ルート66 2008年

オクラホマ・シティーからキングマン

ルート66は米国の東西を結ぶ幹線として1912年にナショナル・トレイルズ・ハイウエイとして建設された。総長2,448マイル(3,939km)である。1920年代 の世界大恐慌時には貧しいオクラホマの農民がカルフォルニアに希望を託してオンボロ自動車で移動した道である。スタインベックはこれを小説「怒りの葡萄」 に描き、ルート66をマザーロードと呼んだ。ジョン・フォードが映画化したが、あまりに惨めで日本人には見せたくないとの理由で日本では公開されていな い。ルート66はより近代的なインターステート40に置き換えられ、廃道となり、かっての宿場町は寂れた。しかしこれら滅びゆくものが観光資源として見直され、有志により維持されている。

グリーンウッド氏が参加する石原隊は2,000年に ルート66をアリゾナのピーチスプリングからキングマン、ニードルズを経由、カルフォルニアのサンタモニカまでツーリングした。ついでに足を伸ばし、太平 洋岸をサンフランシスコまで北上した 。あれから8年間が過ぎ、古希を迎えた。そろそろラストチャンスだろうと前回走らなかったオクラホマ・シティーからテキサス・パンハンドル、ニューメキシ コ、アリゾナを横断してカルフォルニアのニードルズまでを走ることにした。地図上では総走行距離1,821マイル(2,914km)である。シカゴからオ クラホマ・シティーまでは単調なため割愛した。

時間にゆとりをもたせ、ルート66をただひたすら走るのではなく、グランドキャニオンを筆頭とする観光地めぐりも楽しむのが目的である。1939年にジョンフォードが駅馬車を撮影したナバホ族の居留地にあるモニュメントバレー、タオスも 訪問したかったが、大幅にルート66から外れることと、モニュメントバレーの泊地がカイェンタしかないこと、インディアン居留地を長く走行するのでガソリ ン補給が困難、故障しても携帯電話が使えないなどが危惧され、バイクツーリングは無理と判断。マンハッタン計画の中心となったロス・アラモス国立研究所も サンタフェの近くにあるが、外から建物を見ても意味がないので訪問リストには入れなかった。

詳細な計画立案は押川が担当した。参加者は北原、阪間、徳山夫妻、安田、押川、グリーンウッドの7名。このうち3名が今年古希を迎え、グループの平均年齢 は67才だ。イーグル・ライダーのレンタルバイクはヘリテージソフトテール4台とロードキング1台とした。サポートカー1台を押川・グリーンウッドが交代 で運転しナビを勤めた。バイクもサポート車もダラスでピックアップし、ラスベガスでドロップした。レンタル期間は9/25 9:30〜10/05 16:30までの11日間である。

ルート図

インターステートへの出入りはやさしく、ガードレールなど危険物もなく、道路からはみ出しても安全に戻ることができる。脇道のルート66は交通量がほとん どなく、どこに止まっても交通渋滞を生じることもない。交通道徳は日本より大変よく、参加者一同、改めて感じた旅だった。

インターステートでは毎時60-70マイル、ルート66の旧道では毎時45-50マイルで走行し、視野を広くとってツーリングを楽しんだ。毎日ほぼ200マイル走行し、バイクのタコメーターが示す総走行距離は2,980kmであった。

毎日6:30起床、7:00朝食、8:00出発のリズムをくずさなかった。ダラスから西に向かうと、中部時間帯(ダラス)、山岳時間帯(サンタフェ)、太 平洋時間帯(ラスベガス、ロスアンゼルス)とそれぞれ1時間の時差があって時間に余裕ができる。しかし山岳時間帯ではサマータイム制度を採用していないた め、アリゾナ州に入るとき2時間の余裕が出るが、カルフォルニア州やネバダ州に入っても時差はない。

ちょうどサブプライム問題を発端とした米国の金融バブル破裂の最中に出かけるはめになったため、109円でドルを購入して帰ったら100円になり、株が大暴落していたのが印象的であった。1887年10月のブラックマンデーもバイオテクノロジー関連で米国に出張した帰りに経験したのでその再来である。

パンク修理の手配、交通規則違反でパトカーに捕まり、警告書を土産にもらう人が出たりで結構プロジェクト雑務を楽しめた。パトカーにもパソコンが装備されていて巡査がパスポート内容をマメに入力するため時間がかかる。

現役時代は仕事で大都市を航空機で飛び歩いただけだから点と点を観ただけだ。線上をなめるように移動しながらその土地を見るというのは米国では初めての経験であった。2週間、風に吹かれて生身の身体ではい ずり回ると、メディア経由の知識を頭で構築するより、何かひとつ深いものが得られる感じがする。引退のメリットであろう。フランスのシャンパーニュやブルゴーニュを自ら運転して歩いたことがあるが、米国とおなじく農業国であると認識させられたことを思い出す。テキサス、オクラホマで広大な農地をみて、なぜ日本の農業が競争力がでないのかよく理解できた。

ニューメキシコ、アリゾナ、ネバダを爆走して、米国は広大だが半分は砂漠地帯で水がなく、牧畜もできない荒野で、ここら辺が米国の能力の限度かなと感じた旅でもあった。しかし農業や牧畜の観点からみれば砂漠は役立たずだが、石油が枯渇してもソーラーセルや集光型太陽熱発電装置を 砂漠に設置すれば米国は資源国となる。やはりあなどれない。シリコンを使わないソーラーセルや中間赤外線領域の赤外線を捕獲するナノアンテナ・アレイと数 兆Hzの高周波交流を整流するナノ整流素子を組み合わせて直流に変換するか、ナノ周波数変換回路と組み合わせでより低い周波数の交流に変換するデバイスの 研究が米国ですすんでいる。

水気のないところは植物が地表を被っていないので、ペインテド・デザートと呼ばれる色鮮やかな地層が直接目に入り、北米大陸の成因に思いを馳せた旅でも あった。グランドキャニオンの上空をデハビランド社製の小型機で飛んだり、セドナの渓谷に入り込んで迫力ある景観にひたり、フラグスタッフの針葉樹林も堪 能した。

ラスベガスではパリのクレージー・ホースのショーを楽しんだ。8年前に比べて日本のバブル時代のような豪華・巨大ホテル・マンション群が増え、まだ建設中 のコンプレックスがあった。今後この工事を継続するのか中断になるのかと余計な心配をした。サンタフェ近くではガソリン乞食もいて悲惨さも感たが総じてま だそれなりにやっているようだ。

最後はマリーナ・デル・レイのチャート・ハウスというところでシーフードを楽しみ、30年来の友人ロンと朝食をとりながら帰国までの2時間の会話を楽しんだ。

14日間で約980枚の写真を撮影した。これと阪間氏のカメラ借りて撮影した写真のなかから110枚を選んで紹介する。

 

9月24日(水) 走行距離10マイル

北朝鮮パスポートを持つバイク仲間の徳さん夫妻が米国大使館からビサをもらうことができたので一緒に出かけた。コン ピュータでデータ共有が容易になった時代になっても米国大使館に提出した詳細なレジデント・データは米国国境警備隊と共有されていない。入国時、この情報 を別室でフォームシートに記入し、それを係官がコンピュータに再入力するため2時間を要した。いずこも役所の縦割り構造は変わらないらしい。

一段落して別室から手荷物を回収して待っているはずの仲間に3G携帯電話で連絡する。ターミナル内部の連絡にもかかわらず日本経由の電話料金を徴収されるので便利ではあるが気軽には使えない。

レンタルしたサポート車は押川、グリーンウッド、徳山夫人が運転者として予定されているが、保険は不特定多数となっている。今日は押川が運転し、グリーン ウッドがタクシーに分乗してフリーウェイ183経由ホテルに向かいチェックイン。ホテル周辺はグーグルのストリートビューで事前に調査したとおりであっ た。

フリーウェイ183からダウンタウンを遠望

サポート車で全員バイクレンタル会社へのルートを確認する。ガーミンのGPSが活躍。帰路フリーウェイ183に平行するシーダー・スプリング・ロードで飲料水の購入。そしてダウンタウンのゲーターズ・クロック・アンド・ロックで遅いランチをとる。

ゲーターズ・クロック・アンド・ロックでランチ

かってテキサスの綿花王の豪華な私邸であったというタートル・クリークのローズウッド・マンションを訪問。全米一の品格のある五つ星のホテルである。客はダークスーツにネクタイ姿のため、異分子である我々は早々に退散。

ついで1963年11月22日、ジョン・F・ケネディーが暗殺さ れたディーレイ・プラザを訪問。リー・オズワルドがテキサス教科書倉庫だったレンガ建てのビルの6階の角の窓から狙撃したとされるビルは大切に保管されて いた。銃弾がケネディーの頭部を貫いた地点にX印がマークされている。緩やかにカーブしながら坂を下るところにある。ここに立って見上げると木立が茂って ビルの6階の角の窓は茂みに隠れて見えない。

タートル・クリークのローズウッド・マンション

 

ディーレイ・プラザの元テキサス教科書倉庫

 

 

