電子書籍の薦め電子聖書ソース閲覧環境紹介論駁(笑)雑感参照・参考

PDAで読書 ポケットにbibleを(5)

 この頁は書いている内にあまりにも信仰色が濃くなってしまったので、一寸だけ姑息に隠しています(笑)。一般の方は素通りなさったほうがいいかもしれません。もし、キリスト教界の内部事情にご興味がありましたら、どうぞ。

聖書携帯に関する考察(教派色あり)

聖書は高いか?

 よく聞かれる議論です。最近では聖書そのものより聖書ソフトを標的として語られることが多い様です。曰く

伝道の為に価格をもっと下げるべきで、タダでもいい位だ。

一見もっとものようです。でも、それは「伝道のため」ですか? ご自分が安く買いたいのではありませんか? 

 百歩譲って伝道のためとした場合、どこにそんな財源を求めるのでしょうか? 自分以外の誰かが合理化して滅私奉公して逆鞘ででも低価格化を実現しろということでしょうか。安定供給のためには事業として採算性を確保する必要があるのですが。

 とはいえ、「伝道のため安価な聖書が必要」というのは正論です。ではどうしたらいいか? 話は簡単で、求道者には安く売るため、信徒は献金込として高いものを買えばいいんです。現在のところ聖書各判型版の原価率は逆鞘スレスレのレインボー以外は大体同じらしいので、高級装丁の版を買うだけでもある程度の足しになります。

 アイディアとしては、装丁別の価格差をもっと傾斜させればもっと効果的です。クロス装の聖書は「購入者の感じる適正価格」に適合させ、合皮装以上でその分も回収します。それだけだといきなりの価格差に「割高感」が爆発して破綻しますので、ここはきっちりインフォームドコンセントをとらないといけません。書店や教団や各個教会に回状廻すのもいいでしょうが、ここは奥付けに

この聖書n冊の分の収益により配布用聖書がm冊つくれます
みたいな事を明記するのが良いと思います。

 …ただ問題は、あんまりご立派な装丁に作ると聖書が偶像崇拝の対象になってしまいかねない事です。笑い事ではありません。私は聖書を畳に直置きするなと諭されたことがありますし、「聖書を腹に載せて寝たら腹痛が直った」などと真顔で語られたこともあります(たぶん新聞紙よりは厚み分暖かかったんでしょう)。ウチでは、枕に睡眠薬に大活躍ですが、聖書。

 聖書ソフトに関しては、装丁差なんていうモノがないですし、だいたいこれはあまり伝道の役には立たないので(買い求めるのは既にキリスト者でしょう)、むしろ、説教をする伝道の現場と教育の為に学割(アカデミックパック)を設定するべきです。販売規模から、価格差をつけた複数のパッケージを用意するのは困難でしょうから、学生証のコピー同封が条件のキャッシュバックでもいいでしょう。それ以外の好事家は、学割制度を用意してかつサポートとバージョンアップを続けられる採算性を満たす設定価格で購入するべきですよね。

 どうです、まだ高いと文句をいいますか? それより協力しませんか。

携帯聖書に熱心な刊行会と冷淡な協会

 電子化される以前から、「携帯版聖書」を探していました。しかし、どれでも良いわけではありません。連なっている教会が礼拝に用いている訳でないと、有用性は零に等しいほど下がってしまいますその時、新共同訳より新改訳のほうが「携帯用」のニーズに注力しているという印象を持ちました。レギュラー商品としてのビニール装丁(耐久性重視)のB7ポケット版(NPP-45)の存在からです。新共同訳では、詩編付きの最小でA6、しかも妙に厚いんです(NI344)。新約のみだと百合の紋章の装丁の結構薄手のもの(レインボーや教会学校用と同じNI240、115g)があったのですが。2002年になってようやく、B7の新約詩編つき(NI334)が出ましたが。

 実際、口語訳では存在したB7ミニ聖書(JC34)の相当品は新共同訳にはありません。探していた当時、新刊であった新共同訳にはまだラインナップが揃ってないだけだと思ったのですが、十年たっても出てきません。かわりにハンディバイブルなるものは刊行されましたが、これがちっとも軽くも小さくもないんです。ポケットはおろかハンドバッグにも入りません。小型軽量化への要望への回答がこれだとしたら、JBSはその気がないということになります。

 なぜなら、出来ない訳ではないのです。実際、JBSには記念品扱いとしてだけA7版やそれ以下を用意するという妙な癖があります。あからさまに「趣味の豆本」としてですが、口語訳には金属の透かし彫りの籠に入れたマイクロ判キーホルダー聖書がありましたし(\14,000くらいだったような)、死海文書を本邦初公開した聖書展記念には、A7の三方金革装の新共同訳詩編つき(NI316、革装なのになぜ「S」が付かない?)を、なんと東京展と神戸展で別版を用意して箱詰めして売っています。これをレギュラー装丁で店頭常備品にしてくれればいいのに(税別\1000以下を希望)。評価だって逆転します。このサイズで新旧約を刷れというとまた版を起こさねばならないのでしょうが、新約詩編付なら実物が現存してるんだもんね。刷るだけ単価も下がるのが製造業の基本だと思うんですが。

