比叡山・賤ヶ岳(しずがたけ)

2011年4月25日から2泊3日の予定で比叡山登山と、琵琶湖の竹生島30番札所宝厳寺巡礼を兼ねて京都 ・琵琶湖方面にでかけた。


第一日

小田原から各駅停車の「こだま」で京都に向かった。京都駅についたとき、駅のエスカレーターが動いているのに感激。東京の停電が如何に心理的に重圧感を与 えているか実感。

京都バスで当日の宿泊地である大原バス停に向かう。大原への道はジープを運転して行ったはずであるが全く記憶にない。狭いV字渓谷を通る(後で当時の旅行 記を読み、この谷は通らずに トンネル経由で北から大原に下ったことが判明)

谷が広くなったところが大原の里である。大原バス停に着いたのは約束の16:30の21分前だった。大原は1999年5月ジープで 北 陸廻りで京都観光したとき。三千院を訪問している。その時、寂光院はパスした。今回は少し時間があるから、歩いて寂光院を往復した。結局今回も時 間不 足で、門できびすを返した。木戸には菊の紋章がある。建礼門院が隠棲し晩年を過ごした尼寺だからだろうか。2000年5月の放火で焼失し、再建されたもの という。そもそもここは推古2(594)年に、聖徳太子が御父用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられる。

寂光院

バス停に戻り、皆と一緒になって本日の宿、京の民宿大原の里(Hotel Serial No.494)にゆく。なんと寂光院前であった。事前勉強不足である。雨が降り出したので、寂光院は断念。夜、地震酔いを感じた。 あまり静かなので、地震が来た様に感ずる。クリさんも感じたという。

大原の里前で マーさん撮影、Cannonでスキャン


第二日

宿を出て、バスで野村別れバス停までもどる。ここのファミリーマートでおにぎりを買う。ここから東海道自然歩道を仰木峠(お おきとうげ)に登り、そこから比叡山に至る長大な縦走を予定であった。ところが雨が降り出しそうなので断念し、ケーブル登山することに衆議 一決。八瀬駅までバスで京都方面に更に戻る。ここから京福電鉄ケーブルで比叡駅まで登る。昭和初期に建設されたとか、大分古いが現役である。軌条がS字に なっているのは珍しい。更に叡山ロープウェーで比叡山頂駅に至る。ここには場違いなガーデンミュージアムというフラワーガーデンがある。野生のサルが大勢 群れているが人間に近寄ってはこない。ガーデンミュージアムを迂回して四明岳山頂にでる。といっても駐車場だ。ここからは近江大橋が見える。

四明岳山頂から近江大橋と比叡平住宅地を見る

大きな駐車場を突っ切って、ロープをまたぎ、比叡山山頂(848m)を目指す。ここには山頂を示す標識はないので、インターネットで見つけた先人の案内書 を頼りに登ってゆくと山頂らしきところに国土地理院の一等三角点があった。明らかに、駐車場からこの山頂に向かうことを歓迎していない雰囲気である。山頂 脇には水道用のコンクリート貯槽があった。

比叡山山頂にて   マーさん撮影、Canonでスキャン

山を下ると延暦寺境内に入る。ここには山頂への道標がある。どうも比叡山山頂には延暦寺側から登ることしか想定していないらしい。前田家の青銅製の霊廟を 見つけたが、手入れもされず荒れ果てていた。

少し下ると阿弥陀堂があった。そして戒壇院、大講堂、根本中堂とつづく。ここは極彩色の創建当時の雰囲気を残したお堂が多いがどうも違和感がする。

阿弥陀堂

戒壇院

大講堂

12年ぶりの根本中堂は全く変わっていなかった。

根本中堂 1999年5月撮影

比叡山ケーブルで坂本に下る。このケーブルもS字型だ。坂本駅近くの日吉大社にゆく。全国にある日吉神社の本宮である。都の東北の鬼門を守る神社として始 まるが延暦寺ができてから延暦寺の守り神になった。信長によって焼き討ちされる。姉小路祐の「『本能寺』の真相」 によれば坂本は明智光秀との深い関係があるという。

西本宮

三宮宮(さんのみや)

東本宮

金大巌(こがねのおおいわ)をまつる三宮宮のある八王子山(381m)に登ったが結構なのぼりであっ た。この急坂は神輿で有名だそうだ。比叡山坂本駅まで歩き、雄琴温泉の「湯の宿 木もれび」Hotel Serial No.495の送迎車に来てもらう。


第三日

今日は雄琴駅まで送ってもらい、ここで3グループに分かれた。竹生島に行くには雄琴駅からJR湖西線で近江今津駅にゆく。しかし風が強いといって竹生島に ゆく琵琶湖汽船の船は欠航となった。 やむを得ずJRで琵琶湖を一周して帰ることにした。そのためには近江塩津駅で北陸本線に乗り換えねばならない。

次ぎの列車がくるまでの時間を使って北国街道を散策し今津ヴォリーズ資料館を見学。当時の彦根町に本社があった百三十三銀行(現在の滋賀銀行)今津支店と して、ヴォーリズ建築事務所の設計によって建てられましたものである。ヴォリーズは建築家であったが、ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の 一人としてメンソレータム(現メンターム)を広く日本に普及させた実業家でもある。

今津から塩津までは湖西線で田園地帯をただただ北上する。クリさんは琵琶湖はもともと約400万年〜600万年前は現在の三重県伊賀市平田に地殻変動に よってできた構造湖であったという。(大山田湖)。 今日の琵琶湖東南部の河川は伊勢湾へ流れていた。しかしその後、鈴鹿山脈が隆起して湖は次第に北へ移動し、現在から約100〜40万年前、比良山系によっ て止められる形で現在の琵琶湖の位置に至ったという話をしてくれる。その証拠として鈴鹿山脈の主要な地質は礫岩であるという。にわかには信じがたい話だが ほんとらしい。

琵琶湖の最北端の塩津には今は何もない。車中で親しくなった人に清洲会議後対立した 羽柴秀吉が柴田勝家を破った古戦場の賤ヶ岳がどこか聞いた。その人はもし登りたいなら余呉(よご)駅で下車 しなさいと教えてくれる。

教わったとおりに余呉駅で下りる。眼前に余呉湖が見える。対岸が多分賤ヶ岳だろう。登山路は余呉湖を時計回りするように尾根を登り、賤ヶ岳山頂に至り、西 側の湖岸に下る。全行程3.5時間かかった。

賤ヶ岳山頂より余呉湖を望む 右手にみえる尾根から登り左手の湖岸に下る

賎ヶ岳山頂にて

南側には琵琶湖と2006年4月訪問した渡岸寺観音堂方面が望 めた。浅井の居城だった小谷山も見える。

賎ヶ岳より琵琶湖と渡岸寺観音堂と小谷山方面を望む

総距離9.08km、累積登り394m、累積下り394m。


2019/3/9 NHKが秀吉が石垣城を包囲しているとき柴田勝家の出兵を聞き10時間で大群を取って返した「美濃大返し」は可能だったかを検証した番組を観た。

May 4, 2011

Rev. March 9, 2019


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