読書録

シリアル番号 1247

書名

賊軍の昭和史

著者

半藤一利、保坂正康

出版社

東洋経済新報社

ジャンル

歴史

発行日

2015/8/20第1刷
2015/9/4第2刷

購入日

2015/10/16

評価

歴史

朝日新聞の広告を見て購入。

吉田松陰の「幽囚禄」に記された侵略史観で明治から昭和の時代が形作られたというという半藤氏の「官軍・賊軍史観」という仮説を保坂氏と対談したまとめたのが本書である。その仮説とは黒船来航によって一挙に高揚された民族主義が顕在化し、松陰の門下生とその思想の流れを汲むもの たちに よってつくられた国家が、松陰の教えを忠実に実現せんとアジアの諸国へ怒涛の進撃をし、それが仇となってかえって国を滅ぼしてしまった。それもたった90 年の間に。

ここで天皇の御旗、「錦の御旗」を掲げ勝ったほうが官軍、これに対抗したのが賊軍とする。薩長が鳥羽・伏見の戦いのとき、公家の三条実美の入れ知恵で京で 反物を仕入れ長州に持ち帰って作ったのが3本の「錦の御旗」である。このとき徳川軍の会津と桑名の藩兵が中心で兵力は薩長より優勢だったにもかかわらず総 大将の慶喜が「敵方に錦の御旗が立ちました」と聞い た途端戦意を喪失し、賊軍になるのが怖くて軍艦に乗って江戸に逃げ帰った。慶喜は水戸出身のため、「大日本史」の影響で天皇の権威を幼少より叩き込まれて いたからと 考えられる。三条実美はこれを知っていて悪用したわけ。

官軍と賊軍の旗色分け

官軍:薩摩(東郷平八郎)、長州(屯田兵 松岡洋右)、土佐(山内豊福は反対で自害)、肥前、富岡・七日市、松代(佐久間象山 東北諸藩にくらべて弱小藩の多かった信州諸藩は変わり身が早かった)。須坂(第13代堀直虎は、佐幕派であったが徳川慶喜に自分の意見が聞き入られなかったため、江戸城中で諌死し、その後は須坂藩は官軍につく)、高島(諏訪 藩医の子永田鉄山)

最後まで戦った賊軍:会津、庄内(石原莞爾)、盛岡(米内光政)、長岡(山本五十六)、二本松、上総請西(林忠崇

内部分裂した賊軍:米沢(南雲忠一)、南部(盛岡 東條英機)、津軽、仙台(井上成美 今村均)、桑名、村上、新発田、松本(松代、須坂、諏訪が官軍につ いたためそれぞれ県になったが、松本は戊辰戦争においては佐幕か勤皇かで、なかなか藩論の一致を見なかった。東征軍の松本到着の直前になって勤皇を選択 し、3万両を献上して帰順した。その後は新政府軍の一員として宇都宮城の戦いや北越戦争・会津戦争に参戦し、筑摩県になるが、県の再統合の時に中央が朝敵 藩として敵視していたたためか松代、須坂、高島をまとめて善光寺のある長野が県庁所在地に選ばれた)、高崎、小田 原、川越、佐倉、松江、松山(秋山兄弟)、姫路、高松

曖昧派:秋田の久保田藩、熊本、宇和島、徳島、金沢、岩槻(岩槻県とはつけたくないので埼玉とした)、土浦

徳川家と譜代:名古屋、水戸、関宿(鈴木貫太郎)、須坂


官軍の意識

官軍側の人間が明治政府を作り、敗軍側の人々を差別した。特に山形有朋は長州出身者で陸軍を固めた。

官軍にとって、天皇は玉でしかない。まさに天皇機関説を地で行った。いざとなれば取り換えればよい。

そして一人の天皇に、立憲君主(統治権)と軍の大元帥(統帥権)という2つの役割を持たせた。統帥権は参謀が勝手に行使した。山形が内閣の許可を必要としないという統帥権独立を行った。

自分たちが造った国は国民を道連れにして徹底的に最後の一兵まで戦って滅びてもよいと思っているから、太平戦争を始めたのは官軍といえる。

吉田松陰の先生に当たる佐久間象山は長州の連中より国を思っていたが狭量な長州藩士に暗殺されたので靖国には入れない。というわけで官軍は料簡が小さくとても国をまとめる資格はないし、靖国は国の鎮魂の施設とはいえない。


賊軍の意識

賊軍の人々は差別された。たとえば賊軍側の戦死者は靖国に入れない。

明治になって賊軍だった地域の出身者は差別のため官吏にはなれなかった。加えて貧乏なので無料の士官学校や海軍兵学校で学んだ。というわけで太平洋戦争時の将軍は賊軍出身者が多い。

賊軍の潜在意識には次には絶対賊軍にはならない。反天皇にはならないという意識がある。

この国が滅びようとしたとき、どうにもならないほどに破壊される一歩手前で何とか国を救ったのは全部、賊軍の人たちだった。賊軍の人たちには悲惨な最期の姿を避ける知恵があった。

