パリ、シャンパーニュ、ブルゴーニュの旅

第9日

ヴェズレー

6月14日(火)、ブルゴーニュ地方観光

起床するとフランフでは初めての雨が降っている。朝食はレズュルシュリヌがかってかって修道院だったころの礼拝堂でとる。 昨日は遅い到着であったのでオータンの町は昨日車で走り回っただけである。車をホテルのガレージに置いたまま雨の中、サン・ラザール大聖堂の回りを散策する。

レズュルシュリヌの玄関

レズュルシュリヌの前からサン・ラザール大聖堂を望む

サン・ラザール大聖堂はロマネスク建築だ。聖堂裏の石畳を張り替えていた職人の作業を立ち止まってみていると、目が会う。「シナ人か」と聞くので「日本人だ」と答えると、金持ちだなという仕草をする。 今日も一日中、コート=ドール内をウロウロする計画である。オータンには円形劇場などのローマの遺跡もあるが、雨のためパスして先を急ぐ。

雨のサン・ラザール大聖堂

ボーヌに向かってD973を走ってラ・ロシュポー村に入ると丘の中腹に館が見えた。とんがり屋根の瓦がこの地方独特の模様に葺いてある。ブドウ畑がこのあたりから始まる。もうここはコート=ド=ボーヌの産地なのだ。メリン村に入るとブドウ畑はますます増える。谷間を出るとここから先の丘の南面は全てブドウ畑である。 ソーヌ河が造った渓谷にはいればあらゆる斜面がブドウ畑である。いよいよワイン名産地コート=ド=ボーヌの中心部に入ったとの実感を強くする。

館のあるラ・ロシュポー村

メリン村

ボーヌの市街地を抜け、白ワインの高級銘柄コルトンの産地で最近はガメイ種から造るボジョレ・ヌボも生産するニュイ=サン=ジョルジュも通過してコート=ド=ニュイの中心地、クロ・ド・ブージョ村のシャトーに向けてただひたすら走る。沿道にはワイン目当ての観光客向けの宿泊施設が点在している。ブージョ村の標識がみえたので左のわき道に入るとシャトーが見えてきた。 このシャトーは名品クロ・ド・ブージョを造るピノワール種の畑の中心にある。

クロ・ド・ブージョ村のブドウ畑の中にあるシャトー

シャトーは元シトー派の修道院だった。今はワイン博物館になっており、1945年からは「利き酒騎士団」の本拠地でもある。ここでかってのワイン作りの施設を見学できる。深い井戸、ラセン式駆動メカニズムも全て木製の巨大なブドウ搾り機、下膨らみの木製の発酵槽などを興味深く参観する。

シャトーのワイナリー

シャトーの絞り機

博物館の売店でコート=ド=ニュイとコート=ド=ボーヌのワイン畑の区画(クリマ)図を買う。長さ約2メートル、幅約50センチである。 クリマによってワインのランクが決るのがブルゴーニュ・ワインの特徴である。店員にブルゴーニュ・ワインの王座に座りつづけるロマネ=コン ティの畑はどこか聞くと、とてもプチだといって教えてくれた。 1.8haの畑は地図上では4ミリ角くらいしかなく、クロ・ド・ブージョの1/10以下の作付け面積だ。幸いにもシャトーの斜め後ろ約1キロの丘の中腹にある。上の写真の左手の丘の麓である。 ナポレオンがこよなく愛したというシャンベルタンを産する畑はディジョンに近いところにあり、クロ・ド・ブージョとほぼ同じ規模だ。

畑の中の心もとない泥のついた貧相なアスファルト道を走って、ロマネ=コンティのブドウ畑を見つけた。角の石垣に刻印があり、南面に十字架が建っている。一部ブドウの木が取り払われて雑草が生えていた。

