読書録

シリアル番号 862

書名

日本史を読む

著者

丸谷才一、山崎正和

出版社

中央公論社

ジャンル

歴史

発行日

1998/5/25初版
1998/9/30第7版

購入日

2007/07/01

評価

家人の蔵書

丸谷才一と山崎正和が時代毎に歴史の名著を数冊上げて解説しつつ対談形式で自由に論ずる。

まず額田王と大海人皇子の「紫の相聞歌」に関しての解釈 、すなわち相聞歌ではなくザレ歌であったとの指摘は興味深い。

万葉集が作られ空海が密教を持って帰った時代は、西洋が成立したカロリング朝の時代で中国では唐の時代に相当する。グレゴリオ聖歌はこのころできたと言われている。

唐は民族主義に凝り固まっていた中国歴代の王朝では珍しく普遍文明が支配した時代だ。なぜ普遍文明が支配したかという点については二人はふれていないが森安孝夫の「シルクロードと唐帝国」にくわしい。

日本は空海が密教を唐を舞台にインド人から直輸入する。残念なことに唐以後は中国は民族主義の跋扈する国になって西洋で発達した普遍文明がアジアを覆うことにならなかったという説は興味深く読んだ。ここで司馬遼太郎の「空海の風景」が紹介される。

日本が漢字を唐から輸入したとき、仏典はサンスクリット語の中国語訳だったため、これをヒントに万葉仮名が発明されたかもしれないという仮説は興味深い。 ところでグレゴリオ聖歌はお経のマントラとおなじ音響の影響力があるのは興味深い。

白河院は性的放縦をほしいままにした人だ。院政期の権力者の性的退廃については角田文衛著「待賢門院璋子(たまこ)の生涯―椒庭秘抄(しょうていひしょう) 」を引用して討論している。 「 加茂川の水と、双六の賽と、山法師・・・」以外は彼はなんでも手にいれることができた権力者であったと続く。朝日新聞で連載中の夢枕獏の西行についての小説「宿神」にも 璋子と白河院について触れられている。 古今集、源氏物語に描かれたような世界はヨーロッパも到達していないレベルであったとする。なぜか?万世一系の天皇が君臨した国というのはフィクションで実は万世二系であった。すなわち天皇家と藤原家の二家が明治維新まで君臨していた。この二家で女を交換するうちにヨーロッパに先駆けて宮廷サロンが成立した。

室町時代に初めて京都が都市に育った。それまでは稲作を展開した天皇家を直属する農村と武士しかなかったのに、商人と職人がいる都市が勃興し、これらに属さない山がでてくる。山とは鉱工業者、猟師、炭焼き、木こり、山伏、熊野信仰、密教。

戦後の日本を論ずる場面で日本には創造者はいるが、祖述者、継承者が居ないと指摘している。藤原定家、世阿弥、西田幾太郎。キリストはたしかに12人の祖述者をもった。なぜか?ヨーロッパでローマ帝国が崩壊した真空地帯にカロリング朝などの諸国が勃興し、ローマ帝国が採用したキリスト教という共通の文化の下で互いに切磋琢磨して発展するという経験を持った。しかるに、アジアではオープンであった唐以降は、中国は閉鎖的な民族主義に固まり、周辺諸国とオープンな関係を持たなかった。日本も常に内向きの孤立文化の継承者となったためであると論ずる。

Rev. July 10, 2007


家の改装で本棚の書籍を取り出したとき、再発見し、改装中に再読した。たまたま総合知学会で自律分散制御が話題になっていたため、昔から考えていたつぎのような歴史の見方を思い出した。

制御技術の世界には中央集中制御と自律分散制御という2つの流れがある。 中央集中制御は階層をピラミッド型に積み上げ、全体を掌握するシステムだ。自律分散システムはそのような機能は存在ぜず、それぞれの部分が自律的に判断して行動するが、全体としては統一されているように見える。

自動車、航空機、化学プラント、警察、軍隊、国家などはこの中央集中制御で機能してきた。 階層構造であるがゆえに、ピラミッド頂部にある要の素子が故障すれば、カタストロフィーが発生する。国でいえば北朝鮮のような独裁国がこれに該当する。

ヨーロッパがアジアに対し覇権をもてたのは自律分散制御社会だったからではなかろうか。アジアは広大な面積を支配する中国の強力な中央集中制御の波及効果で自沈した。例をあげれば、明の永楽帝はコロンブスに先立ち、鄭和に南海大遠征を命じたが、その子は海禁に走って鄭和の航海記も大型船建造技術も歴史の闇に葬り去った。秀吉や家康もこの影響を受け 、鎖国した。

