小辺路・西国巡礼そして小栗街道

小辺路

熊野古道は過去8年に渡り、大峰奥駈道中辺路などを歩いているが、高野山から熊野本宮に至る小辺路は未踏であった。理由 は 単純で水ヶ峰越、伯母子(おばこ)峠越、三浦峠越、果無(はてなし)峠越と4日もかかるこ とと、途中の宿泊の宿が整備されていないためだ。携帯 でタクシーが呼ぶにしても電波がつながらないことも予想される(最近では集落内ならNTTだけはつながることが判明) これを何とかしたいと考えた。対策 として

(1)レンタカーを使って送迎する安井氏1名の車組と小辺路を歩く和田、榎本、秦、グリーンウッドの4名の徒歩組のグループに分ける。レンタカーはト ヨタレンタ カー新宮駅前店(0735-21-7273)で借りる
(2)レンタカーを使うとしても、山から下って谷底で落ち合うときの電波状態が悪いことから本宮から高野山に向かう逆打ちすることにする
(3) 徒歩組の1日の水平移動距離は10kmとし、かつ歩くのは2日に限定

西国巡礼

本宮から小辺路と逆に歩いて高野山に至れば、那智の青岸渡寺を一番とする西国三十三霊場の うち、2番から5番までの4ヶ寺もついでに歴訪できる。すでに13寺を済ませてあったので、今回、4寺加え、17寺を済ませることが可能である。そうすれ ば残りは16寺となる。というわけで小辺路のあとレンタカーと電車でめぐることにした。


小栗街道(熊野街道)

熊野本宮詣を勧進するために、説教節なるものが発達し、その主人公の小栗判官が歩いたルートというものが小栗街道である。説教節では小栗判官は藤沢の遊行 寺から本宮に詣でるルートされているが、小栗街道といわれるものは大阪市中央区天満橋京町を起点に、四天王寺がある上町台地を南下し、住吉大社を 経て、泉 北台地のうえに広がる和泉国に入る。和泉国瓦屋村(泉佐野市)で、それまで熊野街道の海側を並行して通っていた紀州街道が熊野街道に合流し、雄ノ山峠 を越えて紀伊国川辺村に至る。川辺村で紀州街道と分かれ、熊野街道は川辺村から紀ノ川を渡って南下し続け、紀伊国田辺を経て、中辺路または大辺路によって 熊野三山へと向かっていた。上町台地は4000年まえの縄文海進のためにその東側は河内湾になっていたとき百舌鳥から大阪城に向かって伸びる半島になって いたのである。

和田、榎本、秦はこの小栗海道の紀伊国田辺へ向かって南下ルートをとり、グリーンウッドはたまたま四天王寺での親戚の法事も兼ねて北上して上町台地にある 四天王寺から大阪城、天満橋京町を徘徊した。



第一日 2017年10月9日(月)

<計画>

東京組:東武練馬6:04→(東武)→6:17池袋6:31→(JR山手線)→6:55東京7:33→(新幹線ひかり503)→8:07小田原

鎌倉組:鎌倉高校前6:54→7:10藤沢7:21→7:56小田原

全員:小田原発8:08→(ひかり503)→9:17名古屋10:01→(JR特急ワイドビュー南紀3号紀伊勝浦行)→13:37新宮

<記録>

駅前のトヨタレンタカー新宮店(0735-21-7273)でレンタカーを借りる。奈良で車返却が条件。(レンタルフィーは3日間、約300km走行予定 で税込22,680円(実際には4日間に延長)。

全員:まず、熊野速玉大社(新宮)に参拝したあと、神倉山の元宮にゆく。これが2度目でもあり、時間がないためもあり、長い階段は登らず、道路から岩倉を 遠望す るにとどめた。那智への移動は高速道路を使った。