Activities、場所

出発時間

到着時間

備考

成田国際空港

11:30


成田エクスプレス9号、大船7:07発、空港第二ビル9:01 AA176、11:00集合AAカウンター前

Dallas-Ft. Worth Int. Airport Texas

12:00

9:15

通関、レンタカー借受、レンタカーとタクシーに分乗してフリーウェイ183経由ホテルに向かいCheck-in

バイクレンタル会社下見

13:00


レンタカーで全員バイクレンタル会社を訪問後、Ceder Spring Rd.で飲料水の購入

ランチ及び市内見学

14:00

 

レンタカーにてダウンタウンのGator's Croc & Roc(Int. Restaurant Serial No.333)でランチ、2821 Turtle Creek Blvd.のRosewood Mansion on Turtle Creekを訪問。ついでケネディー暗殺のDealey Plazaを訪問。

Dallasのホテル泊

 

16:00

Best Western Market Center Hotel (Int. Hotel Serial No.427

 

9月25日(木)走行距離210マイル

本日は押川がサポート車を運転。ホテルからはアーバイン・ブルバード(356)経由で西行し、北ループ12で右折する。バイクのレンタル契約をしている間に押川は徳山夫人を迎えるためにホテルと往復する。

バイク契約は保険でカバーする第一と第二運転者の運転免許証のデータ、デポジットするキャシュカードのデータのパソコンへの入力に手間取り、5台契約するのに2時間かかった。

無線用のPTTスイッチを店のメカニックに装着してもらうために更に時間がかかった。出発の記念写真を撮影しようとしたら、バイクのサイドバックに入れたはずのカメラが見つからない。このため以後2日間の映像は阪間氏のカメラから借用。

北ループ12をまっすぐ北上すればそのままオクラホマ市へゆくインターステート35Eに合流する。ルイビル湖を渡る。

レンタルショップから1時間走ったところのシェルで給油し、昼食。

さあ出発だ 阪間氏撮影

オクラホマとの州境のレッド・リバーを渡る。河水は真っ赤だ。

アーバックル山塊の微高地で2回目の休憩。体重400ポンドという巨漢がキャンピングカーを牽引した車から降りて、写真 を撮ってやろうと申し出てくれる。一緒に芝に座ってとろうと逆提案すると、立ち上がれなくなるから立ったままでという。長野県松本市の教会建設で日本には 良い思い出があるという。 ミネソタに住んでいるが1週間前にテキサスを襲ったハリケーンの被害者救援に駆けつけて、一人救助しての帰りだという。

アーバックル山塊の微高地での休憩 阪間氏撮影

巨大なトレーラも休憩していて運転手と交歓する。運転台の乗せてもらって記念撮影。エンジンは350馬力で前進10段だという。

トレーラーと交歓 阪間氏撮影

更に1時間走って3回目の休憩をする。日本のパチンコ店のようなギャンブル場で老人たちが楽しんでいる。ここは油田地帯でもある。そばの原油汲み上げポンプ(ドンキー)を背景に記念撮影。 拳銃とスタンガンを腰にした老警備員がきて「先日は40台のハーレー・ダビッドソンの一団がやってきてビックリした。ブラジル人だといっていたが、あなた達はどこから?」という。

原油汲み上げポンプの前で 阪間氏撮影

途中道路舗装のため追い越しレーンが閉鎖されていて大渋滞に巻き込まれた。大分手前で、追い越しレーンから遅速レーンに移るように標識がでている。日本 でも早めに遅速レーンに移る人もいるがそういう人を無視して追い越しレーンを突っ走り、最後に強引に遅速レーンに割り込んで時間を節約しようというセコイ 連中がほとんどだ。しかし米国ではそのような卑劣なまねをする輩は少ない。さっさと遅速レーンに移って行儀よくならぶのである。しかし汚い輩が居ないわけ ではない。 しかしそこは米国は自治の国である。巨大なトレーラーが追い越しレーンに一定の間隔を置いて縦に並び、遅速レーンと同じ速度で静々と進むのである。追い越 しレーンで得をしようなどという動機を持たぬように自警をかって出ているようだ。遅速レーンに並んでも損をしないのだから心の平安が得られる。

追い越しレーンを間隔を空けて走るなど無駄なことだと感じた人も居たようだが、通過交通量は最後に強引に遅速レーンに割り込むために押し合いへし合いするより米国方式が多くなる。最大多数の幸福のためにトレーラーの運転手達は暗黙の連携をしていると見た。

西日が沈む頃、本日の宿に到着しチェックイン。バイクの盗難防止にまとめて駐車。

タクシーでオクラホマ市で一番有名なレストラン、キャトルメンズ・ステーキハウスに向かう。タクシー運転手は「きれいな 店ではないが、昔、この界隈は牛の集荷場所で肉を食べて残った皮は革製品にしてレストラン周辺で売られている」という。店は大勢の客でにぎわっていた。ス テーキに添えられた温野菜にズッキーニかカボチャに似たものがあって旨い。名前を聞くとスクワッシだという。まだ日本には知られていないがこちらではスー パーで売られている。

Activities、場所

出発時間

到着時間

備考

Dallasのホテル出発

8:00



Eagle Rider

11:00

8:30

ホテルからはIrvine Blvd(356)経由で西行し、N, Loop 12で右折する。契約している間に押川は徳山夫人を迎えるためにホテルとピストンする。

I-35E



N, Loop 12をまっすぐ北上すればそのままI-35Eに入る。一路Oklahoma Cityへ

昼食

12:00

12:30

Shopから1時間走ったところで給油し、昼食
休憩

14:00

I-35のArbuckle Mts.の微高地の休憩所で休憩!(Exsit47の先)

休憩


16:00

休憩後、そばの原油ポンプを背景に記念撮影

Oklahoma City のHotel


18:00

I-40W Exsit145をでて、N. Meridian Av.を、すぐ右。Best Western Saddleback Inn (Int. Hotel Serial No.428)

Dinner

18:30

20:30

Oklahoma Cityで一番有名なレストラン Cattlemen's Steakhouse (Int. Restaurant Serial No.327)へ

 

9月26日(金)走行距離183マイル

本日はグリーンウッドがサポート車で先導する番であるが、押川がバイクで先導したいというので最後尾につく。

ホテルから北メリディアン・アベニューを北へ、北西39番エキスプレス・ウェイで左折し、西(左)へ。北西39番はその ままルート66になる。1924年製の鉄製のレイク・オーバーホルサー橋を渡り、第二次世界大戦で水上飛行機の着水湖として使われたオーバーホルサー湖公 園で小休止。

ユーコンで有名なユーコン・ミル・アンド・グレイン社の製粉工場のサイロを撮影。

ユーコンの製粉工場の前で

ルート66を次の町エル・レノへ向かう。オクラホマは標高が低い平原だが、アンジュレーションはあり、道路はそのアンジュレーションに従ってアップダウンする。

ルート66をエル・レノに向かう

交通量が少ないうえに2車線のため、サポート車が並走して助手席の徳山夫人に皆の雄姿を撮影してもらう。

阪間氏の雄姿

エル・レノの中をジグザグに通過してルート66に入らなければならない難しいところだ。案の定、左折しそこない81号線を10マイルばかり北上して気がつき引き返す。

広大な農地には散水設備が設けられ野菜を栽培している。赤土の畑でもうもうと土煙を上げてトラクターが鋤を入れているのが見える。1920年代は地下水を 汲み上げて散水することができなかったために旱魃にいためられた農民が土地を捨ててカリフォルニアに向かったのだ。いまでは技術の進歩では安定した農業が 営まれるようになった。このような農地を見ると日本の農業はかなわないと思う。ただいずれ地下水が枯渇すれば農業は困難となろう。

ルート66のサインポストを撮影。正規の道路標識ではなく、観光案内としての標識だ。

ルート66のサインポスト

ルート66をフート・レノに向かう

ルート66をフート・レノに向かう。林に囲まれたローラーコースターの道だ。

一旦インターステート40にでてExit108(州際西側からの距離をマイルで表示した数値を出口番号にしている)に向かう。

インターステート40にでてExit108に向かう

1933年の架けられたトラス構造のポーニー橋を渡る。カナディアン川は川幅が広く、橋は1,183mと非常に長い。河床には樹木が生い茂っている。

ポーニー橋

ポーニー橋を渡って真っ直ぐ西に向かうとハイドロだ。ここにルーシ・ーハモンズがガソリンスタンドを経営していてカルフォルニアに向かう難民に家具と交換に給油していた。彼女は2000年ころ亡くなり、店は閉鎖されたが建物はまだ記念にのこされているという。

インターステート40に出てクリントンに向かう。風車が林立し、側道のルート66の向こうには赤土の農地が広がる。日本 ではブッシュの姿勢から米国は自然エネルギー導入に消極的ではないかとの誤解があるが、こうして自分の目で風車群を目撃すると米国の自然エネルギーの導入 率が日本よりも高いという統計数値が本当であることを実感する。

雨も降らず農地としてまた牧場としても利用できないアリゾナ州の砂漠地帯ではすでにソーラーセルや集光型太陽熱発電を積極的に導入されているとのことだか ら、仮に化石燃料が枯渇する次世紀になっても米国は水がなく牧畜も農業もできない広大な砂漠地帯に太陽光発電装置を設置して世界の資源国として君臨できる のではないかと感じた。

