函館・大沼

2009年8月末、グリーンウッド夫妻は函館と大沼に遊んだ。(Hotel Serial No.402) 毎年、残暑をさ けるため、涼しいところに避難することが習慣となっている。今年の夏は雨が多く、暑い日も続かなかったが、1ヶ月以上も前に予約し、料金も払い込んである ので出かけた。異常気象はエルニーニョのためという。

2009年、横浜は開港150周年を祝っているが、函館も150周年を祝っていた。日米和親条約締結によって150年前に下田と同時に開港された港である ためという。函館は松前藩のはずれにあって「宇須岸(うすけし)」とよばれ、次いで箱館と呼ばれた。 函館となったのは明治以降である。横浜も函館とおなじく神奈川の片田舎にあった。

箱館は捕鯨を営む外国船の補給基地として最適だったために幕府は松前藩から箱館を召し上げ、直轄地とし、開港前にフランスに学んだ西洋式土塁(稜堡)を建 設、そこに箱館奉行所(五稜郭)を開設したのである。 このような日本史が詰まった土地を見ようというのも目的の一つであった。

濃紺コース

第一日、8月30日

藤沢からバスで羽田→ANA853で函館に飛ぶ。途中、十和田湖から下北半島の仏ヶ浦の上空を通過。小川原湖、 六ヶ所村の国家石油備蓄基地・核燃料再処理施設、横浜町の風車群、恐山が視野の内だ。海側からアプローチした機は湯川上空で旋回して着陸。トヨタレンタ カーでSクラスを借りる。

空港近くのトラピスチヌ修道院をGPSに入力。2005年にブルゴーニュ地方コート=ドール県モンバール市内のポンティニーを訪問した。ここで麦畑の中に ある1114年創建のポンティニー大修道会付属教会(Eglise Abbatiale de Pontigny)をみた。フランス革命後、宗教施設ではなくなったが、シトー会の修道院だった歴史あるところであ る。トラピスチーヌ修道院はこのシトー会が函館に開設した尼さんの修道院だ。幕府は当時フランスを軍事顧問として五稜郭などを建設したからフランスも安心 して修道女を送り込んだのだろう。

観光客は庭には入れる。なかなか立派である。修道女は付属する農園でジャガイモなどを栽培して生活している。クッキーで有名なトラピスト修道院は 禁欲生活を乱さないためなのか女の観光客は受け入れていない。従って女連れの観光客はトラピスチーヌに来る。マッダレーナを購入して食す。

トラピスチーヌ修道院

次に旧岩船氏庭園(香雪園)をGPSに入力。観光客には知られていないため、GPSにもリストされていない。香雪園は函館の豪商岩船峯次郎の別荘であった ところだ。商売は番頭にゆだね 、4万坪の見晴らしの良い土地での造園道楽に熱中したのである。

ここは現在では「見晴らし公園」というつまらない名前の公園となっているが、旧岩船氏庭園はほどんど原型のまま残っている。 船材に使おうと植林した広大な赤松の美林の中に庭園はある。ここでは人を怖がらないエゾリスが走り回っている。

エゾリス

数奇屋風書院造りの「園亭」があり、いまでも市民の茶会の席に使われている。

園亭

荒れてしまっているが温室(オランジェリー)も残っている。

オランジェリー

当時からこの香雪園は市民に開放されていた。現在は隣接する函館ゴルフクラブも含め、無償賃貸契約で市が管理している。

次にGPSには五稜郭と入力。五稜郭タワー下で塩ラーメンの昼食をとる。98mのタワーに登っても五稜郭は大きすぎてカメラのフレームにはおさまらない。 3枚の写真を撮り、合成したのが下の写真である。

五稜郭

タワーを降りて一の橋と二の橋を渡って五稜郭内を散策する。石垣は立派だ。はじめはオランダと同じく土塁だったのだが凍結により土塁が崩れてしまうので石 垣にしたという。函館山の立待岬などから切り出した安山岩をつかったという。石垣は武者返しが特徴という。五稜郭の中心部には巨大な箱館奉行所が復元中で あった。