同行の和田氏が2010年には、相乗りでバス並み料金というタクシーの運転手の申し出に乗って新宮から那智に移動に移動したことを思いだした。しかし私のウェブの記録で はJRのワンマン電車であったことが明記されているので別の機会の記憶だろう。要するに和田氏にとって那智は3回目ということになる。2010年の 前回訪問時にはなかった補陀洛渡海船が復元されて補陀洛山寺に展示されていた。前回は補陀洛山寺から青岸渡寺まで歩いたが、今回はレンタカーであっという 間に那智の大滝 につく。途中、大門坂はチラッとみただけでパス。駐車場から那智の大滝の滝つぼにかなり下る。これが記憶から脱落している。



那智の大滝

ここから更に車で移動して青岸渡寺につく。ここで和田氏は3度目にしてようやく西国33霊場1番の青岸渡寺の朱印をもらうことができた。他のメンバーは朱 印は終活の経 験から集めないと決める。

新宮に戻り、トンネルをくぐって熊野川沿いの街道を一路、本宮に向かう。明日の朝の貴重な時間を節約するため、果無峠の登山口となる八木尾バス停をまず確 認する。そのために本宮を通り過ぎて八木尾(やきお)バス停に向かう。八木尾バス停は旧道にあった。やはり旧道にある道の 駅でミカンなどを買い求めてから、2013年の中辺路に使った渡瀬温泉のホテルやまゆりに向かう。こ こで 夕食を前回と同じ天井の高い食堂でいただいたのち、露天風呂を満喫。(0735-42-1185  2食付 11,880 円x 3名、 12,960 円x 2名、 到着時刻変更はホテルへ直接電話、駐車場OK。 3〜2日前キャンセル20%、 前日キャンセル-50%、当日キャンセル- 80%、  不泊100%)


第二日10月10日(火)

<計画>

全員:渡瀬温泉7:30→(レンタカー)→8:00八木尾バス停

徒歩組:八木尾バス停(100m)8:00⇒12:00果無峠(1,114m)13,00⇒17:00ホテル昴(156m)(0746-64-1111 泊 2食付税込2名室15,000円、3名室14,000円 キャンセル3日前。弁当540円別。

八木尾バス停の標高100m、果無峠の標高1,114m、 ホテル昴の標高156m、下り標高差958m、水平移動距離10.4km。水平移動速度は 10.4/5=2.04km/h、登り垂直速度は1014/4=253m/hで実績の登り速度250m/hと同じ。下り垂直速度は958/4= 240m/hで実績の330m/hより小さい。

果無峠越えのルート図をViewranger.comで 作成し公表した。顔写真を添付しないと公表できない。出かける前にこの界隈の地図を切り取ってアンドロイドスマホに内蔵して行けば、携帯がつかえない山中 でも宇 宙通信を使うGPSは機能するため、ナビゲーションしてくれる。スマホで Hatenashi-passで検索すればこのルート図をダウンロードできる。緑がスタートで赤がフィニッシュである。民宿などがある集落周辺ではNTT のSIM内蔵に しておけばなら携帯電話も使える。


車組:レンタカーで熊野本宮立ち寄り後、車で果無集落の駐車場まで登り、そこから果無峠に向かって登る。徒歩組と合流後一緒に下って、ホテル昴泊。


<記録>

天気は日本晴れ。やはりこの日は特異日だ。この日のために1年待ったのだ。

計画通り、7:30にはホテルを出て、八木尾バス停に移動。八木尾バス停には西国33観音の1番がある。果無峠に17番、果無集落に30番、擽砂古バ ス停に33番があるという。大正時代に寄進を受け、以後地元の人々が大切に維持してきたという。



八木尾バス停にて

しばらくは民家の庭先を避けて八木尾集落内のアスファルト舗装道路を登る。道標に従いアスファルト道から尾根道に入ると3番観 音があった。ここからは完全な山道だ。更にのぼり、8番観音を過ぎると道標があり、七色分岐とある。七色集落からの山道が合流するところだ。ここから少し 登り、9番観音を過ぎると南の本宮方面の視界が開ける。登ってきた尾根が前景に見える。



