The Universe    VOL.3

森 羅 万 象
いま 日本人に思うこと
木は切らない プレゼント   浅草待乳山今昔   雪雲に覆われて

いま 日本人に思うこと


国際的に見て いまの日本人に一番欠けてるものはなに? なんでしょうかね〜難しい問題です。 心のゆとりかな〜? 
慌ただしい日常生活。。。 何をするにもまずはお金、お金がないと何もできないような仕組み…。
カナダとの比較しかできませんが、たとえばトロントだったら 安く受講できる夜のクラスがたくさんあって多くの人達が
夜のクラスを受講しています。ちなみに私はスペイン語を 受講しました。
クラスメイトも若者から70代くらいの人達までいて楽しかったですよ 先生もステキだったし。。。
友達はアクセサリーやお料理のクラス、ホームステイ先の おばあさんもブリッジ(カードゲーム)、ラインダン ス、エアロビクス、
地理のクラスを受講したりと大忙しで食事の用意をして毎夜自分の趣味に 時間を費やしていました。
それ以外にも週に1回は映画を見に行ったり(会員になると ちょっと古い映画が$2ぐらいで見られる、
(古いと行っても劇場公開後2〜3ヶ月の 古さ) 日本ではこのような暮らしをしている人 何人いるでしょうか? 
彼女が特 別でもなく 他にも大勢の人が興味さえあれば、そんなにお金を使わなくても楽しめます。
各エリアにはコミュニティセンターがあり無料でスポーツも楽しめます。 私はバレー ボル& 水泳(水遊び)に何度か行きました。
日本……
働いていると時間におわれ暇などありませんが、たとえば 働いていないとしたら毎日何して過ごせるでしょうか?
ちょっと美術館に行っても、何かのエキシビジョンに行っても、映画ひとつにしても ¥1000では入場料にもりません。
トロントの場合日中18:00までは 映画は全て半額 週に一度は終日半額、
美術館にしてもアートギャラリーにしても ほとんどの場所が週に一度は無料の日があります。
図書館にはインターネットが無料 で使え e-mailもただで使用できます。お天気のいい日は公園をブラブラ歩いてもいいし
夏の間は無料のジャズコンサートをはじめ無料で楽しめるた〜くさんの イベントで楽しみがいっぱい。
結構お金をかけなくても十分に楽しめます。
でもカナダの27分の1の国土、それに対して4倍の人口、人が多すぎて 優雅に楽しめる訳もありませんよね。
東京は何処に行っても人、人の行列 時にはコーヒー一杯飲むのにも行列、たまりませんね。。。ストレスです。
あ〜思い出すとトロントが恋しくなってきました。

いつも思うこと。。。どーして日本人はブランドに弱いのでしょうかね〜?
何かで読んだことがあるけど、日本人の意識の中に自分の生活レベルは 中流=みんな同じと思っている人が大半を占め、
ブランド物を身に着けることによって 差別化したいと言う意識がある、たとえばTシャツ一つにしてもスーパーの安いTシ ャツよりも
シャネルマークの入ったTシャツを着ることにより私はあなたよりも格が上というか 優越感に 浸れると言うか・・・
極端に言えば内容より(クオリティー)も外観重視の社会、 全くその通りだと思います。
私も以前はチョットは気にしましたが(なぜならやはり ブランド 格好良く見えた。。。。)今は全くブランドにこだわりはありません。
ブランド=全て が高品質とは限らないと思うから……、
日本は一点豪華主義なんて言葉があるぐらいで 普通の格好に(時にはスーパーの980円ぐらいのTシャツに)
ヴィトンのバックを持っていたりしてとってもアンバランス。
欧米人の場合トータル コーディネイトと 言うのかな〜バックが高価だったら靴も洋服もアクセサリーも・・・という風に
全て がそれ相応で ないとダメと言う考えなので、それなりのコーディネートができないのなら身につけない と言うのが 考えです。
極端に言えばブランド=お金持ちの人のみ身につける物、是も根底には 階級制度からきている物なのでしょうか? 
それにアンチブランドの人が結構多く「 高いお金を出してロゴ入りの物を買い、ただでブランドの宣伝をしてあげるなんて ごめんだ〜」
言われてみれば、納得です。
洋服以外にも、いかにして有名校に入るかとか 何処そこのレストランの○○がおいしいとか、マスコミでやたらに取り上げられている
話題が平和だな〜と思う、そんなことどーでもいいような気がする。
毎日ニュースで取り上げられているコソボ問題にしてもニュースではそこそこ取り上げて いるものの その一方ワイドショーでは
野村監督の奥さんことサッチーと○○が女の熾烈な戦い、 ○○と○○が離婚とかく〜〜だらない事を放映している。
世界では飢えに苦しみ 戦争に巻き込まれ、多くの尊い人の命が奪われている現実をメディアを通してもっと 伝えるべきだと思います。
そしてもっと多くの人が狭い日本の中での出来事だけではなく もっと世界の出来事に目を向けるべきだとおもいます。
情報が、物があふれる日本。 欲しい物は何でも手に入る日本
若者は我慢と言う言葉を知らない人が多い  だからしたい放題やりたい放題、学校の先生が生徒の暴力が恐くて 教壇に立てなくなり、
登校拒否?になった先生の数の多さ(先日のあるTV番組で特集 をしていた)。驚きである。
私が学生の頃は先生は尊敬されるべき存在であり先生に 暴力を振るうなど 思って見たこともない。
原点に返ってもう少しハングリー精神を味わった方がいいの では、
貧しく暮らすと言う意味ではなくもっと物を大切にする、感謝の心を忘れない。。。。
きっと小田さんが育った頃はもっと平和で人の温かさを社会に感じたのではないでし ょうか?
便利さと引き替えに失ってきた物はより多いと思います。自然破壊、環境問題 (ゴミ問題も含め)………
現にe-mailがなかった時代人々のコミュニケーションは 手紙だったり電話だったりもっと人とのふれあいがありましたよね。