インターステート40にてクリントンに向かう

クリントンのルート66博物館に立ち寄り、昼食をとる。ここからサポート車が先導する。

ルート66博物館に展示されたテレビシリーズで使われたオープンカー 阪間氏撮影

オクラホマとテキサス・パンハンドル(フライパンのハンドルのような型をしていることからこの名がついた)の国境の町テキソーラはインターステート40の 完成で時代に取り残され数軒の家屋が残るだけの廃墟の町である。テキソーラからはそのままルート66を走り、夕刻、シャムロックに入る。シャムロックはア イルランドのクローバーに似た国花に由来する。1890年に移民の一人がここで郵便局とドラッグ・ストアを開店するときシャムロックと登録した のは始まりという。この名は一時忘れられた。ここに鉄道が敷かれたとき鉄道会社が駅名としてシャムロックを使ったため復活。石油が発見されて町は栄え、 ルート66が開通して確定的になったが、インターステート40が開通してバイパスされて寂れた。

有名な1936年$23,000かけて建造されたアート・デコ様式のUドロップ・イン/コノコタワーのある街角を右折して本日の宿に到着。昔はコノコのガソリン給油ステーションだったが、今はシャムロック市が買い上げて修理し、雑貨店になっている。

周辺を散策すると、ロータリー式の油井掘削機が開発される前に使われた衝撃法を使った掘削機が放置されていた。これを駆動したエンジンもあったが、数十馬力の小型なものだ。

Uドロップ・イン/コノコタワー 阪間氏撮影

衝撃法をつかった油井掘削機 押川氏撮影

バイクのサイドバックにいれたまま行くへ不明だったカメラを押川が底に転がっているのを見つける。黒いポーチのため目視では見つからなかったのだ。一切メモを取らずに旅をして後日紀行文をものするには必須のアイテムのため 、うれしい。写真記録を時系列にながめれば記憶はよみがえる。

83号線沿いのステーキ屋ローンスター・ロード・ハウスに出かける。周りは農地で野原の中の一軒屋である。ドライ・カウンティーとかで酒は一切でない。こ こテキサス・パンハンドルは今だ禁酒法時代を生きているようだ。米映画で南部のレストランで地元の人が旅人に拒否反応を示す場面があるが、どこでも愛想良 い米国人ではあるが、このレストランでは地元の客が 我々異邦人をみて緊張しているように感じた。

Activities、場所

出発時間

到着時間

備考

Oklahoma Cityのホテル出発

8:00


ホテルからN. Meridian Av.を北へ、NW39th EXPWYを西(左)へ

NW 39th Expwy



NW39thはそのままR-66になる。
Overholser Lake Park

1924年製の鉄製のLake Overholser Bridgeを渡り、第二次世界大戦で水上飛行機の着水湖として使われたOverholser Lake Parkで小休止
Yukon Oklahoma

製粉工場のサイロを見る。そのままR-66をEl Renoに向かう。2車線でサポート車が並走して走行写真を撮影。
El Reno Oklahoma
10:30 町の中をジグザグに通過してR-66は続く がここで左折しそこない81を10マイルばかり北上して気がつき引き返す。ルート66サインポストを撮影。
Fort Reno

R-66のまま
Pony Bridge

Fort Renoの後、一旦I40にでて、EXIT108に向かう。South Canadian RiverにかかるPony Bridge撮影

R-66 Museum@Clinton Oklahoma

12:00

14:00 Clintonまでの53マイルの半分はI-40を、あとの半分はR-66を走行。ここでランチ
Sayre Oklahoma

この間100マイル、Iと66を出たり入ったり、I-40で時間調整

Texola Oklahoma

Oklahoma最後のゴーストタウン。ほとんど何もなし。

Shamrock Texas泊


17:30

Best Western Shamrock Inn & Suites (Int. Hotel Serial No.429)  TexolaからRoute66のまま。

夕食

Lone Star Roadhouse(Int. Restaurant Serial No.334)

 

9月27日(土)走行距離208マイル

シャムロックは高台にある。ホテルから東方にオクラホマの平原が広がっているのが見える。テキサス・パンハンドルは低地にあるオクラホマの平原からニューメキシコやアリゾナのある標高3,000mのコロラド高原へと緩やかな傾斜で登っているところにあるのだ。

今日は一日テキサス・パンハンドルを走り、夕刻ニューメキシコ州に入る予定だ。押川がサポート車で先導する。

マクリーンで商工会議所と観光目的に保存されている有名な1920年代のフィリップス66ガソリン・ステーションと普通の民家を撮影。

マクリーンで商工会議所と廃店舗

フィリップス66 ガソリン・ステーション

マクリーンの民家

しばらくインターステート40を走り、テキサス州ドンリー郡ルート66セーフティー・エリアで休憩。大地はうねりながら次第に海抜を上げ、侵食谷が見られるようになる。

ドンリー郡ルート66セーフティー・エリアにて

グロームにて有名な傾斜した給水塔を撮影。ルート66で営業していたブリテンUSAトラック・ストップ社が看板代わりに当初より傾けて建設したという。いまは観光目的に保存されている。

グロームの斜塔 北原氏撮影

コンウェイのグレイン・エレベーター

コンウェイでロビンソン・グレイン社のグレイン・エレベーターをみる。ルート66は無人の地平線まで真っ直ぐに続いている。

近くには打ち捨てられた風車がある。かっては地下水をくみ上げるために使われたものだ。

打ち捨てられた風車

アマリロは大きな町だ。空港もある。ベル・ヘリコプター会社も見えた。レストランで昼食をとってさあ出発という段階に なって北原氏の後輪がパンクしているのに気がつく。釘が刺さっている。通りかかりのバイカーにパンクを直してくれるショップを聞くとトリップス(Tripp's)のショップ を教えてくれた。一応バイクレンタルのエージェントであるラスベガスのフリーダム・アメリカ事務所に3G携帯電話で連絡すると同じショップをアレンジして くれた。 フラット・ベッドのレッカー車への積み込みも運転手一人で出来る仕掛けをもち、パンク修理もボタン一押しで上下できる作業台、ジャッキ、工具などメカニッ クに無理な姿勢を強いず、非常にスピーディーに作業する。レッカー代金100ドル、修理代金100ドルであった。トリップスは日本にも見られない充実した 店でメンバー一同買い物をする。グリーンウッド氏はフリースの帽子とツバ広帽子、徳山氏は大きな風防を買ってしまった。トランクにいれて持ち帰るという。

レッカー車

トリップスのメカニック

ルート66の街道筋で最も有名なものがキャディラック・ランチだろう。1943-63年型キャディラック10台を畑にに斜めに突き刺してある。1974年 にスタンレー・マーシュ3世が芸術品として製作したという。しかしパンクで時間がなくなったのでパス。インターステート40を時速60マイルで走行中、別 グループのハーレーダビッドソンが追い越ししながら私のサイドバッグの蓋が閉まっていないと合図を送ってくれる。やむを得ず、道路際に停車して直したが、 短時間で追いつくには制限速度の75マイルを越える90マイル(140キロ)をださねばならない。このバイクは前進6速だがあわてていたためか5速で時速 90マイル走行していたようだ。

ベガで有名な給水塔を撮影。この界隈は昔1870年代に娯楽を求めてカウボーイ、ギャンブラー、パンハンドルのワル、ビリー・ザ・キッドのような無法者が たむろしたところである。そしてその前はキャナディアン川を渡渉したインディアンたちの宿営地であり、メキシコ時代はここで交易が行われたと看板があっ た。

ベガの給水塔

2時間の時差をもらってもちょうど夕闇せまるころニューメキシコ州に入り、ツクモキャリに到着。この時差2時間がパンク修理で消えたことになる。

ツクモキャリの名はインディアンのロミオとジュリエットのような悲恋物語に由来する。むかしツーカムという男とキャリーという女がいた。ツーカムは恋敵に殺されてしまう。キャリーはこれを悲しんで自殺する。残された父親はツーカムキャリといって悲しんだという。

中華料理屋にでかけたが酒のライセンスがないというので、酒がでる店を地元の人に教えてもらって行く。その店ではウェスタンが演奏され、ダンスフロアがあ る。テキーラで気分の良くなった徳山氏は地元のご婦人とジルバを楽しむ。地元のハーレー族がやってきて是非俺たちのバイクを見てくれというの。5台程あっ てそれぞれのオーナーがストレートノーズを装着したパンヘッドエンジンを咆哮させてくれる。町が広いので文句を言う人はいない。警官もやってこないとい う。スーパーは夜8:00を過ぎると酒は売ってくれない。しかし我々は非レジデントだというとパスポートを提示すれば売るという。

地元のご婦人とダンスに興じる徳山

パンヘッドエンジンの咆哮を聞く

翌朝、ここで有名な1939年建築のブルー・スワロー・モーテルを撮影する。オーナーは3人目という。

ブルー・スワロー・モーテル

Activities、場所

出発時間

到着時間

備考

ShamrockTexasのホテル

8:00


出発
McLean Texas

商工会議所、廃店舗、Phillips 66 Gasoline Station、民家を撮影
休憩

I-40のDonley County Texas Route 66 Safety Rest Area
Groom Texas

Britten U.S.A Truck StopのLeaning Water Tower撮影
Conway Texas

Robinson Grain Co. Inc.のGrain elevatorと打ち捨てられたWindmillを撮影

ランチ@Amarillo Texas

12:30

11:30

Amarilloまでは殆どI-40走行。北原氏のバイク後輪のパンク発見

パンク修理


15:00

Tripp'sでの修理に2時間を要す。

Cadillac Ranch



パンク修理で時間がなくパス
Vega Texas


16:00

Water Tower撮影
Adrian Texas

開店時間を過ぎていたのでMidpoint Cafe of Route 66はパス

Glenrio Texas



Texas最後のゴーストタウンは時間不足でパス

Tucumcari New Mexicoのホテル


17:30

Best Western Discovery Inn (Int. Hotel Serial No.430)  Exsit-332をでて、S-104を北へEstrella Av.にあり