9番観音から本宮方向を望む

更に少し登ると眼下に熊野川がS字型に蛇行しているのが望める。その右手の尾根が今登ってきた尾根だ。そもそも紀伊半島の中央構造線より南側 はフィリピン・プレートがベルトコンベヤー式に運んできた海洋火山が日本列島にぶつかって付加された付加体という岩体の集積物だ。ここに熊野川がV字渓谷 を南北方向に掘り込んでいる。熊野川には当然支流が「キの字型」に東西から流れ込んでいる。本日登る果無峠は熊野川本流と「キの字型」の支流が削り残した 高みというわ け。明日越える三浦峠、そして今回はオミットした伯母子峠越も同じ原理でできた。付加体の最後が高野山というわけ。その北はユーラシア大陸から千切れた日 本列島の本体で付加体との境目に大 台ヶ原から流れ出した紀ノ川 が西に向かって方向に流れているというわけだ。



蛇行する熊野川

11番観音まで登り、三十丁石までくると本宮方向の視野が開ける。右側に見える2つのおむすび型の山が上ってきた尾根。その向こうに見える山上の集落は本 宮町伏拝である。左の熊野川には三里橋が見える。



三十丁石から本宮方向

二十丁石を過ぎ、坂を上り、14、15番観音を過ぎると花折茶屋跡という広場に出る。六字名号碑という墓石様の石の前を過ぎ、16番観音を過ぎる頃、反対 側か ら登りだした安井氏から観音堂に向かって登っているとの電話連絡が入る。5人に電話し、秦さんの携帯だけが受け付けた。我が方は和田氏が疲労で遅れだし、 女性群が先に峠に向かって合流することにする。

予定より1時間遅れて全員峠に着く。確かにそこに17番観音がある。



17番観音にて

ここでホテルに作ってもらったおにぎり弁当をとる。

予定より1時間遅れで下山を開始する。1時間の遅れは海抜400mの果無集落に駐車した安井車にてリカバリーできる見当だ。こうして暗くなるまでには本日 の目的 地「ホテル昴」に着けるので気楽である。このもくろみのために安井さんに頼んでレンタカーを利用し、逆うちしたわけである。

19番観音まで下ると北側の眺望が開ける。中央少し右、遠方に大峰奥駈道の釈迦ヶ 岳が見える。その手前には本日の目的地「ホテル昴」の三角地、その右には安井車を留め てある果無集落と十津川温泉の庵之前橋が見える。果無峠と三浦峠を彫り出した十津川に流れ込む「キの字」の支流は西川と上湯川であることが歴然とわかる風 景である。

明日の出発点の西中バス停も左手奥に見える。三浦峠はその先である。



果無峠北面から釈迦ヶ岳方面の眺望

20番観音には小さな観音堂があった。ここで水を補給する。24番観音を過ぎて山口茶屋跡を過ぎると天水で水田を耕作平地にでる。小さな蛇がいる。夕陽は ますます傾いている。



天水田跡

29番観音でようやく果無集落のアスファルト道にでるが、再び滑りやすい石畳道に戻って、集落の駐車場に向かう。

集落からは明日の目標の三浦峠方面が望める。左手手前のとんがり山は無名の640mの峯。この左手の沢の奥が明日の登山口となる西中バス停だ。中央の奥 まった三角山は行仙岳(1,091m)、右側の双耳峰は大森山(862m)である。



果無集落

小辺路は集落の民家の中庭を突きっている。観光パンフレットで果無集落の顔となっていた老婆もすでに他界したようだ。



果無集落内民家の中庭を突きる小辺路 後方の山は果無峠

夕刻17:30頃、車でホテル昴に到着。車であるから赤い柳本橋を渡り、人専門の吊り橋は見ていない。夕食前に車で有志が戸津川温泉に買い出しに向かう。 ホ テル昴は戸津川村の施設の様だ。温泉はなかなか良かった。


第三日 10月11日(水)

<計画>

全員:ホテル昴7:30→(レンタカー)→8:00西中バス停(300m)

