深川散策

2013年11月21日、萩和会の第2回目の歩こう会として深川を散策した。有志11名が参加し、山本氏がガイドを務めた。

10:30大江戸線の森下駅集合であった。森下交差点には纏(まとい)のモニュメントがある。昔、酒井忠次の直系の子孫で出羽庄内藩主となった酒井左衛門 尉の下屋敷に樹林が繁茂していて、周囲の町屋は森の下のようであったから森下と呼んだという。

まず、深川神明宮にゆく。昔、深川八郎右衛門という人が、摂津国(現・大阪府)から移住して、小名木川北岸一帯の開拓を行い、この深川の苗字を村名とし た。深川八郎右衛門が創建したのがこの宮だ。



深川神明宮

そのまま、西に進むと芭蕉記念館がある。庭に芭蕉庵を模したほこらがある。

芭蕉記念館の芭蕉庵を模したほこ ら

記 念館の裏木戸を出るとそこはもう隅田川である。清洲橋が見える。

隅田川と清洲橋

川沿いの道を清洲橋に向かい少し歩いていくと左手に満年橋と新小名木川水門が見えてくる。 1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は、兵糧としての塩の確保のため、行徳塩田(現在の千葉県行徳)に目を付けた。しかし江戸湊(当時は日比谷入 江付近)までの東京湾北部は砂州や浅瀬が広がり船がしばしば座礁するため、大きく沖合を迂回するしかなかった。そこで小名木四郎兵衛に命じて、行徳までの 運河を開削させた。いわば海の塩の道だ。

小名木川に架けられた満年橋は、船の通行を妨げないように高く架けられていた。安藤広重は「名所江戸百景」のなかで「深川万年橋」としてとりあげ、葛飾北 斎は「冨嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として描いた。扇橋より東側は戦後の地下水くみ上げのための沈下が激しく、ゼロメートル地帯になってしまった。やむを得ず扇橋以東は水位を1mさげている。このため、小名木川に ロック(閘門)が設けられている。



満年橋と新小名木川水門

満年橋の袂に芭蕉稲荷神社がある。ここが芭蕉が杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし、 「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残したところだ。地元の人によると古池ではなく、杉山杉風が所有する生簀であったという。草庵もその生簀の番 小屋であったという。

満年橋の袂にはもうひとつ川舟番所跡がある。万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して小名木川を通る人と荷物を検査した。1657年の大火後、江戸市街地 の拡大や本所の掘割の完成などに伴い、中川口に移転した。

満年橋を渡り、尾車部屋、北の湖部屋などを見ながら清澄庭園に到着。清澄の地名の由来は1629年ごろ、この一帯の干潟を開拓した猟師町開拓八人の一人、 弥兵衛がこの町の祖で、はじめは弥兵衛町と言ったが、1695年の検地の時に改めて清住町となる。清住とは、弥兵衛の姓であろうと言われている。



大きな地図で見る

この地には元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる。享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推 定されている。

1878年荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。深川親睦園と命名された。 三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、1891年に回遊式築山林泉庭園としての完成を見た。

1889年には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられた。1923年に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失し た。1924年、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。1932年に清澄庭園として開園した。1973年に東京都 は残る西半分の敷地を購入。翌年から整備を開始し、1977年に開放公園(清澄公園)として追加開園した。

清澄庭園の大泉 水と涼亭

涼亭は岩崎家が国賓のキッチナー元帥のために建てたという。いまは有料でだれでも利用できる。六義園も同じように岩崎によって造園され、東京都に寄贈された。殿ヶ谷戸(とのがやと)庭 園も1913年から南満州鉄道の副総裁を務めた江口定条(えぐち さだえ)の別荘として庭師・仙石の手で作庭され、1929年に三菱財閥創業家の岩崎彦弥太が別邸として買い取り、洋風邸宅、数奇屋風の 茶室(紅葉亭)などを追加整備した。戦後、保存を求める住民運動をきっかけとして1974年東京都が買収、公園として整備したものだ。

