利根川・江戸川

忍城(おしじょう)・ 石田堤・さきたま古墳群・関宿城

サイクリング

2013年9月22日(日)、グリーンウッド氏は忍城(おしじょう)・石田堤・関宿城見物サイクリングにブロンプトンを持ってでかけた。 忍城は関東七名城の一つで石田光成が1588年に10日で27キロの堤をきずいて水攻めにしたが落ちなかった城である。決壊した石田堤も観たいとおもったからだ。石田 光成が本陣と した 丸墓山古墳も目的であった。ついでに徳川家康の1621 -1654年の大土木工事をみたいという目的であった。これから温暖化による豪雨が襲い利根川のスーパー堤防が決壊すれば巨大ダムの崩壊や津波と同じよう に10万人オーダーの死者がでる災害となろう。その備えがあるかも確認したかった。

実は21日(土)朝6:00に起床したのだが、前輪の空気が抜けていたので1日伸ばし、自転車は腰越の平戸林業に持ち込んでタイヤを外してチェックしても らった。前のパンクの修理のあとにもう一度穴が開いていたという。小さな刺がタイヤに残っていたという。前のパンクは私は知らないので1年以上もま えのことか?



使ったブロンプトン

6:00起床、江ノ電で藤沢に出る。少し時間があったのでホームでおむすび2個の朝食。

東海道藤沢駅JR湘南新宿ライン快速・籠原行7:32→9:31高崎線北鴻巣下車。2時間の直通電車である。駅前でブロンプトン展開。

ところで北鴻巣からは坂東11番の吉見観音が近い。

袋と堤根の石 田堤、

北鴻巣駅より少し熊谷よりの道を北上すると新幹線をくぐった少し先の忍川の西側に吹上町袋の石田堤史跡公園がある。石田堤は南西の方向に伸 びている。忍川で堤はクの字に折れ曲がり、東側では川に沿って北上する。下のグーグル航空写真に忍野川横断点でクの字に折れ曲がった堤の姿が見てとれ る。水攻めのときはこの忍川もせき止めたのかという疑問が生まれる。しかし家康が熊谷の南側の久下の開削を行って荒川を大宮台地の西を流れる入間川の支流 の和田吉野川に付け替える前は荒川は熊谷から行田市にむかって現在の忍川の流域を東にながれてから大宮台地の東側を綾瀬川として流れ下っていたのだ。石田 堤はこの旧荒川の流れをせき止めるように構築されたことが分かる。現在の忍川は行田の南側に移動させられたので忍川も南に向かってながれるようになったの だろう。


大きな地図で見る

新幹線工事でこの堤は切断されているが、その切断面をみせてくれている。石田光成が米1升と引き換えに買ったという土を入れた俵のモデルが 新幹線の陸橋の下に展示 してある。後日新幹線の車窓からも確認。



高い堤が残る
忍川西側の吹上町袋の石田堤 遠方に新幹線が見える

グーグル航空写真の一番下に集合住宅が写っているがこれは上の写真の集合住宅だ。忍川東側の行田市堤根にも堤がのこっていて松並木になって いる。ここはかって裏日光街道になっていたという。



松並木の残る忍川の東側の石田堤

この並木の延長上にそのまま北上する。水田の畔には彼岸花は咲き誇っていた。昔、人々は飢饉にそなえたのだろう。相当はしったのに、いつになってもさきた ま古墳群に行き当たらないどころか道は次第に西に曲がっている。アンドロイド内臓GPSで チェックするといつの 間にか忍野川の西側にいて、さきたま古墳群は後方にあることに気が付く。熊谷バイパス横断直後、道は忍野川を斜めに渡っていたことに気が付かなかったので ある。急きょ反転して忍野川と武蔵水路を渡って、さきたま古墳群に向かう。

あとでこの武蔵水路は利根大堰で利根川から取水した水を荒川に送り最終的に東京都の飲料水とする重要な用水路と知る。


さきたま古墳群

さきたま古墳群に は日本最大の円墳である6世紀前半の丸墓山古墳と6個の前方後円墳がある。今日のお目当ては石田光成が指揮をとった丸墓山古墳のため、ほかの古墳はパスで ある。 なかんずく二子山古墳は水を抜いて修復中と新聞で報じられていたが目もくれない。丸墓山古墳への道は土手のように小高い。もしや石田堤ではないかとおもっ たら案の定そうだった。フェンスの杭にブロンプトンを施錠して古墳に登る。



丸墓山古墳

丸墓山古墳の頂上からは西方に忍城が見える。じつは肉眼ではみえず。カメラで確認した次第。水攻めの頃は忍城は沼地の小高いところにあったため、秀吉の発 案とい う水攻めは有効ではなく。落城させることはできなかったという。現在は深い水路を掘削して地下水位をさげているためどこにも水溜りは見えない。