徒歩組:西中バス停(280m)8:00⇒11:30三浦峠(1,080m)12:30⇒16:00三浦口(400m)⇒十津川村五百瀬(い もぜ)101 農家民宿「政所」泊 (0746 -67- 0476 弁当付き8,500円)または十津川村内野198農家民宿「山本」(0746-67-0076 2食付き税込7,500円 キャンセル2日前)  伯 母子峠登山口20 メートル付近に公衆電話あるとされるが集落にはNTTのアンテナがあるそうで、集落内なら携帯はつかえそう。内野198の農家民宿山本は五百瀬101農家 民宿「政所」より1km遠いが携帯で車組の迎えを頼むことも可能。オーストラリアの夫婦が同宿の様だ。

西中バス停の標高280m、三浦峠1,080m、 三浦口の標高400mで下り標高差680m、水平移動距離11.9km。水平移動速度は11.9/6= 1.98km/h、登り速度は800/3.5=228m/hで実績の登り速度250m/hより小さい。下り垂直速度は680/3.5=194m/hと実績 の330m/hより小さい。。

下の三浦峠越えのルート図もViewranger.comで作成したものである。当日はスマホでナビゲートしてもらうためだ。緑がスタートで赤がフィニッ シュ。



車組:レンタカーで古座川峡、新宮など観光後、十津川村内野198農家民宿山本泊。もし携帯で連絡できれば三浦口に迎えに来てもらう。

<記録>

この三浦峠が標高差も700mと小さく、一番楽なコースなのだが、昨日の経験に学んで、本日は全員、峠を越えることを断念し、両登山口周辺を散策するだけ に した。

定刻に車で西中バス停に向かう。ホテル昴のフロントの勧めで西中バス停を過ぎて車で行けるところまでアスファルトの林道を登り、登山口入口に立つ。



西中登山口にて

アスファルトの林道が尽きるところまで進む。山は急峻である。



西中登山口

道が途切れたところでUターンし、西中バス停に下り、三浦口に向かう。そのルートは十津川に戻り、十津川沿いに北上し、十津川村役場前を通過。トラス橋の 風屋大橋を渡るとき、重力式の風屋ダムが左手に見えたはずであるが、気も付かず通過。2018/4/7の朝日にこの風屋ダムが豪快に放流しているヘリ写真 が掲載された。


川津から支流神納川の作った渓谷に入り込む。

昼寝したいという和田 氏の希望で今夜の宿所である内野の農家民宿「山本」に立ち寄る。ついでに三浦口に駐車場所があるか聴く。そには駐車場はないので更に800m上流に駐車し てくれ とのこと。幸運にも三浦口の工事会社の職員に許可を得て駐車することができた。車での中継ぎは想定していないようだ。

吊り橋の船渡橋を渡って三浦峠越に取り掛かる。



船渡橋

民家の間にある石畳道を登る。杉の植林地の中を登ってゆくと樹齢数百年というスギの巨木のある場所に着く。そこが吉村家跡のようだ。かって宿場を経営して いたらしい。



吉村家跡の杉の巨木

更に登り、二十五丁石近くで、昼食をとり、下山。三浦口の工事会社の職員に礼をいい、車で農家民宿山本に向かう。

時間があるので全員で内野集落を散策した。集落は6軒で構成されている桃源郷だ。ま だ集落崩壊には至っていない。散歩中ゴミ焼きに出かける86才の老婆に会った。われわれのような巡礼者がこの村を訪れるのはうれしいと歓迎の言葉を賜っ た。孫も6人いて、時々帰ってくるという。

宿の主人中南太一氏の話では明治の廃仏稀釈で寺が消えてからついに寺は戻らなかったという。その代り、薬師様が 鎮守をなって集落の中心になっている。薬師堂には皆で唱える御念仏の額が掲げてあった。

1 フドウ
2 シャカ
3 モンジウ
4 フーゲン
5 ジーゾウ
6 ミイロク
7 ヤクシ
8 カンノン
9 セーシュ
10 アーミイラ
11 アアシュク
12 ダイニチ
13 コクゾウ
 十三体

