読書録

シリアル番号 544

書名

スペイン帝国の興亡 1469-1716

著者

J・H・エリオット

出版社

岩波書店

ジャンル

歴史

発行日

1982/6/23第1刷
1983/6/10第2刷

購入日

2002/12/22

評価

原題:Imperial Spain 1469-1716 by John H. Elliott

レパントの海戦アルマダの戦いと読んで、フィリッペ2世とその当時のスペインを知りたくなり、腰越図書館で借りる。ケンブリッジ大学教授の詳細なハプスブルグ朝スペインの歴史書。

711年のアラブ人のイベリア半島侵入は7年で完了するが、レコンキスタ運動が開始され、カスティーリアの女王イザベルとアラゴンの王フェルナンドの協力により1492年、グラナダが開放されるまで700年の歳月がかかった。二人はカトリック両王と呼ばれる。グラナダが開放された3ヵ月後の4月17日グラナダ攻略のために作ったサンタフェの幕舎でイザベルとジェノバ人クリストバール。コロンが探検航海の諸条件についての協定に合意した。グラナダの征服とアメリカの発見がスペイン帝国の興隆の端緒となる。娘フアナ狂女をハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子フィリペ1世と結婚させた。1516年にフェルナンドが没すると、孫のカルロスがカスティリャとアラゴンの両王位を継承し、スペイン王カルロス1世として即位する。カルロス1世は神聖ローマ帝国カルロス五世またはカール大帝でもある。その子フェリペ2世がアルマダの戦いで国力を使いはたしてスペインの没落が始まる様が詳細に描写される。1584年(天正12)にスペインに渡航した天正遣欧使節が謁見したのはフェリペ2世である。

コロンブス後、アメリカ大陸を征服したコンキスタドールのコルテスもピサロもカスティーリア人である。カスティーリアという言葉は城の多い地方という意味である。イベリア半島北部にあったレオン王国がレコンキスタを始めたとき、イベリア半島中央部に城を沢山建てたことに由来する。地中海の商業に利権のあったアラゴンはアメリカ利権には入れなかった。いまでもカタルーニア地方がスペインに違和感を持つのはここに由来する。

日本のカステラの語源もカスティーリア王国で作られた菓子という意味である。

新世界植民地との貿易で潤ったカスティーリアであったが、ヨーロッパ人が持ち込んだ疫病による現地人の大量死、移民者が本国と同じ産物を現地で生産し始めたことによるカスティーリア産物のマーケットの喪失、新世界マーケットが欲しがった産物は新興の北部ヨーロッパが生産できたこと、ペストによるカスティーリアの人口減少、オランダ、英国などの新世界への進出により次第に経済的に沈滞化し始める。

16世紀ヨーロッパで起こった宗教改革によってフィリッペ2世のスペインは信仰の純粋性に向かった。それはスペインが多民族国家だったため、国民的な一体感を維持するために必要だったからである。このような背景では外国人は異端者とみなされ、外国人の考えや経験を取り入れることはスペインの人々にとってかなり難しいことになった。

戦争の栄光に代わるものを、退屈で煩雑な会計簿に見つけ出したり、いままで軽蔑することを教えられてきたつらい肉体労働を、卓越した地位に引き上げたりすることは、戦争を糧にして育った社会にとっては、難しいことであった 。

フェルディナンドとイザベルの時代の開かれたスペインは17世紀に入ると閉ざされた社会になってしまった。内部抗争によって疲弊し、未来に対する信頼のおける指針としてもはや役に立たない過去を断ち切るような、広い展望と性格の強さをもった人材はでてこなかった。ますますみすぼらしくなってはいたが、まだ残っている遺産に囲まれていたために、危機が訪れている時期に、自分達の思い出を捨てることも、自分達の時代遅れの生活形態を変えることもできなかったのである。

このようにしてオーストリア王家のスペインの墓碑銘で本書が締めくくられる。

なにやら日本の今を見ているように感ぜられる。


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