 

9月28日(日)走行距離200マイル

本日はグリーンウッドがサポート車での先導を勤めた。

サンタ・ローザヘ向かうインターステート40は砂漠の中をひた走る。サンタフェ鉄道が平行して走っているが、108両の 貨物車を先頭3台で牽引し、2台で押す貨物列車を目撃したときは思わず路肩に停車してしまった。以後いやというほど目撃することになるのだが、何事もはじ めの感激がおおきい。

サンタフェ鉄道

砂漠の中のオアシスといわれるサンタ・ローザは道路工事中のため停車せず通過。インターステート40のExit256で84号線に右折してサンタフェに向かう。

サンタフェ廻りのルート66は1937年以前のルートでサンタフェ・トレイルと呼ばれる山岳地帯を通過する道だ。84号線はディリアでルート66に合流する。ここまでのルート66はダート道である。

84号線でサンタフェに向かう

途中のディリアという村で昼食を取れないか入ってみたが村のカトリック教会以外何も無し。そこでラス・ベガスで昼食をとることにする。 ディリアからはトレイルといわれる渓谷伝いの道路である。

ディリア村の古い教会

ルート66から25号線のExit339で25号線に入り、ニューメキシコのラス・ベガスに向かう。GPSには入力してないから完全な勘ナビである。25 号線からは地形の関係でラス・ベガスの町は見えない。標識を頼りにラス・ベガスのダウンタウンに向かう。坂を下ると「悲しみの聖母教会」(Our Lady of Sorrow Church)が古風な姿を見せていた。メキシコ時代のカトリック教会が残っている。ちょうど日曜日でミサが行われているのか駐車場は信者の車であふれて いた。

悲しみの聖母教会

教会のすぐ先は広場になっていて有名な1882年創立のプラザ・ホテルがあった。広場の無料駐車場に駐車。ホテルのランドマーク・グリルでアコースティッ ク・ギターの生演奏を聴きながら遅い昼食を摂る。このホテルに泊まった客には南北戦争期に名を馳せた殺人者、ビリー・ザ・キッド、映画「O.K.牧場にお ける決闘」にワイアット・アープとともにでてくる西部開拓時代の伝説的ガン・マン、ドグ・ホリディとそのガールフレンド、ケイト・エルダーらがいる。オバ マの選挙対策事務所があった。押川が献金を申し出たが外国人からはいただかないとのことであった。

ニューメキシコ州ラス・ベガスのプラザ・ホテル

昼食後、古道、サンタフェ・トレイルに沿ったルート66でサンタフェに向かう。 給油に立ち寄たガス・ステーションのまえで車を止めガソリンをお恵み下さいという看板を持った人品いやしからぬ男が立っている。お金を恵んでいる人もいた。

途中、ペコス国立歴史公園を訪問。ここで丘の上のペコスのプエブロ(集落)と1717年に完成したアドビ(日干しレンガ)造りのミッション教会を訪問。かって2,000人がこの丘の上で暮らしたというが1838年に人々はここを去ったという。

アドビ造りのミッション教会

夕刻サンタフェに到着。ナビに従って早めにExit282で25号線を降りてしまったため、ホテルまでズィア・ロードとカルロス・レイいうサンタフェの町の中の曲がりくねった道を走行するはめになった。Exit278で降りれば簡単であったのだ。

サンタフェのホテルにチェックインしたのち、直ちに和風温泉をコピーしたというサンタフェの東北の山の中にできた万波温泉に出かける。経営者が米国人、利 用者も米国人で、日本人が突然利用とすると 風呂文化の違いにまごつく。米国の利用者にも違和感が残る。まず更衣室で浴衣に着替える。シャワー設備が更衣室にあるのだが、日本人は湯船の湯を浴びて体 を洗い、局部を洗う習慣があるため、シャワーなど使わず露天風呂に突進する。しかしそこには手桶もシャワーもない。わけもわたらぬまま、体も洗わず湯船に 飛び込むことになる。まるで肥溜めにつかるような気分だ。米国人の少数派はヌーディストの作法に従ってスッポンポンだが、大部分は水泳パンツを着用してい る。日本人は伝統的に手ぬぐいをもって局部を隠し、湯船のなかで手ぬぐいを頭に載せる。しかしこれは米国人に奇異な感じを与えるようでじろじろと遠慮のな い目にさらされる。男女は別のはずだが浴衣を着用した人品卑しからぬご婦人が入ってきてヌーディストの横のソファーで悠々と読書をはじめるという按配でカ ルチャーショックで目が回ったまま退散。

ひと風呂あびた後、ダウンタウンに移動してイタリアン・レストラン「オステリア・ダ・アッシジ」で夕食。

Activities、場所

出発時間

到着時間

備考

Tucumcariのホテル

8:00


I-40Wへ直乗り

Santa Rosa New Mexico

砂漠の中のオアシスは道路工事中のため停車せず通過

Ex-256でU-84へ


11:40

サンタフェ廻りのルートは1937年以前のR-66である。U-84はDiliaでR-66に 合流する。ここまでのルート66はダート道である。

Dilia New Mexico


12:00

当初Diliaで昼食の予定だったが、寒村でレストランなし。教会を撮影
Las Vegas New Mexico

13:00


Plaza Hotel (International Restaurant Serial No.330)で昼食後、I-25(old R-66)でSanta Feへ

PECOS National Historical Park

ここで丘の上のペコスのプエブロと1717年に完成したアドビ造りのミッション教会を訪問

Santa Fe New Mexicoホテル


16:00

Best Western Inn of Santa Fe (Int. Hotel Serial No.431) チェックイン
Ten Thousand Wave Spa

17:00

サポート車で出かける。(International Spa Serial No.252)

ダウンタウンで夕食


18:00

Osteria D'Assisiでイタリア料理(International Restaurant Serial No.329

 

9月29日(月)走行距離70マイル

サンタフェは1610年にスペイン人によって建設された米国でもっとも古い町だ。ニューメキシコ州の州都となっている。

原爆開発のマンハッタン計画の中心となったロス・アラモス国立研究所はサンタフェの西北西20マイルのメサの上にある。研究所と研究者の住宅コンプレックスだけが山の中にある隔絶した施設だ。ファインマンはここで研究しながら週末は70マイル南西のアルバカーキーの病院で結核の治療をしている妻のところに車を飛ばして通っている。

ロスアラモス国立研究所のジョージ・コーワンの構想に基づき、ノーベル賞受賞者のマレー・ゲルマン、フィリップ・アンダーソン(物理学)、ケネス・アロー(経済学)らが賛同して設立したサンタフェ研究所複雑性の科学研究のメッカとなっている。計算機科学、進化論、免疫学、脳科学、経済学、社会学、科学哲学など研究テーマは幅広く、米国の最高の知性が集積されている町である。

本日の午前中はバイクはホテルに残して、サンタフェのダウンタウンの観光と洒落込む。サポート車を聖フランシス・ホテル の前の道路に駐車し、駐車メーターにコインを2時間分投入して、米国で最も古い教会である聖ミカエル・ミッション教会に向かう。1937年以前のルート 66沿いの道には観光客目当ての感じのいいホテル、ギャラリー、クラフト・ショップ、博物館が並ぶ。

ルート66の標識

ラ・フォンダ・ホテル

イン・アンド・スパ・アット・ロレット

マウンテン・トレイル・ギャラリー

聖ミカエル・ミッション教会

米国で最も古い家博物館

アドビ作りの家

聖フランシス大聖堂

プラザの市場

歴史的なプラザを散策。ここには地元インディアンのための市場が用意されている。ここでネバタ産のターコイズ(トルコ石)の原石をインディアンが磨いて 作ったというネックレスと銀製の腕輪を土産に買う。トルコ石は化学的には水酸化銅アルミニウム燐酸塩であり、近年は合成品もあり、専門家でも鑑定はむずか しいということだが、これはどうだろうか。

ファイン・アートやジョージア・オキーフ美術館もあったが、時間がないのでパス。

絵葉書を出したいメンバーのために郵便局に出向き、切手を大量に購入し絵葉書を多数投函。駐車メーターにコインを追加し、聖フランシス・ホテルの中庭で昼食。 聖フランシスとはアシッジの聖フランチェスコのことで、町角にアッシジの聖フランチェスコが小鳥に語りかけている有名なシーンの銅像がある。

聖フランシス・ホテルの中庭

押川の先導でホテルを出発し、ファッション・アウトレットでの徳山夫人の買い物に付き合う。ついでに初孫のためにオシコシの店で生後3ヶ月用の幼児服の買い物をする。夫人の買い物を待つ間、記念撮影。