兵糧庫の展示で長野県佐久市にも江戸末期に建造された龍岡城(たつおかじょう)という五稜郭が残存している ことを知る。龍岡城五稜郭は、函館と共に我が国で二つ残る星形稜堡の洋式城郭という。幕末、幕府の老中・陸軍総裁など幕府の要職にあった龍岡藩主松平乗謨(のりかた)が築城した。城址は今は小学校の敷地として利用されている。大給松平氏の領地は、本領三河4,000石と 信州領12,000石。1863年正月、藩主乗謨が、大藩頭(おおばんがしら)に登用された時、本領の手狭 さから、信濃領に本領を移し、併せて新陣屋五稜郭の建設を幕府に申請し、許可されたことによる。規模は函館の約5分の1。松平氏が城を持てない「陣屋格」 であったため、天守などの防御施設はない。松平乗謨は維新後、大給恒と名を改め、日本赤十字社の前身となる博愛社をつくった。龍岡城の近くには日本で一番 海から遠い地点がある。伊那高遠藩から召請していた様式築城石工60名を使い、3年を労したという。

さて五稜郭の少し南に千代ヶ岱陣屋というのがあった。この陣屋の守将が中島三郎助である。函館総攻撃後、中島三郎助は、新政府軍の降伏勧告を最期まではね つけて長男 恒太郎、次男 英次郎と共に討ち死にをした。函館の中島町は、中島三郎助の名からきている。いまの千代が台町は、千代ヶ岱陣屋がなまったものだ。新撰組土方歳三は、陸軍 奉行並、中島三郎助は箱館奉行並であった。もと浦賀奉行の与力でペリー来航時に小船でのりこみ 、訊問応接に出かけた経緯のある人物で洋学教育を受け、軍艦操練、砲術にもたけていた。勝海舟は政治家肌で中島三郎助は純技術家肌で二人の仲はよくなかっ た。ために咸臨丸には乗船できなかった。

本日の観光は終了にしてホテルに向かう。まだ新しいホテルのため、GPSには登録されていない。明治7年より函館の常備倉であった安田倉庫の赤レンガの壁 体を1階外壁として保存した新しいタイプのホテルで「ラビスタ函館ベイ」という。(Hotel Serial No.464)米国ではやりの Hotel & Spa Resortというやつだ。屋上がスパとなっている。函館の第一級ホテルであろう。

函館山と港の見えるホテルの部屋

窓の正面に函館山が見える。屋上の露天風呂で風に吹かれながら函館山を眺める。

ホテル自室からみた夕暮れの函館山

ホテルに隣接する函館ベイ美食クラブの寿司屋「海風楼」で夕食後、明治館と赤レンガの倉庫群を散策。

保存された赤レンガ倉庫の壁

自民党が退場させられた総選挙結果をテレビでみる。中国2,000年の文化の影響下でバイアスがかかっていた日本人もようやく権威主義的政権を捨 てて、市民的な政権を自らの責任で選ぶようになったかと感慨をもった。

 

第二日、8月31日

本日は車はガレージに置いたまま徒歩で市内観光をする。台風の影響で朝方小雨が残ったがすぐあがる。

ラビスタ函館ベイと金森赤レンガ倉庫群

金森赤レンガ倉庫はいまや一大ショッピングモールだ。若者相手の商品は興味がないのでパス。新島襄海外渡航の地という銅像を見る。元町公園に向けて基坂(もといざか)を登る。函館には素敵な名前の坂道が沢山ある。い づれもサンフランシスコを思わせる。観光に力をいれている市当局はこの坂の石畳をしっかりと維持管理し、街路樹も整備して美しい街の景観を作った。観光客 が魅せられるのもうなづける。五稜郭移転前の箱館奉行所があった元町公園にはペリー提督来航記念銅像がある。旧イギリス領事館に立ち寄る。ブルーの軒天井 が印象的。

旧イギリス領事館

旧イギリス領事館のすぐ上には旧北海道庁函館支庁庁舎と1909年に当時の豪商相馬哲平氏の寄付で建造されたコロニアルスタイルの旧函館区公会堂がある。

旧北海道庁函館支庁庁舎と旧函館区公会堂

函館区公会堂の土産店でナット、ワッシャ、銅線で作ったハーレー・ダビッドソンに騎乗するカエルの置物を買い求める。

ハーレー・ダビッドソンとカエル

1859年にニコライ司祭が創建した日本初のギリシア正教会のハリストス正教会まで等高線に沿って歩く。途中観光客に人気の八幡坂を左手に見る。

ハリストス正教会はレンガ造りだ。ハリストス正教会と函館ヨハネ協会の間には「チャ チャ登り」という急坂がある。 「チャチャ」とはアイヌ語で「おじいさん」という意味でおじいさんのように背中を丸めて登らねばならない坂ということになる。

