横十間川

文京区の坂で友人 Tに教わった通り

遠藤周作の小説の「沈 黙」の付録にある「切支丹屋敷役人日記」にある山屋敷とは小日向にあった井上政重の切支丹屋敷と言われる。井上は幕臣から石高一万石の大名(領地・下総高 岡藩)に取り立てられ、小石川小日 向の下屋敷を切支丹屋敷に全面改築した。住むところが亡くなったので、あらたに亀戸に敷地を 賜った。その場所は現在の錦糸公園の北東側にあった。この井上屋敷は 明治以降精工舎の工場となり、精工舎が諏訪に移転したのちの跡地はショッピングモール「オリナス」になっている。

蔵前通りを横十間川までゆくと天神橋が架かっている。この橋の袂に堀長門守直重を初代藩主とする須坂藩の下屋敷(上屋敷は南八丁堀)は下総高岡藩の東隣の 横十間川端にあった。

と書いた。

2015/4/8、千葉工科大に出かけたついでに錦糸町で下車し、この亀戸(現在は錦糸町)の屋敷跡を歩いてみた。

信濃須坂藩下屋敷の主である堀氏は外様ではあったが準譜代の扱いで、大番頭・伏見奉行、十三代直虎の時には、若年寄・外国惣奉行を務めた。討幕軍と戦うか朝廷に従うか意見が対立し、直虎や直虎の親 友であった山内豊福は戦う意見だったが、入れられず直虎は江戸城中において自刃した33歳の時であった。豊福も夫人と共に自害した。同じ意見の上総請西(か ずさじょうさい)藩主 林忠崇(ただたか)は官軍と勇敢に戦い、降伏後は、冷遇されて下級官吏 になった。

須坂藩下屋敷跡地は7,982坪ほどあったという。今では天神橋袂は空地、三葉交通、錦糸公園パーク・ホームズシティフォートSDビル、昭電、三菱鉛筆、 大日ゴム、NTT錦糸町、坂上製作所、墨田区錦糸災害備蓄倉庫となっている。



下の写真の手前の川は南北に掘られた横十間川、中央の古い工場は須坂藩下屋敷跡にある大日ゴム。耐用年数を過ぎた時代物の工場で頑張っている。左手は NTTビルですべて須坂藩の敷地に在る。

「すみだの大名屋敷」によれば須坂藩の江戸上屋敷は南八丁堀(中央区新富一丁目)とある。幕末ガイドによれば 浜町。そして友人Tのその後の調査によれば上屋敷として兄死去後、慶応元年以降生活の場として赤坂今井谷もあったらしい。そのほか、若年寄 外国惣奉行役  就任以降は役屋敷として外櫻田も支給されたらしい。

昭和48年に目白の角栄御 殿に住んでいた田中角栄が須坂藩 の陣屋跡にある藩祖直重と十三代直虎を祭神とする奥田神社に参拝し「須坂の人と私は親戚なんですよ」と話したのは間違いということになる。本家筋の堀、飯 田藩・堀家跡地と混同したらしい。田中角栄の先祖はそちらの家来だったようだ。

下の写真の右手奥(すなわち西)にある空色と褐色の建物が遠藤周作の小説の「沈黙」で有名な井上筑後守を藩祖とする下総高岡藩跡地は戦後錦糸町第一精工舎 (柱時計)の跡地に 建てたショッピングモール「オリナス」。その奥がこれも精工舎の跡地にたてられたオフィスビルで、いずれも錦糸公園の北側にある。Y氏は学生時代に従兄弟 に案内してもらって工場見学したという。



横十間川岸の信濃須坂藩下屋敷跡

錦糸公園の東北側にある都営太平南アパートはボロアパートだが、先住権があるためか精工舎の跡地に建てられたショッピングモールはこのボロアパートの日照 権を尊重して階段 状に作られている。

下総高岡藩の下屋敷の西隣は近江膳所藩下屋敷で錦糸公園の西北側に相当する。いまはここにもオリナスの高層オフィスビルとショッピングモールがある。ここ も以前は精工舎(柱時計)の跡地でもあった。


 
下総高岡藩の下屋敷跡

精 工舎服部時計店の歴史に昭和10年頃の錦糸公園より見たる精工舎という写真がある。その写真の工場建物の跡にオリナスの高層オフィスビルとショッ ピングモールができたわけだ。



昭和10年頃の錦糸公園より見たる精工舎   リンク表示

天神橋から亀戸天満宮に向かって歩くと文化2年創業の船橋屋と言う「くず餅」の老舗がある。



船橋屋

亀戸天満宮は菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐が、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、 諸国を巡った。そして1661年(寛文元年)、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始ま りとされる。明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、四代将軍徳川家綱はその鎮守神として祀るよう現 在の社地を寄進したという。大阪の食い倒れというが、この界隈も食べ物家が多い。宵越しの金は持たず、皆散財してしまうと言う下町気風のため か?

太鼓橋が連続しているのは大宰府天満宮のコピーだからという。藤棚で有名とのことだが、花には少し早すぎた。



亀戸天満宮

近くに香取神宮があることを発見し、立ち寄った。香取神宮の本宮は利根川下流右岸の「亀甲山(かめがせやま)」と称される 丘陵上に鎮座する。日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する経津主神(フツヌシ)を祭神とすることで知られる。

古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に「香取海(かとりのうみ)」という内海が広 がっており、鹿島・香取の両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られ ている。

亀戸もそうだ、香取神社は利根川と江戸川に沢山並んでいる。いずれも微高地にあるという。洪水防止祈願とも関係あるみたいだ。近いうちに千葉の香取神宮に 出かけよう。



香取神宮


  April 9, 2014
Rev. April 19, 2018

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