アウトレットにて

サンタフェに別れを告げ、25号線をアルバカーキーに向かって南下する。途中ビッグ・カットというところで道は海抜2,200mの高原から急降下してリオグランデが作った侵食谷に下る。途中サント・ドミンゴ・プエブロに立ち寄るが 、ここは観光地ではなく、写真撮影は禁じられている。

Exit248で旧ルート66に出てそのままアルバカーキに向かう。旧ルート66はそのまま4番街となってアルバカーキの中心に向かう。旧ルート66はリ オグランデ川の東岸を川に沿って南下するのだが、途中、サポート車のナビが狂って、リオグランデ川を渡る。後で考えれば西岸を南下すれば渋滞に巻き込まれ なかったのだ。ナビには従わず、旧ルート66に戻って南下を継続。アルバカーキは大きな都市でちょうど帰宅の渋滞にまきこまれた。やむを得ず市街地はフ リーウェイに乗って渋滞を避けた。インターステート40のExit157Aを降りてすぐにある。

アルバカーキはマイコロソフトがここで誕生したという、記念すべき町だ。たまままインテルのマイクロプロセッサ8080を使った自作パソコンの販売会社が此処にあり、ポール・アレンとビル・ゲーツがベーシック・インタープリターの販売会社をここに設立したからである。

アルバカーキでは中華料理屋で夕食をとる。本日は中休みのつもりだったが、走り足りないという感想がでた。まだ余裕を残しているようだ。

Activities、場所

出発時間

到着時間

備考

Santa Feのホテル

8:00

Albuquerqueまで60miles

Santa Fe市内見学

10:00


St. Francis Hotel前駐車、La Fonda Hotel, Loretto Chapel, Inn and Spa at Loretto, Mountain Trails Gallery, San Miguel Mission Church, Oldest House Museum, St. Francis Cathedral, Historical Plazaを散策

昼食

Hotel St. Francis in Santa Fe(International Restaurant Serial No.331

Santa Feのホテル出発 

15:00


I-25S又はR-66でゆっくり南下

Fashion Outlets Santa Fe

Oshkosh B'Gosh #39 Santa Feで幼児服の買い物

Santo Domingo Pueblo


15:30

写真撮影禁止
R-66

Exit248で旧R-66

Albuquerque New Mexicoのホテル


17:00

I-40のExit157Aを降りてすぐのBest Western Rio Grande Inn (Int. Hotel Serial No.432)

 

9月30日(火)走行距離190マイル

本日はロス・ルナスまではバイクで押川が先導。その後はグリーンウッドがサポート車で先導する。

アルバカーキーのホテルを出て25号線SをExit203まで20マイル南下。ロス・ルナスでExit203を出て 1973年以前のルート66をコレロに向かって33mile走行し、Exit126でインターステート40に合流。メキシコ湾にそそぐリオ・グランデ河の 支流に向かって谷に下り、再度丘に登る。

ロス・ルナスからコレロに向かう1937年以前のルート66

インターステート40のExit117からExit114までのルート66を走り、フクロウ岩とデッドマンズ・カーブを走り、インターステート40へ戻る。フクロウ岩とデッドマンズ・カーブは喧伝されるほど危険ではなかった。

Exit108を出て約14マイル往復し、アコマ・スカイ・シティー博物館を訪問。アコマ・スカイ・シティーはテーブルマウンテンの頂上に4,000年前から居住していることが発掘から分かっている。いまでも40世帯が生活している。はじめに現れ たテーブル・マウンテンには人は住んでいない。

アコマ・スカイ・シティー手前のテーブルマウンテン

アコマ・スカイ・シティーのあるテーブルマウンテンは少し崩れて上りやすく、いまでは頂上までアスファルト道がつけられている。しかし観光客は入れない。麓の博物館で仰ぎ見るだけだ。写真撮影するには10ドル支払って鑑札をカメラにつけなければならない。

アコマ・スカイ・シティー

昼食はアコマ・スカイ・シティー博物館で摂る。帰路空いた道路でビデオ撮影をする。

バッドビルのExit104よりExit96までルート66を走り、テイラー山(3,445m)を望む。

バッドビルからテイラー山を望む

Exit85から入ってExit81までのルート66を走り、グランツのハーレーショップの前で小休止。

Exit53からExit47のルート66でコンチネンタル・デバイドを越える。コンチネンタル・デバイドより東に降った雨は大西洋といってもメキシコ湾にそそぎ、西に降った雨は太平洋といってもカルフォルニア湾にそそぐ分水嶺である。

コンチネンタル・デバイドの標識

コンチネンタル・デバイドから北方を見る

Exit36からルート66を走り、ギャラップのエル・ランチョ・ホテルへ向かう。このホテルは往年のハリウッドスターが泊まった名物ホテルである。エ ル・ランチョ・ホテルは映画制作者の親族が1937年に映画制作のために創業したものである。泊まったスターはロナルド・レーガン、スペンサー・トレー シー、キャサリン・ヘプバーン、カーク・ダグラスなど多数。現在のオーナーは非常に尊敬されているインディアンのアーマンド・オルテガ氏である。

夕食はホテルでいただく。

Activities、場所

出発時間

到着時間

備考

Albuquerqueのホテル

8:00

9:30

I-25SをExit203まで20mile南下

Los LunasよりR-66へ

10:00


Los LunasでExit203を出て1973年以前のR-66をCorreoに向かって33mile走行し、Exit126でI-40に合流

Dead Man's Curve


11:00

I-40のExit117からExit114までのR-66をはしり、Owl RockとDead Man's Curveを走りI-40へ戻る

Acoma Sky City New Mexico


12:00

Exit108を出て約14mile往復。昼食はAcoma Sky Cityで

Budville

14:00


BudvilleのExit104よりExit96までR-66を走り、Mt. Taylor(11,301ft)を望む

Grants

Exit85から入ってExit81までのR-66
Thereau New Mexico

Exit53からExit47のR-66でContinental Divide(大西洋といってもメキシコ湾と太平洋といってもカルフォルニア湾の分水嶺)を越える

Gallup New Mexicoのホテル


17:00

Exit36からR-66を走り、GallupのEl Rancho Hotel (Int. Hotel Serial No.433) へ。このホテルは往年のハリウッドスターが沢山泊まっている名物ホテル

 

10月1日(水)走行距離150マイル

エル・ランチョ・ホテルの前に全員集合して記念撮影をする。本日はニューメキシコ州をおさばし、アリゾナ州に入ることになる。ギャラップから北上すれば180マイルでモニュメント ・バレーに行けるが、それではルート66から大幅に逸脱するし、インディアン居留地のため、インフラも心配のため今回は断念した。

押川がサポート車で先導する。ギャラップからしばらくルート66を行くがルプトンのExit359でインターステート40をくぐりの南側になければならないところ直進しため 、道は次第に北に曲がり、10マイルばかり走ったところで聖ミカエルに向かっていることが判明、引き返す。

エル・ランチョ前に全員集合

Exit311でペインテド・デザート国立公園に入る。ビジター・センターで早めの昼食をとることにする。その駐車場で メルセデス・ベンツのユニモグという多目的中型トラックにキャンピングカーをのせ、サイクリング自転車を積んだ車を発見する。メルセデス・ベンツの車を好 きになれないグリーンウッド氏はこれには痺れた。ハマーを越えるド迫力である。もともとダイムラーが戦後開発した農業・林業用の汎用多目的車で Unimogはドイツ語の"UNIversal-MOtor-Gerät"に由来するという。Gerätはマシーンという意味。夫婦で旅しているのだろ う。いかにもアメリカ的な使い方だ。

ユニモグ U 1300/L

ペインテド・デザートは雨水で侵食して出来た谷が地層毎に多様な色をしていることから名づけられた。一番上層の石灰岩は2億7,000万年前に浅い海で形 成された、下層程古くなる。赤い色は石灰岩を作ったらん藻類が鉄分を残したため、酸化鉄で赤くなっているという。北米プレートが太平洋プレートに乗り上げ て、3,000mのコロラド高原ができたのは500-600万年前のことである。ペインテド・デザートはグランドキャニオンを形作ったコロラド河の支流の リトル・コロラド河のそのまた支流のプエブロ・コロラド・ウォッシュが地層を侵食して作った砂漠だ。

ペインテド・デザート

2億2,500万年前の三畳紀、今は砂漠となっているこの界隈は赤道直下にあり、そこには深い森が繁茂していた。その巨木が嵐の後の洪水に流されて海の底に沈み、土砂に覆われてバクテリアの分解を受けることなく、長い年月をかけて水に溶けたシリカが木材の組織を置換して 瑪瑙化した。これをペトリファイドフォレスト(石化した森)という。リトルコロラド河侵食により長い眠りからさめて今我々がみることができるのだ。

ペトリファイドフォレストがあるリトル・コロラド河の侵食谷をサンタフェ鉄道がはしる

リトルコロラド河の侵食崖の直下の巨大な岩にプエブロ・インディアンの先祖で石造りの集合住宅プエブロに住んだ定住民族アナサジ・インディアンが残した線 画がある。はるか下にあるので肉眼ではみえないが、備えられた望遠鏡でみえた。手持ちデジカメを望遠にして撮影したのが下の写真である。男女のそれぞれの 性器を誇張して描いている。考古学者の研究結果も表示されていた。 森林の破壊で12世紀に集合住宅プエブロを維持できなくなり各地に散った。イースター島で発生したこととおなじことが生じたのである。