丸墓山古墳の頂上から望む忍城

丸墓山古墳の頂上から東側に稲荷山古墳と将軍山古墳が見えた。稲荷山古墳は埼玉古墳群中では最初に築造され、5世紀後半と考えられている。前方部分は、 1937年に周辺の沼地 の干拓工事の際に埋め立て用の土として取り崩された。その後2003年に復元された。国宝金錯銘鉄剣が出土している。 将軍山古墳は6世紀末の建造だ。明 治期に発掘され、その後、原型をとどめないほどあれていたそうだが最近修復したという。この周辺は昔から豊かで権力の集中があったのだろう。



稲荷山古墳


将軍山古墳

水城公園

忍城が取り壊されたあと、お堀の跡が、忍沼と呼ばれる大きな沼であった。その沼が埋め立てられて現在の市役所や市立体育館が作られ、末端部 分が「水城公園」として開園したという。水城公園はアングラーのメッカらしい。



水城公園

忍城

成田氏の城で石田光成の水攻めで落城しなかった忍城はフェイクで狭いところにある。時間がないので郷土博 物館はパス。



忍城

昼食も駅前でとおもい、秩父鉄道行田市駅に向かう。午前中の走行距離は13km。

行田市駅は通勤客が使わないため、駅前も駅自体もさびれて売店はない。やむを得ずブロン プトンを抱えて階段を下り、セブンイレブンまで戻って弁当を買う。ホームで昼食をと思っていたところ1本まえの電車がきたのでそれに乗る。秩父鉄道行田市 駅で羽生行に乗車12:15→12:28羽生駅12:45で東武伊勢崎線にのりかえ久喜下車13:03。

徳川家康の大土木工事

家康の大土木工事とはまず利根川(赤)を渡良瀬川(青)につなぎ、次に渡良瀬川が東にながれるのを邪魔していた猿島台地を横断する人口川を開削して利根川 と渡良瀬川の水を鬼怒川の支流である常陸川(緑)に流し込むことを成功させ、利根川を江戸湾ではなく太平洋にそそぐ大工事であった。とても石田堤の比では ない。現在のスーパー堤防までに移動した土の量は世界一の量であるという。たしかに関宿橋の袂の堤防は巨大だ。



家康の大土木工事

家康がのこしたリスク

これが決壊したら家康前の利根川、太日川(江戸川)流域、の幸手(さって)、杉戸、庄和などの現埼玉県東部は水の下といい うことになろう。庄和には巨大な 揚水ポンプもあるが、溜まった水を時間かけてくみ上げる能力しかないし、停電したらポンプも動かない。津波と同じ犠牲者がでるであろう。問題は人々にその 意識がないことだ。政府は地震と津波など自然災害については情報を多数だして住民教育に熱心だが、原発、ダム、スーパー堤防など人工物の決壊の危険性につ いての警告は出していない。むしろ安全神話をつくろうとしているかのうように見える。こうしていずれ人災というものが発生するのだろう。そしてその発生確 率は戦争と同じくべき分布になるのだ。スーパー堤防の弱点は漏水だ。よく外国で決壊事故が報じられるロックフィルダムは粘土層で水漏れするが、利根川の堤 の古い層に漏水の弱点が残っているときく。堤防をかさ上げしても、見かけの安心がますだけ。まさに砂上の楼閣だ。今回も自転車専用道路が橋の下をくぐる 時、土手の中段まで下がる。そこで水が自転車道に溜まっていてギクリとしたが、どう雨水が溜まっていたようだ。人為的かどうかは兎も角、自然現象として 10万年まえの温暖化のような現象が起こっていることはたしかで、家康以来の大豪雨で決壊というシナリオもないとはいえまい。

猿島台地

下のグーグルマップは猿島郡五霞町という平行四辺形の領域を表示している。上辺が新利根川、西辺は旧利根川(権現堂川)、下辺は中川、右辺は江 戸川である。五霞町は 今も茨城県だ。これは家康前に利根川が権現堂川を流れていた記憶をとどめている。猿島台地とは猿島郡五霞町そのものだ。五霞町の右に見えるのが千葉県野 田市である。江戸の水運は銚子から利根川を遡上し、江戸川に入って江戸に下るというものであった。関宿城はこの要地にあるわけである。関宿水閘門も江戸川 入り口に見える。クローズアップしてもらえればよい。


大きな地図で見る

関宿橋

久喜から幸手久喜線(153号)と境杉戸線(26号)経由関宿城に向 かう。自動車道路は疲れるし、最後の江戸川のスーパー堤防に登る坂道では足の痙攣が発生。歩いて登った。雨滴が数滴おちてきたが、幸い夕立にはならなかっ た。関宿橋の袂には中川の水を江戸川に汲み上げる巨大なポンプ場がある。この水位をみれば江戸川は天井川だということが分かる。



関宿橋からみる満々と水を湛えた江戸川

関宿橋を渡ってからは関宿城までは堤防の上の自転車専用道路をゆく。実に快適。堤防は本質的に水平なので登りの苦労もない。これなら江戸川の土手沿いに東 京まで下れる。久喜から関宿城までの走行 距離は17kmであった。