自律分散制御社会であった当時のヨーロッパですら、突拍子もない考えをもったジェノバ人クリストバールにヨーロッパのどの王も聞く耳をもたなかった。しかし回教徒の支配から独立する 戦い(レコンキスタ)に勝利した直後のアラゴンとカスティーリア同君連合のイザベラとフェルナンドは違っていた。彼らはグラナダ攻略のために作ったサンタフェの幕舎でクリストバールと契約を結び、新世界発見の端緒を開いたのだ。

日本史をみても南北朝時代や戦国時代は都市の商人が力を蓄えた自律分散制御社会で、徳川時代は武士の中央集中制御に逆戻りした。同じアナロジーで、通産省ががんばれば頑張る程、多量生産型産業に人と資金が無駄に投入され、農水省が頑張る程農業は疲弊し、また政治家が産業を興して成長を目指すというほど日本は沈みむように見える。おなじくNHKが大田区の部品メーカーの職人芸を賞賛すればするほど、日本は沈む。

米軍がベトナムで敗北し、アフガンで苦戦しているのも中央集中制御vs自律分散制御で理解できる。

自然界は自律分散制御で律せられている。世界のスズメが誰かの指令で動くことはない。いわしのむれ、ムクドリの群れ、ガンの群れ、こうもりの群れがあたかも統一の意思の下に行動しているように見えるが、 それは自律分散制御の結果であろう。彼らは隣の鳥をみて本能に従って判断して動いているだけなのだ。この本能が曲者で、自然淘汰で種が生き残る最適の インプット・アウトプット・パターンがDNA経由で個の鳥に組み込まれているわけだ。自律分散制御の研究はその入力と出力の関係がどうなっているかを解明すればよいわけである。

人間社会もそれぞれの個、団体の行動規範をうまく定めれば全体の社会がうまく機能する。この行動規範をどう定めるかがその社会の成功と失敗に直結するのではと私は考えている。日本の行動規範は中央集中制御型だから個は自ら判断して行動すること には消極的で、どうしても権威とか権力を持っていると思われる個とか集団の判断に依存しがちだ。権威や権力に従わなければ規律違反として組織から除外される。しかし中国などと競争するとき、この方式を採用したのでは必ず負けることが分かっている。彼らが持ち得ないやり方が自律分散であるが、これは教育からはじめなければ 作動しない。まず入学試験は知っている知識がどのくらいあるかではなく、問題を分析し、解決策をどのくらい考えられるかという点で評価するということからはじめなければならない。ところが出題者である大学の教官がそのような問題を作れない。まず先生から入れ替えねばならないという大変な作業だと思う。

インターネットは自律分散制御で大成功した。 これからは社会も政治も自律分散制御に向かっていると理解できる。日本は中央集中制御で成果が上がる多量生産で一時、世界一になった。しかし中央集中制御のご本家と目される中国にその座を譲ずるのなら 、異なる原理で戦わなければ負ける戦を強いられている。日本の回生の道は自律分散制御社会の構築と感じる。科挙の時代は終わったのだ。

Rev. June 23, 2010


アントニオ・ネグリ、マイケル・ハートの「帝国 グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性」に紹介されたミシェル・フーコーの「社会的諸形態が『規律社会』から『管理社会』への移行したと認識することが可能になった。資本主義的蓄積の第一段階はこの規律社会の権力パラダイムのもとに押し進められたといっていいだろう。これと対照的に管理社会とはポストモダンへ向けた開かれた社会と理解してよい。資本が必要とするのは超越的権力ではなく、資本の内在性の平面上に配備される管理のメカニズムである。この場合、権力はそれが、あらゆる個人によって自発的に受け入れられ、再活性化を施されるような精気にあふれた統合機能となるときにのみ、人口を構成する住民の生全体に対して実効的な指令を及ぼすことができるという。ここでジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリの「千のプラトー」の権力のパラドックに言及される。この管理社会と生権力という概念構成は<帝国>の中心的側面を描き出し、国連という古い理論的枠組みとの真の裂け目が開かれる。生政治とは生のあらゆる様相に介入する生権力(ミシェル・フーコーのいう)とそれに対する創造的で生産的な抵抗からなる政治である」が進化論的には意味を持ってくる。

Rev. June 27, 2010


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