次にアゲート・ブリッジという瑪瑙化した1本の木の下を雨水がえぐって自然の橋となっているところを見学する。橋の保護のために下にコンクリートの補強をしてある。

インディアンが残した線画

自然の橋として残った石化した木

クリスタル・フォレストという谷では石化した巨木がごろごろしている。無論、化石の持ち出しは厳禁である。

石化した木が転がるクリスタル・フォレスト

ホルブルックでインターステート40に戻る。ここでルート66で有名な1950年創建のコンクリート製の円錐形のインディアン・テントと1950年代の車 をパークしたモーテルを撮影。いまでも利用可能である。円錐形のインディアン・テントはティピ又はテーペートとよばれ、毛皮やカバの木の樹皮を使ってい た。ウイグワムは草などを使って葺いたドーム型の小屋でこのモーテルは間違った使い方をしている。ジョセフ・シティーではこれも有名なジャック・ラビッ ト・トレーディング・ポストのビルボード(看板)を撮影。いまでもインディアン経営のお土産屋がある。ジャック・ラビットとは北米西部の野兎である。耳と 後ろ足が長い。「ジャック・ラビットを見ずして西南部に行ったというなかれ」ということわざがあるという。

ウイグワム・モーテル

ジャック・ラビット・トレーディング・ポストの看板

本日の宿場のウインズローに向かう。

ラ・ポサダ・ホテルはホテル・エル・ランチョと同じく、旅行代理店がアレンジできないホテルである。押川がカードで直接予約した。ラ・ポサダはドン・アル フォンソ・デ・ロス・パヤロス家族の120年間の邸宅であたが、1929年の株式市場の崩壊で破産し、これをサンタフェ鉄道に売らねばならぬことになっ た。サンタフェ鉄道にこれをホテルとして管理するよう委託されたフレッド・ハーヴェイが1930年に建築家メアリー・コルターを雇ってホテルに改装した。 フレッド・ハーヴェイは英国からの移民で1876年にカンサスのトペカでレストランを開業するが、サンタフェ鉄道会社と組んで、レストラン、ホテル、食堂 車、新聞販売スタンドなどのビジネスを南西部に展開し、旅人の旅のクオリティー向上に貢献した。

しかしラ・ポサダ・ホテルの経営は旨く行かず、1993年にサンタフェ鉄道はこれを手放すことを公表。歴史的遺物保存のナショナルトラストが警告を鳴らす なか1997年にアラン・アフェルトという企業家が買い取り、改装してホテルとして営業している歴史的遺産である。夕食はここのトルクワーズ・ルームに予 約。サンタフェ鉄道のウィンスロー駅はホテルに隣接している。

ラ・ポサダ・ホテル

ウインズローのスタンディング・オン・ザ・コーナーの銅像

夕食前に町を散策し、1970年代のロックバンド、イーグルズのカントリー・ソング「テーク・イット・イージー」にささげたスタンディング・オン・ザ・コーナーの銅像を撮影。後ろのビルは壁だけ残して取り壊し、公園になっている。壁の窓や窓の中で抱き合ってキスする男女は全て描いたもの。

・・・アリゾナはウインズロウの

果てに立ちはだかる

眺めはそんなに悪いもんじゃない

フォードに乗った一人の少女が

スピードを落としておれのほうを見ている・・・

Activities、場所

出発時間

到着時間

備考

Gallup New Mexicoのホテル

8:00


ホテル前で全員そろって記念撮影。出発直後、道に迷う

Painted Desert

R-66道中唯一の国立公園。Visitor Centerで早めの昼食

Petrified Forest(E-311)


11:00

Petrified ForestのPark Rd.を南下してPetrified wood, Crystal Forestを見る

Holbrook


15:00

US-180WからI-40へ

Wigwam Motel

811 W Hopi Dr. Holbrook Arizona。1950年創建のコンクリート製Teepeesと1950年代の車をパークしたモーテル。
Joseph City Arizona

Jack Rabbit Trading Post

Winslow Arizona


18:30

"Standing on The Corner" statue at Kinsley and 2nd., La Posada Hotel (Int. Hotel Serial No.434) 夕食はThe Turquoise Room

 

10月2日(木)走行距離120マイル

本日はメテオール・クレーターまでは押川がバイクで先導。そこから後はグリーンウッドがサポート車で先導する。

5万年前に直径150フィートの鉄ーニッケルを主体とする隕石が東北の空から時速26,000マイルの速度でこの砂漠に 衝突した。そのときの衝撃は2,000万トンのTNT火薬の爆発に相当するエネルギーを生んで砂漠に直径4,000フィート、深さ700フィートのクレー ターを作った。そのとき1億7500万トンの石灰岩や砂岩が熱で少量が蒸発し、大部分は溶けて飛び散りクレータの縁は150フィート持ち上げられた。飛び 散ったものが半分、残りの半分は粉砕されてクレータの地下に埋まっていると考えられている。クレターの中心部をドリリングしてもそれはみつからず、傾斜の 急な南の縁で深さ1,376フィートまでドリリングしたところ、ドリルビットと同じ硬さの物質があることが確認されている。地震探査では地下1,000 メートルに隕石の大部分は粉砕されて埋まっていることが分かっている。

メテオール・クレーターの空撮写真

大きな隕石5万年に1回の確立で地球に衝突しているが、他の場所では雨水の浸食で消えてなくなる。しかしここの砂漠ではよくその原型をとどめている。

隕石の大部分が埋まっている南の縁

ホルシンガー隕石

メテオール・クレーター見学後はインターステート40に戻り、フラグスタッフに向かう。フラグスタッフで国道17号線に入りExit333で州道-89Aに入ってセドナの渓谷に下った。

スライドロック

レッドロック

セドナのスライドロックやレッド・ロックを楽しみながらヒルトン・セドナ・リゾート・アンド・スパにゆき、そこで昼食をとった。

ヒルトン・セドナ・リゾート・アンド・スパのエントランス

国道17号線でフラッグスタッフに帰る。フラッグスタッフという変な町の名はボストンからきたフラッグスタッフ・ティー・パーティーとして知られたボーイスカウトが地元産の松、ポンデローサ・パインで作ったフラグポールに由来するという。

フラッグスタッフの宿の前を通過する戦車

フラッグスタッフの宿はルート66に面しており、サンタフェ鉄道もルート66に平行して走っている。サンタフェ鉄道は昼夜の別なく大量のコンテナーを運ん でいる。太平洋岸と大西洋岸を結ぶ貨物輸送の重要な幹線という趣がある。なかには中国のコンテナーも混じるが、米陸軍の戦車が数十両東に向かって運ばれて ゆくのを目撃したときは驚いた。

今日はスーパーで食品を買い入れ、各自好きな夕食をとる。なにはともあれカップヌードルを選ぶ。スクワッシ

Activities、場所

出発時間

到着時間

備考

Winslow

8:00


出発

Meteor Crater


11:30

I-40 Exit233から、帰りは元の道へ、Holsinger Meteorite

Flagstaff Arizona


14:30


Sedona Arizona


15:00

Flagstaffで国道17号線に入りExit333で州道-89Aを渓谷に下り、SedonaのHilton Sedona Resort & Spaで昼食、国道17号線でフラッグスタッフに帰る

Flagstaffのホテル


18:00

Best Western Pony Soldier Inn & Suites (Int. Hotel Serial No.435)

 

10月3日(金)走行距離170マイル

今日はルート66以外では最大の目的地のグランドキャニオンだ。押川がサポート車で先導する。

スタート直後左折でルート66に入るところで、最後尾を務めるグリーンウッドのバイクが信号に引っかかった。これを徳さ んがいつもの伝で交差点を曲がったところで待ったのがいけなかった。パトカーに捕まってしまったのである。グリーンウッドが警官にどうしたのか聞くと、 「交差点から十分離れて停車した本隊は良いが徳さんは交差点に近く停車したので交通渋滞を引き起こした。ルール違反である」という。「ルールを知らないの か?」と聞く。「いや知っている」と返答。免許証とパスポートを提示し、このデータをパトカー搭載のパソコンに入力するまで待たされる。「今回は日本への 手土産にこの警告書をあげる。以後注意するように」と無罪放免された。

パトカーに警告書をもらう 阪間撮影

89号線を北上する。昨日見えていた山火事らしい煙はまだ相当量くすぶっているが消防車も消火ヘリも飛んでいない。何の煙なのだろう。左手にはハンフ リー・ピーク(12,633フィート)がそびえているが、2,200mの高原からみるとさして高い山には見えない。このサンフランシスコ山塊は火山である という。

コロラド高原はコロラド河に向かって緩やかな傾斜で下っている。やがて昨日通過したペインテド・デザートの北端に入る。真っ直ぐゆけばやがてフォードポイ ントのあるモニュメント・バレーに行けるのだが、左折してグランドキャニオンに向かう。グランドキャニオンの南岸はカイバブ国立公園となっており、低い丘 がそびえ、森林に覆われている。やがてリトル・コロラド河はコロラド高原に深い切り込みを作りながら蛇行しているのが見えてくる。