小さな南の国で日の出、日の入りを時計代わりに。。。テレビもいらない 車も走っていないそんなところ(でも電気と水道はあって欲しいな)
素朴での〜んびりした暮らしをしてみたいですね。まるでお年寄りのようでしょうかね? 日本ではこんなところ見つからないでしょうね?
どんな田舎に行っても最近ではコンビニがあるぐらいですからね。 なんだか思いついたままに書いてしまいました。
いつも日本を批判しているように思われてるかも知れませんが 国外にでてみて初めて気づいた日本の良いところもたくさんありますよ。
英語でも”隣の芝生は青く見える”のような意味のことわざがあります。 万国共通 ないものねだりなのでしょうか?

                                                                    


“木は切らない 紙は紙から作ろう”

昨年アフリカで開かれた子供環境会議が 世界の為政者に発した宣言! 
世界の子供 たちが集まって環境問題を話し合っている 姿にうたれた 
真剣さと そしてそこに 「楽しさ」をも持たないとこの問題に対する活動は続かないことを教えてくれた 
日 本の女の子が演壇に立つ 日課として愛犬を散歩に連れ出す ある日糞を手で処理す る羽目になった
そこで彼女は 再生紙を使って紙の「糞採りスコップ」を考案する 
いま彼女は「社 長」で その製品は数万個の販売実績を持つと言う

インドの子達の寸劇 猫がネズミを食べようとする
「汚染された僕を食べると君の命 が…」とネズミ 「逃れようとしてそんな事を言ってるな」と猫
結局有害物質に汚染されたネズミを食べた猫は やがて死ぬ
「工場は害毒を垂れ流す やめろ!STOP!STOP!STOP!」 と猫の飼い主が叫ぶ 

ヒョウになった子 工場主になった子 住民になった子 それそれの立場に立って議 論をしてみる子供達の輪
 結論は 答えは 出ない環境問題 
環境問題に限らずその立場になって考えることは 何よりも先に始める ことだろう

ケニヤのストリートチルドレン 親も家も仕事もなく路上生活をしている子達だ 
周 辺にある野菜や食料品を売る青空市場から出る「生ゴミ」をボランティアの力を借り て集める 
それを隣地の空き地に山積みして2〜6ヶ月で肥料にする 
それを一人1 kgづつ分けて換金する約40円 中古のTシャツ或いは昼食一回分だという
この活動で この市場のゴミ処理の解決 子達の生活意欲向上が持てた 
そしてこの 子達の素晴らしい発想は このゴミの中から堆肥にならないビニール袋等を分別し
堅 く丸めてひもで括り なんとサッカーボールにしてサッカーに興じるのである

アサンテ・サーナ(ありがとう)と明るい澄んだ目の子供達は別れる

TV画面を見ながら 考えること山積の今日この頃        
                                                 
h.o

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プ レ ゼ ン ト

4/20 締め切りました
多数のご応募ありがとうございました




浅草 待乳山聖天 今昔

《正面は待乳山を見渡す隅田川には夕風を孕んだ帆かけ船が頻りに動いて行く。
水の面の黄昏れるにつれて
鴎の羽の色が際立って白く見える。
宗匠はこの景色を見ると時候はちがうけれど

