口が開いていたと思う。せっかくのハンサムが台無しになるくらいに。目の前の無垢な少女はまっすぐに僕の目を見て言ったのだ、泊めてくれと。
男の部屋に一晩泊まるってことがどういうことか、彼女はちゃんと認識しているんだろうか。それともただ単にからかっているだけなのか、いやもしかするとこれは悪い夢なのかもしれない。


「Richard. How do I do?」
「I don't know.You have to think by yourself.」
わかってるさ、そのくらい。
自分の始末くらい自分でつけるさ。

「お嬢さん。それがどういうことか解って言っているの?」
「どういうこと……ですか?」
「あのね、男と女が一つの部屋で寝るってことは、つまり」
「つまり?」
「君は僕に襲われても文句は言えないよ」
「そんなこと……なさるんですか?」
「う……そ、それは。一般論としてでしょう。僕自身がどうこう言う問題ではない」
「信じてますから、わたし」


純粋培養にも程がある。
僕が微妙に薄汚いだけなのかもしれないけれど、それにしてもあんまりだ。

カウンターの端っこからリチャードが目配せする。そして手で帰れと言う。仕方がない。今日の稼ぎはふいになってしまうけど、こんなところに深夜まで座らせておくわけにもいかないし。連れて帰るしかないだろう、この場合。そして僕は一晩中生殺しになるのか。


まいったな。



「Good luck, Kenny」
「……good night, Richard. さあ、帰るよ」
「はい」



僕はきっと途方に暮れていたのだと思う。
女性とは片手では足りない程には付き合ってきた。そして、いろんな女性と恋愛をしてきたつもりだ。だけど今までの女性達とはあまりにも違う。

どうして君はそんな風に簡単に初対面の僕を信用できるのか。
なぜだ?人は見た目では解らない。簡単に他人を信用しても痛い目に遭うことの方が多いだろう。なのに彼女はそんなこと全く考えてもいない。
どうかしている。





「ねえ、高宮さん」
「はい」
「もし僕が今晩君を襲ったらどうする?」



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