コート=ドール地区のブドウ畑の地層は斜面の上から石灰層、砂利の多い中層、粘土質の低層と土壌を形成している。特級ワインは粘土層を含まない土地、石灰層で作られる。一般的に畑は斜面上部のほうが水はけ良く、よいワインを作り出すことが多い。しかし、クロ・ド・ブージョなどは一概にそうとは言えず、土壌もさることながら、数多くいる創り手の個性の方が大きくものを言うこともあるという。

ロマネ=コンティのブドウ畑

雨が止んだのでロマネ=コンティのブドウ畑を見下ろす丘の中腹で手持ちの食材でピクニックとする。車から出ると粘土が靴について往生したのでロマネ=コンチの畑にも結構粘土があるはず。そもそも昨日訪問したコート=ドール北部のアレジアの古戦場の上部は森に隠されていたとはいえ、石灰岩の断崖で囲まれていたがゆえに天然の要害になりえたのだし、メリン村から見上げる丘の上部も石灰岩がつくる絶壁が延々と見られたのでコート=ドール地区は一様な地層構造をもっているのだろう。

かってのブルゴーニュ公国の首都、ディジョンは敬遠し、これで目的は達したとUターン。ニュイ=サン=ジョルジュから高速のA6に入り、一路ヴェズレーを目指す。

A6は深い森に覆われた高地を抜けてゆく。次第に低地に下がり、耕地が増えてくる。ジャンクション22番でN6に入り、アヴァロン市街を横断してヴェズレーに向かう。一山越えるとやがて向こうのオッパイのような形をした丸い丘の上に教会の尖塔が見えてくる。どうやらヴェズレーらしい。谷に下り、サン・ペレ村を通過して登り返すとヴェズレーだ。中世に十字軍の集結所としてまたサン ティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の出発点として栄えた町だ。町の中心にあるサント・マドレーヌバジリカ聖堂の地下にマグダラのマリアの遺骨(肋骨)が 保管されていたためという。いまでもヨーロッパ各地からここを通りサンチアゴ・デ・コンポステーラへ巡礼する人々がいる。オランダからここまで歩いて25日、ここからサンティアゴまで75日かかるという。

丘の上にあるヴェズレー

マグダラのマリアは中世では人気の女性で、復活したキリストをはじめて目撃した人でキリストの妻だったという噂が絶えない。ロンドンで買って読み出したダビンチ・コードも彼女の謎をめぐる小説である。彼女の遺骨はピレネー近くのレンヌ=ル=シャトーにあるという怪しげな話もあるが、プロヴァンスのサント=マリー=ド=ラ=メールに上陸してマルセイユの東30km、エクスの南東30km位にあるサント・ボーム山塊(Massif de la Ste.-Baume)のサン・ピロン(St-Pilon)山の頂上直下にある洞窟に移ったという話もでてきて人気にかげりがでたそうである。しかし現代では観光地として一級の質を誇り、修復されユネスコの遺産にも登録されているという。

ヴェズレーのサント・マドレーヌバジリカ聖堂

ヴェズレーの街の構造は東京の御岳山のようになっていてサント・マドレーヌバジリカ聖堂が一番高いところにあり、長い参道は土産物屋街である。中世の巡礼者用に発達したことがこのような似た構造にするのだろう。

聖堂の後ろに回ると見晴らしのよいところに花壇があり、アバロンからヴェズレーに丘を越えてきた道が見える。左下のサン・ペレ村を俯瞰した写真の左上に黄色のパッチは牧草地越しにヴェズレーの丘を望遠で撮影したとき、手前に写っている刈り取った牧草の束を3個乗せた黄色の牧草地である。