酒なくて何の己れが桜かなと急に一杯傾けたくなったのである。》

永井荷風著「すみだ川」の一節……

読んだら 久しぶりに浅草の待乳山に歩が進んだ
荷風は4年10ヶ月に亘るアメリカ フランス滞在から帰国 1年後にこれを書く 時に1909年
隅田川 中編小説「すみだ川」に描かれた情景は 外遊前の描写とされるから 1904年頃の隅田川辺りのようすだ 
「一杯傾けたくなった」茶屋の辺りに行ってみよう
 10余年前に出来た桜橋を渡る

頭上は首都高速 高架道を車が間を置かず走っている 
岸に立つと両岸は水面から かなりの高さのコンクリートの
護岸が続く その外側に(水面近くに)

遊歩道が造られている 石畳風のそれは洒落ている 
が青いビニールシートで作られた
箱形の家?が
点在する(おそらく)何キロにもわたって……

いわゆるホームレスの人達の居住区?になっていた
正面には微かに 待乳山聖天の瓦屋根が梢の先に光っていた





《《《休茶屋の女房が縁の厚い底の上がったコップについで出す冷酒を羅月はぐいと飲み干して



 そのまま竹屋の渡し船に乗った》》》  
竹屋の渡し碑聖天

今戸で常磐津の師匠をしている妹お豊のところへ行くために 徘徊師 
松風庵羅月は渡し船に乗った


再び桜橋を渡る 渡し船が着いたと思われる場所に行く 「竹屋の渡し」の碑がポツンと建っていた 

その延長線上に待乳山聖天がある 小高い(10m弱)の聖天からの
眺望は和やかな風景だったのだろう 

当時は仲見世風な町並みで賑やかな模様が 絵図として残っている 
今は全く面影はない


境内には江戸時代の名残をとどめる唯一の築地塀(ついじ)と呼ばれる
築地塀 広重の錦絵にも描かれた土塀がある 全長45.5m
 当時を偲ばせる情緒ある一角だ


4〜50年前までは隅田川は下町の輸送路としても重要な役割があった 

竹屋の渡し近くに 堀が開いていた それが「山谷堀」だ 堀に入ってすぐの橋が
「今戸橋」

今この堀は暗渠になっていて上は細長い公園になっている かっては山谷堀を船で7〜800m行くと山谷堀プレート
「吉原大門」に着く この遊郭に豪勢に船で繰り出す様が記録にある
この山谷堀に沿うように延びているのが 今でも「馬道」と呼ばれる道路 吉原で散財の果て
遊銭が足りず「つけ馬」を連れ帰路に就く人達が通った事から 
この名が付いたとされる

余談だが つい先頃まで東京遊覧バスのコースにもなっていて
“花魁道中ショー”が行われていた江戸時代から有名なお茶屋 
松葉屋が私の訪れたとき取り壊しの最中だった
時代の流れを…

《《《山谷堀から今戸橋の向こうに開ける隅田川の景色を
見ると、どうしても暫く

立ち止まらずにはいられなくなった。》》》

隅田川
と描写された情景は もう想像も難しくなってきた
 公園に変貌した山谷堀に水面はない 

今戸橋の名の入った石柱は残っているが 隅田川への
視界は開けていない 
90余年前の情景は
 既に小説の中のみになってしまったが 碑やプレートは随所にあるので
散策しながら 往時を偲ぶ愉しみはある


近世だけでも 関東大震災 東京大空襲等でこの辺りは
壊滅を繰り返し 時移り人変わり 
浅草界隈も刻々と変貌を遂げている

ただこの下町 たくさんの歴史を秘めてその奥深さは はかりしれない


☆☆ 永井荷風(1879−1959) ☆☆

治 大正 昭和の小説家 東京小石川に生まれる
1903〜1908年アメリカ フランスに遊び 帰国後「あめりか物語」「ふらんす物語「すみだ川」
等を書き流行作家になる 作風はヨーロッパ風から江戸趣味に移行して行く
大正期 「腕くらべ」で大家の地位を確立 またボードレール ベルレーヌ レニエらの
フランス象徴詩の名訳で 詩人 フランス文学者の一面もある
1952年文化勲章受勲 翌年芸術院会員となる 晩年は千葉県市川市で奇行に富む
自炊生活を送り 話題をまいた

☆☆ 隅田川 ☆☆
   
荒川から分かれ東京湾に注ぐ この川に架かる 下流から 勝鬨橋 佃大橋 永代橋 隅田川大橋 清洲橋

 新大橋 両国橋 蔵前橋 厩橋 駒形橋 吾妻橋 言問橋 桜橋 白髭橋 水神大橋 千住大橋と
数多の形状をした橋は都民に親しまれている 近年水質も改善され春には桜 また鮭の稚魚の放流も
されているようだ 夏には両国の花火大会 レガッタ そして遊覧船(水上バス)も浮かび
 高層ビルに両岸を囲まれ 現代の隅田川の情景をなしている

