関東平野の古墳

民放TVを観ていたら、埼玉県行田市にある「さきたま古墳群」が紹介されていた。行田市は利根川と荒川にはさまれた土地にあるが、北関東にはこの他にも沢山の古墳があるという。

「さきたま古墳群」は9基の大型古墳と周りに陪臣の小型古墳があり、円墳35基、方墳1基があった東日本最大の埼玉古墳群だ。しかし、昭和初期に周囲の沼地の干拓で取り壊されてしまった という。

日本書紀によると534年、安閑天皇より笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が 武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされる。一部の学者は何の基盤の無い当地に突如として、関西に匹敵する中型前方後 円墳が現れた事を考えれば、笠原を本拠としたといわれる武蔵国国造の墓ではないかと指摘しているが、まだ不明確な点が多いという。

1968年の発 掘調査において金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)が後円部分から発掘される。1978年、この鉄剣に115文字の金象嵌の銘文が表されていることが判明した。 1983年、他の出土品とともに「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品」として国宝に指定される。被葬者ヲワケは、豊富な副葬品をもって葬られており、ヤマト王権に 関係の深い大首長、またはその一族の有力者であった可能性が高いとみることができる。



稲荷山古墳 2013年9月22日撮影

高崎市綿貫町にある観音山古墳は群馬県の古墳の中でも、特に有名な古墳の一つである。古墳時代後期に当たる、6世紀に作られた前方後円墳で横穴式石室に は、非常に多くの、豪華な副葬品が納められていた。その中には、中国大陸や朝鮮半島との交流を示す品物もあって、全国的な注目を集めた。大きさだけをとれ ば、観音山古墳より大きな古墳はいくつもありますが石室、埴輪、副葬品など、あらゆる点で一級の古墳と言えるであろう。石室の壁は、榛名山の噴火で吹き出 された軽石を加工して組み上げ、天井には吉井町の牛伏山産の大きな砂岩を運んで乗せている。副葬品は、刀、よろいや甲、馬につける馬具やその飾り金具など をはじめ多くの種類があり、数も豊富であった。なかでも、銅製の鏡は朝鮮半島にあった「百済(くだら)」と言う国の武寧(ぶねい)王という王様の墓で見つかった鏡とそっくりである。銅で作られた水差しは、中国で似た形のものが見つかっている。

1985年からバイオケミカルテクノロジー・プロジェクトを担当していた頃、某ビール会社の製薬工場の基本計画に参画したことがある。地図を見ると工場予定地内に小さな古墳があった。私はそれを取り壊さず、景観の一部として取り入れた設計をすべきと主張したことがある。幸か不幸かこの用地 を買収することはせず、その近くにあった既設工場用地内に新工場を建設したがその後、あの古墳はどうなったか気がかりである。観音山古墳の北側の利根川の側だったと記憶している。 既設工場用地は戦後いち早く開発された将軍塚工業団地の隣である。将軍塚と呼ばれる理由は高崎市東部の元島名町にある元島名町将軍塚古墳 の脇にあるからである。元島名町将軍塚古墳は群馬県内最大級の前方後方墳である。井野川の北岸にある。全長96m、後方部の幅51m、前方部の長さは40m。墳丘は2段に築かれていて、葺石(ふきいし)や埴輪はない。4世紀後半から5世紀初頭ごろに築かれた古墳時代でもはじめの頃の古墳である。前方部の頂上部分には島名神社がある。1911年、この神社の拡張工事をした時に、後方部で粘土槨(ねんどかく)が発見された。粘土槨内からは、人骨とともに鏡、石釧(いしくしろ:石で作られた腕輪)や工具などの鉄製品が出土した。これらの副葬品は東京国立博物館に保管されているという。あの小さな古墳は将軍塚の陪臣のものだったのだろうか?

妻 は幼少のころ、その母に連れられてその高崎市にある実家に遊びにいっていた。その実家は旧家で回りが堀で囲まれていた。長いあいだ年賀状を交換くらいで あったが、今年もこの当主から2022/1/1の年賀状をもらい先祖から継いだ藪山を開発しようとしたところ市が試掘して4世紀の方墳であったと判明した という。ならばと柴崎浅間山古墳という名称で文化財として保護する条件で市に無償の寄贈したという。古墳時代前期の4世紀の築造、一辺約25mの方墳、墳 丘高4.2mで保存状態。卑弥呼に関連する三角縁神獣鏡(東京国立博物館蔵)が出土した蟹沢古墳(1909年に消失)に100m位で隣接している。

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朝日新聞

July 9, 2008

Rev. Jan 1 2022


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