これを般若心経の節をつけて唱えれば、恍惚となること請け合う。ところで十三体とはなんぞや?不明にして知らない。調べると江戸時代に考案された十三仏と 同じらしい。閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王と、その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地とされる仏であるという。

それにしてもセーシュとは勢至菩薩、アーミイラは阿弥陀如来、アアシュクは阿閦如来、コクゾウは虚空蔵菩薩のことのようだ。

その上の額には薬師様は耳の神様とあり。村の掟が5ヶ条記してある。そして総代中南なにがしの署名。



内野の薬師堂

宿の女将中南佐栄子さんによれば、小辺路には内野の農家民宿「山本」と五百瀬の農家民宿「政所」の2軒しかないので小辺路を歩く人数はこの2軒の収容人数 で 決まっているという。早いもの勝ち。われわれはその幸運者。

高野山から伯母子峠越でやってきたオーストラリアはシドニー在住の夫婦(奥さんは日本生れの日本人)はかなり難路であったと言っていた。明日の三浦越えは 午後2: 00西中発のバス利用といっていたのでかなりきついだろうというと奥様はため息をついて主人に騙されたと一言。

秦さんが「何故アメリカ人の女の子は単身熊野にやって来るのか」と聴いたところ、

@熊野は世界遺産である。
A日本は女の子一人でも安全、逆に日本人の女の子は外国では女一人は危険と知らないので犠牲者がでる。これは教育の問題。
Bオーストラリアでは義務教育で女の子でもコンパスと水筒だけ持たせて、単身森の中を歩いて生還する教育をしている。

と3つの理由を挙げた。



農家民宿「山本」にて


第四日 10月12日(木)

<計画>

全員:農家民宿山本7:30→(レンタカー、NAVIに従う)→10:31槙尾山(まきおざん)観光センター⇒11:00第4番施福寺(せ ふくじ)11:50⇒槙尾山(まきおざん)観光センターで昼食→槇尾山口バス停12:51→(南 海バス [特37]父鬼線 和泉中央(バス)行)→13:21和泉中央バス13:26→(南海バス [21]泉大津光明池線 泉大津駅前行)→13:48和泉府中駅

代案:槇尾山口バス停からはタクシーで和泉府中駅4,000円

徒歩組:和泉府中駅14:04→(JR阪和線紀州快速和歌山行)→14:52和歌山14:55→(JR和歌山線 王寺行)→15:26粉河駅⇒15:45 第3番粉河寺(こかわでら)16:35⇒16:50粉河 駅17:00→(JR和歌山線)→17:32和歌山市駅⇒ワカヤマ第2富士ホテル(税込5,900円 湊紺屋町1-20 817)泊。

車組:槇尾山から奈良に向かう。

<実記録>

高野山に立ち寄ったのち、槙尾山に向かうことにルート変更した。予定通り7:30に宿を出発。宿の主人のアドバイスで川津から十津川街道を北上、猿谷貯水 池を2/3北上したところにある中原橋を渡って中原川沿いの高野天川線に入る。(途中、徒歩用では日本一の長さ(297m)を誇る鉄線吊橋「谷瀬の吊り 橋」があることも知らず、トンネルで通過。)中原川の川底から天狗木峠に登り、奥の院直行というルートをとった。天狗木峠 からは尾根道で東側の深い谷に臨む縁にルートつけられている。尾根道の東側の雨水は全て熊野川に最終的には流れ込んでいる。小辺路は高野山や奥の院に降っ た雨水が南側から流 れ出す御殿川の西側を南下し、小川の内にこれを横断し、龍神スカイラインを横断し(一部合流)、水ヶ峰越に登り、大股に下るルートとなっている。大股から 伯母子峠越というわけ だ。御殿川は次第に西に向きを変えて最終的に紀伊水道に注いでいる。