携帯にもっと熱心な英訳…とゆーより「保守的福音派」

 さて、携帯聖書を探す話に戻りますと、その時気付いたことは、英語版聖書にはさらに小さい版形がそろっているコトでした。まるでカレンダー手帳のような薄い新約聖書とか、本当にポケットに入るA7より小さいかもしれない新旧約聖書とか。でも、その小さい聖書というのは、KJV,NKJV,NIVなどで、RSVとかTEVではないんです。このことと、日本語版での事情を考え合わせると、どうも福音派の方々のほうが聖書を持ち歩くのに熱心なのではないかと思われます。

推定:協会が携帯聖書に消極的な訳

 売れるものを作るのが資本主義で、各教派代表会議の様相を呈している理事会で決定されたものを刊行するのがJBSですから、携帯版がないということは新共同訳聖書の客層は聖書携帯、或いは聖書そのものを読む事に「携帯版に市場性を持たせている集団と比較する限りは」熱心さで及ばないということになります。理由は幾つか思い当ります。

信仰生活における「ナマ聖書」の比重

 新共同訳聖書の客層は半分はカトリックです。いえ、わが国での教勢分布がほぼ半々とすると、プロテスタント側には新改訳を用いる群れが別にあるので、むしろカトリックのほうが多いかもしれません。カトリック側の翻訳としては、ラゲ訳、バルバロ訳、フランシスコ会訳、などがありますが、今はミサに用いる訳としては新共同訳になっています。

 しかし、誤解を恐れずに言いますと、カトリックの信者ってあんまり聖書読まないんですよね。ミサでは確かに聖書が読まれ、説教がなされます。しかし、聖句は式次第に載ってますので、特に聖書を持ってはこなくても済みます。自宅にあるのも「電話帳」や「百科辞典」のような「一家に一冊」の聖書だったりで「自分の聖書」というものがないことがあります。これを他教派の視点であたかも不勉強・不熱心のように語るのはむしろ不寛容・無教養な事で慎まねばなりません。彼等は典礼と、なによりミサの聖体によって活かされています。そう言う霊的ライフスタイルなのです。

 そして、以前からのJBSの主な客先である伝統的主流派のプロテスタントですが、勿論、これはカトリックとは比較にならない時間を裂いて聖書に触れます。カトリックの伝統からずいぶんいろいろ切捨てましたので、結果として聖書が占める割合と価値が高まっていることと、「万人祭司」の思想により平信徒もよく勉強するからです。聖書は当然信徒の人数分、ヘタをするとそれを大幅に上回る数が家庭にあったりします(たとえば、ウチは3世帯に離散してる6人家族ですが、様々な翻訳を合わせてまず確実に50冊はありますね)。

 でも、この層は、先ほどの「カトリックは聖体に養われている」という云い方に合わせると「神の言葉の再話である説教によって活かされている」といえます。信仰に関する書物や説教集はよく読みます。「日々の聖句」的な冊子を用いるのも一般的です。しかし、もって歩くほど聖書そのものを読むかというとそうではない。理由は簡単で、時間は有限ですから、副読本読んでると聖書読む時間が削れるんです。また、毎主日の説教にそれなりのボリュームがあれば、ソレで一週間生きられてしまうんですね。

信徒の高齢化

 もっと別の要因も考えられます。思うに、新共同訳の客層は高齢化していて、小さい活字に耐えられないのではないでしょうか。そう、伝統的主流派の信徒は「戦後のどさくさ」以降、世代交代が順調に行なわれていないのではないかと思われるのです。献身者(牧師を志す者)が減っている、という危機意識が叫ばれ出してから久しいですが、これは単に母集団となる若年層が減っているということです。牧師が高齢化・引退して減る一方で大変だー、っていっても、多分信徒も高齢化して教会も廃統合されていくでしょうから、需給バランスだけは保たれるのでそれほど大変なことにはならないと思います。それ自体が大変だ、という話はともかく。

 また、これは口語訳時代にはB7ミニ聖書が存在していたことともよく符合しますし、聖書と並ぶ信仰生活必需品の讃美歌にも全く同じ傾向が現われています。第四版讃美歌(讃美歌21の1つ前の、2001年現在依然あちこちで使われ続けている版)にはかつてミニ聖書と同じB7判(B7判クロス装インデア紙讃美歌 170g)があったのですが、ここ10年ほどは版元品切れていました。つまり、みんなまだ若くてそれが読めた頃は売れたものが、売れなくなってしまった。売れないものは刷らない。実に判りやすい話です。

おまけ

 となると。じゃあ、携帯してまで熱心に聖書を読む人たちとは、一体? という問いが生まれます。それはつまり、若くて細かい字が読め、典礼・聖体で生きてなくて、説教でも生きてない=それで生きられるだけの霊性を備えていない説教しか聞けていない、しかもそれ以外に霊的食物を補給する手段を持たない人々、という結論に、自動的になります。出される料理に栄養価がないので、ナマで食材齧るところまで霊的に飢えている、なんかそんな感じです。…はい、これは勿論、一部教派の説教のクオリティを批判しているんですよ。

 そうそう、いま一番小さくて軽い日本語旧新約聖書はなんだかご存知ですか? 実は「ミニ新世界訳 DLbi25-j B7強 285g」です。これは、小さすぎて、訪問先で他人に示すには適しません。明らかに個人用です。彼らには需要があるんです(人が入れ替わっているので全体に若い、ということもあるのでしょうが)。ねー、みなさん、「あの人たち」には負けたくない、と思いません?


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