最近思うこと

フォローアップ2

1999年1月17日、「最近思うこと」という一文を本HPに掲載した。その後の1年の経過をフォローアップ1にまとめてきましたが、それから5年以上経ちます。もと会社の上司の小松さんとディベートさせてもらったことをとりまとめてみました。


最近、山形浩生氏のホームページリフレ派という言葉をみつけ一体どういういみなのだろうと調べてみました。結果、リフレ派とは金融緩和政策でリフレーションさせ日本をデフレから救えととなえてきた経済学者達でクルーグマン教授の理論を日本で喧伝している人々とわかりました。最近IMFが日銀にインフレ目標の導入をといったそうですが、この系統の考え方からきているかもしれません。

これに対するのが構造改革派というもので日本のマスコミや大衆が大好きな理論です。この考え方はそもそも日本では中曽根さんが始めたものでレーガン・サッチャーの成功をみて日本でもビッグバンは必要と考えたものです。レーガン・サッチャーはシカゴ派のフリードマンが中心となってとなえたマネタリストたちの考え方に立ち、小さな政府、民活、自由競争がモットーで規制緩和をどんどんしました。共和党がこれを掲げており、民主党のクリントン政権はマネタリストではありませんが、 共和党がはじめた規制緩和の効果のおかげで米国の競争力を満喫できました。しかし米国の右傾化にともない、僅差でふたたび政権は共和党にもどってしまいました。したがって現在のブッシュも小さな政府、民活、自由競争が信条です。

一方、米民主党は伝統的にケインズ式に財政政策を重んじ、ハーベイ・ロードの前提にた ち、需要を喚起して経済を制御しようという考え方にたっております。必然として大きな政府になります。こうして富の再分配で人民を保護してゆくという政策です。これが小松さんのおっしゃるヨーロッパ型資本主義の考え方ではないでしょうか。 北欧は極端で住宅すら地方自治体の官営です。戦後の日本も永らくこれでした。しかしこれではレーガン・サッチャー流の自由競争社会と価格競争ができません。やむをえず日本も中曽根時代にビッグバンに踏み切らざるをえなかったとおもいます。国民も血をみてもやむをえないとハラをくくって現在に至っていると思います。

ニクソン政権が強行したプラザ合意後の為替レート激変から日本を救おうと三重野日銀総裁が大幅の金融緩和をしました。しかし抑制がきまず、やりすぎでバブルを発生させてしまいました。しまったと急に引き締めしましたが、今度は日本は流動性のワナにかかってしまい、われわれは10年間のデフレに苦しみました。

固定為替制の下で正しかった「景気が悪くなれば、財政支出を増やす」というケインズ理論が変動為替制下では逆作動し、「国内の不況対策としては金融政策を適用し、対外的には収支不均衡を是正するために財政政策を使うのが正しい」というのがマンデル・フレミング定理で経済学の教科書に書いてあ ります。しかし固定為替制下での考え方に凝り固まっていた小渕内閣 はあえてケインズ式財政政策に舵をきってみましたが、やはりマンデル・フレミング定理通り、うまくゆかずただ大量の国債が残るというだけにおわりました。

それみたことかと小泉さんは構造改革にもどったのですが、クルーグマン教授は構造改革に夢中になるとデフレスパイラルが始まり愚策であると指摘、やはり金融政策が重要ととなえました。ただマンデル・フレミング定理通り金融緩和しても「流動性のワナ」にはまってしまった日本は救えない。唯一考えられるのが”インフレ期待をかもす”ということだといいました。IMFのいうインフレ目標の導入もその一つの手段にすぎません。しかし折角構造改革に取り組んでいるのだからそのようなことをして水をささないでくれと日本の大部分の経済学者は反対し、構造改革を支持しました。 マンデル・フレミング定理に従った意見を持つ人々をリフレ派だと非難しました。小泉さんはこの期待にのって構造改革を進めるという旗を振り続けておりますが、改革はあまり進んでおりません。

しかし、2001年3月、せっかくゼロ金利から当座預金の残高目標に切り替えてもインフレ目標にガンとしてノーを言い続けた速水優日銀が退任し、2003年3月、福井俊彦総裁に交替してからなぜかデフレが収まってきました。これはインフレ期待を否定する言動をしていた人が居なくなってソフトにインフレもよしとすることを言う福井さんのおかげか「なぜか理由はわからぬが、5-20年も 苦しめば自然に流動性のワナから抜け出せるものだ」というクルーグマン教授の予言がただしかったのかわかりませんが、いずれも正しいのでしょう。

