白幡神社、永勝寺、常光寺、遊行寺

藤沢在住のY氏に白幡神社、永勝寺、常光寺、遊行寺をまわるのは一日一杯かかるちょうど良い散策コースだと教わった。さっそく2007年2月5日にでかけた。小田急線の藤沢本町までは電車で行く。

白幡神社

白幡神社は境川の支流、白幡川を眼下に見下ろす小高い丘の上にある。相模一の宮の寒川比古命の分霊を祀っていたので寒川神社とよばれていたという。

吾妻鏡によると1189年4月30日に奥州平泉の衣川館にて自害した義経の首は腰越の宿で首実検されたあと海に捨てられた。しかし夜のうちに境川を逆流してこの神社の近くに流れ着いたという。これを聞いた頼朝が義経を白幡明神として祀るようにとの指示 をだしたという。以後この神社は白幡神社とよばれるようになったと説明板にある。弁慶の首も八王子社に祀られているという。

白幡神社

永勝寺

永勝寺および常光寺は旧藤沢宿の南側の丘の上にある。寺林となっている緑地帯にはカヤ、タブノキ、クスノキ、イチョウ、ムクノキ、クロマツなど推定樹齢数百年の樹木が繁茂している。

江戸時代、宿場で給仕をする女は飯盛女(めしもりおんな)とよばれたが、遊女としての側面も持っていた。永勝寺には藤沢宿の小松屋が抱えた飯盛女の墓が39基ある。このように供養された者はすくなく、借金の形など苦行の中で身を沈めた者が多いという。

飯盛女の墓

常光寺

永勝寺の隣には常光寺がある。イサム・ノグチが父米次郎の墓をデザインし、その墓石はここにある。

イサム・ノグチがデザインした父米次郎の墓

遊行寺

遊行寺の脇には現在でもかっての東海道、今の国道1号線が走っている。鎌倉に越してきた25年まえに車でチョット立ち寄っただけで本格的な訪問は今回がはじめてである。

時宗総本山遊行寺は俗称でただしくは藤沢山(とうたくさん)無量光院清浄光寺という。時宗は一遍上人がひらいた 。一遍上人は伊予の豪族の次男に生まれ10才で仏門に入った。諸国を行脚し、熊野本宮に参篭している時、「往生は、ただ、”間無阿弥陀佛”によってなされる」という悟りをえた。

この遊行寺は遊行第四代呑海(どんかい)上人が1325年に創始した。寺を建てたのは後醍醐天皇の頃の鎌倉幕府の御家人で地頭職の俣野五郎景平(またのごろうかげひら)である。

遊行寺の大イチョウ

東門近くに敵御方供養塔がある。上杉禅秀の乱で戦死した敵・味方を供養するために1418年に造立されたもの。

遊行寺宝物館特別展示展が開催中であったので重要文化財の後醍醐天皇像を拝観。 境内には長生院がありここに浄瑠璃で名高い小栗判官照手姫の墓がある。

広重画、東海道五十三次之内藤沢(遊行寺)

八代将軍吉宗は大火防止のための広小路を全国各地に造らせた、そのうち上野広小路、名古屋広小路、藤沢広小路(大鋸広小路)は日本三大広小路が有名である。時宗総本山遊行寺が繁栄していたためと道幅が現在の国道1号線より広かったためという。

広重画の東海道五十三次之内藤沢(遊行寺)はこの藤沢広小路を描いたものだ。手前を流れるのが相模と武蔵の国境を流れ下った境川である。川は右手にながれて海にそそぐ。

藤沢広小路は坂道のため、鉄道は少し離れた海側に開通した。宿場町として鉄道が開通することを望まなかったため湯行寺界隈は寂れてしまった。藤沢駅まで歩いて帰る。

February 8, 2007

Rev. June 14, 2018


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