函館ハリストス正教会

函館ハリストス正教会の下隣にはカトリック元町教会がある。その隣には東本願寺函館別院の巨大な鉄筋コンクリート造寺院がある。日本初のコンクリート寺院 という。

カトリック元町教会

二十間坂を下り、十字街から路面電車で函館駅に向かい、朝市を再訪。2001年のバイクツーリング時に 中本氏とイカソーメンの昼食をとったところだ。その店は見つけられなかったが同じメニューの昼食をとる。

路面電車

朝市から歩いてホテルに戻り、シャワーを浴びて午睡。15:00ホテルから金森赤レンガ倉庫をウィンドショッピングしながら函館山ロープウェイ下駅まで歩 く。

金森赤レンガ倉庫の運河に入るチャーターボート

往復券を買って山に登り、日没まで山頂の散策を楽しむ。対岸に下北半島が見える。万一原発事故が発生し、土地が汚染されたら北海道に移住しようかと漠然と 考えていたが、対岸に最もヤバイ、Jパワーの大 間原発のプルサーマル・プルトニウム専燃炉が建設されるのだから、函館は論外ということになる。

北方にナイフエッジの峯を持つ山が見えた。案内板には七飯(ななえ)としか書いてない。地図を見てナイフ エッジは駒ヶ岳の剣ヶ峯(1,131m)であり、右手の平らな方は砂原岳(1,113m)と判明した。七飯とは大沼近辺の地名 と分かる。空港の方角には赤茶色の恵山(618m、え さん)が見える。

ロープウェイのブレーキが故障したため、3時間山頂にとどまって変わり行く景色を楽しむ。人間を恐れることをまだ学んでいない子ガラスと並んで夕日を見 る。

子ガラスと駒ヶ岳

近くの石灰石鉱山から切り出した石灰石を貨物船に運ぶ荷役設備が湾の対岸に突き出しているのが見える。 青森とつなぐ高速船は石油の高騰のため採算割れとなり港内に繋留されたままである。

19:00日没となった。日没直前、函館山の陰が海面に投影されるのを見る。津軽海峡の漁火が宙に浮かんだように見える。

函館山は古火山で昔は島だったという。次第に土砂が砂州を形成し最終的に陸とつながった陸繋島である。市街地はこの函館半島にあり、市役所のある当たりが もっとも狭く、幅1kmだという。

ブレーキ故障の修理が遅れたため、車で下駅まで送ってもらう。

函館山の陰が津軽海峡に投影さる

ホテルでスペイン料理を楽しむ。

 

第三日、9月1日

台風が北海道に近づいたというのに晴天である。今日は函館山で遠望した赤茶気た恵山(618m)経由で大沼に行くことにする。恵山は津軽海峡を挟んで恐山 と対をなす霊峰だという。

恵山

途中戸井漁港を通過する。大きな岬もなく、太平洋に露出した漁港に税金を投入して港を造成中であった。こんな不利なとこ ろでなぜという疑問があったが、2011年12月の朝日の報道で、ここは1本2000万年という値が付く津軽海峡マグロの水揚げ漁港なのだそうだ。船に引 き上げるとき、あばれると身が赤黒くなる「身焼け」を防止するため、電気ショックで気絶させたり、頭に穴をあけ内臓をとって氷で冷やすという。こうして津 軽半島の大間漁港を追い上げている漁港なのだそうだ。ただ巻網漁の普及で資源枯渇が危惧されているという。

更にゆくと恵山温泉がある。別荘風の建物が数軒あったがいずれも空家で開発したものの立ち枯れている風情。

岬を廻って内浦湾沿岸にでるとコンブ産地である。コンブ採取の漁船がいたるところで海岸から海に出られるように土木工事がなされている。手厚い保護だ。途 中、尾札部町の能戸水産直売所で「がごめ昆布」、「がごめとろろ 昆布」を買う。これは絶品である。

北上すると対岸には有珠山が見え始める。双眼鏡を使えばザ・ウィンザーホテル洞爺湖も見えるはずだ。 やがて駒ヶ岳も見え始める。鹿部町で左折し、ルート43を大沼に向かう。駒ヶ岳の東南東にある鹿部町から見る駒ヶ岳の剣ヶ峯は函館から見えた鋭利なピークには見えず テーブルマウンテンのように見える。右手の砂原岳は半円形を描く火口壁と分かる。