クルーグマン教授はマネタリストの天敵で米国のはげたかのようなファンドの横暴を規制し、大きな政府もやむを得ないという民主党の考え方のブレーンです。しかし米国の半分の人が支持しても政権を取れないので目下NYタイムズでブッシュ批判を展開しております。ブッシュ一族は金持ちでその政策は金持ちはますます金持ちになる政策です。減税と称して累進課税は緩和され、遺産相続税はゼロにすると公言しております。しかし貧しい国民は減税というレトリックにごまかされ、宗教に救いをもとめます。たまたまブッシュは熱心な信者ですから、一般市民はブッシュの隠された欲望に気がつかず、投票してしまっているのです。

クルーグマン教授はいずれブッシュの政策は破綻すると予言しております。小松さんが指摘する欧米流資本主義とは米共和党系の考え方と読み替えればよく理解できます。そういう意味で米国経済は近未来に駄目になり、ドル安となるという予言は当たっているとおもいます。しかし米国には民主党の考え方を支持する人が半分居ますのでいずれ復元力が働くと私はにらんでおります。クルーグマン教授は経済学からみて財政政策だけでなく 、金融政策の重要性を指摘し、うまくやれば緩やかなインフレの下に経済の発展の継続は可能としています。

しかし彼はあまり言いませんが、地球の限界が明らかになった以上、その制約は自然と経済に反映されます。ヨーロッパ型資本主義は地球資源の限界を見据えているという点で一歩進んでいますが、問題は 同じマーケットで米国型の競争原理と戦う場合に抑制の効いたヨーロッパ型資本主義は米国式のむき出しの効率性に負けてしまう点です。でも石油と天然ガスが枯渇すれば、米国式体制にもガタがくるでしょう。そして石油はピークを過ぎた兆候がみえはじめましたね。米国型資本主義も修正を余儀なくさせられると私はタカをくくっております。 鎌倉プロバスクラブで先日「太陽由来エネルギーだけで生きる」という卓話をしたのですが 、米国のGMやフォードをやっつけた、トヨタの元専務さんが石油の先行きに関しては高い関心をもっておられました。

中国型共産主義は終焉を迎えるのは当然というか、もうイデオロギー的には中国型共産主義はもうなくなっていて支配組織だけが残っているということでしょう。この体制はそれなりの遷移をうまくやっていると思うので崩壊してほしくないですね。第一進出した日本の沢山の企業は困るでしょう。

小松さんは日本ー中国が中心になって亜細亜経済圏のようなものをつくれないかとおっしゃっておりましたが、西ドイツのように戦争責任を明確にしない現日本指導部のごまかし戦略では中国の民主化した人々を納得させることは難しいのではないかと思います。 向こうで先鋭化している人は豊かでインテリ階層の人というではないですか。靖国や一部の教科書はノドにささったトゲのようなものでしょう。結局、日本はこそこそと米国の影に隠れるしかなくなり、軍事的にも米国頼みということになり、米国のご機嫌伺いをするしかない宿命といえるのではないでしょうか。

というわけで米国の軍事覇権がどうなるかということになります。米国の軍事的覇権はイラクの都市の治安を維持できないという近代兵器頼りの米軍の弱みをみせていますが、ロボット兵士の開発などで対処してゆくでしょう。事前集積船という機動部隊で全世界をカバーする警察力をもって覇権を維持する気力を持っています。事前集積船を東京湾でみましたが、なんでも 詰め込んでいる浮かぶ基地です。これをイージス艦で護衛しながら太平洋とインド洋を睥睨しているわけです。中国なんかにちょっかいは出させないぞという気迫があります。

 

 

小松さんが米国流資本主義が問題ありとされヨーロッパ流資本主義に理想を見出されていることに対し、いろいろと反論させてもらっていますが、更に追加させてください。

98/10/12付け朝日新聞文化欄特集「ギャンブルを問う」で

大阪商業大学学長の谷岡一郎氏が

「日本の社会の底流に今もあるのは江戸の儒教観。その上に官僚支配がのっかり、人民にはなるべく自分で決めさせないようにしてきた」、「英国はローマ教会の教義を離れ、自主的な理念のもとで自己決定することの重要性をいち早く学んだ。未来へ、未知なるものへ賭ける「射幸心」が英国流デモクラシーを鍛えてきたんです」

とか

作家・競馬評論家の山野浩一氏が、

「ギャンブルは資本主義の本質と強く結びついている。保険は誕生当初からギャンブルそのものだったし、株も先物も不動産投資もギャンブルと変わるところがない。ギャンブルを否定したら国際的競争力の獲得はありえない。ギャンブルの怖さを知らなかったからこそ、多くのエリートがバブルで失敗した」

