衣張山(きぬばりやま)

金沢街道の杉本観音前から滑川を渡って真っ直ぐ南進すると田楽辻子(でんがくずし)と交差する。鎌倉時代に 六浦に抜ける路地には田楽師が住んでいたため、田楽辻子と呼ばれるようになったという。この辻に平成巡礼路という標識が立っている。 この巡礼路を真っ直ぐ南下すると道はやがて未舗装となり、鬱蒼とした杉林に入る、谷の終わりから斜面をジグザグに登ると鎌倉の最高峰衣張山(120m)の 山頂に到達する。 頼朝が夏にこの山の頂上に白い布を広げて雪と見立てたために衣張山と呼ばれるようになったという。

ここからの眺望はすばらしく、眼下に鎌倉市街地、そしてその向こうに稲村ヶ崎と江ノ島を見晴らすことができる。

衣張山山頂から江ノ島方向を望む 2008年2月10日撮影

グリーンウッド氏は2007年には名越切通から衣張山に 行こうとしてトライしたが、逗子ハイランドからの入り口が分からず敗退している。

2008年2月10日に朝比奈切通(あさいなきりとおし)訪 問の後、田楽辻子から名越切通に抜けるルートをたどった。山頂から南に稜線をたどり逗子ハイランドに到達した。大切岸の縁をたどって名越切通にたどりつ けるはずだが、日も暮れたので大町六丁目に下っ た。

名越切通から長勝寺にでて急坂を登れば鎌倉材木座霊園 を 抜けて光明寺ま で山越えの散策を楽しめるはずだが未踏である。

2017/11/6 グリーンウッド氏は山仲間と秋の好天下、田楽辻子を出発し、衣張山から名越切通に抜けた。そのルートは下図の通りである。衣張山山頂はこの10年の間に笹 が生い茂って狭くなっていた。衣張山山頂から逗子ハイランドに縦走する尾根道はかって名越切通から一度歩いているが、記録は残していない。ただ衣張山山頂 はすでに狭くなっていたので、ここ数年のことだろう。



大切岸は三浦氏からの攻撃に対応する防衛目的でつくられたとの従来の説は覆って、宝永山の噴 火前の14-15世紀の石切り場の跡と変わった。大切岸は鎌倉と逗子の境でもある。

名越切通の逗子側では曼荼羅堂やぐら群をガイドの解説付きで見物。曼荼羅堂やぐら群は私有地 であったが、逗子市が公園にすべく買い上げて、目下発掘調査中で、一般には公開されていない。材木座在住の幹事が公開日に連れて行ってくれたのである。鎌 倉には13-16世紀のやぐら群 が沢山あるが、ここ逗子の密集度は一番だ。遺体は火葬し、骨だけやぐらに埋葬したようで、火葬場の後も発掘されている。斬首された頭部らしきものもは火葬 も されず頭蓋骨だけ見つかっている。

曼荼羅堂やぐら群の展望広場にて記念撮影  2017/11/6

材木座海岸まで歩き、海鮮丼の昼食をとり、今回の幹事の安井氏宅でお茶、そして覚園寺と充実した時を過ごした。覚園寺の薬師如 来と日光・月光菩薩、ならびに、十二神将は、半月前に訪問した京都の東寺金堂のそれにひけをとらないものだった。また境内にある十三仏の解説を聞いた。こ れは熊野の内野集 落に あった薬師堂の十三体と同じものだった。

February 11, 2008

Rev. November 7, 2017


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