デザート・ビュー・ポイント(2,267m)で駐車する。フレッド・ハーヴェイとサンタフェ鉄道がインディアンの理解を助けようとここに物見の塔を建設し た。この塔の上から渓谷渓谷美を堪能する。1906年セオドア・ルズベルトがここを国立公園とすることを提案した。国立公園の入園料は12ドルである。

デザート・ビュー・ポイントの物見の塔にて

南岸沿いに森林の中をドライブしマザー・ポイント(2,170m)に駐車し、散策しながら渓谷美を楽しむ。

マザー・ポイントで物思いに沈む女性

グランドキャニオン・ビレッジに移動し、ここで昼食。

ラバ(muleといい、雄ロバと雌馬の雑種で不稔)に乗ってグランドキャニオンの谷底に下るサービスは1891年から続いているようでラバの群れが家路を急ぐ姿を目撃。

家路を急ぐラバ

ウイリアムズからグランドキャニオン・ビレッジまで一日一往復のサンタフェ鉄道の観光列車が走っている。グランドキャニオン・ビレッジからはバスが巡回している。

グランドキャニオン空港に移動。ここでプラットアンドホイットニーPT-6のターボブロップエンジン2機搭載デハビランド社製の小型機でグランドキャニオ ンの上空を飛ぶ。観光用に窓を大きく改造してある。各国語の解説がつく。ヘリコプターの方が迫力はあるのだが危険なので忌避。

サンタフェ鉄道の観光列車

デハビランド社製の小型機

コロラド高原は7,000万年前、北アメリカプレートが太平洋プレートに乗り上げて、地層の褶曲なしに水平のまま 3,000m押し上げられて高原となった珍しい例である。500-600万年前この高原をコロラド川の水が穿った渓谷がグランドキャニオンやセドナであ る。1.2万年前、氷期が終わったときの水量は今の10倍だったと推定されている。基盤岩である花崗岩は16.8-19.4億年も古いものであるが、その 上に積もった石灰石、頁岩、砂岩の層の最上層部のカイバブ石灰岩は2.7億年前の古さである。侵食谷の深さは1,400mで谷底の基盤岩の海抜は750m である。基盤岩は硬いので渓谷はこれ以上あまり深くなることはないという。

渓谷の底を流れるコロラド河

リトル・コロラド河

日没までにウイリアムズに着こうと180号線を爆走。一日一往復の観光列車と並走。ウィリアムズは標高が高く寒い。ホテルは西のはずれだが、夕食のためサポート車で町の東側まで出かける。

夜中の2:00にホテルの火災報知器の誤作動で起こされる。

Activities、場所

出発時間

到着時間

備考

Flagstaffのホテル

8:00


本日はR-66を外れて、Grand CanyonのScenic Routeを走行

Desert View


11:00

US-89からS-64でSouth Rimを目指す

Mather Point


12:00

散策

Grand Canyon Village


13:00

昼食

Grand Canyon Airport


16:00

Pratt & Whitney PT-6 (Dash 27's) 2機搭載のデハビランド社製の小型機でのFlight over Canyon R-66の町Williamsへ

Williamsのホテル


18:30

Best Western Inn of Williams (Int. Hotel Serial No.436)

 

10月4日(土)走行距離150マイル

本日はグリーンウッドがサポート車で先導する。

Exit146からアッシュフォークに入り、ルイス通りでデソト・ビューティー・アンド・バーバー・ショップを訪問。デソト氏は床屋は廃業してお土産屋を経営していた。愛想のよい人のためか、なかなかの繁盛でウェールズからの団体客をのせた大型バスがとまっていた。

デソト・ビューティー・アンド・バーバー・ショップ

朝から空模様がおかしかったが、ついに降り出す。雨の中カッパを着て出発。Exit139からルート66に入り、地峡チノ・ポイントを抜けてセリグマン付近を東進するBNSFの貨物列車を撮影。右手広告はデソトのもの。

地峡チノ・ポイントを抜けて東進するBNSF貨物列車

地峡チノ・ポイントを抜けてオーブレイ・バレーに入る。雨は小降りになる。

オーブレイ・バレー

けばけばしく飾ったサルーンを見つける。Get Your Kicks at The Route 66 Cutpost Saloonと書いてある。Get Your Kicksとは「楽しもうぜ」という意味。

ルート66を楽しもうぜカットポスト・サロン

グランドキャニオン洞窟は雨が降っていたのでパス。やがてピーチスプリングズに着く。ここで昼食。記憶と多少ことなるが8年前ここでUターンしたところだ。建物は改装したという。

更に走ってキングマンに着く。かっては夜走った道だ。時間が余ったのでキングマン飛行場の近くのスワップ・ミートを冷やかす。安物の日本刀など売っている。半田ごてを探したがsoldering ironという名前を知らなかったため見つからなかった。

スワップ・ミート

夕食は隣の中華レストランで摂る。

ベストウエスタン ウェイフェアーズ・イン・アンド・スーツにて

Activities、場所

出発時間

到着時間

備考

Williams Arizonaのホテル

8:00


I-40W

Ash Fork

9:00

Exit146でAsh Forkに入りLewis通りでDesoto's Beauty and Barber Shopを訪問

Seligman Arizona


10:20

Exit139からR-66に入り、Seligman手前でChino Pointを背景にBNSF貨物列車を撮影
Aubrey Valley


Grand Canyon Caverns


12:20

230 feet below ground level 鍾乳洞、雨のためパス

Peach Springs


12:30

ランチ

Kingman Arizona


13:00

Swap Meet

Kingmanのホテル


16:00

Best Western  A Wayfarer's Inn and Suites (Int. Hotel Serial No.437) 夕食は中華

 

10月5日(日)走行距離190マイル  合計走行距離1821マイル 2,914km(実走行2,980km)

押川がサポート車で先導する。グリーンウッドはバイクで後衛を務める。2000年に間違えて曲がらなかった丁字路を首尾よく曲がり、山間の地峡を抜けてオットマンに向かう。

山間の地峡を抜ける 徳山氏がバイクから走行中撮影

サクラメント・ウォッシュ横断し、まっすぐブラック・マウンテンに向かう。

ブラックマウンテンズに向かうルート66

妙な形の岩山があるので撮影。 緩やかな坂を上ってゆくと「ユニバーサル・ソルジャー」という映画で燃してしまった旧式のモービル・ガス・ポンプを再建して大切に保管してあったのでこれを撮影。

妙な形の岩山

モービル・ガス・ポンプ

狭い七曲を登ってシットグレーブ峠に登る。

への登り 阪間氏撮影

への登り 阪間氏撮影

シットグレーブ峠を越えるとコロラド河が流れる谷を見下ろすことになる。対岸はカルフォルアだ。蜜の流れる所と夢見てきたオクラホマからの逃亡者が落胆したことは想像に難くない。ヘアピンカーブが連なる急坂を下り、かっての金鉱山につかわれたゴールドロードに下る。

シットグレーブ峠を越えて 阪間氏撮影

かってのゴールドラッシュの町オットマンに到着。ここは観光地となっている。ロバ(burros)が放し飼いになっている。

白昼堂々のロバのカップル

1902年操業のオットマンホテルで1939年、クラーク・ゲーブルとキャロル・ロンバートがハネムーンを過ごしたスーツ、15号室を覗く。1ドル紙幣を壁いっぱいに貼り付けたパブで小休止。

オットマンホテル

パブ 阪間撮影

町のメーンストリートではバギー車にのった女の子がはしゃいでいる。お母さんが子供を抱いてロバにニンジンをあげている。

ロバにニンジンを与える母と娘

オットマンに別れをつげてトポックに向かう。

トポックに向かう  徳山氏がバイクから走行中撮影

Exit1でインターステート40に乗りすぐコロラド河を渡る。あとはニードルズまでコロラド河にそって北上する。ニードルズでインターステーを降りて昼食。昼食後ブラックマウンテンを背景に全員で記念撮影。

ニードルズでブラックマウンテンを背景に全員で記念撮影

ニードルズをでて95号線に入り、ラスベガスに向かって北上する。この道はコロラド河に平行しているが山ひとつ越えた窪地につけられている。緩やかなアン ジュレーションの道を50マイルの速度で走るのは心地よい。道の左手はモハーヴェ砂漠 だ。1987年のドイツ映画「バグダッド・カフェ」はここが舞台だ。ジェヴェッタ・スティールが歌うテーマ曲「コー リング・ユー」がヒットした。

A desert road from vegas to nowhere
some place better than where you're been
A coffee machine that needs some fixing
In a little cafe just around the bend
I am calling you
Can't you hear me
I am calling you
A hot dry wind blows right through me
The baby's crying and I can't sleep
But we both know a change is coming
coming closer, sweet release


途中休憩したとき面白いナンバープレートをつけた車を発見。カメラに収める。「引退者、ルート66を楽しもう、家の借金 なし、ボスなし、心配なし、給料なし」と書いてある。オーナーは「給料なしは問題だが」と笑っていた。後ろのナンバープレートは正規のものだった。アメリ カも日本と同じく年金生活者が目立つ。