さて奥の院前の駐車場に駐車したが、入り口を入ると以前来たときと雰囲気が違う。駐車場の方にも新しく入口を作ったと後で判明。

奥の院後は車で刈萱堂に向かう。長野の石堂にある刈萱堂と深い関係のあるところだ。

次に総本山金剛峯寺にちょっと立ち寄って、「壇上伽藍」駐車場に向かう。中門をくぐって金堂の前に立つ。巨大だが殺風景。それもそのはず何度も焼失して現 存は昭和初期に再建された鉄筋コンクリート造り。その右奥に朱塗りの根本大塔という二重の 搭があるがこれも派手だけで味わいが無い。これも鉄筋コンクリ−ト造り。金堂の左奥に御影堂がある。これはなかなか美しい建物だ。丁度NHKのタモリの番 組で御影堂の欄干が、金堂の火災で焦げ て以降、防火水幕を作った話を放映していたので興味を持って丁寧にみた。手前の角の欄干が焦げて細った欄干だ。



御影堂

御影堂の前には「三鈷の松」がある。空海が、恵果から密教を受法後、806年、中国・寧波の浜から、「密教を弘通するため」の地を求めんと願いつつ、三鈷 杵(飛行三鈷杵)を投げた。後に嵯峨天皇より、勅許を得て高野山を下賜され、伽藍を造営の途中に、空海が松に掛かった三鈷杵を見つけ、高野山を「修禅の道 場」とするのに相応の地であると確信したという伝説がある。三葉の松で珍しい。

六角経蔵を回して「壇上伽藍」は終了。大門を車中から見て、高野山を下る。

花坂ドライブインで昼食。

NAVIが選んだ槇尾山へのルートは高野街道ではなく、西高野街道の梨の木峠(トンネル)→鍋谷峠越え(トンネル)のルートだった。紀の川を渡り、JR笠 田駅周辺で工事による交通規制があったが、何とか脇道で切り抜け480号線を真っ直ぐ北上し、槇尾山口にたどり着けた。JR笠田駅周辺で第3番粉河寺が近 い ことに気が付いたが、安井氏の奈良到着がおくれ、レンタカー返却ができなくなるため、そのまま槇尾山口に向かう。2018/1/26のNHK-BSのサイ クリング番組でJR笠田駅近くに「十五社(じごせ)の森」という 幹周13.4m.、樹高20mクスの巨樹があることを知る。

計算外だったのは槇尾山口から施福寺までの階段の長いことだった。ほとんど登山である。朱印がほしい和田氏は頑張って施福寺までたどり着いたが、他3名 は挫折。



第4番施福寺

施福寺は空海より前にすでにここにあったらしい。ここで風難についての書き物をいただく。観音経にある「七難三毒皆滅す」とある。風難とは風評被害のよう なものでまさに「黒風きたりて、羅刹鬼の国に瓢堕す」ということになる。対抗するには「念彼観音力」と念じすしかない。

槇尾山口からNAVIに南海電鉄河内長野駅を入力して、まっしぐら、予定の2分前に橋本行きを捕まえることができた。今回大活躍の安井氏とはここで別れ る。

河内長野は馬の飼育をする高句麗からの人々が入植した場所だと言う。その一部が我が故郷信州の長野市に移住したとどこかで読んだ気がする。山に囲まれた風 景はどこか長野市のそれとと似ている感じはする。河内源氏もここで興った。

橋本駅でJR和歌山線に乗換え、第3番粉河寺に向かう。粉河駅から寺までは門前町である。なかなか立派な寺である。



第3番粉河寺


粉河駅にとって返し、今夜の宿舎ワカヤマ第2富士ホテルのある和歌山市駅にむかう。その気が無かったので調べなかったが、徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川 家の居城である和歌山城はこのホテルから歩いてゆける距離であった。城めぐりに大阪城とともに加えることができたのにと残念。


第五日 10月13日(金)

