読書録

シリアル番号 925

書名

日月抄

著者

白洲正子

出版社

株式会社世界文化社

ジャンル

紀行文

発行日

1995/9/20第1刷

購入日

2008/1/22

評価

ミセス・グリーンウッド蔵書

白洲正子というと韋駄天お正という綽名がついているだけあって、体育会系で、すぐどこかに飛んで行ってから頭が動くタイプで、すぐ何処そこにいってどうだったという話しになる。

たまたま西行に関する朝日新聞の連載小説、夢枕獏の「宿神」が終わったところであるが、天下の三不如意と豪語した白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)への恋心を幻想的に書いてあるだけで彼の生涯がどうであったのか皆目わからない。鎌倉案内するために鎌倉の歴史を調べているとミセス・グリーンウッドが「西行は晩年東大寺再建 かにかの勧進を奥州藤原氏に行うために陸奥に下り、この時、鎌倉にたちより、源頼朝に面会したりして裁許橋(さいきょばし)という鎌倉十橋の名前として残っているよ 」という。

早速、白洲正子のこの本の「『西行伝説』真贋紀行」という章を紐解いてもよくわからない。結局インターネットを渉猟してほぼ下記の業績がわかった。

27-28才の1144年に一度目の奥州行きをしている。その後、弘法大師の遺跡巡礼も兼ねて四国の善通寺でしばらく庵を結んだこともあるらしいし、高野山、吉野山、鞍馬山に庵を結んだとある。吉野山の山上には「西行庵の跡」もあるし、大峯奥駈道も歩いているようだ。 四国の讃岐国に出かけたのは待賢門院璋子と白河院の子かもしれないと鳥羽院に疑われた崇徳院の陵墓白峰を訪ねてその霊を慰めだったとも言われている。

鳥羽院は白河法皇が死ぬとすぐ崇徳帝を退位させ、美福門院・得子と自分の子を近衛帝とした。しかし近衛帝は早死にし、鳥羽院と待賢門院璋子との子を後白河帝とした。しかし鳥羽院が死ぬと1156年に崇徳院派と後白河天皇派の間に「保元の乱(ほうげんのらん)」が発生する。勝った後白河天皇に味方したのは、美福門院・得子と親しかった関白・藤原忠通(ただみち)であり、忠通に従った後に源平の棟梁となる平清盛(たいらのきよもり)と源義朝(みなもとのよしとも)であった。負けた崇徳院は讃岐国に流されたのである。

西行は武士としても実力は一流で、疾走する馬上から的を射る「流鏑馬(やぶさめ)」の達人だった。さらには、鞠(まり)を落とさずに蹴り続ける、公家&武士社会を代表するスポーツ「蹴鞠(けまり)」の名手でもあった。「北面」の採用にはルックスも重視されており、 平清盛も西行も容姿端麗だったと伝えられている。璋子も西行にほれたわけだ。

義経が平泉で頼朝により滅ぼされる前の1186年、彼が69才のとき、中山道、鎌倉経由で平泉に着いている。『吾妻鏡』には1186年8月15日、鶴岡八幡宮に頼朝が参詣すると、鳥居の周辺を徘徊する老僧がいた。怪しんで家臣に名を尋ねさせるとこれが西行と分かり、驚いた頼朝は館に招いて、流鏑馬(やぶさめ)や歌道の事を詳しく聞いた。西行はヒョウヒョウとし「歌とは、花月を見て感動した時に、僅か三十一字を作るだけのこと。それ以上深いことは知りません」。流鏑馬のことは「すっかり忘れ果てました」とトボケていたが、頼朝が困惑するので馬上での弓の持ち方、矢の射り方をつぶさに語り始めた。頼朝はすぐに書記を呼んで書き留めさせたという。2人の会話は終夜続き、翌日も滞在を勧められたが、西行は振り切るように昼頃発った。頼朝は土産に高価な銀製の猫を贈ったが、西行は館の門を出るなり付近で遊んでいた子どもにあげてしまったという。現在 、鎌倉の祭りで催されている「流鏑馬」は、西行がコツを伝授した翌年から行なわれるようになった。平泉まで義経を捕らえる為の関所を幾つも通る必要があったので、その通行証を求めに鎌倉へ寄ったとも言われている。

1188年に義経は頼朝に攻められて死に、西行は1190年2年15日に「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」という歌のとおり亡くなっている。

松尾芭蕉は西行が歩いた道を探して「奥の細道」を書いたという。

さてついでに「私の伊勢神宮」という章には初瀬や山の辺の道から伊勢に至る道についても書いていてなつかしく読ませてもらった。

ところで夢枕獏本人は「宿神」とは西行が晩年信じた神仏習合思想の一つである本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)にでてくる磨多羅神(またらじん)、後戸(うしろど)の神、石神(しゃくじん)というもので日本最古層の神にして、縄文の神、すべての自然現象の背後にいる神、すなわち宇宙原理である大日如来としている。

Rev. January 24, 2008


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