愉快なナンバープレート

フーバーダムからくる93号線と合流したとき渋滞にまきこまれたが、これはすぐ解消し、ラスベガスまで快適に走れた。ただサポート車のナビをleast use of highwayにセットしていたため、早めに一般道路、ボルダー・ハイウェイに降りてしまい信号で時間を浪費した。トロピカーナ・アベニューで左折。 MGMの前を通りアーヴァイル・ストリートで左折すればゴールだ。直前ガソリンスタンドを見つけて飛び込み給油。押川が代金を支払っている間にバイクだけ はグリーンウッドがバイクで先導し、レンタカー会社に飛び込んだときは締め切り時間の4分前だった。これでツーリングが終わった。

イーグル・ライダーにて 阪間撮影

サービス車とタクシーでMGMグランド・ラスベガスに移動しチェックイン。2000年にはこのMGMの南側のホテルに泊まっている。

MGM グランド・ラスベガス

MGMの西側を南北にはしるラスベガス・ブルバードを散策し、ハーレダビッドソン・カフェで休憩。8年まえに比べてコンドミニアムと思しき高層ビルが 雨後の筍のように林立し、建築家に遊ばれた感じの奇抜なビルが目抜き通りにまだ建設中であった。まさに日本のバブルの再現と思える現象だが、米国の不動産バブルは今年はじけた。今後どのような展開になるのか? たち枯れるのではと危惧している。

ニューヨーク

モンテカルロ・ホテル

建設中のねじれたビル

ハーレーダビッドソン・カフェ

ここでターボチャジャーを装着したハーレダビッドソンを見る。

ターボ・チャジャー

MGMの内部は後楽園球場の何倍もあるカジノだ。多少遊んでみた人も居たようだが、ギャンブルをせず50年の歴史を持つパリのクレージーホース・ショーを楽しんだ。

Activities、場所

出発時間

到着時間

備考

Kingmanのホテル

8:00


R-66経由
Black Mountain

10:00

Sacrament Washを通過してSitgreaves Pass(3,441ft)へ

Oatman Arizona


11:00

険しい山道Oatman Rd.からUS−153

Topock Arizona 


13:30

Route66でTopockへ、Exit-1よりI-40Wを西へ

Needles

14:30


Las Vegas Eagle Riderへ

16:30

Needles経由、US-95Nで北上、US-93に合流。Eagle RiderへはExit56でBoulder Hy. 582にはいり、Tropicana Av.で左折。S Arville Streetで左折。

Las Vegas Nevadaのホテル


18:30

MGM Grand Las Vegas (Int. Hotel Serial No.438)


ラスベガスのメーンストリートであるラスベガス・ブルバードをMGMホテルより少し南下するとピラミッドとスフィンクスのあるルクソール ホテルとマンダレイ・ベイ・ホテルがある。2017/10/2カンツリー・シンガーのJason Aldeanがルクソールホテルの東隣のRoute 91 Harvest Festivalでライブ演奏中にStephen Paddockなる64才の男がマンダレイ・ベイ・ホテルの32階からを乱射して58人の死者と489人のけが人を出して自殺した。男は若い頃は会計士をしていたが、その後、不動産賃 貸業をしてリッチになったという。小型機を所有し、バクチ好きでラスベガス近くに引っ越し、ホテルに泊まり込み、バクチで10,000$/d稼いでいたという。動機は不明。22,000 人 が会場にいたという。

ホテルの部屋からは23丁の銃、自宅から更に19丁の銃と爆薬が見つかったという。中には軍用のカラシニコフ自動小銃(AK47)やコルトAR-15があったというが、大部分は米国では自由に購入できる小銃にSlide Fire社の「バンプファイア・ストック」 という反動で銃が前後動するのを利用して連続でトリガーを引けるようにするアタッチメントで改造して自動小銃にしていたようだ。これを12セットもっていたという。いずれにせよ、米国最大の銃 乱射事件となった。米国で銃規制が出来ないのは アメリカ合衆国憲法修正第2条に「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器 を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない」とあるからである。市民としても、もし政府が勝手なことをしたら市民は武装蜂起するぞという強い自治の精神がみなぎっている。日本人は刀狩り以降去勢されてしまっている。

米国はまるで武装中立を考えた長岡藩の河井継之助的ではある。ただ武装にはそれなりのリスクを伴う。米国の銃乱射事件のように結局、会津藩の妨害で長岡藩は、北越戦争に巻き込まれた。

日本は米国という用心棒がいなければ尖閣列島も確保できないし、北朝鮮のミサイルが落ちてくることを防げない事態に陥っている。やはり米国市民にならって国家は武装して 自国領土を守る必要があることは確かだ。問題はこれを口実にして政権が国民のためではなく、自分が統治しやすいように憲法をかえようとする不純な動機をど う防ぐかだろう。


10月6日(月)

タクシーでマッカラン国際空港にゆく。

ロス空港からはタクシーでマリーナ・デル・レイに向かいベーシンDの最奥にあるマザーズ・ビーチに面したジャマイカ・ベイ・インにチェックイン。絶好のロケーションである。

ジャマイカ・ベイ・イン

ヴェニス・ビーチに行くときにはグランド・キャナルを渡る。

グランド・キャナル

ヴェニス・ビーチを散策。

ヴェニス・ビーチ

つり用の桟橋の上からサーフィングをする人々をみる。このような桟橋はルート66の終点サンタモニカ、友人ロンの住むマンハッタン・ビーチにもある。マリーナ・デル・レイの海への出口がみえる。

サーフィング

1984年にここのフィシャマンズ・ワーフでディンギーをレンタルしてセーリングして以来のマリーナ・デル・レイである。久しぶりに散策。心なしかボートが程々に古くなっているような気がする。

ベーシンE

マリーナ・デル・レイのパナウェイのチャート・ハウスでシーフードの最後の晩餐。徳さんは一人タクシーでリトル・コリアにでかけ、たらふく郷里の飯を食べてきたとか、酒だけ付き合った。

チャート・ハウス

Activities、場所

出発時間

到着時間

備考

Las Vegasのホテル

7:10



AA 793@McCarran Int'l Airport

9:35


AA3104

LAX


10:55

タクシーでホテルへ

ロスのホテル


12:00

Best Western Jamaica Bay Inn (Int. Hotel Serial No.439) にチェックイン

マリーナ・デル・レイ


13:00

ヴェニス・ビーチとマリーナ・デル・レイの散策
Chart House


18:00

マリーナ・デル・レイのChart Houseでシーフードの夕食(Int. Restaurant Serial No.328)

 

10月7日(火)

30年来の友人ロンは ホテルから15分のマンハッタン・ビーチに住んでいるので、ホテルに来てくれた。朝食を共にして2時間ばかり雑談する。氏はグリーンウッドとおなじケミカ ル・エンジニアだが引退してから株をはじめ、現役時代より稼いでいま築60年の自宅を大改装中だという。バブルが弾けても少しの損失で全て売り抜けたとい う。これからは買いモードに入るので銘柄を物色中だとか。二人とも2008年のノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマンの愛読者で彼の書くものを読んで経済の動向を予測する参考にしている。ジョージ・ソロスとクオンタム・ファンドを設立したジム・ロジャーズも米国の凋落を予言していたがその通りになった。クーパー氏は週に15時間市況の分析に費やすというが、グリーンウッドは心配性でいくら分析に時間をかけても株取引には性格的に向かないと思っている。

米国は世界の金融の中心として栄えてきたがその中核となったのは技術系の人材である。ロンが在職していたフルアー社がレイオフしたとき、やめた技術者達は 金融業に転職し、誰も帰ってこなかったという。ロンがフルアー社で働く前はバイオ企業で発酵槽の運転管理をしていた。収率のトレンドをプロットして装置の 異常を見抜くのが仕事だったという。「異常をみつけ点検すると熱交換器にピンホールが開いていた」などと懐かしそうに思い出話を語る。この経験が株の分析 に生きているという。日本株を買わなくなって久しいといっていた。

徳さん夫妻は特別な出国手続きが必要のため、押川と30分早くホテルをでる。

切符の発券はパスポートを発券機のスリットにいれてスライドさせると簡単に自動発券してくれるが徳さんのパスポートはそのようなし掛けがないのでデスクで 発券してもらう。係りのおばさんが日本では40年以上の居住者に帰化をみとめないのかと非難するような質問をしてくる。いや本人が望まないのだというと理 解できないと首を振っている。

ロン

ロス空港で破綻したAIGのリスク・ビジネスと題してフォーチュン誌がこの帝国を築いたハンク・グリーンバーグというタクシー・ドライバーの息子の立志伝を特集していたので帰路の読み物として購入。

Activities、場所

出発時間

到着時間

備考

ロスのホテル

9:30


タクシーで出発

AA 169 LAX

12:20


AA159@No.4Terminal of Los Angeles Int'l Airport

 

10月8日(水)

無事成田着、解散。

Activities、場所

出発時間

到着時間

備考

AA 169 NRT


16:20

解散

用意した装備とかかった費用についてはルート66 2008年装備と費用にまとめた。

 

11月8日(土)

企画作成と道案内をした押川・青木への感謝と写真交換目的で横浜中華街の同発別館で夕食会を開く。二次会は横浜駅西口のバー、"Grass Roots"でツクモキャリで覚えたテキーラを楽しんだ。(Cafe Bar Serial No.253)

 

11月16-17日(日)

ロータリー・ハーレー会石原隊としての総括会が磐梯熱海の「四季彩(しきさい)一力」で開催された。

October 26, 2008

Rev. October 4, 2017


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