<計画>

徒歩組:2番紀三井寺と5番葛井寺(ふじいでら)をめぐる。

和歌山駅7:42→(紀勢本線・御坊行)→7:48紀三井寺駅⇒第2番紀三井寺⇒紀三井寺駅9:31→(JRきのくに線・和歌山行)→9:38和歌 山9:40→(JR阪和線紀州路快速・京橋行)→10:54大阪阿部野橋/天王寺(18番線着、4番線発)11:04→11:17藤井寺駅⇒5番葛井寺⇒ 藤 井寺駅13:43→13:57大阪阿部野橋/天王寺14:12→(大阪市営御堂筋線・千里中央行)→14:43桃山台駅

オプションとして大阪城に立ち寄り、時間調整。

天王寺14:13→(大阪市営地下鉄谷町線・大日行)→14:20谷町四丁目⇒大阪城⇒谷町四丁目16:12→(大阪市営中央線・コスモスクエア行) →16:15本町16:22→(大阪市営御堂筋線・千里中央行)→16:43桃山台駅

3人組:藤井寺駅から高野山に向かい、もう一泊。

<記録>

予定の時刻にホテルをでて和歌山市駅から和歌山駅に向かう。ここで乗換え、紀三井寺駅に向かう。あとは徒歩で第2番紀三井寺に向かう。急な階段を登れば立 派な伽藍の前。



第2番紀三井寺


皆で紀三井寺駅に引き換えし、道成寺のある御坊に向かう3人組と5番葛井寺に向かうグリーンウッド氏とに分かれる。グリーンウッド氏は単身JRで天王寺駅 に向かい、 ここで近鉄の大阪阿部野橋駅に歩き、ここから藤井寺駅に向かう。5番葛井寺は極く藤井寺駅に近い町屋のなかにひっそりとたたずんでいた。



5番葛井寺


これで今回予定した西国33霊場のうち、4寺を消化。残るは15寺となった。多分、残りは未消化で終わるかもしれない。

大阪阿部野橋駅に取って返して、地下鉄谷町線で大阪城に向かう。グリーンウッド氏にとってはこれが初体験。谷町4丁目で下車。エスカレーターを登ると NHK大阪ホールや大阪歴史博物館の巨大な建物コンプレックスに出る。前の広場には難波宮跡とある。難波宮跡なるものの本体は大阪城に広がっている。5世 紀の大型高床式建物が発掘された法円坂建物群もこ こにある。百舌鳥(もず)や古市に巨大な古墳を築いた大王が建てたものだろうと推察されているようだ。6-7世紀にはこの 下に難波津という港が築かれ国 際港となっていた。遣唐使や遣隋使がここから出発したという。大阪歴史博物館のレストランでウナ丼の昼食。

真田幸村の真田丸跡はもっと南の長堀通りの南にある。心眼寺が目印だ。

大阪城には大手門から入る。南外壕の向うに生駒山のアンテナ群が見える。枡型に使われている巨石に度肝を抜かれる。桜門から入る。しばらくあるくと正面に 天守閣が聳えている。金色の金具が冴えている。天守閣はどうせ鉄筋コンクリートと敬遠し、天守下仕切門から坂を下る。極楽橋を渡り内濠沿いに歩き京橋口か らでる。



大阪城の内濠越しに天守閣の北面をのぞむ

京阪本線の天満橋駅に向かって日経ビルの南側の路地を歩いているとイタリアの高級外車マセラティが不法駐車していて警官たちが困った顔して後処理に当たっ ていた。まさにこの天満橋界隈ここそ小栗街道の出発点であり、その昔は難波津があったところだろう。

京阪本線(地下化)で淀屋橋に移動し、大阪市役所前のプロムナードで、赤ワインのグラス1杯で時間調整後、御堂筋をチラッとみて記憶を復習した。御堂筋は 6車線が並木で隔離され、昔、米国人を連れて訪問した時、東京よりもすばらしいと絶賛されたところだ。御堂筋は上町台地と平行して南北に走っている。今回 の三回忌の主人はこの御堂筋の東にある船場で繊維製品を商っていたことがある。いずれもかっては海面下であった土地だ。

御堂筋散策の後は本日の宿舎である桃山台駅に向かう。桃山台は大阪万博時に千里ニュータウンとともに開発された住宅地で、ここからは神戸の六甲山から淡路 島まで見晴らすことができる。