東南東の鹿部から見た駒ヶ岳

大沼に近づき、南東から見ると左手の剣ヶ峯が次第にナイフエッジに変わりつつある。両側が崩れてしまった火口壁を横から見るためだろう。 2016/5/28に7才の男児が駒ヶ岳の裾野の森の中で行くへ不明になり、警察・自衛隊による大規模山狩りにもかかわらずゆくへ不明であった。この間気温は低く、雨も降った。6日後、7km離れた駒ヶ岳の東側の自衛隊駒ヶ岳演習場内の廠舎(しょうしゃ)で発見された。廠舎もドアに鍵がかかっていなかったこと。水道があったこと、マットレスがあったことの3つの偶然で命がつながった。

東南から見た駒ヶ岳

大沼を一周する。自転車で一周している若い女性のグループがいる。真南から見る剣ヶ峯は完璧なナイフエッジになっている。視点が下がったためか、砂原岳は ほとんど南側の火口伊壁に隠れて見えない。

真南の大沼から見た駒ヶ岳

ついで西南西にあるソダシャロレー牧場とワールド・ランチ牧場を訪問。ワールド・ランチ牧場からは剣ヶ峯のナイフエッジは消え、幅広の岩盤となる。代わり に上端が平らに見えた砂原岳がナイフエッジに見える。

西南西のワールド・ランチ牧場からみる駒ヶ岳

グーグル地形図を見ると下図のようになっている。東側の火口壁が崩れてなくなっている。

 
大きな地図で見る

ソダシャロレー牧場は家族経営で乗馬を提供。ワールド・ランチ牧場は完全な観光牧場でレストラン、宿泊、遊園、温泉、乗馬まですべてそろっているが、温泉 は閉鎖中であった。

ソダシャロレー牧場

ワールド・ランチ牧場

函館と長万部を結ぶ高速自動車道路が建設中であったが需要はあるのだろうか? 田舎を走っていつも気がつくのだが、不必要な道路をまだやたらと建設している。引退後、日本中をバイクで走ってみて高速道路を無料化したらダブった投資が 節約できるのではないかと思っていたが、案の定、国交省は高速無料化の経済検討を隠れてしていた。2.1兆円の高速道路料金を無料化すれば4.8兆円の経 済効果がでて差し引き2.7兆円儲かるという結果だったという。民主党政権のマニフェストは正しかったわけだ。国交省と農水省は国のガンみたいな存在であ ることがいよいよ明らかになりつつあるのはご同慶にたえない。

取って返して夕刻、函館大沼プリンスホテルに到着。(Hotel Serial No.465) 玄関では新井満の「千の風」が常時繰り返し流れている。ここは「千の風」の発祥の地というわけだ。新井満の友人の妻がガンで亡くなった時、彼女に捧げよう と 追悼の書にあった作者不詳の英語詩を翻訳しようとしたが上手く訳せない。たまたま大沼の別荘で森の中を散歩中、一陣の風を感じ、上手い訳が頭に浮かんだと という。

 

第四日、9月2日

午前中はプリンスホテル周辺の森の中を散策をする。ホテル付属のゴルフコースは閉鎖されている。 このカート道やウォーキング用にフェアウェーを幅4m程芝を刈り込んだ道を1時間程歩く。

ゴルフコースからホテルを望む

国土開発の成れの果て。なにやら「夏草やつわものどもの夢の跡」という気配だ。 隣接する北海道CCの大沼コースは営業していた。

雑草の生い茂るフェアウェー

木陰で一休み

シャワーで汗を流し、12:00チェックアウト。

大沼公園に移動して大沼に126個あるという小島を結んだ橋を歩く。台湾人の団体客が大勢来ている。橋は殆ど全て太鼓橋だ。台風一過の好天は終わ り、天候は次第にくずれ、駒ヶ岳は雲の中に隠れる。

大沼公園 駒ヶ岳は雲の中

大沼周辺の自然はよく保護されているが、(財)北海道大沼国際交流協会が建設した大沼国際セミナーハウスは環境破壊の典型だろう。このようなものを作って コンベンションホールを持つ民業を圧迫し ている。北海道庁の地方役人も中央の模倣をしているわけだ。それぞれのレベルで天下り先を確保するなど腐敗ここに極まれりという感じだ。

今回の旅はたまたま仕事を抱えていたため、アンドロイド携帯の初試用の場となった。

函館空港でレンタカーを帰し、18:55発ANA864便で帰る。

September 7, 2007

Rev. June 5, 2016


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