中央アルプス

恵那山*

wakwak山歩会は2009年6月24-25日、梅雨の合間をねらって恵那山 (2,189m)にのぼった。百名山ではあるがあまり人気のない山である。島崎藤村の小説に登場する山として有名であるらしい。馬込宿から良く見えるようだが、いつも雲の中である。1998年4月18日に馬籠宿をバイクで訪問したとき も、1999年9月に馬籠宿を訪問した時も、2009年5月13日に中津川をバイクで通過したときもそうであった。

恵那山は中央アルプスの南端に位置し、その北側の神坂(みさか)峠(1,569m)を東山道が通っていた。布教に来た最澄がここで難儀する旅人のために峠の両側に寺を作ったほどであるという。しかし南北朝の頃からこの峠道は忌避されて木曽谷に新たなる東国への道が開拓されて中山道となったという。

恵那山の東には美濃の足助(あすけ)を発し→(飯田街道)→伊勢神峠→赤坂峠→冶部坂(じぶざか)峠→(三州街道)→寒原峠→小野川→駒場→前原→山本→飯田→塩尻と連絡した塩の塩の道が今でも国道153号線として健在である。中山道は人が通過する官道だったが、塩の道は中馬が物資を運ぶ物流の道であった。 恵那山の南側の裾野は足助の台地に連なっている。江戸時代はこの台地の上に火を放って焼き、草原にして中馬をはぐくんだのだ。

今は草原が消えて森林になっている。京都大学の加藤真教授が学士会報2003-IV No.841「草原の残照」でなげいた農耕牛馬の放牧、採草、屋根・俵を作るための萱場によって維持されてきた草原が農耕機械の導入で消えてしまった。生物の多様性という面からみれば草原の喪失は農地化と同じく、植生の多様性を失わせているという格好の例と知るべきであろう。

今回は信州側からアプローチしたが山深く、その姿を見ることなく山頂に立った。通常は中津川から車で神坂(みさか)峠(1,569m)までのぼり、そこから尾根を歩いて恵那山に 至るのである。標高差は少ないが水平距離6kmをいくつものピークを越えて歩かなければならない。しかし広河原からなら標高差は1,000mあるが水平距離3kmで頂上に立てる。

第一日

10:00開成駅集合。雨の中、マーの車で出発。甲府で雨は上がる。飯田山本ICで中央高速を下り、三州街道(153号)を南下する。山間の谷間に入るとよくこんな山深いところに東山道が付けられたと感心する。三州街道と分かれて昼神温泉経由で園原の月川温泉野熊の庄「月川(げっせん)」に到着。(Hotel Serial No.459)

チェックイン前に登山口の駐車場の確認に出かける。駐車場には大阪から18名の登山者を乗せてきたというバスが下山を待っていた。狭い林道でエンジンカバーを瑕つけたらしく運転手が修理していた。朝5時にでかけたというが15:00になっても下山の気配はない。少し遅いパーティーのようだ。登山口広河原の仮橋が流されていなければ良いがと心配する。

温泉宿 月川は建物は新しく、気持ちが良いが温泉は冷泉を沸かしたもので循環使用のため臭いがある。重炭酸イオンが含まれているためアルカリ性である。17:30には夕食をとって寝てしまう。

第二日

4:00起床。昨日買っておいたパンの朝食。宿が作ってくれたおにぎりは昼食とした。

駐車場から登山口の広河原まではアスファルト舗装の林道を歩く。登山口の仮橋は無事であった。

6:17(高度計1,345m)仮橋を渡り、尾根の斜面に取り付いて急坂をゆっくり登る。

この山は花が少ない。先頭を登るマーさんがこれは何だと聞く。クリサンはミドリユキザサかもしれぬという。花が少し緑がかって見えるが茎は赤い。そのうちに花が白いものがある 。これはオオバユキザサかもしれぬという。帰って調べるとオオバユキザサのようだ。雌雄異株という。熊笹の数株が花をつけていた。

オオバユキグサ

1,700m地点を越えると尾根は少し広く平坦になり、笹原となり視野が開けた。南アルプスが遠く北から鋸岳、仙丈ヶ岳北岳、間ノ岳、農鳥岳、塩見岳、そして近くに荒川岳、赤石岳、聖岳、上河内岳と全て見えた。甲斐駒ヶ岳は仙丈に隠れて見えない。

恵那山から望む南アルプス

ウンカがまとわりつくが血を吸うアブが居なくて助かる。ただ耳の穴に飛び込むので掻き出さねばならぬ。

8:00(高度計1,830m)、8:30(1,920m)、9:10(2,075m)と登る。9:30(2,145m)山頂着。毎時246mで登ったことになり快調である。

物見台に上っても樹木が邪魔してほとんど何も見えない。南側には高い山がなく、まだ90kmもあるが浜名湖や太平洋がみえるのではないかという感じである。 足助の台地も南西の方角にあるはずである。

うんかをさけるため物見台の上で昼食。

10:15(高度計2,145m)山頂発。帰路、中央アルプスが良く見えた。2003年の木曽駒ケ岳から空木岳までのキツイ縦走の全 ルートが一望である。

恵那山から望む中央アルプス

そしてその左に御獄山と遠くに乗鞍岳が見える。眼下に馬籠宿があり、そこから木曽谷が伸びている。

恵那山から望む御獄山と遠くに乗鞍岳

12:48(高度計1,235m)登山口の仮橋着。下りは毎時360mでこれも快調であった。

今は亡き「まえじま」夫妻はどのよううなコースをとったのか「山旅の想ひ出」を読み直すと、広河原から上り、大判山、鳥越峠まで縦走して広河原にくだったようである。我々の2倍は歩いている。

月川で汗を流す。飯田山本ICから中央高速に乗るつもりであったが、飯田と松川間の火災とかで入れず松川ICまでかっての「塩の道」である国道153号線を走る。道路標識の目的地に塩尻と書いてある。塩尻とはもしかして塩の道の終点という意味かなという思いが頭をよぎる。帰って調べたらまさにその通りであった。ここまでくると塩が売り切れるという意味だそうだ。

伊那谷の東側を天竜川が流れているため、伊那谷は全般に東に傾斜している。中央道はその西側の中央アルプスの山裾にそって付けられている。飯田の町は風越山から東に伸びる尾根の上にあり、尾根の末端に飯田城跡がある。 国道153号線からこの城のある丘を見上げることになる。

しばらく行くと元善光寺という看板が見えたが時間がないのでパス。

伝えでは推古天皇10年(602年)にこの地の住人本多(本田)善光が、難波の堀江で一光三尊の本尊を見つけて持ち帰り、麻績の里(おみのさと)の自宅の臼の上に安置したところ、臼が燦然と光を放ったことからここを「坐光寺」としたとされる。

その後皇極天皇元年(629年)、勅命により本尊は芋井の里(現在の長野県長野市)へ遷座され、この寺が善光の名をとって善光寺と名付けられたことから、坐光寺は元善光寺と呼ばれるようになったという。「善光寺と元善光寺と両方にお詣りしなければ片詣り」といわれている。

天竜川は鷲流峡(がりゅうきょう)の川下りを楽しむために弁天港から時又港まで船下りが用意されている。

June 27, 2009

Rev. December 10, 2009


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