鈴木貫太郎

鈴木貫太郎は徳川の譜代の久世家が藩主の関宿藩の藩士の子供だったので賊軍である。

したがって官軍の薩摩閥が牛耳る海軍では鈴木は冷遇された。シーメンス事件という汚職が発覚すると、人事局長だった鈴木は薩摩閥を一掃し、山本権兵衛を予備役に編 入。薩摩閥は艦隊派となり、鈴木は条約派となって争った。これに根を持たれた艦隊派は二・二六事件を起こし、鈴木は暗殺されかかる。

昭和天皇が鈴木貫太郎を信用したのは天皇を玉だとしか考えない官軍出身の人たちより賊軍出身の鈴木のほうが国家に尽くそうとしている気持ちを知っていたから信用したのだと考えられる。

こうして鈴木は敗戦処理に成功するのだ。

東條英機

東條英機は盛岡藩出身だから賊軍出身である。同期の永田鉄山は戊辰戦争では新政府軍に与した諏訪藩の藩医の子で賊軍ではない。長州閥が衰退した後に備前国の農民の子宇垣一成が率いる宇垣系になるが、永田鉄山が一夕会を作り、長州 閥の打倒を唱えたバーデン・バーデンに永田、東條らが集まって派閥の打倒と能力優先をすべきと合意した、結局これは成績至上主義に終わった。宇垣系は皇道派と 統制派に分かれた。統制派の永田は皇道派に暗殺差され、東條が残った。

結局、太平洋戦争は賊軍出身の成績至上主義の一夕会が参謀を独占して始めたことになる。前線の指揮官より参謀のほうが偉かったという下克上の世 界。昭和の戦争で最も裁かれるべきは、軍参謀だった連中。戦後、軍参謀たちの多くは今村均を例外として政財界に転身して、非常に成功している。たとえば敗 戦直後の東大の医学部の7割は陸士か兵学校の出身者でしまられ東大紛争の原因となった。現在の日本はかっての官軍的な図々しさを自覚のないまま社会のなか に引き継いでしまっている。

石原莞爾

石原莞爾は庄内藩士の三男で賊軍出身。一夕会のメンバー。石原莞爾は一夕会が第一とした人事には関心がなく、軍事にこだわった。大山巌、児玉源太郎、乃木希 典、黒木為骼F長中心の官軍の軍事学は日露戦争の軍事学で、古く、兵站が重要となる近代戦は戦えないと。そこで満州を兵站基地とするという自分の軍事学を 実践するために一夕会の支持で関東軍参謀として赴任して満州事変を起こす。ただ満州事変は関東軍の石原莞爾が勝手におこしたのではなく、陸軍中央の一夕会が支持していた。陸大は独 自の軍事学を作らずドイツの「軍事学を丸暗記する教育を行った。1番から5番の成績のものが参謀本部で作戦を作っていた。

石原莞爾は官軍出身者が多かった二・二六事件を鎮圧している。

石原莞爾は日中戦争の発端となる盧溝橋事件にこまったことが起こったと心配しているが、東條に退役させられてしまう。

米内光政、山本五十六、井上成美(しげよし)

陸軍は人数がおおいため、一夕会などにより長州閥は消えていたが海軍は人数がすくないので薩摩という官軍の影響はのこっていた。この官軍の海軍における残 党が艦隊派となって太平洋戦争にのめりこんでいった。作家の阿川弘之氏がこの3人を海軍三羽烏と呼んでほめたので海軍の評判がよくなったが、これは誤認。 海軍も戦争には積極的だった。

山本五十六は長岡藩の出身で賊軍出身であるためにしたがって海軍中央の軍令部には入れなかった。そこで傍流の航空に入った。そのため戦艦巨砲主義の時代は 終わったという認識を持てたが、傍流では海軍中央にははいれず、現場の指揮官で終わったため、海軍中央は太平洋戦争に負けるまで艦隊派の牙城であった。米 内光政は盛岡藩で賊軍出身で あるため、海軍中央の軍令部には入れなかった。井上成美(仙台)も賊軍出身であるため海軍中央の軍令部には入れなかった。小島田出身の私の伯父は雪のため旧制松本高校の受験ができず、海軍兵学校に入った。松代藩は賊軍ではなかったものの主流の戦艦乗りにはなれず、山本五十六と同じ航空隊にははいった。でもシナ事変で上海爆撃したりしているうちに、撃墜されて太平洋戦争を見ずに一巻のおわりでした。

この三羽烏は一致して日独伊三国同盟に反対したが、まったく無力で官軍派の海軍中央が賛成だったため中央から飛ばされて、結局海軍も日独伊三国同盟に賛成したのである。日独伊三国同盟を推進したのは長州の松岡洋右(ようすけ)

Rev. October 24, 2015


トップ ページヘ