関宿城

戦国時代末期には、北条方と上杉方の間で激しい争奪戦が繰り広げられた。北条氏康・氏政・氏照父子が、上杉謙信・佐竹義重の援助を受けた簗田晴助の守る関 宿城を、3度に渡り攻撃。最終的には北条氏がこれを制し、北関東進出の拠点とした。

利根川と江戸川が合分流する地点の微高地に築かれ、水に守られた要害であるとともに古くから水上交通の要衝として栄えた。現在は、河川改修とスーパー堤防 によって城地の殆どは河川や堤防の下になっている。



堤防の上に再現された関宿城

関宿水閘門


利根側から江戸川の水を分水する関宿水門の上を自転車で渡る。水門は、江戸川への水量を調節するために1918年に着工し、1927年3月31日に完成し た。当時の日本は、大型建造物がレンガ造りからコンクリート造りへと移り変わりつつある時代で、コンクリート造りの関宿水閘門は当時の建築技術を知る上で も貴重な建造物で、土木学会選奨土木遺産に認定されている。水門はディーゼルエンジン駆動(設置当時は蒸気エンジン駆動)による八門のゲートを備えてい る。歩行者や自転車は水門の上を通って対岸へ往き来できるが、一般車両の通行は出来ない。



関宿水門

水門と平行して水運のための閘門(ロック)も備わっている。閘門は船舶の航行を可能にするため水位を調節する役目を持っている。合掌式の門扉4枚を備え (幅4.92m、扉高8.54m)開閉は人力である。扉は上流に向けて開閉する。稼働できるというが使われていない。



閘門(ロック)

五霞町


関宿水閘門から栗橋駅まで10kmを利根川南岸の五霞町(ごかまち)の堤防の上を走った。利根川の本流は北 岸をえぐっているため、南岸の河床は洲になっている。このところの豪雨でこの洲の上を川水が流れた跡がみえる。そしてこの洲の土を掘削するための大型土木 機会が休日のため、多数放置してあった。営々として税金が投入されているのが分かる。また新しい橋が建設中であった。

かって掘削した猿島台地なるものが視認できるのかと目を凝らしたがどうも東北新幹線の鉄橋のあるあたりが猿島台地があったところと推定される。大型機械も ない時代にここを掘削したのだ。



利根川にかかる東北新幹線鉄橋

利根川橋の袂で自転車道路は途切れている。海から130kmとある。(たぶん東京湾からの距離であろう)ここはかって日光街道にあった栗橋関所跡があった という。実際には今の堤防の内側のようだ。房川渡(ぼうせんのわた し)と呼ばれる舟渡しが利用された。堤防の外側ではちょうど発掘調査が行われていた。

本日の総走行距離は40km。

予定より1時間早く16:41東北本線(宇都宮線)栗橋でJR湘南新宿ライン逗子行→18:46鎌倉

金峰山登山では 筋肉痛はなかったが、この40kmサイクリング後は筋肉痛が残った。

今後のサイクリング案

今回の経験から土手の上の自転車専用道路なら40kmは軽くゆけるのではないかと思う。鉄道から近いところがよいのでの下記案が浮かん だ。

<利根川・関宿城・江戸川>総走行距離39km

青葉台駅8:12田園都市線急行久喜行⇒9:55春日部駅9:58東武スカイツリーライン区間準急・館林行10:39羽生→30km→関宿城・鈴木貫太郎 記念館→三郷幸手自転車道→9km→東武野田線南桜井駅⇒大宮駅

東武野田線南桜井駅周辺は江戸川と中川、大落古利根川にはさまれた低平地中川、倉松川、大落古利根川の余剰水を一旦地下貯槽に落とし。庄和町の排水機 場ポンプから江戸川に放水流する首都圏外郭放水路の出口となっているので埼玉県東部と東京を洪水から救い出す巨額の投資が見れて興味深いだろ う。庄和排水機場内 龍Q館 2Fに予め予約すれば地下を見学できる。

<江戸川>

大宮駅⇒東武野田線南桜井駅→三郷幸手自転車道13km→武蔵野線三郷駅→三郷幸手自転車道6km→常磐 線金町駅

<利根運河>総走行距離16km

東武野田線運河駅は中間点であるので利根川のロックまで5km、江戸川まで3km。

印旛疏水路>総走行距 離45km、 長すぎるので京成本線臼井駅で2等分するか花見川は省略すると良い。

JR成田線安食(あじき)駅→3km→長門川公園→2km→印旛沼北部調整池→印旛沼サイクリングロード14km→印旛沼 西部調整池→八千代印旛栄自転車道路8km→新川遊歩道路4km→花見川サイクリングコース14km→京葉線京葉幕張駅

September 25, 2013

Rev .November16, 2018


トッ プページへ