ヴェズレーは青春時代に読んだロマン・ロランの終焉の地だと後で知る。

ヴェズレーの丘からサン・ペレ村を俯瞰

サント・マドレーヌバジリカ聖堂の花壇

アヴァロンに取って返して本日の宿を探すがインターネット経由教えてくれた場所にゆくがどうも間違っているらしい。普通の住宅地であった。6時の閉館直前にあわててアバロンのツーリスト情報センターに駆け込み 、正しい場所を教えてもらった。ヴォー=ド=リュニー村はアヴァロンより少しヴェズレーよりの谷間の森の中にあった。映画にでてくるような深い森のなかにある堀に囲まれたシャトーであった。正門の鉄の扉は遠隔操作で開けてもらう。ひとなつっこい真っ黒な大型犬が出迎えてくれる。車は正面玄関に横付けし、車はホテル側がガレージに移動してくれた。

ヴォー=ド=リュニー村のシャトーの玄関

シャトーの居室からのながめ

このシャトーはフランス革命で国有化された後、持ち主は転々と変ったが、現在は名シェフ、アラン・デュカスが経営するシャトーホテルの一つとなっている。16世紀の城館を見事に再現した重厚で豪華な内装。歴史上の人物の名前が付いた客室はどれも気品漂う。中でも城主の気分を味わえるのは、“王の間”と“妃の間”とのことだが、我々は 安い屋根裏部屋を選ぶ。ホテルの敷地内には川が流れ、菜園もあり、採れたての野菜をふんだんに使った上質な料理が味わえる。

チェックイン後、中庭で飲み物をいただいたが、本館の対面にある、かっては納屋だったところも改装されて家族用の宿泊施設になっているらしい。子供達を連れた家族が滞在していた。

メーンダイニングルームで貴族式の会食になるのではと予想し、ネクタイとブレザーも持っていったが、正解であった。元領主様がつかったメインダイニングルームの巨大なテーブルで3家族の老夫婦が正装した執事の給仕で会食することになった。フランス人とは話はしなかったが、英国人夫妻とまだ独身の30才台の息子グループとの会話はワインも入って大いに盛り上がった。互いの旅の情報交換からはじまって英国ーフランス、日本ー中国の関係論にも及んだ。すごくよくできた息子でこの賢い母あって、この息子ありと思わせた。息子が運転手となって地中海までドライブするとのことであった。

老夫人が上海では古い中国が破壊され、無味乾燥な巨大ビルがぞくぞくと建築されているが惜しいことだとなげいていた。グリーンウッド氏が「中国は日本にとって英国にとってのフランスという関係にあたる。いずれお互いに大挙訪問しあう仲にならざるをえないのだから中国の発展は歓迎するが、古きよきものも残しておいてほしいと思う」というと、「その通り」とおおいに意気投合した。英国人老夫妻にはお返しにシーザーのガリア戦記のハイライトの戦場であるアレジアとロマネ=コンチのブドウ畑を見物した印象を紹介すると大変興味を持ってくれた。多分彼らも訪れたのではないかと思う。

シャトーの執事はロマネ=コンチは年間5,000本しか生産されないので、シャトーに配給されるのは年に1本しかないという。まだ独身の英国人の息子がそのロマネ=コンチは値段相応にうまいのかと聞く。執事は「それはうまいですよ。しかし値段と比較すればウーン」とうなっていた。グリーンウッド氏は一度だけロマネ=コンチをいただいたことがあるが、執事の意見に同意する。

第9日のコース

オータン出発、D973、城のあるラ・ロシュポー(la Rochepot)村、メリン(Melin)村、N74、ボーヌ(Beaune)、ニュイ =サン=ジョルジュ(Nuits-St.-Georges)、クロ・ド・ブージョ(Clos de Vougeot)村のシャトー、ロマネ=コンチ(Romanee-Conti)のブドウ畑、ニュイ =サン=ジョルジュ (Nuits-St.-Georges)、A6、アヴァロン(Avallon)、D957、サン・ペレ(St. Pere)村、ヴェズレー(Vezelay)、ヴォー=ド=リュニー(Vault-de-Lugny)村のシャトーホテル泊。 (Hotel Serial No.312)

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July 03, 2005

 Rev. March 17, 2008


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