第六日 10月14日 (土)

<計画>

桃山台駅8:49→(北大阪急行・なかもず行)→8:59新大阪9:13→(JR京都線快速・野洲行)→9:35山崎駅⇒大山崎山荘美術館 ⇒山崎駅12:00→(JR京都線快速・野洲行)→12:19京都駅


<記録>

ミセスグリーンウッドの希望で大山崎山荘美術館に立ち寄った。アサヒビールの初代社長の山本為三郎の友人の実業家が道楽で山崎の天下分け目の天王 山の山麓にたてた豪邸がオーナーの死亡後、遺族によって不動産会社に売却された。マンションに建て替えられる運命だったのだが、地元がアサヒビールに働き かけ、これを買い戻してもらい、山本為三郎のコレクションを展示する美術館に改装したというものである。安藤忠雄が付け加えた地下の展示空間も加え、素晴 らしかっ た。

丁度、有元利夫作品展が開催されていた。



大山崎山荘美術館


美術館は天王山の中腹にある。美術館の展望台から地形を見晴らせば、信長が本能寺で倒れたあと、なぜ秀吉がこの山崎の地峡で天下分け目の戦をした かが理 解できるし、幕末の鳥羽・伏見の戦いで、4000人の兵しか持たない薩長軍が圧倒的な兵を持つ幕府軍をなぜこの地峡で待ち伏せして勝利を収めたかが分か る。権力を奪った方はそうは言わないが、明治維新を成し遂げたのは実は長期的視野をもっていた慶喜であって、一戦闘に勝った西郷などは雑魚であったという ことになる。

下の山崎美術館展望台からスマホで撮影した中央の山はかの有名な石清水八幡宮のある男山(鳩ヶ峰)である。この山は大阪と奈良盆地を隔てる生駒山山脈の北 端になるので、伊賀や奈良盆地北部の雨水はここまで木津川として北流してからUターンして桂 川と宇治川に淀川に合流するし、江戸時代は明治期に干拓された宇治川が溜まった巨椋(おぐら)池がこの男山と伏見の間に あったので河と街道はすべてこの山崎の目の下 を通過していた。そこの首根っこを先に選んだ西郷の勝ちであった。徳川は甘く見ていた。慶喜は戦などしなくともと考えていたので部下に勝手にせいなどと いってしまって後年悔いている。ギリシアの昔にもスパルタの王レオニダスが300人の兵だけで20万のペルシャの軍を3日間とどめたのち全滅した故事も同 じ隘路の原理だ。



美術館の展望台から石清水八幡宮の男山を見晴らす

JRで京都駅に降り立ち、近鉄で一駅の東寺駅下車、空海がひらいたという京都の東寺に向かう。五重の搭は無論、空海が構想した講堂の立体曼荼羅や金堂の薬 師三尊・十二神将は素晴らしい歴史遺産だ。よくも戦乱に生き残ったと思う。


東寺五重塔

最後に親戚が経営する無農薬食品販売店を視察すべく出町柳駅を訪問後、京阪線で淀屋橋に戻り、宿舎のある桃山台駅に戻った。

第七日 10月15日 (日)

地下鉄で四天王寺前夕陽ヶ丘に移動。四天王寺の中之門から入り、大黒堂裏の墓地に向かう。ここで坊さの読経で法要を行う。亀井堂で経木(キョ ウギ)を流して行事は終了。あとは故人が四天王寺に寄贈した灯篭を見る。

車で 太閤閣まで小栗海道(上町筋)を北上する。丁度馬の背状の地形がはっきりと見える。太閤閣は戦前藤田財閥のオーナーの藤田伝三郎が建てた「網島 御殿」、「あかがね御殿」などと称された広大な藤田邸がもととなっていて上町台地が尽きた低地にある。現在は藤田観光が宴会場・結婚式場・ レストランとして運営している巨大な施設だ。築山式回遊庭園は未だに維持されている。



太閤閣

 2016

Rev. April 7, 2018


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