清澄公園で昼食。食後、東隣の霊巌寺に移動中、富永氏が藤沢でイタリア語を習い、イタリアに1週間滞在したが、イタリアは貧しく、トイレは汚く、外国から の旅行客をカモにする鉄道員がいて好きになれない。ドイツは豊かで、トイレはきれいだ。ただトイレおばさんにチップを支払わねばならない。おばさんに「大 か小か」と聞かれ、「ドイツ人のように大きくはない」と答えたところ大笑いしてただで済ませてくれたそうである。

霊巌寺には「寛政の改革」を行った松平定信の墓と江戸六地蔵の 一つがあった。松平定信はまた天明の飢饉のとき白河藩主となり、日本最古の公園である南湖公園を 造り、庶民に開放した。青銅の地蔵は立派であった。



江戸六地蔵 藤間氏撮影

霊巌寺の東隣には深川江戸資料館がある。実物大の火の見櫓、米屋の土蔵、長屋、猪牙舟などが展示されている。

深川江戸資料館

深川江戸資料館をでて、南下開始、円珠院で大黒天をみて南下すると平野交差点がある。ここでコーヒータイム。1698年、幕府によって埋立てられ町屋が開 かれたが、後に名主平野甚四郎長久の姓をとって平野町としたのが始まりという。

木更木橋で仙台掘を渡る。仙台掘は北岸にあった仙台藩邸の蔵屋敷に米などの特産物を運び入れたことに由来する。かっての運河の上に建設された高架橋方式の首都高速9号線をくぐってさらに南下する。首都高速9号線の下の堀は埋め立てられてしまった。

深川不動堂に達する。江戸時代のはじめ、成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸っ子たちのあいだで高まった。これを受けて、成田不動の「出開帳」 が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれた。これが深川不動堂の始まりである。永代寺は明治維新後、神仏分離令により廃寺となった。しかし不動尊信仰は止むこ とがなく、1878年に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続することが東京府により認められた。東京大空襲で焼失した後、千葉県 本埜村(現・印西市)の龍腹寺の堂を移築して本堂 としたものは旧本堂という。

地名「門前仲町」は「永代寺の門前町」という意味である。とにかく規模が大きい。

深川不動堂の旧 堂

富岡の名は、こ江戸時代初期に行なわれた深川の干拓が難航したため、波除八幡の異名をもつ横浜市富岡町にある富岡八幡 宮を分霊したためと言われる。

冨岡八幡宮(深 川八幡宮)

境内には伊能忠敬の銅像がある。江戸時代の測量家である伊能忠敬は、当時深川界隈に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため富岡八幡宮に必ず参拝に来 ていたという。

富岡八幡宮はまた江戸勧進相撲発祥の地でもある。江戸時代の相撲興業は京・大阪からはじまったが、 トラブルが多く、しばしば禁令が出ていた。その後禁令が緩み、1684年、幕府より春と秋の2場所の勧進相撲がこの地で興業することが許される。横綱力士の碑にて記念撮影。


横綱力士の碑にて 三浦氏撮影

富岡八幡宮の東側には東京最古の鉄橋とされる八幡橋が残されている。八幡堀を埋め立てた遊歩 道にかかる人道橋である。1878年に京橋区の楓川に、アメリカ人技師スクワイヤー・ウイップルの発明した形式を元に工部省赤羽分局により製作、架橋され た。付近に島田弾正屋敷があったため、弾正橋(だんじょうばし)と称された。当時、馬場先門から本所や深川を結ぶ主要路で あったので、文明開化のシンボル的存在の鉄橋であった。その後、ここに移設された。1989年には日本ではじめて米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が贈 られた。

八幡橋

門前仲町の「はなの舞」で喉をうるおしたのち、大江戸線で大門にでて京急線で帰宅。

November 24, 2013
Rev. November 26, 2013


その後、箱根の姥子で近藤氏より小名木川界隈は藤沢周平の市井ものの舞台になっているというので鎌倉図書館から藤沢周平全集を借りてきて「霧の果てー神谷玄次郎捕り物控」の「針の光」を読んだ。ちょうど今回の深川散策の範囲と重なっている。

Rev. December 7, 2013


トッ プページへ