☆☆ 待乳山聖天 ☆☆
   
言問橋の上流 隅田川より少し奥まったところにあり 海抜9.5m 3,000u程の丘の上に建てられ 

正しくは「待乳本龍院」浅草寺の支院 地元では待乳山聖天と呼び親しんでいる
今は鉄筋建てだが 1945年の東京大空襲で焼失するまでは 木造だった
   古くは錦絵や 荷風の「すみだ川」に描かれてるように 絶好のビューポイントだったようだ 
文人墨客が好んで親しんだ

☆☆ 山谷堀 ☆☆

山谷堀がいつ頃掘られたかははっきりしない 江戸初期と推定されている
北区の音無川を源とし飛鳥山の北側 王子権現の下を経て通じていた
堀の下流から 今戸橋 聖天橋 吉野橋 正法寺橋 山谷堀橋 紙洗橋 地方新橋 地方橋 日本堤橋
九つの橋があったが 埋め立て 渠上公園になった今は 橋台のみが昔日の面影を残している 

☆☆ 言問橋 ☆☆
   
《名にしおはば いざ言問わん みやこどり わがおもうひとの ありやなしやと》
詠われた古歌(825〜880年)に因んで付けられた橋名
   古来 詩歌 小説によく出てくる いま橋上は時を問わず車のラッシュ
   都鳥とはゆりかもめのこと 東京湾 新副都心を循環する新交通の名称にもなっている
   鴎は今も言問橋や桜橋にたくさん飛んでいる
 


 
雪雲に覆われて


’95年に当地(秋田鹿角)に移り住んだ最初の冬 「何十年振りの雪」
初対面の雪はパウダースノーで実に細やかで真っ白なものものだった
無音の世界に唯降り続くヴァージンスノーを眺めて幽玄の界に夢遊しているようだ
音のない世界。その無音の中に妙なる調べが聴こえてくる来る様な境地.....
幻想的と言うか神々しいと言うか......
雪と戯れてソリのゲレンデを造ったりかまくらを作ったり、童心に帰ったものです。
翌年からは暖冬で濡れ雪になり、詩情を誘う様なものではなく、単にやっかいもの、と言うものでしかなかった。
しかしながら雪の体験の無い者にとっては吹雪すらも珍しく雪の中を歩いたものだった。
往復15km 地吹雪で一瞬なにも見えなくなる事もしばしばです。
強風の時は体感温度も相当きつく顔が痛い程です。 吐く息や体温で溶けた雪が凍り
髭がバリバリになります   さて、今年 ’95に勝るとも劣らずの多雪です
でも気紛れで雨さえ降り3月、4月の様な日々もあります
この地では冬の期間は徹底して冬らしくないといろいろ困った問題が起こるのです
雪崩が起きたり、融けた雪が凍って凹凸のアイスバーンになり歩行や交通に様々な支障をきたす。
2月17日までに 今期雪による交通事故以外の事故件数44件、死者4名、怪我47名(報道)とか
 屋根の雪おろし中落下とか屋根からの溶雪に依るもの等。

雪国の雪対策費は膨大なもの。 街区の家々では雪をトラックで川まで捨てに行くのです。
車は市で無料で貸与してくれる。  
どんなに雪が降ろうと車はなんの不自由もなく走れます。
裏道の場合、一晩に40〜50cm降雪時除雪が遅れる場合があります。通学路、病院
その他のアクセス路優先ですから、国道、県道、市道は24時間常に完璧です 
12月〜3月までは作物は作れないし 雪国ではこれだけの重荷を負っています。
 
朝日を受けて輝く細雪の浮遊はダ イヤモンドシャワ-とも呼ぶような光景。
快晴の日、斜光に依る雪面に水晶の粉をまき散らしたような反射光、風に飛ぶ雪煙、無風時の一時の煙霧、
夕暮れ時落日を受け白雲がサングラスを通して多色のグラデーション、
やがて西空に宵の明星が輝きまだ青さの残る中空に飛行機が銀色に輝き行き、更に暮れなずむと
東の空にいくつもの星達が光を放ち始める、光の饗宴は除雪で疲労の身に
妙なる安らぎを感じさせるものです。

ラベルのボレロの様に間断なく降り来る雪の中、神秘的な響きが心に生じるもの。名状し難い心象風景です。
雪の粒子と粒子に間隙が無い程猛烈な量の雪、その他千変万化の情景。
皆素晴らしいけれど時には雪の無いところが羨ましい。 
前は海、後は山の温暖の地に移住したいとか
カナダ、オーストラリアの様な広大な所とかヨーロッパとかにも住んでみたい....

北の国で思うこと限り無しです。

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