と発言しております。

Speculationというと日本では「投機」と理解され、会社経営者は「天に任せて決めてもらう」ような投機に手を染めていけないと何度も聞かされました。にも関わらず「皆で渡れば怖くない」と右へ倣えで土地バブルにとびついた多くの会社が沈みました。しかし英国ではspeculationには「思索」という意味もあります。よく考えて「自分で決める」ということです。そういう意味で私は米国式資本主義は問題が山積して いても、speculationし、苦闘しながら問題を解決してゆくものと理解しております。このような相手に互角に渡り合えない国家は消えて行くのみと思っている次第です。つまり思考停止してはいけないということではないでしょうか。

それに儒教観自体がくせものです。これは中国で皇帝が人民を治めるために考案された教義ではなかったですか。だから徳川家康もこれを自分の一家が日本に永らく君臨するように 用心深くも採用したのでしょう。

 欧米でも絶対王政があったころまでは同じような考えでした。ローマン・カトリックもオーソドックスもみな王様の権威を神から授けるという仕組みに利用されただけでした。しかし自分の不倫のためとはいえ、ローマカトリックから脱したヘンリー八世、その娘のエリザベス1世と、英国社会は自ら考えて行動するメリットを発見し、ついにトーマス・ホッブスがその著「リバイアサン」で「社会契約説」という概念を考案して神を永遠に人類支配のツールから追い出しようやく近代社会が出現したのでしょう。 社会契約説に従い、限定された独裁権(elected dictatorship)を指導層に与えるというわけです。15世紀ころ東と西は互角か東の方が上であったのに、いつの間にか東が低迷している間に西が経済・技術で躍進し、ついに東が西の殖民地にされたのは東が儒教の考え方に人々が縛られていたためと私は思います。

小室直樹著「日本人のための経済原論」はマックス・ウェーバーの言葉をつかって「現代ヨーロッパ諸国と米国では依法官僚制(legal bureaucracy)を採用している。官僚の行動の規範は法典であり、官僚の裁量は入ってこない。つまり恣意は排除されている。いっぽう科挙制を伴う古来中国と近代ヨーロッパ絶対主義国家は家産官僚制(patrimonial bureaucracy)で、公的支配と私的支配との区別がない。明治以後の日本は依法官僚制の仮面をかぶった家産官僚制である」と指摘しております。

儒教も私と公の区別がないことです。当然といえば当然ですね。権力者の私物は国家そのものだから私しかないのです。公とは人民、大多数のもの、これは社会契約説で権力者を神から遮断し、契約(法)で縛ろうという概念ですから儒教にはこれっぽちもない概念です。今でも時の権力者が儒教を楯にとって徳とかいって、ちゃっかり自分の利益を図っていますね。政治家も官僚も民間経営トップも。これが未だに延々と継続しているのは儒教観に遠因があるのではないでしょうか。徳とか言う人はウサンくさいですよ。

トーマス・ホッブスやマックス・ウェーバーを待つまでもなくすでにギリシア時代にヒポクラテスが「王のいるところには、必ずやもっとも臆病なる者がいる。なぜなら、魂を売り渡した家臣は、他人の権力を強化するためには、何のためらいもなく自らの命を危険にさらすようなことはしないからである。しかしながら、誰のためでもなく 、自らのために危険を冒す自立した人々は、その危険に喜んで身を投じる。なぜなら、勝利という褒美を享受するのは他でもない自分自身だからである。」といっております。

2004年にフランス社会学者アラン・ジョックスが「新中世」という面白い概念をだしました 。

「カオスの帝国、すなわち米国によって世界が無秩序と暴力の世界になるが、これはまさに中世の世界そのものである。近代の共和国ないし、主権国家はこのような中世の無秩序と暴力のなかから生まれた。ホッブスの言う”万人の万人に対する戦い”から民衆を守るために作られた政治装置だ。フランス共和国は民衆が王権と教会の権威のくびきから自らを解き放って、自由・平等・友愛原則を打ち立てたのもそれ。ところが米帝国は経済のグローバル化と一体となって、各国の民主的な主権の枠組みを崩そうとする点にある。このようなとき 、ヨーロッパのNGOは中世の騎士団に相当し、主権国家と連携して新しい世界秩序を見出す可能性を秘めている」

といっております。

1997のPMIシカゴ年会で「グローバル時代に国民国家の枠がはずれて世界がひとつの中世になり、都市国家の時代に戻る 」という講演を聞き凄く新鮮に感じたことを思い出します。このとき、米国でもっとも賞賛されていたバーナード・エバース氏が舞台から去ったのも、まさに沸騰するような米経済そのものを体現していると感慨ひとしおです。

今後国際関係がどうなってゆくのか、興味を持って見守りたいと思います。

April 28, 2005

Rev. May 6, 2005


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