名越切通(なごえきりとおし)

鎌倉七口の一つである。鎌倉の全ての切通は北条一族が警備していた。名越流北条氏がその任務に当たった。元祖は第2代執権義時の子朝時(ともとき)。名越流得宗家の興隆とともに没落。

2005年12月5日、秋晴れの下、坂東三十三ヶ所観音霊場の1-4番まで巡礼の予備調査をしたこのとき、2番札所岩殿寺(がんでんじ)から3番札所安養院(田代寺)へは新名越のトンネルをぬけた。このトンネルの上は鎌倉時代、三浦と鎌倉を結ぶ名越切通だったところだ。中世のやぐら群や大切岸(おおきりぎし)が 残るという。

2007年4月14日、グリーンウッド夫妻は名越切通を見学すべく鎌倉駅前バスターミナルの京急バス31番乗り場で「緑ヶ丘入口行き」に乗車した。「緑ヶ 丘入口バス停」で下車、少し逗子方面に歩き、左手の階段を上った。道なりに登ってゆくと名越切通にぶつかる。すぐ右手に切通で一番狭い「大空洞」 (おおほうとう)がある。人一人通過できる広さだ。両岸には平場があり、そこから通過する軍勢を弓で射ることができるようになっている。逗子の方角に少し下ると亀ヶ岡団地に入る。

おおほうとう

引き返して鎌倉方面に向かうと右手に「まんだら堂跡」がある。名越切通は世界遺産登録をめざしている国指定史跡の一つである。私有地で有料で維持されていた「まんだら堂跡」は逗子市が買い上げて公園とすることになっているという。しかし2001年11月から6年も閉鎖されたままである。この地に曼荼羅堂があったという痕跡はなく、大切岸(おおきりぎし)や名越切通の平場と同じく 、第3代執権北条泰時が作った防衛施設の一部だっただろうと推定されている。仮想敵国は三浦一族だった。

建長寺を建立した第5代執権北条時頼の1247年「宝治の乱または宝治の合戦」では、開幕以来の功臣三浦一族とこれに加担した島津、毛利を含めて500人が、筋違橋の北方にあった三浦泰村(やすむら)邸が急襲されて逃げ場を失い、この法華堂で自害した。

こうして大切岸は戦場となることもなく、その役目を終えたのである。その後、この地は墓地となった。まんだら堂跡の沢山の五輪搭がそれを示している。そしてこの地は現代も人の最終の地である。煙突の低い誠行社火葬場が盛んに燃焼音を撒き散らしている。

まんだら堂跡から鎌倉の方角にあるくと「置石」がある。置石といっても切通を作るとき堀残したものだ。この置石の右手の小道にはいると「無縁緒霊之碑」が あり、そのまま進むと「まんだら堂跡」の外周を歩くようになる。やがて右手に「まんだら堂跡」がフェンス越しに遠望できるようになる。

まんだら堂跡

更に進むと右手には洋館が忽然と現れる。なにやら妖気ただよう館である。ホーンテッド・マンションという語が頭に浮かぶ。 洋館の裏を右手に下れば「法性寺」の墓地にでて大切岸を下から眺められる。

そのまま進むと左手に小さな石廟が2つ見え、向こうに「大切岸(おおきりぎし)」 が見え始める。最近の発掘では大切岸は防衛施設ではなく、石材を切り出した跡であることが分かったという。

大切岸

大切岸の上で今来た方角をふりかえれば洋館が見える。

洋館

そのまま大切岸の上の平場を進むと右手にアンテナ施設のあるピーク、左手にパノラマ台がある。この頂上からの眺望は360度であった。西南西に由比ヶ浜、稲村ヶ崎、江ノ島が見通せ、南には披露山とその先の相模湾が見えた。

パノラマ台に登った後、道なりにすすむと久木高区配水池から下ってくる舗装道路に出る。これを登れば久木高区配水地で行き止まり。下れば鎌倉逗子ハイランドの鎌倉幼稚園裏に出る。その先から衣張山への登山道があるはずだが、未確認のまま引き返す。

パノラマ台より披露山を望む

パノラマ台より由比ガ浜、稲村ガ崎、江ノ島を望む

名越切通を継続して走破するために置石まで戻るとき、古巡礼道という案内板が目に入った。坂東巡礼をしたとき報国寺から登ってきた古巡礼道が鎌倉逗子ハイランドで消えていたのでやむを得ずハイランド内を歩いたが、大切岸の上に残っていたとは。

置石からは名越切通は下りになる。最後は横須賀線の切通の護岸斜面上に出る。横須賀線名越の踏切を渡って鎌倉 五名水の一つ「日蓮乞水」を見る。

当日はその後、安国論寺こけ寺(妙法寺)釈迦堂切通経由で鎌倉駅にもどった。

名越切通と大切岸のルートはで示した  黒は巡礼で採用したルート

April 18, 2007

Rev. February 25, 2016


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