メモ

シリアル番号 表題 日付

1080

猿島台地・下総台地

2006/10/23

渡良瀬川と利根川の東遷

江戸時代はじめには関東平野を流れ下ってくる渡良瀬川は太日川となって東京湾に、利根川(旧会の川)は秩父地方から流れ出る荒川(綾瀬川)と入間川と合流して隅田川となって東京湾にそそいでいた。いずれも上流では猿島台地、下流では下総台地が邪魔になって直接太平洋には流れることはできなかったためである。

しかし家康は水運のため、水田開発のため、江戸を洪水から守るために利根川本流の「東遷」を方針とした。

同じように1605-1611年に伊達政宗によって新田開発と洪水防止目的で自然の川の付け替えが北上川でも行われている。明治に入り石巻湾に流れ込んでいた北上川を東進させ金華山の北で太平洋に流れ込むようにした工事である。

1594年に利根川(旧会の川)を締め切る。

1621年には新川通りを開削して渡良瀬川と合流させた。

1621-1654年に猿島台地に赤堀川を開削して権現堂川を仕切り、利根川と渡良瀬川の水を鬼怒川の支流である常陸川に流し込むことに成功。ここ が東遷させるうえで技術的にもっとも難しいポイントであった。元来川筋でない台地を深く掘削しなければならなかったからである。こうして利根川は常陸川に 流れ込み、最終的には鬼怒川と合流して銚子から太平洋にそそぐことになるのである。東北新幹線が利根川を渡るところが権現堂川を仕切っって赤堀川を開削開 始した地点である。

水運の便

1635-1641年には猿島台地に江戸川開削をして利根川と渡良瀬川の水の一部を太日川に流してこれを江戸川とし、水運の便を計った。これは当時逆川と呼ばれ、そのほとりに関宿城があった。 船は銚子から利根川を関宿城まで遡り、江戸川を下ったのである。野田は中継基地として栄えた。かっての逆川は現在では江戸川の最上流部となっている。関宿城は小田原北条氏と徳川氏によって坂東を押さえる重要拠点とされたが、今は廃墟となって、近くに関宿城博物館がある。

常陸川といっても多くの沼沢地が連なったものであったため、水運にはまだ水量が不足した。そこで鬼怒川を寺畑(谷和原村)で小貝川から切り離し、台地を掘削して野木崎で常陸川に流し込み、 下流を絞って、水深を確保した。

荒川を大宮台地の西に

1629年には熊谷市の南にある久下(くげ)の開削を行って大宮台地の東を流れていた荒川を大宮台地の西を流れる入間川の支流の和田吉野川に付け替えている。

印旛疏水路

利根川の東遷と1783年の浅間山の噴火により縄文海進時代は海であった手賀沼、印旛沼、霞ヶ浦では排水不良でしばしば洪水が発生するようになった。そこで江戸幕府の田沼意次が印旛沼と東京湾に注ぐ花見川をつなぐ印旛疏水路を掘削しようとしたが失脚。 田沼意次の汚名は政治的につくられたものである。彼の悲願は第二次戦後完成した。ただ分水嶺を越える丘に掘削したため勾配が不足し、ポンプによってのみ水が東京湾に流れる。

明治以降の東遷の完結

1783年の浅間山噴による洪水、明治の日露戦争のために発生した足尾鉱毒事件から東京を守るためパナマ運河工事の土量を越える大規模な浚渫が実施され、利根川本流の「東遷」が確立された。

利根運河の開削

関 宿城まで遡るには水深不足で小型船しかつかえない。明治時代貨物の輸送量が増えたことから、この陸路でのショートカットの部分に運河を開削するという計画 が立てられた。調査にあたったのは、来日したオランダ人の土木技術者のヨハニス・デ・レーケである。この計画は公的事業としては採択されなかったため、民 間企業として建設すべく利根運河株式会社が設立され、結局1888年に着工され1890年に完成した。工事を監督したのは、1879年に来日したオランダ 人技術者のローウェンホルスト・ムルデルである(ムルデルの顕彰碑が、運河駅近傍の利根運河水辺公園に設置されている)。なお、この計画は、単に利根川と 江戸川を結ぶということだけではなく、茨城県沖の鹿島灘をショートカットする内陸水路の建設とも連携し、太平洋岸の水運を一気に改善しようという壮大な計 画の一環であった。開通直後には一日平均百隻を上回る輸送実績をあげたが、鉄道の敷設が進むにつれて貨物輸送は水運から鉄道へと移行し、先細りとなった。 最盛期は、開通から1910年頃までのわずか20年間程度であったとされる。通過貨物の減少に伴い、1944年には水運用の運河としての使命を終えた。

家康の残したリスク

終戦直後のカスリーン台風のときのように利根川が決壊したら家康前の利根川、太日川(江戸川)流域、の幸手(さって)、杉戸、庄和などの現埼玉県東部は水の下といいうことになろう。関宿橋の袂や庄和には巨大な 揚水ポンプもあるが、溜まった水を時間かけてくみ上げる能力しかないし、停電したらポンプも動かない。津波と同じ犠牲者がでるであろう。

大河川は100年に一度の大雨であふれない設計だ。そのためのメンテナンスをこれからの人口減の時代に維持できる保証はない。江戸時代までは地先治水が原 則だったが明治政府は強固な中央集権国家を作って国民は治水も水資源も国家がしてくれるという幻想をいだかせたらこの幻想は維持不能である。住民はもう国家は頼れない、これから洪水リスクを考えて住む場所の選定と避難法も自己責任とかんがえなければいけないだろう。鎌倉古道下道も丘の上につけられ、善光寺も小高い丘の上にある。

隅田川などは「カミソリ堤防」しかないのだ。

50年前の伊勢湾台風では名古屋市民の30%に達する人々が被災し、5,000人の死者がでているのだ。

家康リスクは戦争、津波、原発事故、と同じくべき分布になって天井がないことだ。いずれも保険会社が破産するので免責としている。

Rev. Decmber 10, 2013


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